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無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである

一連の知的SMプレイの最新版です。 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 無の悟りとは単純明快である http://okwave.jp/qa/q7612407.html 私は「わが信仰の大道を行け」と薦めているが、理屈が全く分からない人ばっかりだろうから、論理を整えてみたよ。 お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚し歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人間同士が共生する文明の芽吹きがあった。そのようなさなか人間同士の社会生活と個人の自然本性が共存する新しい生き方を歩むにあたって、その難問を仲介する神と表せる、人間の理性的資質の所在をめぐり、人々は様々な自説を述べ、神の案内する、人間の社会性の構築の理想像についてお互いに意見を戦わせた。 それは自らを知る行いが神をしる行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間の社会生活の発祥であろう。 そこにお互いに何を信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる悟りである。 2500年前ヒンズー教の源流を司るバラモンの僧たちは、神の姿を明白に定義しようと苦心していた。 そしてそれを成し遂げたのがお釈迦様である。 お釈迦さまが信仰に生きることを可能にしたのは彼自身が神の全てを受け入れたからだ。 すなわちお釈迦様は太古のインド社会の源流に現れる神の姿を受け入れたのだ。 他者の信仰をも許す、慈悲心の原点だ。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事も無いくせに、信仰を語ることが権力闘争と化した当時のバラモンの僧は現代の生臭坊主とかわらず、神はかくの如しという噂話が好きだ。 そんなうわさ話を、お釈迦様は「信仰心とはそうではない」と、神を尊ぶゆえに、過ちの多いバラモンの信仰にケチをつけた、神を損なわず人の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 すなわち君達バラモン僧は自らに信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 この無は「そんなのありゃしねー」の無であり、何年か前に「そんなのかんけーねー」と裸踊りをしたお笑い芸人がいたが、ふっ飛ばし方は同様であり、かのお笑い芸人こそが現代で最もお釈迦様の言葉を正しく実践する、聖人だ。 そして、ならばと、お釈迦様自の神への志、すなわち信仰を問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 すなわちこれは、「てめーのしったことじゃねー」の無であり、お笑い芸人の「そんなのかんけーねー」と一致する ここで果てしなく、押し問答が繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 そこで無の論理を心得るならば、すなわち目指すのは、自らのみの信仰心のの探究であり「救ってください」「助けてください」これは無い事になる。 彼らはそれを恐れるのだ。 仏教の迷走はここにあり、禁を破った大乗はむしろ日本版ヒンズー教である。 自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは無の悟りではなくて「信仰の我が大道を行け」これである。 てめーのしったことじゃねー。 てめーでなんとかしろ。 これである。 ありがたいだろう。 さて今回も一種の作文であるが、改めて無の悟りを掘り下げてみた。 信じると言う行為や心の働きをいかにとらえるかご意見をお願いします。 そのほかに私こそが無を悟っている。 君(私の事)の無はまちがいだ。 そんなつわものの、モンキーダンスも歓迎いたします。

みんなの回答

回答No.7

 仏教はまな板そのもの。  哲学(理性)も宗教(感情)もそのまな板に乗っている鯉。  それらを「有」とするのは“力(ちから)”  その“力”を「意志」と表現している。  この世の現象は宇宙に内存する“力”の現われ。  ☆ 力めばウンチも出てきます。

Flareon
質問者

お礼

かわいそうな気もするけどウンチみたいな話だとしておこうか。 分別は付けた方がいいよ。

Flareon
質問者

補足

お釈迦様は仏の現代語訳が人間であるように、信仰心に生きた成人で、神と列するものではない。 それが仏なのだ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

「神との1対1の関係である」という。それは孤独な事だろう。 しかし、「そんなもん、ありゃしねー」であるという。 その絶対的な孤独。そこに「救い」はあるか?

Flareon
質問者

お礼

救いなんて言葉を使うなよ。 テメーで何とかしろ。

Flareon
質問者

補足

文脈からすると君は、他者の語った迷信に溺れており、自らの信仰が無いと言う事になるぞ。 駄目駄目だよ。 まるっきりあかんよ。 でも救いようがない。 テメーで何とかしろ。 それでも救ってほしいと懇願するならAKB48の誰かをあなたの神として崇めなさいと言う事になる。 君はそのくらい駄目駄目だよ。

回答No.5

>そうなんだがね、猿回し形式思索法と言うのは私にとって立派な哲学検証の手法なのだよ。 反射的自己完結。

Flareon
質問者

お礼

君達が時折演じる、ポンポコ狸踊りの事かな。

回答No.4

 水面でなく  水中だ!

Flareon
質問者

お礼

そうかもな。

Flareon
質問者

補足

メモだよ。 私はな理性的な哲学趣味で、宗教趣味は無い。 ポケモン趣味なら有るがそれはまた別だ。 キリスト教圏由来の西洋の哲学から離れて自らの哲学を築こうとしている。 これもまた歩む道だ。 仏教はすでに哲学料理のまな板にのった鯉だ。 お味はどうかな。 誰にとっても迷いが吹っ飛ぶ味を目指している。

回答No.3

 キーワードは“慈悲心”  “許す”  それも範囲内、の事。  Flareonさんの心に立つ漣  水面に  立つさざ波が  Flaさんの  心の内を惑わして   渦巻きさえも起させる     アブナイ渦に近よらず  その水面に潜入し  金魚と共に遊んだよ  その中の一匹の口からポワッと泡が吐き出され、水面でパチンと跳ねて消えてしまった。  たぶん、酸素不足で水面から得た空気だと思う。   神仏の“慈悲心”とは「生命」そのものへの「思い」ではないでしょうか。  苦しまずには生きられない、苦しめなければ生きられない、という宿命を持たされている「生命」そのものを哀れに思う神仏の「心」、それを慈悲心と云うのだと思います。  

Flareon
質問者

お礼

不明だが、モンキーダンスとしては上出来で見苦しさがないよ。

Flareon
質問者

補足

ひとついっておく。 漣 この漢字は読みが判らなくてわざわざ調べた。

回答No.2

「お釈迦さまが信仰に生きることを可能にしたのは彼自身が神の全てを受け入れたからだ。」 の「神をすべて受け入れる」ということの定義がない。「お釈迦さまが受け入れた神」が定義されていない。これでは議論のしようがない。「そんなのありゃしねー」ですか。それとも「語る言葉がない」ですか。ならば、「最初から語る!!」なです。 『「太古のインド社会の源流に現れる神」のことだ』では不十分。ウパニシャッドによく見られる、「ネッティ、ネッティ」、「無い、無い」ですか。でしたら、何を今さらの感がします。そして、龍樹の中論の方がはるかに徹底している。中論で龍樹が「空」と言ったのを、氏はただ「無」と言い直しただけに過ぎないのではないですか。 「他者の信仰をも許す、慈悲心の原点だ。」 と主張しつつ、「過ちの多いバラモンの信仰にケチをつけた」と言っている。論旨が一貫していない。齟齬している。 それとも、「そんなのかんけーねー」で見られる他者(の信仰)に対する無関心がお釈迦様の慈悲心であると言いたいのでしょうか。だとしたら、お釈迦さまが「ケチをつけた」こととと矛盾しませんか。むしろ、関心を示さないという態度で接すべきであったのではないでしょうか。語ることのできない言葉に頼ることなく、その態度でもって「ケチをつける」べきであった。「大道を示す」べきであった。氏の考えをうかがいたい。 『その信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。』は、お釈迦様以外にもあてはまるのではないか。それとも、お釈迦さまのみ例外的存在、つまり、「唯我独尊」であると言いたいのですか。「他者の信仰に土足で踏み入れる」権利を有する。それが、お釈迦様の慈悲であると氏は言いたいのですか。 「無の悟り、無を求める悟りは、無い。そのようなものを求めるな」などは、禅の祖師たちははるか以前に言っている。何をいまさらの感がします。 「てめーの知ったことじゃねー」、「てめーでなんとしろ」ですか。

Flareon
質問者

お礼

ありがとさん。 >「神をすべて受け入れる」ということの定義がない 信仰により語る人によってさまざまであった神の姿全てを受け入れた。 受け入れたのは神の事だから、信仰に関してはケチをつけた。 無を悟りなさいとな。 >語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。』は、お釈迦様以外にもあてはまるのではないか そうだよ。 だから道は自らの足で歩めと言っておる。

Flareon
質問者

補足

原本の方を修正したよ。 役に立つ意見だった。 こうだ。 お釈迦さまが信仰に生きることを可能にしたのは彼自身が神をを受け入れたからだ。 すなわち、信仰により語る人によって様々だった神の姿の全てを受け入れたのだ。

回答No.1

>信じると言う行為や心の働きをいかにとらえるかご意見をお願いします。 てめーのしったことじゃねー。てめーでなんとかしろ。

Flareon
質問者

お礼

そうなんだがね、猿回し形式思索法と言うのは私にとって立派な哲学検証の手法なのだよ。

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    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。

    無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。 無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論) そこで無我について考えてみました。 煩悩を考察する例え話です。 たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。 冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。 このようになります。 ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。 このようにくよくよします。 そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。 この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。 でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。 我には無い、されど世にはあるです。 無我に照らせばフェラーリはあるです。 我に照らせばフェラーリは無いです。 ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。 世の中をあまねく照らせば全てはあるです。 無は信仰のみにしか無い。 ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。 「私があなたを知らないわけがない」と。 そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。 しかし神に照らせば全てはある。 ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。 お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。 私は無我とは偽りであると主張します。 それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

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    何年か前にすでに説明している事だが、憶えている人は少ないだろうから、猿に理解できるかどうか改めて問うよ。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰とは我が心そのものだと言う確信であった。 目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもは、噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達の信仰に真実は無く、無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者の痴漢行為に対しては、「それは自らの心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた無である。 そしてどっち道無だから一切が無と言う事にしましょうや。 信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけだが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、無の哲学の真骨頂だ。 今回はこれを論理を鍛える題材として提示するよ。 とっくの昔に一人でもっと先に進んでいるんだけどそれはまた今度だ。 信仰を排除したありがたみの無い言い回しで説明したので判りにくい部分があるかもしれない。 特別サービスでもっと説明してくれと言うなら、頭の下げ方次第では説明してやるよ。 それから西洋の哲学が何故優れているかと言うと、信仰に目覚め自らである事を自覚した考えであるからだ。 日本人が哲学で免許皆伝するには、仏教を思考の土台に据えて西洋とは別であっても比類するだけの哲学を鍛える事だ。 そこまでしないと信仰が生きているとは言えないよ~ん。

  • 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。

    私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。