釈迦の無の悟りとは?

このQ&Aのポイント
  • 釈迦の無の悟りとは何かという問いかけである。
  • 釈迦の無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究である。
  • 釈迦の無の悟りは、自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。
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釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#195588
noname#195588
回答No.12

仏教の常識とは違うことを書きます。 トンデモ話でいいです。 仏教の実質的な開祖は サーリプッタだと思います。 ゴータマはブッダではないと思います。 マハーカッサパは論外です。 スッタニパータの第五章には 釈迦族がでてきますが、 スッタニパータの第四章には 釈迦族はでてきません。 釈迦=ゴータマなのか疑問を持っています。 縁起も空も悟りではない。 特に空の思想は異教が起源ではないか?とすら思います。 私の考えが間違いであるといいですね。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 そのストリッパー研究白書なる文献は後世の信仰の在り方によって編纂されたものである事も考慮が必要だろうよ。 吸ったにパーた、 この言葉に初めてとり合おうとしたよ。 私はストリッパー研究白書として認識していた。

Flareon
質問者

補足

ああ、そう言えば今回の質問主文の作文には批判ばっかりで自分の意見が無いも同然だね。 もっと明白に批判しようかと考え始めたよ。

その他の回答 (11)

回答No.11

 こんにちは。  ★ 仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。  ☆ ここが いちばんの肝心なところだと思うのですが  もしこのことを中核として推し出したいのなら ゴータマ・ブッダとの言わば距離をしっかりと言葉でも示さねばならない。こう考えます。  言いかえると ひとつに《人間という存在が 最高の境地に到り得るということ》 その最高の境地を けっきょくゴータマ・ブッダのオシエ(あるいは後世の弟子たちや研究家たちの成果)にまだ負んぶしてもらって ふられおんさんは打ち出しているかたちではないか?  つまりは今度は けっきょくブッダとは何か? どういう境地であるのか? という問いに戻ってしまう。  ★ 無のさとり  ☆ これが その答えであるとすれば これについてもっと 宗教のオシエとしてではなく 哲学の言葉で説明しなければならない。    《無》には 経験世界における有る無しの無と そして 経験世界を超えたところの絶対としての――つまりは 神としての――無と ふたつしかないと思います。  そのことを明らかにしなければならないでしょうし その後者についての説明は なかなか人びとは納得しないという実際の問題もあります。  《信仰》とは何か? この問いにもむろんかかわっています。  要するに《人間》の到り得る境地としてもっとも知恵に満ちた状態が ブッダの境地だというのならば そのブッダという言葉にすがっているようであっては――つまりひとのふんどしで相撲を取っているようでは―― その研究は評価が低いというものです。  そこのところを指摘してくれる回答者もいるようですよ。最終の結論は 人それぞれでよいのでしょうが。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 いじめて面白がると言う私の姿勢が仏教のこねくり回しとしてあらわれている事を指摘しているんだね。 仏と言う言葉を現代語訳すると人間と言う言葉になる。 私はずっとこれでやってきた。 その人間研究とかかわって思索しているよ。 しかしなんだね、仏陀の現代語訳が、信仰の対象に昇華された人間と言うのが、おおむね一般的だろう。さらに神になった人間と言う認識もあるだろう。そうなると人と人が結ばれ信じ合える人間の成立は無いわな。人間と言う言葉は釈迦の後世に西洋で主に語られた言葉なので、墓所荒らしの様にそれ以前をこねくり回しているんだよ。

Flareon
質問者

補足

お礼の追加だよ。 なんでこんな話を持ちかけられたか考えてみたんだがね、主題はいつもと同じく、 我が信仰の大道を行け。 コレに置いている。 あんたー、仏陀と言う言葉にアレルギーのような拒否反応でもあるのか? 理解する事を拒否するのが哲学だとでも言うのか? 理解の前提は西洋流に愛する事だとしよう。 それ以外にも尊敬する事だったりもするがともかく、 あんたは釈迦が嫌いでその嫌いな理由を並べ立てているように見えるよ。 昔はそれに気がつかなかったが最近はそればっかりだ。 西洋流の哲学に関しては私の方はどうどうと悪を名乗っていてね。 イエスは殺されて当然のアホだとゴルゴムを持ちだして表明しておる。 あんたにとっての批判の原点は忘れ去られているから、またこねくり回しをしてみたらどうかい。 私は「無の悟り」という原点をいつも大事にしているよ。 この言葉がもたらされた事は日本を長らく苦しめてきたのは事実なのでね。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.10

Flareon様、こんにちは。 「「民主主義」には「これで良い」ということが無い」(自由の帰結)

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 私は無学なんでね、何お言いたいかさっぱりわからないよ。 ところで無学な私は君達より頭も悪いはずだ。 君達はそう思うかい?

  • sssv
  • ベストアンサー率14% (7/49)
回答No.9

【本】を執筆するのですか?【出版社】は、もう決めたのですか?【フォレスト出版】ですか・・・?

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 要らん事聞くな。

回答No.8

〔自身のことばや観念に溺れ、〕 踊らされているのは、質問者自身なのではないですか? 本当に大切なことは言葉で語ることができない、と思っているのなら、 お釈迦様のように、口をつぐんでいればいいでしょう。 にもかかわらず、質問者は虚言・多言を弄している。 だから、言動が一致していない、態度が首尾一貫していない、と何度も言っているのです。 ちなみに、ここでいう「虚言」は「うつろな言葉・むなしい言葉」の意味です。「うそ」の意味ではありません。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 その態度はいかんよ。 私が面倒みてやる(救ってやる)と言えば言葉を受け入れ盲従し、死が結論だと言えば無駄な抵抗をする。 そもそも私の哲学的才能はお釈迦様を上回っているからこそ論説出来るのだが、それを新たな仏陀としてひれ伏すSM プレイにはまっているのだよ。対等な関係では無い点をわきまえるべきだな。

回答No.7

Flareonさんともあろう方が、これは異なことをおっしゃる。 《一切無》であるのだから、 「死」や「悟り」も《無》でなければならない。 屁理屈ではなく、いたって当たり前の推論です。 それとも、 「死」や「悟り」、「信仰」などは、《一切無》という真理(?)の例外的な存在である、 とおっしゃりたいのですか? 例外的な存在であるならば、 Flareonさんは、その理由を明らかにする必要があると思います。 そうではなく、 「死」や「悟り」も実は《無》であるのだが、 《眠り猫》のように救いようのない奴らは、勝手にそのようなものを頭の中で作り出し、 その幻影を追いかけているのだ、 というのならば、 そのように書くべきです。 有りはしない《悟り》という夢や幻を追いかけているのだ。 そういうだけで、すむのではありませんか?

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 あんた~、私が今まで頑張ってきたありがたい話を全く理解していないんだね。 一切無と言うのは、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、有りだよ。

Flareon
質問者

補足

まあ、ありがとうサン。 お礼の追加だよ。 君のように迷信に溺れ、全く理解できない頭をどうにかする事に作文の意義がある。 まさに待ちにまった回答だ。 続けてみたまえ。 さらにくどくどだらだらした変な作文を試してやろう。

回答No.6

お礼、ありがとうございます。 ☆君の疑問点は無の悟りがイコール死の悟りである ◇と、わたしは言っていない。 《死》すら《無》である、といっているのです。 同時に、 あらゆる《悟り》も《無》である、 といっているのです。 「死にまい進し、死の自覚によって悟る」 は、 「無い死に向かって邁進し、無い死の《無》自覚によって悟る」 にならなければおかしい。 だから、おかしい、と言っているのですよ。 もし、これが成立するならば、 人は最初から悟っているということになるのですから。 質問者は、《本覚》を認めていないでしょう? ☆無の悟りとは、語る言葉はない。 ◇《無の悟りについて語る言葉が無い》のであれば、そもそも、この質問・主張をする質問者の行動・態度は、この言葉と矛盾していることになります。 だから、 態度が一貫していないうえに、 《無》という観念をもてアソブだけの《無遊病者》だと言っているのですよ。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 さっぱり判らんよ。 君は哲学かぶれだなく屁理屈かぶれでねえかい。 語る言葉が無いというのが当時の結論そのものだ。 言葉には言い表せないというきれいごともある。 旧人類にとってはそれで良いだろう。 君達は人間であるとおだてられているだけで、人間を自覚していないよ。

回答No.5

すんません、NO4の訂正です。 【誤】:《a-sati》 【正】:《a-sat》 です。 訂正の方、よろしくお願いします。

Flareon
質問者

補足

ひとりごと。 ジラーチちゃん。 すなわちアマテラスさんの言葉は、 私はけして振り返ろうとしないあなたの背中だけを観ていた。 こうだ。 すなわち人は神に語りかける言葉を持たない。 だからこそ、 語る言葉はない。 しかしだ、 話合ってそして愛し合おうではないか。 私はそんなつもりだよ。

回答No.4

《無》ということば、ほんとうに好きですね~。 《無》ということばをもてアソブ《無遊病者》の域に到達しているの感ありです。 論理として破綻している!! 《一切無》ならば、 《悟り》も《無》。 無い悟りにどうやって至るのですか。 質問者のいう《信仰》も《無》。 無い信仰をどうやってもつのですか。 そもそも《無》すら無いでしょうが。。。 それとも、《無》を超える《無無》や《絶対無・絶待無》があるといいたいのですか。 そんなものを概念設定した瞬間、それすら《無》であると否定されるのが落ちです。 そもそも、ここでいう《無》に該当するサンスクリット、もしくはパーリは何ですか。 《無》は《śūnya》もしくは、パーリの《suñña》ですか。《Śūnyatā》ですか。 それとも、《a-sati》ですか。 そもそも《漢語》で仏教をやろうとするというのが、おかしいのと違いますか。 ☆それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 ◇《死》は無いのに、無い死に向かって邁進し、無い死の自覚によって悟るのですか。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 君の疑問点は無の悟りがイコール死の悟りである恐慌だよ。 無の悟りとは、 語る言葉はない。 こう言っているだけだよ。 そしてそこから押し問答に発展する。 長らく仏教ではここで死の恐慌に苦しんだ。 君達の失敗は、自らの信仰心を誰かに代筆してもらおうとする事にある。 我が信仰の大道を行け。 コレが大切だという話だし、お釈迦様に限らず仏陀とはそういう人だ。

Flareon
質問者

補足

悟りとは言葉で言い表せない。 こうじゃなくて、 悟りの結論と内容が、 語る言葉は無い。 コレなんだよ。 ここでいつまでもバカな押し問答をしているわけだ。

回答No.3

何かの書籍を読んで感想文を投稿しているに過ぎない程度なのだろうが、まずは 「仏」とは何か、その定義をもう一度復習してみましょう。哲学と言うより、 感想文か剽窃か、これで執筆というのも凄まじく違和感がある。オリジナリティが ないからですね。 可能ならば熟慮を求めます。15点。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 無礼者。 知的創造のできない輩は所詮想像力もないのだな。 今回の文章が無理やり文脈をふくらましたのでむしろ読みにくくなっていることは承知しているよ。 グーグルで「無の悟り」と検索すると1ページ目は私のかつての作文が席巻している。 それに気を良くして作文に励んでいるのだよ。 目標は親切に噛み砕いて、万人が無の悟りに至れる親切な哲学書の出版だ。 志が高いように解釈できるかもしれないが、単に私自身は生活が満ち足りてなお、それ以上に遊ぶ金が欲しいからだ。

noname#181644
noname#181644
回答No.2

自燈明、自身を拠り所として歩む事については概ね賛成です。しかし人は病に遭ったり、争いに遭ったり、事故に、或いは飢渇に遭ったり、色々苦しみに遭ってしまう存在です。覚りは苦の終わりと言われているけれど、実際問題これらを克服するのは難しい。危機に陥ると人間は弱いものです。現代日本に暮らしている我々でさえ、諸々の苦を受けます。どうすれば苦しまないで済むのか、これは切実な問です。この問にはどの様に応えるのでしょうか? 健全な人は自燈明でOKですが、病んでいる人にも同じ答えを勧める事は、一塩むずかしいと考えます。 確かに、弱い者が上を向くので勇者といえるが、これは口で言えるほど簡単ではありません。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 君の言う弱い人は、自己責任を放棄することでそのようになる。 救おうにも救いの対象の心が空っぽだ。 満たすことはできないのだよ。 そうさな、君に対するアドバイスなら、救われる側で無く救う事を志せ。

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  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

  • 無の悟りとは、釈迦にとっては人生論だ。

    君達の信仰は神を表していない、すなわち無だ。 私の信仰は神を語らないことにある。すなわちこれもまた無である。 こうして一切が無である。 この無の教えは誤解された。 君達の信仰は神を語っていないと教えられ、自らの神を語るこそすら出来ないと、その絶望と信仰の到達がはるか彼方であることの無であることの内訳と誤解され、すべてが死に向かう宗教として仏教は誕生した。 私は実在する仮面ライダー「黒き明星」としてその死の罠を粉砕し新たな活路を見いだした。 別に語りたければ語ればいいじゃん。 無は信仰の様式の一つだよ。 無を理解するのは私の様な超人だけでいい。 君達の場合は、自らを考える事と神を考える事を区別しなければいいんだよ。 人間の思考が神に由来すると気が付けばそれで十分悟りだよ。 さて仮面ライダーである私は常に闘争と勝利を求めている。 旧人類の亡霊として私の前に立ちはだかってくだされ。

  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである

    一連の知的SMプレイの最新版です。 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 無の悟りとは単純明快である http://okwave.jp/qa/q7612407.html 私は「わが信仰の大道を行け」と薦めているが、理屈が全く分からない人ばっかりだろうから、論理を整えてみたよ。 お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚し歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人間同士が共生する文明の芽吹きがあった。そのようなさなか人間同士の社会生活と個人の自然本性が共存する新しい生き方を歩むにあたって、その難問を仲介する神と表せる、人間の理性的資質の所在をめぐり、人々は様々な自説を述べ、神の案内する、人間の社会性の構築の理想像についてお互いに意見を戦わせた。 それは自らを知る行いが神をしる行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間の社会生活の発祥であろう。 そこにお互いに何を信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる悟りである。 2500年前ヒンズー教の源流を司るバラモンの僧たちは、神の姿を明白に定義しようと苦心していた。 そしてそれを成し遂げたのがお釈迦様である。 お釈迦さまが信仰に生きることを可能にしたのは彼自身が神の全てを受け入れたからだ。 すなわちお釈迦様は太古のインド社会の源流に現れる神の姿を受け入れたのだ。 他者の信仰をも許す、慈悲心の原点だ。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事も無いくせに、信仰を語ることが権力闘争と化した当時のバラモンの僧は現代の生臭坊主とかわらず、神はかくの如しという噂話が好きだ。 そんなうわさ話を、お釈迦様は「信仰心とはそうではない」と、神を尊ぶゆえに、過ちの多いバラモンの信仰にケチをつけた、神を損なわず人の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 すなわち君達バラモン僧は自らに信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 この無は「そんなのありゃしねー」の無であり、何年か前に「そんなのかんけーねー」と裸踊りをしたお笑い芸人がいたが、ふっ飛ばし方は同様であり、かのお笑い芸人こそが現代で最もお釈迦様の言葉を正しく実践する、聖人だ。 そして、ならばと、お釈迦様自の神への志、すなわち信仰を問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 すなわちこれは、「てめーのしったことじゃねー」の無であり、お笑い芸人の「そんなのかんけーねー」と一致する ここで果てしなく、押し問答が繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 そこで無の論理を心得るならば、すなわち目指すのは、自らのみの信仰心のの探究であり「救ってください」「助けてください」これは無い事になる。 彼らはそれを恐れるのだ。 仏教の迷走はここにあり、禁を破った大乗はむしろ日本版ヒンズー教である。 自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは無の悟りではなくて「信仰の我が大道を行け」これである。 てめーのしったことじゃねー。 てめーでなんとかしろ。 これである。 ありがたいだろう。 さて今回も一種の作文であるが、改めて無の悟りを掘り下げてみた。 信じると言う行為や心の働きをいかにとらえるかご意見をお願いします。 そのほかに私こそが無を悟っている。 君(私の事)の無はまちがいだ。 そんなつわものの、モンキーダンスも歓迎いたします。

  • 慈悲とは無の悟りを補う行いである。

    慈悲とは無の悟りを補う行いである。 お釈迦様の悟りに置いて「無」の内訳とは有無について明白な分別を養う事である。 にもかかわらづ、そのような分別を持ち合わせないで、無に属する事柄、無根であり、かないようも無い願いを傾けることは、幼稚園児でも納得する無い物ねだりである。 これこそは私を個人的に苦しめている取りすがりである。 私に言わせれば、良識のある方の引用した聖書に由来するイエスの信仰の様式ですら取りすがりであった。 「あなたの言葉から内心の信仰の在りようが見える。」 これは霊験を備えれば誰でも出来ます。 そして慈悲とはその信仰の有りようは無根である。 はっきりと、その信仰はかないようが無い。 そのように表すことである。 お釈迦様は当時のインド社会での信仰の有りように、このように無の観想を述べ、慰めるがのごとく慈悲をもって手向けた。 ただそれだけが慈悲なのに、仏弟子を気取り、無を恐れる背教者が宗教を組織して正当な釈迦の後継者のごとくふるまっている。 これこそが仏道の真相です。 何故悲しみを知らせる慈悲が必要なのか。 喜びを分かち合う事が出来ないからです。 以上は色々とご質問させていただいた仏教の問題点の集約です。 当事者よりアドバイスをお願いします。 最近煩わしているヤプーよりも信仰の当事者より意見を聞きたい。 あなたはそれでも仏道を歩めますか。 仏教文化の浸透した日本に置いて、信教で無かったとしても必ず潜り抜けるのが仏道です。 私もそうでした。 あなたは仏道を我が大道と自信をもって言えますか。

  • 無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ

    やあ皆さん、私がいつも言っている事の最新版への更新だよ。 これは私の行っている哲学研究の一部で、質問と言うより研究として意見が聞きたい。 まあ読みやすいかどうかとか簡単な読書感想文でいいよ。 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。 その中で、釈迦という古代の仏陀は無の悟りとその教えという特異な伝承を残している。 この内訳を考察するにあたって、仏陀と承認されるもっともな特徴が信仰への到達である事が重要である。これは西洋の神学や哲学すらも聖人と認める人類的共通項だ。 釈迦の結論はこうだ。 信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。 すなわち無だ。 神学の創立と文明の勃興の熱気あふれる古代インドで、多くを論じるバラモンを指して、彼らの語る言葉には内容がない。 すなわち無だ。 したがって無が結論である。 これを教える事が彼の人生であり、哲学として無の論理から多くの覚者を産んではいただろう。 それは2500年ほど前、文字もなく人類の文明がまだ幼かったころの話だ。 仏教の経典の最も古い物は2000年ほど前の編纂だ。 その間500年の口伝による伝承が有った。 この間、釈迦の教えはインドの風土で変化し、無の悟りの内訳を理解する事は困難になっていた。 その口伝500年の結論で新たに浮上したのが「空」の言う宗教的概念だ。 もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。 これは、そのまま信仰の自覚であり無に代わる仏教における到達点だ。 そのほかに輪廻転生説とは、釈迦の生きた時代以前より脈々と受け継がれるインドの信仰の源流であり、口伝500年を釈迦の教えが伝承されるにあたって、語り継ぐ古代インド人にとって、論理の整合性を保つため、無の教えとインドの伝統とで接点が必要になったため、主に後世で補足されたことであろう。 自らが涅槃に立脚した釈迦自身は、輪廻の伝承と異質の独自の信仰心を持っていた。 生前に何らかを語った事はあったかもしれないが、伝承されるにあたって、釈迦の言葉や行いよりも、語り継ぐ者たちにとってこそ輪廻の教えが必要だった。 そこで伝説化されているのが、 私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の行いである。 さて、君たちが賛同するかどうかはともかく、この無の悟りへの独自見解は実に論理的でいままでになかったものだろう。 私はこれをまとめて本にでもするつもりで研究を続けているんだ。 研究ノートはもう本一冊分を超えるほど君達の協力で集まっているが、私はこの時間酒に酔っ払って、君達をオカマバーのホステス扱いして哲学しているんだ。 この姿勢、闇の仏陀黒き明星では、ご存じのとおり面白い読み物にはなっても、喜んで心が潤う良著とはならないだろう。 黒き明星の癖は私にとって深刻でね、気楽で書きやすい文章がアニキなツンデレだ。 まあ、それをぼちぼち改めていこうかと作文の練習だ。 色々と相談に乗ってくれ。

  • 無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。

    無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。 無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論) そこで無我について考えてみました。 煩悩を考察する例え話です。 たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。 冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。 このようになります。 ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。 このようにくよくよします。 そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。 この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。 でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。 我には無い、されど世にはあるです。 無我に照らせばフェラーリはあるです。 我に照らせばフェラーリは無いです。 ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。 世の中をあまねく照らせば全てはあるです。 無は信仰のみにしか無い。 ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。 「私があなたを知らないわけがない」と。 そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。 しかし神に照らせば全てはある。 ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。 お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。 私は無我とは偽りであると主張します。 それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

  • 無の悟りは後世において空の悟りに変化した

    いつものヤツの続きで前回はコレ↓ 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである http://okwave.jp/qa/q7755513.html 参考にコレ↓ 釈迦の無我の悟りは不完全であり幻想だ。 http://okwave.jp/qa/q7974792.html 無の悟りと言うか、哲学は有無の明白な分別を養ったり身につけたりすることで、 「無根であり無い事柄である」 「それを語る言葉はない」 この二つを使い分けて、有る事とない事を一切無と表現することである。 ただ、仏教の枠内の哲学だと無について、徹底的に「無根であり無い事柄である」これを追及しているようだ。 釈迦が「無根であり無い事柄である」すなわちそんなのありゃしねーと裸踊りした言葉を肯定しすぎて、否定出来ないはずの自らの信仰すら、無根とし一切無を取り違えている。 そこで後世に出てきた言葉が「空」であるのだろう。 無根であっても、私には信仰があり心がうるおっている。 これが空だ。 この空を取ってつけた、徹底してそんなのありゃしねーであっても、信仰そのものは似たり寄ったりだが、考え方の方、無の哲学が未成熟だ。 無の哲学は、有無の分別から発展して知恵を付ける事で、「無」と「空」を使い分けると趣旨がぶれる。 一切無の考えはできないのだ。 でも他人事だから好きにすればいいじゃないか。 そう考えるのだが、分析や批判をお答えください。