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法華経について

日蓮上人を祖とする仏教宗派は法華経を唯一絶対の経典と位置づけておりそれ以外の経典は方便の教えであるから正直に捨てなさいと教えます。それが出来ないのであれば法華経を誹謗している事になるので死後阿鼻地獄に落ちると脅します。そして現代を末法の時代であると迷信染みた事を強調し釈尊に次ぐ本仏日蓮大聖人の言葉を素直に受け入れなさい。本門戒壇之大御本尊を拝みなさい。それこそが唯一の成仏への道であると説きます。 非常に狭い物の見方であり危険だと思います。これではまるで釈尊は絶対神で日蓮上人は預言者、法華経は聖書みたいです。 これが中道を重んじられたお釈迦様のお言葉を綴った経典とはとても思えません。 お釈迦様は無宗教者で理論的思考の持ち主だったそうですが法華経を見る限りとてもそうは思えません。何やら分からない不思議な力や祟りがあると書かれており疑問に感じます。 それでは法華経を支持している天台宗や曹洞宗はその昔なぜ摂受だの折伏だのと騒がなかったのでしょうか?日蓮上人だけが暴走してしまったのでしょうか? 南岳大師や天台大師、日本の伝教大師は法華経至上主義を説かなかったのはなぜでしょうか? 弘法大師は法華経を第三位に位置づけて華厳経を理解する前に理解するように説かれたそうで尊んでいたことは間違いないですが最高の教えとまでは言っていません。 また仏典研究をよくしていた南都六宗は法華経をどのように解釈していたのでしょうか? 不思議でなりません。

みんなの回答

回答No.6

こんばんはです。 ☆非常に狭い物の見方であり危険だと思います。これではまるで釈尊は絶対神で日蓮上人は預言者、法華経は聖書みたいです。 ◇基本的に、日本の各宗派は、程度の差はあれ、同じスタンスです。真言であろうが、浄土教であろうが、禅宗であろうとも、同じですよ。 ☆これが中道を重んじられたお釈迦様のお言葉を綴った経典とはとても思えません。 ◇全てというわけではありませんけれども、多くの大乗仏教の経典でも、このお経が最も勝(すぐ)れている、《最勝経》だという言葉を見出すことができます。ただ、法華経はすこし極端すぎますけれども。 ☆それでは法華経を支持している天台宗や曹洞宗はその昔なぜ摂受だの折伏だのと騒がなかったのでしょうか? ◇日本の天台宗の場合は、法華経と密教経典の大日経を同等の価値のあるお経と考えています。法華経には、修行の方法論が欠けているため、それを大日経などの密教経典で補っているという格好ですね。だから、日蓮程、激しくはなりません。 禅宗においては、経典は副次的なものであって、メインは座禅ですね。ある意味、お経はどうでもいい、というのは少し言い過ぎですが、そんなイメージでとらえた方がよろしいと思います。 ☆南岳大師や天台大師、日本の伝教大師は法華経至上主義を説かなかったのはなぜでしょうか? ◇日蓮ほど激しくはありませんけれども、基本的に法華経至上主義ですよ。 天台宗は、奈良仏教と絶えず喧嘩(教義上の論争だけではなく、暴力も含みます)を繰り替えしていました。 ☆弘法大師は法華経を第三位に位置づけて華厳経を理解する前に理解するように説かれたそうで尊んでいたことは間違いないですが最高の教えとまでは言っていません。 ◇ですね、弘法大師・空海は、大乗仏教の経典の中では、華厳経を最も高く評価しています。そして、その華厳経の上に、大日経や金剛頂経などの純密と呼ばれるお経が位置します。 だからと言って、空海は、密教だけをやればいいという姿勢をとっていません。密教へと至るために、密教以外の大乗経典の理解は必須としています。 こうした空海のスタイルは、チベット仏教においても同じように見られます。 ですから、般若経も、法華経も、華厳経もどれもとても大切な教え、経典ということになります。 チベット仏教はもっと徹底していて、大乗仏教を修めてからでないと、密教の修行へと進めないようですよ。 ☆南都六宗といいましても、実際に、現在、宗派として存在しているのは、  1 律宗  2 法相宗  3 華厳宗 の三つですね。 1の律宗についてはよく知らないのですが、 2の法相宗では、法華経は華厳経などと並び、最高ランクのお経となります。有名な般若心経などの属する般若経は、これよりも1ランクしたのお経に位置します。そして、いわゆる小乗のお経は、さらに1ランクが落ちます。 3の華厳は、華厳経を最高の教えとして、法華経はこれよりも少し落ちる、といったイメージですね。 で、全ての質問に答えていますかね。 少しでも参考になりましたら、うれしいです。

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.5

結局、仏教の成り立ちから知りさえすれば、何が重要で何が無用かは大体、解るかと思われますが、先ず、釈迦は仏、つまり、ブッダと呼ばれますが、これは元々サンスクリット語で、その意味するところは『目覚めた者』ということで、では一体、何に目覚めたかというと、釈迦は自身の内奥に秘められていた、すばらしい能力特性に目覚めたのです。いわゆる、文字通りの先覚者だったのです。ところが世間の人々においては、その存在に気付くこともなく、当然、その卓越した能力を使うこともなく、不幸や苦悩に打ちひしがれ、いわゆる宝の持ち腐れ状態のままで人生を終えてしまっていたのです。これは実にもったいない話であり、ちょうど油田や金鉱脈を持っているのに、そのことに気付かず、それを開発しないままに亡くなって行くようなもので、それで人々にその価値ある自身の宝とも言える存在を教え、それをいかに発揮させるかを説き、それによって人々のあらゆる所願は満足し、あるいは、いかなる困難をも克服していくことが出来るようになる、ということを教え広めはじめたのです。早い話が、我々万民に内在する『鬼に金棒』たるものを教えようとしたものなのです。 それで、その存在とその開発方途を人々に説くのに、いきなりその真意を説いても約2800年前のまだ仏教のぶの字もない当時の人々にとっては到底理解し難いものであったので、少しづつ基本的ともいえる導入説話を多用し、聞く者たちの理解力向上を図って、その真意を受け入れやすい方向へと導いていったのです。分かりやすく言えば、小学生にいきなり大学講義をしても無理なので、やはり基本的な『いろは』から教えていかねばならないようなものかと思われます。それで真意を説くまでに約40年近くも費やして仏教の何たるかを人々に浸透させていったのです。それで、その期間に様々な教経が説かれましたが、よく見聞きするものとして華厳経や阿弥陀経、大日経、般若心経等があり、また、それらの教経内に出てくる阿弥陀如来や大日如来、観音菩薩や薬王菩薩、普賢菩薩等は我々の秘められた能力の特性部分を擬人化して解き明かしたもので、つまり、能力の特性を単に説明するよりは、方便としてそれぞれを様々な如来や菩薩という架空の存在に置き換えて種々説明した方が受け入れ易く、また印象深く人々の心に残るからであり、それが証拠に様々な仏像が現存することとなったのですが。 それで、最終的にはその真意である『法華経』を説くに至ったのですが、この法華経にこそ、その能力の核心とその開発方途を説き教えているのであり、法華経に至るまでの教説は、結局、秘められた特性がどのようなもので、どの位価値があるのか等の説明のためのものであり、それぞれが特性の部分部分を巧みな比喩や方便等で事細かに解説したものということです。それで最後に法華経によって、その価値ある特性の開発のやり方を示唆したということです。その開発のためのキーワードが『南無妙法蓮華経』であり、つまり、自身の宝蔵(釈迦はその特性を宝の蔵に例えて)を開くための唯一の鍵が『南無妙法蓮華経』であり、これを用いれば、その特性を欲しいままに使っていくことができ、まさに大変価値ある人生を送ることができるというものなのです。 ちなみに法華経という題号は『妙法蓮華経』を略したものですが、今でこそ、仏教というと何か堅苦しく儀式めいた存在になってしまっていますが、本来、釈迦の当時においては、釈迦の講義による、いわゆる自己啓発のためのセミナーみたいなもので、今のような煩雑なものではなかったのです。結局は後世の者たちが、方便として仮に説かれた部分部分の解説に過ぎないものを、これこそが真実とか、これこそが本意とか手前勝手に決め付けては開宗したり、仏教の教義や法理をもてあそぶと言うか、いろいろとこねくり回してはわざわざ難解なものへと変質させたりして、現状のような宗派乱立になってしまったのですが、いわゆる『木を見て森を見ず』ということでしょうか。 以上のような基本的なことが判れば、仏教の概要が大方、解るかと思われますが、結局、『南無妙法蓮華経』という鍵を使うのに、どこそこの宗派に属さなければならないものではなく、本来、誰でもその鍵を使って自身の宝蔵を開き、その価値あるものを自由に使っていく権利があり、後世に出現した寺院や僧侶等に縛られることはないのです。 ただ残念ながら現状は、この仏教の原点を顧みることなく坊主や宗教家が、それを食い扶持にしたいがために、その信者や聞法者たちに仏教の大綱の話はせず、到底民衆には理解しがたいものであるとの印象を与えて自分たちの存在感を強めるようにしているのですが、確かに、万民に内在する大変価値ある存在に気付かせ、それを発揮させる手立てを教えてしまえば、それによって後は自らどんどん幸福境涯へと突き進んで行けるようになり、坊主や宗教家の存在意義が喪失してしまうことになるから、できればその法理法門を理解しがたく難解のままにしてはおきたいのでしょう。 ともかく本来、仏教とは、自らが持つすばらしい宝の存在を覚知して、それを発揮させてその人生に自在に活用して幸福を満喫するためにあるのであって、決して単なる精神修養とか気休め、あるいは盆や正月、葬式等の儀式のためのものではないのです。どこかの宗教家や僧侶の難解な仏教解釈等で混沌としている人々も、この一点さえハッキリと認識できれば、今まで暗中模索のような漠然としていたものがスッキリと晴れて、仏教やその信仰等に対しての明瞭な視点を持つことができるかと思われます。 いずれにしましても、「何かに幸せにしてもらう」のではなく「自力で幸せになる」ことができる能力を誰もが持っていることを教える、つまり、自身の真の価値に目覚めさせることこそが仏教本来の目的で、その真髄が法華経であり、もし、当時の人々の機根(理解度、受け入れる能力)が優れていれば、いきなり法華経を説くだけに終わり、仏教といえば、ただ法華経のみとなっていて、昨今のような宗派乱立、法門論争とはならなかったかとは思われます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

Thor9234様、こんばんは。 >「非常に狭い物の見方であり危険だと思います。」 大乗仏教(の各宗派)なんて、(分家の分家の分家、みたいな感じですから)そんなものですよ。 「大乗仏教徒たる、ダレソレが、どうした(が、問題)」、では、 日本の仏教とは、 「ゴミの研究」ですな。

回答No.3

哲学からの宗教の清算、宗教改革を考えている者です。 その視点から言えば、法華経自体は寓話にすぎません。 私がその法華経を信じているのは、その寓話から日蓮上人が「妙法蓮華経」という現代文明人の左脳にバランスをもたらす最高のシンプルな言葉が隠されていることを見出したからです。 しかし、例えば、法華経の中ではその日蓮もそうなのですが、仏様たちは、何億年のさらに何億年培のその何億年培の…とこれが何十も続く昔から生きていた仏様だと語っているわけです。 人類の歴史を80万年前にアフリカのタンガニーカ湖畔の猿の脳に物事を見つめる脳が宿った時から始まったとして、それも気の遠くなるような昔ですが、日蓮が最初に仏となったのはブラックホールの生まれるはるかはるかはるかな昔^^ということになってしまいます。 これは明らかに言葉だけではとても語れない何か大切なものをなんとか語るための寓話の一つであると考えられます。 多くの宗教で寓話や神話、たとえ話や方便が抽象的に語られていますが、そのすべてが言葉では語りがたい真実を語らんとしたものではなくて、道徳の権威づけのためにその多くが語られたのだとしても、その奥にその真実を解釈することは、解釈する人間によっては可能ともなるところ、法華経の場合は、確かにあまりにも今を生きる私達にとって大切な宝を含んでいた仏典だったということです。 ですが、 キリストの場合は、直接に罰とか審判(神の裁き)とかの》おどし《を語っていないと思いますが、日蓮の場合は直接に罰を語ってしまっています。 おそらくですが、法華経の中に隠されていた「心の宝」が、現代人にとってあまりにも大切なものだったため、そしてその意味合いがあまりにも奥深く、とても説明自体は難しいため、それでもなんとかその宝を多くの人が手に入れて欲しくて、それで、罰という宗教の伝統的な考えをそのまま使ったのだと思います。 実際には、あくまで罰などという裁きを仏や仏の眷属とされている存在が行うわけがないのです。 これは、物事の因果を深く知っている人間なら普通の人ですら、どんな悪人をもその過去に関してはすべて許しているはずのところ、まして、人生を深く修行し心に関してはその因果のすべてを知っている知恵者たちが、人の過去を裁くなどということはありえようがないからです。 しかし、その仏様と言われている人たちが仏教ではいやにその罰論を語ると思いませんか? 特に日蓮の場合は、念仏無間地獄などというふうに、かなりはっきり阿鼻地獄を語ってしまっています。 五逆罪と法華経誹謗の罪の結果は、死後の阿鼻地獄というふうにもです。 想像力の世界にすぎないとはいえ、そう想像すること自体無慈悲そのものと思えてきませんか? これは、日蓮もそうなのですが、仏教でそのへんが物語られる時には、仏という存在があまりにも至福の境地に入り込んでいるため、つまり「涅槃」というあまりに深い安らかな幸せの境地であるため、一般の境涯をその脳がすっかり忘れているためだと解釈できます。 佐渡の極寒の地獄の中でも、地獄即寂光の、幸せの境地で満ちていた日蓮の心にしても同じでしょう。 宗教が歴史の中に出てきた時には、一応に道徳の必要が出て来ていた時です。 その道徳に権威をもたらす方途として、宗教はどの宗教も昔は罰という方便を語りました。 仏教の歴史でも、仏陀がそれを直接語ったとは私にはとても思えませんが、その罰論の伝統は昔から語られてきてしまったわけです。 その仏教の中に「妙法蓮華経」という宝が隠されていたことから、日蓮は人間の苦についてはむしろ忘れ去っていながら、あきらかに抜苦与楽の実現の宝と信じて、それをともかく「「「なんとしても、大勢の人に伝えたかった」」」のだと思うのです。 そのために、仏教の伝統への感謝の心からも、罰論をそのまま使ってしまったのだと私は思っています。 》非常に狭い物の見方であり危険だと思います。これではまるで釈尊は絶対神で日蓮上人は預言者、法華経は聖書みたいです《 日蓮信徒たちが、そのまま原理宗教的に徒党を組めば、それはたしかに危険だと私も思います。 しかし、ほんとうは「妙法蓮華経」の意味合いを心から理解し、納得して、なるほど考えて考え抜いた自分の哲学や磨きに磨きぬいた自分の感性をはるかに超えた心の世界を、こんなシンプルに五文字で語っている世界があるなら、それに対して謙虚にならざるを得ない、という意味での信仰ならば、それは狭いものの見方どころか、その真逆の人類史的な広さを持った教えがそこにあるのです。 でも、罰論をかかげて、集団催眠状態で、功徳の実証、体験を語る世界というのは、実はキリスト教の新興宗教の中にも似た怖い状態の宗教がありますが、その場合、それ以上に怖い宗教団体になる可能性があるからです。 その人たち自体は真剣で純真でも、その純真さや真剣さに盲目性をさらに強めるような権力者が入り込み、それが国立戒壇という宗教と国の権威との合流を目指した場合、いままでのどんな恐怖政治よりも怖い秘密警察による締め付けがまかりとおってしまうからです。 本当に国家権力による政治ではなく、「正しい法のみ」による仏法政治を求めるというのなら、理性的に本当に謙虚になれるところまで考えた上での信仰による仏法の世界でなくてはならないということです。 難しいですけど、私はそれを目指しています。 天台大師も、仏教の歴史の中では一番現代心理学者たちから絶賛されている「阿頼耶識論」を取り上げ、そこから法華経の奥にやはり「妙法蓮華経」という宝を見つけた方ではあるのです。 しかし、その仏典も、あらゆる感情や人間の欲望の描写とともに、五感の奥の自我の世界を7識と8識に分けて、その奥に仏界を説くという哲学的文面とはなっているのですが、その分類法自体はかなり雑多です。 その「阿頼耶識論」は、多くの人が書いていますが、そんな論理的であらんとした仏典の中にすら、その一つには神秘性が入り込んでいたりするのです。 また、華厳経で言われる本当の仏陀の意図は華厳経に説かれたという論理も、日蓮の信徒たちの言う五綱判という最高の教えを判断する基準も、論理や基準というよりも、自分たちが正しいという説を自分たちで組み立てて、その中で語っているので、基準や論理として成り立っているわけではありません。 ここには、どうしても、哲学による本当の信仰の在り方やその理解が必要なのだと思います。 本当はここには、「妙法蓮華経」の意味合いをこそ書きたいです。 しかし、なるほど素晴らしいと納得してもらえるだけの地点まで書くだけでも、さすが紙数は足りません。 でも、これで日蓮上人への少なくとも誤解の一部は解けたのではないかと思いますがどうでしょうか? 自我というのは、自分の内部に向かう心的身体的両方のエネルギーを持っていて、その殻は強固です。 というよりその殻は実は破ることは出来ません。 でもその殻は簡単に電波のように突き抜けてしまうこともできるようになっています。 その電波の中心が仏の世界であり、「中道」の世界です。 「中道」というのは、ですので単なる2つ以上の志向性の中間ということではなくて、もっともっとはるかに深いバランスの世界を意味します。 摂受 折伏 末法という言葉も、本来はその深いバランスと関わる深い言葉として解釈されるべきところなのです。 末法というのは、論理脳の発達で感性脳が押さえられている人たちの多い時代というふうに考えると解りやすいでしょうが、あとはご自分で考えられてみてください。 すべての人の心に事実として仏界はあります。しかし罰は事実としては、どこにも存在などしていません。安心して人間的にこそお互い生き抜いていきましょう。 苦悩を突き抜けて考えた人が正しい人間性を身につけられるのだと思います。 迷うこと、疑問を持つことはすばらしいことです。 そこを少しでもお互い突き抜けて行けたらいいですね。

回答No.2

質問者の言う中道とは何なのか、法華経に限らず釈迦は自分自身を拝む対象物にした事は ない。日蓮宗系列は元を正せば確かに法華経をベースにしているのは確かだ。さらに言えば、 末法も、正法像法の後に続く時代と言うだけであって、それは別に法華経で言及している わけではない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%8F%E6%B3%95 疑問を抱く前に知識に相当の偏りがあるので、零からおさらいする事を勧めます。 経典があって拝む対象物がある。それはどの宗教でも同じやね。あとは調べてください。

  • selfless
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.1

日蓮宗の人間ではないので、深い知識を持っているわけではありませんが、回答させていただきます。 まず、仏教の歴史についての誤解の指摘を。 > お釈迦様は無宗教者で理論的思考の持ち主だったそうですが法華経を見る限りとてもそうは思えません。 『法華経』は釈迦が記した著作ではありません。ですので、釈迦の思想が法華経に正確に反映されているとは限りません。 釈迦の生きた年代も『法華経』の成立も諸説あって曖昧なのですが、両者には少なく見積もっても400年近い開きがありますので、釈迦が『法華経』を著したということはありえません。 ただ、釈迦と『法華経』の思想に隔たりがあるというのは、おっしゃる通りだと思います。 『法華経』の思想は釈迦の弟子たちが築いたものであるから、釈迦の思想の発展形が『法華経』だ、という考えもあるようですが……。 次に、質問にお答えします。 > まるで釈尊は絶対神で日蓮上人は預言者、法華経は聖書みたいです。 『法華経』とキリスト教思想が似ているという指摘はあります。 ただ、本当に影響を及ぼしたのかは定かではなく、あくまで「似ている」というだけの話です。 > 法華経を支持している天台宗や曹洞宗はその昔なぜ摂受だの折伏だのと騒がなかったのでしょうか? 実をいうと、日蓮宗以外の宗派は騒ぎました。 日蓮が『立正安国論』という本を書き、浄土宗や禅宗を「邪教」と非難したときのことです。 この本の内容は浄土宗の教徒は怒り、日蓮襲撃事件などを起こしています。 また、鎌倉幕府の執権・北条時頼が臨済宗を信仰していたこともあり、日蓮の本は「政治批判」と見なされ、日蓮は流罪にもなっています。 天台宗についてですが、これは日蓮宗と同じ『法華経』を信仰していることもあり、日蓮は天台宗を攻撃はしていなかったと思います。 ただ、事件がなかったわけではなく、日蓮死後の戦国時代には「天文法華の乱」なんて事件も起きています。 > 南岳大師や天台大師、日本の伝教大師は法華経至上主義を説かなかったのはなぜでしょうか? 中国の天台宗についてはさほど詳しくないので、南岳大師については分かりませんが、天台大師(最澄)についてお答えします。 まず、最澄も法華経至上主義に近いことを述べています。法華一乗思想です。 その思想をめぐって、奈良仏教の教徒たちと論争もしています。 最澄と徳一の「三一論争」が有名ですね。 > 南都六宗は法華経をどのように解釈していたのでしょうか? 『法華経』こそが仏に至る道だと説く一乗思想に対し、南都六宗は三乗思想ですね。 『法華経』自体は極めて重要な教典ですから、南都六宗も重視していたと思われます。 ただ、最澄や日蓮のように、『法華経』のみで悟りに至れるといった一乗思想には反対しています。

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