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お釈迦さまの人生

1.) お釈迦さんの人生は、どういう経典に書かれていますか。 2.) その経典は、お釈迦さんが亡くなってから、 何年ぐらいたってから出来ましたか。 3.) 何百年も後になってから出来た経典は、 実在のお釈迦さんについての、信用できる記述でしょうか。 4.) お釈迦さんは王子さんで、16才で結婚して子供を設けてから、家出して、宗教に凝ったことになっていますが、そのような、お釈迦さんの身元や履歴をはっきりさせる記述の信憑性は、どれくらいでしょうか。捏造することもできますし、何百年も後になると、捏造しても、その真偽は確かめようがありません。新興宗教の教祖の身元や出自は、現代でも嘘っぽいのが多いのですが、お釈迦さんの出身は、事実でしょうか。 ※ 以上の疑問は、歴史的事実と、神話的伝承との区別が、お釈迦さんの人生について、どこまで可能なのかという疑問です。(歴史のカテゴリーかもしれません。宗教がありませんでしたので、哲学にしました)  

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  • les-min
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回答No.2

こんばんは。。  原典をきちんと読んでいるわけではないので、かなり頼りない説明にしかならないと思いますが・・・ 1)について。  阿含経典類と呼ばれる最初期の経典に、釈尊の教えが記されていたり、当時の地名などが記されていたりします。  まとまった仏伝で古いものは、「マハーヴァスツ」(律蔵大品)に記されているものだとされています。 2)について。  #1のご回答にもありますが、最も古い経典でも、仏滅後100年くらいしてからだとされています。 3)について。  最も古い経典でも、釈尊の教えをリアルタイムで伝えたものではありません。しかしながら、バラモン教の聖職者がヴェーダ聖典を暗誦していたのと同様に、釈尊の教えの主要部分は、かなり早くからある程度詩文化されて、口伝えされていたのではないかと思います。  もちろんその中でも、すでに演出や誇張など脚本化(?)された部分もあるでしょうが、骨子になる部分は実際の状況を基にしているのではないかと思います。(そのためか、初期の経典では問答形式になっていたり、口語的な表現になっている部分が多く、後の時代の経典とは感じがかなり異なります。) 4)について。  釈尊が何人種なのか、王子か部族長の息子か執政官の息子か、という点は100%確定したわけではなかったかと思いますが(←少なくともクシャトリア階級ではあるのだろうとされていますが)、仏伝の大雑把な流れは、信憑性は高いものとされています。  インド人は物事を記録するという意識に薄かったようで、古代インドの様子はなかなかわかりくいらしいですが、経典に記される国の名前や地名などは確度の高いものとされています。釈尊が生まれ育ったカピラヴァスッツも位置が推定されているそうです。  もちろん、釈尊が腋の下から生まれたとか、生まれてすぐに歩いたとか、さすがにそれは誰が見ても演出だろうという部分ですし、城の四方向の門から出かけ、それぞれの機会に老・病・死と求道者に接するというのは、出来過ぎた(誰かが脚色した)話でしょうけれど・・・少なくとも、実在した貴族階級の一人物が、世のあり様に思い悩み、妻も子供も自らの義務も責任も捨てて出奔し、後に釈迦族出身の聖者と呼ばれるようになり、その人物は80才まで生きて人々を教え導いた、というのは本当でしょう。  そして、(#1の方も触れているように、前世譚などは除いて考えた方がよいと思いますが)伝説めいた話のなかにも、何らかの事実を指し示しているものもあると思います。  わかりにくい話ですみませんです。では。    

florahosi
質問者

お礼

こんばんは。 「マハーヴァスツ」(律蔵大品)、ありがとうございます。 No.1 のかたへの御礼でも申しあげましたように、 お釈迦さまが、御自分の考え方を述べられた問答については、 それを、真剣にお聞きになったかたが多いので、 かなり、歴史的事実の可能性が高いと思います。 出家なさってからです。 一方、出家なさる前の人生について、 出家後に、証人がいらっしゃらないのではないでしょうか。 息子さんが、唯一、出家前の顔見知りですが、 息子さんも、乳児や幼児の頃に、 短期間、お釈迦さまとお会いになっているだけで、 顔を覚えていないと思います。 息子さんの養育を、人に頼んだことになっていますが、 その人は、お釈迦さまの後半生の周囲の人とは、 まったく交流のない、名前だけの人だったのではないでしょうか。 また、息子さんも、御自分の幼少時を語ったことが、 ないのではないでしょうか。 家を出て、修行を始めてからのお釈迦さまの様子は、 お釈迦さまの、お弟子さんたちが知っていました。 でも、お弟子さんたちは、 家を出る前のお釈迦さまを知らないのではないでしょうか。 また、家を出る前のお釈迦さまを知っている人は、 お弟子さんの前には、だれも現れなかったのではないでしょうか。 なんとなく、お釈迦さまの前半生には、首をかしげます。 これは、神話の類ではないかなあと、そんな気がしています。  

その他の回答 (4)

  • neil_2112
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回答No.5

仏伝はいろいろな経典で読むことができますが、お釈迦さんの全生涯にわたって書かれたものになると、多少限定されます。なかでも一番まとまっているものといえば、まずは「仏本行集経」だろうと思います。これはいってみれば集大成で、有名な布髪授記の場面などのある前生から始まって、仏陀の全生涯が詳細に描かれたものです。 また、日本での影響力が大きかったものとして「過去現在因果経」、いわゆる因果経が挙げられます。これは大迦葉の教化の時点までしか描いていませんが、如来自身が説法するスタイルをとっていて、説経の底本として歴史的によく活用されたものです。 ほかにも、大宮廷史を自称する韻文の「仏所行賛」が仏陀の全生涯を網羅しています。これらは、いわゆる仏伝文学とも分類されることからわかるように、教典というよりはほとんど文学に近いもの、といっていいでしょう。 もう少し文学色の薄いものを探すとすると、時代も遡らないといけなくなります。この意味では、よく「長阿含経」の冒頭にあたる「大本経」が紹介されますが(この経典にしても当然アショーカ王以降の成立です)、私なら個人的には「根本説一切有部毘奈耶破僧事」を挙げたいと思います。時代的にはほぼ阿含と同じでしょう。 毘奈耶というのは要するに「律」のことで、この部分は「破僧」について、つまり「教団分裂とはどのような事態をさすのか」に関する運営マニュアルではあるのですが、いわば副産物として提婆達多の有名な教団分裂事件に至るまでの仏陀の生涯をたどっているのです。「釈迦族の起こり」から始まって、いくつかのジャータカから誕生、成道などが綴られています。 ぜひ一度こういったものをご覧になってから、改めてより具体的に質問されるほうが、質問者・回答者どちらにとっても話が早いと思います。 ただ個人的には、「仏伝から仏陀の歴史的事実にせまる」というのは、極めて難しいことだと思います(実際には、私が思うだけでなくて、世界の多くの学者がそう言い続けてきた、のですが)。そもそも、インドでは歴史を「客観的に記述する」という意識が非常に薄いのです。 既にご指摘があったかもしれませんが、インドにはなかなか史書と呼べるものは生まれませんでした。歴史をたどれるのも、せいぜいがマウリヤ朝からといった程度です。それは、インド人にとっての歴史は形而上的な真実ではあるものの、その表象たるもろもろの現象は価値が低いもの、だからです。 (例えば、サンスクリット語は時制の観念の薄い言語で、その区別があまりはっきりしません。現在形でも、近い過去や未来を含むこともあります。こういった感覚の背景には、古代インド人が、時間を計量的に、つまり客観的に捉えようとしなかったことを表しています。ふつう言うところの因果関係にしても、サンスクリット語では「果因関係」と順序を逆にして呼ぶのですが、インド人は結果に対する原因をつきとめようとするような姿勢、自然科学的ないし客観的態度というものに重きをおかないのです) こういう、そもそもの歴史的感覚の欠如に加えて、インド人特有の梵我一如の感覚のせいで、行為主体が拡大していく傾向があります。 例えばご紹介した典籍でも、過去七仏が登場しますし、そのことが仏陀の口から語られます。もちろん、こういったことは事実ではないでしょう。しかしインド人にしてみれば、これはあたり前のことなのです。というのも、仏陀は形而上的な真実のいち表象、ブラフマンに対するアートマンに過ぎないとも言えるのであって、全ては真実から流出していると感じられます。仏陀も普遍的な真理のあらわれ、その個別的ないち事象に過ぎない、ということになりますから、仏陀は過去仏を「説くはず」なのです。 要するに、「仏陀が説いたから真実である」というのではなくて、「真理であるから仏陀も説くはず、説いたはずである」という風にインド人には理解されるのです。当然、それが真理と受け止められる限りにおいて、その死後も仏陀の名前においていくつも経典が生み出されるわけで、同様に仏伝も創出されるということになります。これはいわゆる客観的事実ではないけれども、インド人にとっての事実であり歴史である、ということだと思います。 ちょっと稚拙な説明になった気がしますが、一応ご参考程度に。補足があれば対応させて頂きます。

florahosi
質問者

お礼

neil_2112さん、ありがとうございました。 御礼が、たいへん遅れまして、申しわけありません。 いろいろと教えていただき、ため息混じりになっています。 やはり、歴史学的に発掘するのが、 お釈迦さんの人生の事実を検証するには、確実と思いました。 カピラヴアストゥーの遺跡を確定できないのは、なぜかな? 石の建築物ですと、廃墟になっても、残るのですが、 後世に町ができると、建築資材として、 遺跡の石が持ち去られたりして・・・ 私がお釈迦さんの人生に興味を持ったのは、 16才で結婚しながら、29才まで子供がなく、 生まれた途端に、妻子を捨てて家出してしまったという事情です。 懐妊術はやめたほうがいいと、お弟子さんに言っています。 日本でも、子供のいない夫婦を手助けする神事があったそうです。 お祭りの時に、御主人が青年団に助けを求めると、 天狗や獅子の面を被った青年団員が数人、家を訪ねます。 御主人がお酒を出して接待しているうちに、 天狗さんや獅子さん達は、入れ替わり立ち替わり、 奥さんの寝屋に忍び込みます。 生まれた子供は、誰の子かわかりませんが、神聖な行事です。 遺伝子の半分は奥さんのものですので、血縁関係はあります。 こんな習俗が、現在も続いているかも知れないそうです。 懐妊術というのは、呪術師のような人が、 まじないをするのだと思いますが、 奥の手は、呪術師みずからが、子作りのお手伝いをするようです。 古い社会では神聖な行事としておこなわれましたが、 神聖でない方法ですと、今でも珍しくありません。 お釈迦さんが高貴な生まれですと、側室を貰うのは簡単です。 もともと色事の嫌いな人でしたので、 タネ無しではなく、心が問題だったのかも。 こういう男性が少なくなく、身体の病気や精神病でないのに、 一定の割合で、子供の時から色事に興味の無い人が、 生まれてくるそうです。 性転換手術で治り、女になると色気を感じるようになります。 性転換で治るかどうか、事前に精密に心理を測定します。 そういう人達が、お釈迦さんの心理を、 自分達に共通した特有の心理であると、口を揃えて言います。 私はお釈迦さんの人生を調べてみましたが、 事実と神話の区別がつかないので、行き詰まりました。 生まれて一度も色気を感じたことがなく、性転換で治る人達は、 通称シャカムニと呼ばれているそうです。

回答No.4

弟子に、息子のラーフラ以外に、アーナンダなど、親戚や一族の者がいたことは、事実と思われます。これは、他の弟子たちが知っています。継母も尼になったと言われています。身内や一族や故郷の者を取り立てたにすぎませんので、きわめて常識的です。一族との連絡は、継続的に保たれていましたので、出家前の釈迦を知る者も少なくありません。 故郷で布教したときのエピソードは、古代インドの神話や伝説や、現代インドの娯楽映画のように、安物の脚本風の展開になっています。現代感覚では眉に唾をつけたくなりますが、かと言って、実際に故郷に錦を飾り、威風堂々と布教したことが作り話であるとも断定できません。事実という概念が、西欧近代のものとは大きく違いますので、どうしても安物の絵空事のような記述になりがちです。 釈迦は、有力豪族の後援を得ていますので、一般的には、実際に高貴な家柄の出身であったと理解するほうが、容易です。当時のインドの社会慣習では、身分の低い者が、有力な王侯貴族の支援を得ることは、ほとんど、あり得ないと考えます。 16才で結婚しながら、29才まで子供がいませんでしたので、性欲の淡泊な体質だったのかも知れません。考え方も、子だくさんなら幸せという常識を否定していますので、子供が生まれたのを見て、義務を果たしたと感じたのでしょう。性欲謳歌・子孫繁栄のインド教的常識から逃げたと思われます。 釈迦の人生の、どこまでが事実かの認定は困難ですが、伝統的にインド文化は、人知の及ばぬ偶然と、幸福との関係を重視します。生まれ育ちの家柄や身分と、幸福との関係を重視します。性的快楽と、幸福との関係を重視します。お金と幸福との関係を重視します。人間が自然や神を治めることを、あまり好みません。人間を薄っぺらにするような、欧米流の合理主義やヒューマニズムを、嫌います。釈迦の人生に、事実が多すぎれば、世間に顧みられません。釈迦は、人生は苦であり、悟れば輪廻を脱け出し、苦しみがなくなり、みんな平等であるという教義をセールスしましたので、事実は必要ありません。釈迦の教義をはっきりさせることが大切で、できるだけ事実を排除するのが得策でした。仏教の経典から、事実を読みとるのは、困難と思われます。  

florahosi
質問者

お礼

はい。出家後も、身内の人と、けっこう派手に関わっていますが、 後世の作り話と思っていました。 少し調べましたところ、それも古い経典にあるそうで、 へ~って、びっくりしています。 安物の展開という印象は、その通りに私も感じました。 とにかく、インド人好みの、 長編神話物語の典型のような設定と展開です。 あまりにも、はまり過ぎているのではと思って、 これは、後世の作り話に違いないと、たかを括っていましたが、 意外にも古い経典に記されているようで、驚いてます。 お釈迦さん以前から、インド神話の好みは、 波瀾万丈の長編物語です。 神さまの物語と、人間の物語とが、同時進行します。 人間の物語の辻褄が合い難くなると、 神さまの物語に置き換わって、辻褄合わせをします。 ですから、人間や社会の事実の辻褄合わせが、 合理的ではなく、客観的ではありません。 これがギリシャ悲劇や、ワーグナーの楽劇よりも面白い。 欧米社会では、神様がいなければ辻褄が合わないのは、 辻褄が合わないようにしている人間のせいだと考えました。 人間に責任があるのだから、個人には自由があるはずです。 人はみんな、生まれながらにして、自由です。 ほんとかな。定義ですよね。 合理的に客観的に、どこまでも人間の意志を追求します。 適当に切り上げて、神さまのせいにしていたのでは、 人間は幸せになれないと考えました。 お釈迦さまは、悟りを開いた人だけが自由になれると考えました。 これも定義ですが、 頭が悪いと、死んでも自由になれそうにありません。 事実を何処までも合理的に客観的に追求するのは、 諦めなさいと、言っているかのようです。 経典の中に、歴史的事実を見つけるのは、むずかしいかな。 お釈迦さんの人生を、事実によって追求するのは、 諦めないといけないのでしょうか。

  • les-min
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回答No.3

#2です。  御礼有り難うございました。コメント興味深く拝見いたしました。  当然のことながら、見たわけではないので、真相がどうであったのかは、わからないわけですが・・・  釈尊出家の動機として、深く関わっていると感じているのが、当時の国家間のパワーバランスです。  ご存知かもしれませんが、釈尊の出身国である部族単位の小国家・釈迦国は釈尊が在世中に大国コーサラに滅ぼされてしまいます。  マガダとコーサラという大国にはさまれた弱小国家の前途が非常に暗いものだという現実は、いずれは釈迦国を率いるべき人物であった釈尊にとって、非常に重くのしかかっていた頭痛のタネだったのではないかと思います。  また、釈尊が実の母親を早くに亡くしていることの影響を指摘する見解もあります。母の顔も愛もを知らない屈折、課せられた責任と暗い前途、用意された結婚、親としての自覚が持てないままに生まれてしまった子供・・・伝えられている前半生を事実として想像をたくましくすると、釈尊ならずともすべてを放り出したくなるような、暗く重く陰惨な心境が思い浮かぶのですが・・・(自分の考えすぎですかね??)  そういう事情が影響しているのかどうか、また事実であったのかどうかはわかりませんが、経典の中に、釈尊が出家して悟りを開いたあと、釈迦国に里帰りして、しきりと自分の身内に出家を迫る(半ば強引に出家させてしまう)場面があります。  釈迦国滅亡前後のことだったと思うのですが、釈尊の身内や関係者が大挙して教団にやってきて出家したという記述や、女性の出家を認めてくれるよう釈尊に迫ったという記述もあったように思います。  確かに、釈尊の息子ラーフラの心境は複雑だったかもしれませんが・・・自分に「障害になるもの」という名前をつけた上、捨てて出て行った父親について行けるか?と問われれば、たいていの人は否と答えるでしょうけれども・・・(今なら児童虐待や育児拒否で訴えても良さそうな状況。釈尊にしてみれば、男子が生まれ、とりあえず家系が絶えないという状況になったことは出家を決意する一要因となったと思うので、ラーフラは障害であり、また解放者でもあるのでしょうが。)  弟子となったラーフラがどれほどに釈尊に帰依していたのかはわかりませんが、帰る国がない以上、実質的には他に選択肢はなかったことは確かです。  最初期の尼僧として参加した人々には、釈尊の養母や妻もいましたから、出家後の釈尊のまわりにはかなりの数の釈迦国関係者がいたこと考えて良いと思います。    長々と記しましたが、出家・成道後の釈尊の周囲にも、過去を知る人は結構いたと思いますが・・・  自分の知るところは、こういうところです。では。        

florahosi
質問者

お礼

les-min さん、こんばんは。 たいへん参考になる示唆をいただき、感謝しております。 お釈迦さんが帰郷して教えを説いた話や、 一族の人達の入信の話を、私は寓話と決め込んでいました。 阿含経の小部に収載されている各経典が古く、 『スッタニパータ』が古いという話は、よく聞きます。 写本そのものは、お釈迦さんの没後400~500年のものですが、 経典の内容は、没後100年頃に 口誦で編纂されたものと推定できるそうです。 故郷での布教や、一族の人の入信の話も、 古い経典に拠るものとは知りませんでした。 申しわけありませんでした。あほでした。 お釈迦さんの言葉を、正しく伝えようとする姿勢が、 編纂者にあると感じました。 お釈迦さんの行動には、脚色があるとの印象を持ちました。 周囲の人の反応や、周辺社会の歴史的事実は、 お伽噺に近いと、私は決めつけてしまいました。 まちがっていたかもしれません。 インドの神話は、すごく劇的で、 手に汗握り、はらはらしてしまいますが、 すでに古代には、原型が出来上がっていたようです。 ギリシャ悲劇のように、予想外に展開する物語の妙味を、 神話の語り手は、知り尽くしています。 お釈迦さんと、身内の人や故郷の人とのすったもんだは、 お城を持つ貴族の跡取りが波乱を起こし、 一族の興亡と、人物の性格や恋愛や、子孫の誕生と世代交代に、 我がままな神さまの意志がぶつかり合うインドの神話的物語の、 標準以下の展開と思いました。 標準以下という未熟なテクニックが、歴史的事実を示唆しているのか、 私にはわかりませんでした。 自分の思想を、自分や社会の世俗的事実とリンクさせない姿勢は、 インドの思想家に共通した超越的な態度かも知れません。 神話的な物語と一緒にされては困るという気持ち。 具体的な事実よりも、思想の普遍性が重要だったような気がします。 経典に記述されている具体的な事実は、 普遍的な思想を飾るための、 ちょっとした未熟な寓話にすぎないという印象を、 私は持ってしまいました。 経典の編纂者は、事実の客観性に、 さほどの価値を認めていないように思いました。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

最初のお経ができたのは釈迦入滅後100年位してだといわれていますのですべてが信用できるかどうかはわかりませんし、初期経典といわれるものの中にも後代の追記が入ったりしていて本当の釈迦の教えや生涯というのが本当かどうかはわかりませんが、釈迦の人生についてはそれほどの捏造はないと考えられているようです。 もちろん、釈迦の前世の物語などは信憑性があるとはいえませんが。

florahosi
質問者

お礼

ありがとうございました。 ある程度は事実にもとづき、ある程度は神話的な脚色かな。 100年ですと、直接知っている人は、いませんよね。 貴族階級として生きた前半生と、 人に自分の思想を披露した後半生との間に、 ギャップがあるように感じました。 貴族階級の出身ですと、血統が、ものを言いますから、 親戚縁者の血の繋がりを、大切にします。 説法していた後半生に、 親戚や故郷の人との交流がなくなるとは思えません。 出家後は、息子さんが弟子になったこと以外、 氏素性に纏わる人間関係が、バッタリ途絶えています。 出家後の、周囲の人の関心も、妙だと思いました。 貴族階級の生活を捨てた事情を、 お釈迦さまに、詳しく尋ねてみないのでしょうか。 とりわけ、妻子を捨てて、家を出るには、 それなりの重大な動機がなければなりません。 思想的な動機だけで、満足できるでしょうか。 私なら、家庭や仕事の事情を聞かずにはいられません。 そして、お釈迦さまのお答えを、 重要な話として、後世の人に伝えるでしょう。 人は、純粋な思想のために、 身分や生活や妻子を捨てるでしょうか。 むしろ反対に、思想の形成には、 身分や生活や妻子を捨てざるを得なかった事情が、 重要だと思います。 そのような事実が、重要な事実として伝えられていないので、 なにかしら、神話のような印象を持ちました。 お釈迦さまに後半生には、 前半生の証人が、一人も確保されていないのでは? 息子さんだけが、木に竹を継いだように出てきます。 ヘンだな、と思いました。

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