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浄土教について
これって当の仏陀は全く言及しておらず、 カルトを通り越して別宗教の感じがするんですが。 阿弥陀信仰として仏教から分離させてもいいんじゃないですか?
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私は浄土教も何もよく知らない者なのですが、設問の通りだとおもいます。仏教を研究されておられるそうですが、旧来からの日本の仏教は、インド仏教を研究すると、あまりにも違っていて解からなくなってしまうようです。この事情は、インド仏教が中国を経由して日本に伝来する間に、中国的に変容してしまったためです。先祖供養についてもご質問がありましたが、これらについて回答を得るためにも、ぜひ、道教、儒教等を勉強されたらと思います。
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仏性をどう扱うかの問題だと考えます。 あるいは ゴータマは人間であるが ブッダは 絶対(絶対者)であるのかにも かかわるでしょう。 無明(煩悩)を どのようにして 明知(菩提)へと転換するか この問題が 立ちます。そして その原動力は ブッダの智慧であると思われますが 仏性という基盤に立つということでもあるのでしょう。 したがって 簡略に言えば 易行道=浄土門と難行道=聖道門との違いになるのではないでしょうか。 ブッダが絶対者でなく 飽くまで ゴータマという人間のまま覚りを得たというのであれば いくら難行でも 人間の能力と努力によって 彼岸に到達することになります。もし ブッダが 絶対者で〔も〕あるならば 凡夫が それになれるかどうかが 問題になります。ふつうはなれないという回答であろうと思われます。 だとすれば ここでは――つまり 仏性を宿しているが これを開発するのは 人間の能力を超えていると見る場合には―― いわゆる絶対他力の思想が芽生えます。 ゴータマ・ブッダ自身は おっしゃるように いわゆる自力の思想を基本としたと思います。その場合には ★ 阿弥陀信仰として仏教から分離させてもいいんじゃないですか? ☆ とわたしも考えます。 ただし ブッダも それにしても いやというほど 時空間を自在に 乗り越え 飛び越して 阿弥陀仏の思想と同じような内容を 語っているように思えます。 そうして 課題は このブッダ自身を わたしたちが どのように乗りこえるか ここに かかっているのではないでしょうか。 わたしの考えでは 人は 他者との区別として成り立つ自由な独立主観を持つと同時に 他者との社会性のもとに初めて生きるそのような関係性を持つ存在であると見ます。自由と平等とが 同時一体です。 わたしたちは ブッダの自由を認めつつ かれと わたしたち一人ひとりが 互いに平等であると受けとめること ここから出発するように思われます。 (つまり このことは ちいさな声でしか言えませんが ブッダは 飽くまで人間であるが 絶対者は ほかに想定されうるという見方のことです。つまりもしくは 絶対者を想定する必要はいっさいないという立ち場のことでもあります。――前者であれば ブッダを相対的な見方に立って受け止めることができます。後者であれば やはりわたしたちの内の一人として位置する秀でた存在だと捉えることができます)。 つまり おっしゃるように この問いから 世界は新しく開けるとさえ考えます。ほとんど誰も問わないまま ずるずると来てしまっていると わたしにも 思われてなりません。
お礼
ありがとうございます。 仏性という話になると幅広い日本の仏教を相手にしなければならなくなりますが、私は「仏性」という言葉自体を否定します。 なぜか。それはこの概念の源は釈尊以外に真の意味での悟りを開いた人はいまだいないし将来もいないという考え方です。でも仏性はあるんだよ、という考え方です。 当時の当の釈尊は一人間であり悩み苦しみ弟子たちに教え、弟子達が悟ることを喜ぶ。そういう人間です。(確かシャーリープトゥラがなくなったとき大泣きしてアーナンダになぐさめられてますよね)なのに大乗仏教になると途端に釈尊は現在過去未来死後の世界をびゅんびゅんと目から光を出しながら飛び回る超スーパーサイヤ人になります。そして他の弟子たちは真の悟りを開いていない阿羅漢というレッテルを貼ります。阿羅漢のレッテルを貼って仏性というものを引き合いに出すというまことに巧妙な手口でじゃないですか?というか釈尊の思いと違う方向に行ってるのは明らか ちなみに浄土教の経は知りませんが、キングオブスートラ「法華経」。釈尊の死後ウン百年を経て、誰かが書きなぐった如来が空を飛びまわる荒唐無稽な経。この経にさえ仏性という言葉は一切ないって知ってました?しかし日本人は仏性という語を知った後で、この知識のフィルターを通してこの経を読むから読み間違ってしまう。そうですよ
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
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浄土教を信仰するものとして、個人的な意見かもしれませんが、少しばかりお話させていただきます。 >>浄土教について >>これって当の仏陀は全く言及しておらず、 >>カルトを通り越して別宗教の感じがするんですが。 確かに現在の研究においてお釈迦様は死後については「無記」という立場をとっておられたことが言われます。けれども、無記というのは「死後は無い」ということでもないと思います。あくまで、「死後に関しては、誰もが納得できる答えはありえない」という立場であると考えます。 確かに、先の回答者もおっしゃっていらっしゃるように、厳密に言えば現在残っている大乗仏教各宗派、上座部(テーラワーダ)といわれるタイ等の東南アジアに伝わった仏教も、お釈迦様の仏教であったとは言えません。しかし、仏教は変化ということには肝要な宗教であるとも言えます。お釈迦様自身も「対機説法」といって、教えを説く相手によって仏教の伝え方を変えていたことが言われます。 特に、その変化を受け入れたのが現在「大乗仏教」といわれる仏教です。その中で生まれてきたのが浄土教思想です。しかし、浄土教であってもお釈迦様のメインラインははずしていないように思います。お釈迦様の教えのメインラインとしては「四諦」「十二縁起」などがありますが、仏教の原則としてまず「自分自身の苦しみや愚かさに目を向ける」というものがありますが、浄土教はそれをよく受け継いでいます。日本浄土教の中心となるのは法然上人の教えを中心とした「法然浄土教」と呼ばれるタイプの浄土教になると思いますが、その流れを汲む親鸞聖人は『教行信証』のなかで、 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。」 と説いて、「カッコをつけて修行した聖者のような姿を外見見せてはいけない。まず、自分の内面の愚かさや弱さに目を向けなさい。」と説かれています。これに関してはお釈迦様の言葉を比較的正確に伝えているといわれる法句経のなかには、 「愚かさを推し量る愚者は、それ故また賢者である。賢者であると慢心を抱く愚者は、それこそ愚者といわれる。」 と説かれています。お釈迦様自身も、賢者になることではなく「自分の愚かさを見据えることができる愚か者」になることを勧めています。 また、浄土教において有名な文句は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」という言葉があらわす「悪人正機の思想」でしょう。これに関してもこの「悪人」というのは犯罪者とか現在で使われる悪人と言う意味ではありません。なぜなら、親鸞聖人は『歎異抄』後序の中において、「正機」ということについて、このようにも述べています。 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」 「阿弥陀仏が五劫考え通した本願は親鸞一人のためであった」と、自身こそが阿弥陀仏の目的であることを宣言しています。「阿弥陀仏が親鸞を救わんがために本願を立てたのだ」とするならば、親鸞聖人ははまさに「正機」に当たります。ということは、正機である悪人とは親鸞聖人のことであり、親鸞=悪人ということ成り立ちます。親鸞聖人にとっても阿弥陀仏の救いの目的(正機)である悪人というは自分の事にほかならないことがいえます。この「悪人」とはどのような意味を持つかというと、親鸞聖人自身が悪人であるという自覚を述べていることからも、ただ単に現代において使用される悪人と言う意味ではなく、自分自身が悪人である事を自覚するからこそ、阿弥陀仏の正機たりえる悪人となるのです。ですから、悪人とは他者を判断する材料ではなく、仏教の説くところの深い自己反省に基づく自覚ものといえるでしょう。 >>阿弥陀信仰として仏教から分離させてもいいんじゃないですか? このように考えますと、浄土教もまた仏教という下地が無ければ成立しなかったと思われます。確かに表面だけを見てみればまったく違ったものであるかもしれませんが、根っこは仏教ということがいえると思いますよ。 最後にお釈迦様は死後に関しては「無記」の立場であると申しましたが、親鸞聖人も同じ立場であるともいえます。それは、親鸞聖人は「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。」と、「念仏によって死後に救われるかなんて自分は知らない」と述べています。これは浄土教の教えは、死後に関しては私は知らないけれども、浄土という帰るべき場所があり、阿弥陀仏という支えてくれる人がいるという生き方ということがいえると思います。「死後はあるんだ!」という決め付けではなく、あくまで自分自身の生き方として浄土のある生き方を選択したといえるでしょう。そういう意味では浄土教もまた「信じるものは救われる」という類のものとは一線を画するでしょう。 長々書き連ねましたが、急ごしらえのため誤字脱字乱文はご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛
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お釈迦様ではなくお釈迦様はそっちのけで阿弥陀阿弥陀ばかりであり、 指摘されると、お釈迦様のことをもってきてけむにまくように思えるのですが。 池田池田と普段言っておきながら指摘されると日蓮上人を持ってきて解説しはじめるどこぞの宗教と同じにおいがするのですが。
- mmky
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釈尊は菩提樹下で悟りをひらいた後、すぐに伝道を始めているのですね。これは2つの姿をあらわしています。悟りを求める仏陀の姿と、その悟りの力で人々を救っていく仏陀の姿ですね。これを「上求菩提・下化衆生」といいますね。この2つの方向の姿を、前者が奈良の大仏、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)といい、後者を阿弥陀仏(救世主)というのです。釈迦仏陀はこの方向の違う二面性を説いているのですね。ということで後世に弟子の不徳で分派はしましたが密教も浄土教も大乗も小乗も仏教なんですね。仏陀のどの側面を重視しているかだけのことですね。また仏門はどこからでも入れる、8万4千の法門がありますのでどの法門からはいってもいいということでもあるんですね。このようにいえば仏陀がいかに偉大な存在であるかがわかるかもね。さらにいえば、仏教寺院の山門に「あ像」と「ん像」があるはずです。ギリシャ語で言えば「アルファ」と「オメガ」つまり始まりと終わりという意味です。これを使えるのは全知全能の神だけでしょう。仏陀というのはそういう存在ということですね。単なる救世主じゃないんですね。ということで浄土教も問題なく仏陀の教えの一部なんですね。
補足
>>前者が奈良の大仏、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)といい、後者を阿弥陀仏(救世主)というのです こういう表現一つとってもカルトの何ものでもないと思うのですが。 釈迦が当初言ってるはずもないことは言うまでもありませんし。
- monju-9132
- ベストアンサー率40% (20/49)
まあ、それを言ってしまえば、厳密には天台宗も真言宗も日蓮宗も、日本で盛んな宗派は全部カルトになってしまいますよね。 私は浄土教信者ではないのですが、大学がそっち系だったので、浄土宗系統からの主張はいくつか聞いたことがあります。それを今、そのまま書ければいいんですが、本気で聞いてなかったのできちんと書くことができません。きっと、浄土宗系の方からそういうご意見がでるでしょう。 ただ、私が一つ納得したのは、行き着くところは同じであるけれども、行く方法が違うだけだ、という説です。 目的地まで歩いていこうが、自転車で行こうが、車で行こうが、飛行機に乗ろうが、目的地に着いてしまえば同じこと。 専門家ではないので具体的に説明できなくて申し訳ないですが、少なくとも、キリスト教の目的地と浄土教の目的地は違うと思います。浄土教の目的地は、あくまでも他の仏教と同じ場所だと思います(浄土だとか極楽だとかそういう死後の場所ではなく、もっと観念的なもの)。
補足
その乗り物はなんでもいいのだというのは、恐ろしいことのように思います。 勧誘活動に偽りを用いても目的がいいからいいのだという考え方に通じますし、その目的地までがハイジャック等不法行為であろうといいのだという考え方に通じます。ということは、自らカルトであると間接的にカミングアウトしているともとれるようなものではありませんか?
- groovyreality
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ま、いいんじゃない? 宗教なんだから、争いが一番悪いんです。 あなたがこの宗教を仲間はずれにしようとする、その願望から生まれる感情が悪なのですね。宗教は、考えの間違いは正し、尊き道に導く事が大切なのです。あなたは、既に、争いごとを選んで、間違った発言をしていませんか?仏陀はそのようなことをするようには教えていないのではないでしょうか? 謙虚になってみてくださいね。
補足
本来の仏陀の教えとキリスト教との違いと同じくらい離れてないですか?
補足
研究していません。ウィキペディアに毛が生えた程度です。 先祖供養については質問はしていません。 >>旧来からの日本の仏教は、インド仏教を研究すると、 >>あまりにも違っていて解からなくなってしまうようです。 私は今回は浄土教について言っています。