• 締切済み

無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?

tumaritouoの回答

回答No.4

「意識」は説明の必要が無いと思います。さて無意識ですが、これが曲者です。と言いますのは、人間苦の世界、悩み、苦しみは他の言い方をすると、「二元論」の世界から抜け出す以外にはその人間苦からの、解脱が出来ないと言うことですが、「二元論」なるものが、どこから来たかと言いますと。人間の脳の構造によります、西洋の文化は知性的です。理論的です。東洋の文化は曖昧です、又は「無」の文化と言います。西洋の文化は今まではすばらしいものがあると言えます。けれどゆきずまりが見えます。対立の世界で解決しようとしています。人間の脳には、論理的に生きてゆくときには、対立、矛盾、摩擦は避けられないのです。 その同じ事が一人の人間の頭で起きています。悩み、或いは苦しみと言ってもいいのですが、人が苦しむ時心の中では、対立するものが有ります。矛盾するものと云っても良いですが、二つのものの比較ないしは矛盾から人間の苦しみが生まれます。その人が苦しむのはその人の頭の中が二つのもので占められているからです。 その事をハッキリと云ったのがお釈迦様です。自分の意識が仏性と出会う事が、悟りを開く事だと。その時に対立していた意識と、意識が出会う事によって、心の矛盾が解消される。その矛盾「対立」が解消される事によって、心が平安になる。悩みが無くなる。その事を「涅槃」と表現しています。 東洋の文化は「無」の文化ということは、我を忘れて仕事をしている事。没我の時が一番いい仕事が出来るという事です。東洋の思想「無」の思想がおそらく21世紀をひっぱってゆく事になると思われます。 無意識の中に「仏性」があります。それは神と云っても良いです。対立の無い、矛盾の無い、その思想こそが、世界をひっぱってゆく事になると思います。

arayata333
質問者

補足

東洋の知恵も 西洋の論理性も両方とも ほんとに今必要と思います。このへんもっと突き詰めたいです。 9識論は知ってます。 そちらの、「没我」、「我を忘れて」>「無」という言葉はこの9識論を思い起こさせます。しかも、生きた実生活の中での「仏性」という感じで素敵ですね。 そこでは 6識以下7識と8識と9識は、無意識と同じような表現のまま分析がなされてるのですからね。 9識が「仏性」の意識、 7と8が、無意識の悩み苦しみの世界ですからね。 でも、7識は自我 8識は社会我というふうに分れていては これは「二元論的」ではないですか? 7と8は一つにしてる経典もあるようですが、それは同じ内容をただひっくるめただけですよね。 この欲望の 二元性?についていつも思うのですが、やはりたしかにこれは人間性の根幹にあたるものが確かに必要で、それがなければ 話はどんどん複雑になってしまうというものは あると思います。まさに9識の必要性があるということになるのですが、 これは何も仏陀の「涅槃」の境地でなくても二元性はこえられる「よすが」ならあると思えている者です。 簡単なことではなくても、これはけして難しいことではないと思うんです。  人間はもともと自分しか見るゆとりの無い猿(動物)から進化したんです。  進化論の是非はともかく、そうまず考えてみてください。 本能にしばられたままでも、自己の命と関わる仲間は仲間として認識しますし、仲間どおしの感情もあったでしょうし、自己の痛みを越えて共有もしたでしょう。無心にです。  でも そこには本能の命ずる生き抜く道に脳には青い地球のあらゆるすばらしさを雨についても雪についても感じる命は無かったんです。知性のことではなく感性のことです。  「ゆとり」なんかなかったからです。ほんとの意味で笑えるくつろぎの場が無かったということです。 仲間を越えて他の命を 同じに存在する命と見て涙する涙もなかったでしょう。 ところがこの動物の命の中の脳に「見つめる能力」が宿り、それがゆえに進歩もできる「原点」を宿した時に、人間という動物は始めて そこに仲間を越えて同じ「存在者」を見たんです。たぶん、新鮮にです。 われわれが忘れてる何か新鮮な人間としての魂をです。 たぶん、始めて空の星を見たでしょう。 敵と同等の雪にも美も見たでしょう。 雪がちらついて 緑の葉を白くしてゆく様をはじめて じっと見入ったでしょう。  青い星は、ここで始めて「見つめられ」たのです。 この宇宙のはてに、この宇宙の歴史の長い長い長い乾いた無意味の大地の中に、 意味が生まれた瞬間です。価値が生まれた瞬間です。 踊りや太鼓が  新鮮に 新鮮に 生まれ始め 音楽が 新鮮に新鮮に新鮮に生まれ始めた瞬間です。  ほんとうに私たちの祖先がこの時誕生したんです。 やがて、この「ゆとり」が言葉を産むことになり、その言葉はより豊かな知や感性の営みとも重なってもゆきますが、まさにここでその人間苦も始まってしまったんですよね。 でも、 もうそれを乗り越えたいです。  この情報化社会にははやく脳がもっと解明されてほしいです。 今涙が出てきてますが、たぶん、これが人間存在の願いなんですから。 生身の人間としての病気の苦だって身近にもいっぱいありますよね。 でも人間がもうすこし力強く助け合えたら、  ゆるぎなく人間の誇りをもって助け合えたら、 この涙には希望があると思う。 わたしは 無学ですが、哲学と 「脳の構造」に興味があります。   そのへんがもっと知りたいです。   もしお時間があれば、また、 お気軽に、何か書いてください。 ありがとうございました。 魂のこもった回答ってほんとにうれしいものです。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 記憶の低下と海馬の働きについて

    トラウマがあるとストレスで海馬が萎縮し、記憶力が低下する と聞きましたが、これは嫌なことを思い出したくないという 無意識が、海馬を使わなくしているのでしょうか? 脳は持ち主の意思(意識的か否かを問わず)に忠実に働くと聞きました。 例えば、「自分はなんでダメなんだろう」と考えて落ち込んでばかりいると、 脳は「ダメな理由」を忠実に提示し、その結果さらに落ち込むと聞いたので、 記憶についてもそうではないかと考えました。 何をきっかけに嫌な事を思い出すかわからないのだから、思い出す・連想すること 自体を忌避するようになり、その結果、使われなくなった海馬は衰えるのではないかと思いました。 詳しい方がいらっしゃったら、どなたかご教示頂けないでしょうか。 以上、よろしくお願い足します。

  • 脳科学。「見る」と「意識」の関係

    たとえばリンゴを見たとします。 ネットなとで調べると 目から入った情報は視神経を通って後頭葉の視覚で捉えられる。その情報は、過去の記憶(新しい記憶は海馬に、古い記憶は大脳皮質の側頭葉などにファイルされている)と照合して大脳の頭頂葉でリンゴと判断される、とありました。(これが正しいかどうかは私は知りません) ところで、この表現だと頭頂葉に「意識」があるようにも受け取れます。しかし意識に関する他のネットを調べると,「頭頂葉」というわけでもなさそうです。  ひょっとしたらこれは私の「意識」というものに対する理解が違っているのか、それとも頭頂葉に「意識」があるという説もあるということでしょうか。 もし分かっているなら「リンゴを見る」という意識の場所を含めて教えてください。

  • 記憶と万物流転

    人間が記憶できることについて。 外界での物理的変化を、身体の感官で生理的な作用に書き換えして、 諸神経を通じて脳に送られる。此処までが物理学的作用でしょうか。 脳の中で、海馬や大脳皮質に記憶が残ることは、物理的な作用でしょうか。 物理的万物流転の中で、記憶が保持され、あるいは、記憶が捨てられる、 この辺りに、物質と精神の境界があるのでしょうか。 ベルクソンの「物質と記憶」は、時間性が問題になっているようですが、 時間性にあまり関わらずに、この点に詳しい本などご紹介ください。

  • 「潜在意識は自分と他人を区別できない」という内容の出典

    よく、成功哲学などの本で、 「潜在意識は自分と他人を区別できない」 という内容を目にしますが、これはどのような出典に基づくものなのでしょうか? たとえば、「おまえは馬鹿だ」という言葉は、 「私は馬鹿だ」ということと同じ暗示を潜在意識に与えてしまう ――とよく成功哲学の本などに書かれているのですが、 一般の心理学の本などを探してみても、このような内容が見あたらないのです。

  • 記憶について(1)「矛盾?」

    ここでスクワイアとカンデルの「記憶の仕組み」を教えて頂いて読んでおります、講談社のブルーバックスですが、私にはかなりの難物でまだやっと二冊構成の一冊と少々を読み終えた処です。 幼い頃の事故の後遺症で極度に重篤なテンカン患者となったH.Mは海馬を切除する手術で海馬のほとんどを失ったが手術は成功しテンカンは消失した。だが「新しい記憶」を蓄積する能力を完全に失った「様に見えた」相手がだれか直ぐ忘れる、数分前に見たことを覚えて居ない。脳の研究者はこれを言語表現と結び付け陳述記憶と名付けた。一方H.M.の記憶能力は完全に失われたのでは無かった、テニスを教えてみた、当たり前だが最初は普通の初心者だ、だがどんどん上手くなり、健常者と変わらなくなった、だがH.M.はテニスを聞いたことも無ければプレーした事も覚えていなかった。こちらの「世界」の記憶を研究者は非陳述記憶と名付けた。両者は全く別世界に見える。遺伝子工学が進歩してノックアウトマウスを「設計」可能になった。そこで海馬が極端に少ないマウスを得る事が出来た。この子達とふつうの子でテストを行った、四角な箱の四面にマウスでも覚えられる図形を描き、足が着かない深さの水を張った、その中に一つだけ「浅瀬」を作って、両者の差を見た、海馬の有無にかかわらず、マウスは浅瀬を見付けて「ああやれやれ」と落ち着いた。意地悪して浅瀬をはずして仕舞った、健常マウスは壁に描かれた模様を覚えているので以前浅瀬のあった場所ばかりにこだわる、ところが海馬の無いマウスの行動は完全にランダムになってしまった。これはオカシイ非陳述記憶が残っているはずだ、だがノックアウト君達は何も憶えていない。H.M.の行動と矛盾する。これは人間とマウススの差なのか、別の要因か? ご存知なら教えて下さい。当初の本の二巻目も斜め読みしたが見いだせなかった。

  • 意識(心)が脳ならばやはり死後は無になるのでは?

    意識(心)は脳そのものではないでしょうか? 意識(心)が脳ならばやはり死後は無になるのではないでしょうか? 子供の頃は意識(心)は心臓なのではないかと思っている時期がありました。 しかし、つい最近、心臓を人工心臓に替えて一年程過ごし、その後ドナーの心臓を移植した男性のニュースがありました。 https://www.cnn.co.jp/amp/article/35084162.html このニュースを受けて自分は意識(心)は心臓ではないのだなと思いました。 そこでやはり意識(心)は脳にあるのではないかと考えが至りました。 自分の主張は以下です。 ❶全身麻酔の経験から、意識が麻酔という物質的作用によってオン・オフを切り替えることが出来てしまうこと。 もし意識(心)が物質的存在でないなら物質世界側の麻酔の作用の影響を受ける筈がないと考えられる ↓ 「麻酔が効くとどうして意識がなくなるの?」 https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00197.html ❷意識(心)が五感を感じるということ。これは身体から受け取る五感の物理的情報を意識(心)が受けとっているからではないか。電気信号として脳が受け取るから五感を認識することが私達は出来ている。つまり、意識(心)は脳、脳ということは物理的存在であると考えられる筈です。 ❸意識(心)が脳又は脳の活動であれば、私が死んだ後は脳は機能終了し崩壊するので私の意識(心)の存在は消え去ることになると思います。 つまり意識(心)が消え去るという事は何も何処にも存在しないので無だということになります。 以上の考え方に何か科学的矛盾はあるでしょうか? 自惚れている訳ではないのですが、今知られている程度の科学的真理だけでも死んだら無になるのだろうと結論する気がします。

  • 「思い出す」脳と、「知っていることを出す」脳は違う?

    このカテが適切かどうかわかりませんが。 脳の働きは右脳・左脳で違うということは聞いています。 私は外国語を学習しているので、よく暗誦をするのですが、覚えたことを使って話そうとすると、実際自分の知識(引き出し)の中にある情報を呼び起こして話をするときと全然違う感覚になります。 「記憶したものを取り出そう」とする感覚で、それはもしかしたら、脳の潜在意識にはまだ到達していないのかなと思います。 しかし外国語を学習するときには「暗記する」ということが必要になるし、自分では作り出せない文を暗記することで使える文が増やせるのも確かなのでこれをうまく利用しながら外国語を上達させたいのです。 できたら、暗記したものを思い出すという作業ではなく、これを自分の考えにして自由自在に使えるようにまで持っていきたいのです。 「暗記したものを思い出す」ときに使う脳の部分と、「自分の知識の引き出しから引っ張り出す」ときに使う脳の部分は違うのでしょうか? 自分でも脳を使っているときに違う意識が働くのを感じるのですが本当はどうなのでしょうか? わかる方教えてください。

  • まだ意識がありません。

    先週の16日早朝に、自分の大切な人(48才)が心臓が苦しくなり倒れました。 倒れてから救急車が来るまで家族が人工呼吸・人工マッサージを行いましたが、心臓が再び動いたのは病院に着いてからで、結局「38分間」脳に酸素がいかなかった状態だそうです。 先日CTを撮りましたが、海馬の周りに黒い部分があるらしく、お医者様からは「意識の戻る確立は低い・戻っても感情を表現することは難しい」と言われました。 現在は脳の治療は終了し(今これ以上の治療はない、と言われました)、循環器(心臓)の治療に入っています。 呼びかけには反応するように瞼はピクピク動いたり、今日は黒目が横に何度も動きました。 それは単なる痙攣かもしれませんが、呼びかけは脳に対して刺激になると聞きます。 呼びかけ以外にも、なんとか意識が回復するような方法をご存知の方、是非どんな方法でもいいですので教えて下さい。お願いします!

  • 自我意識とは記憶が作り出すものなのでしょうか?

    ヒトだけが持つと言われる「自分」という概念、 すなわち自我同一意識(アイデンティティ)は、 記憶を源泉として成り立っているものなのでしょうか?     *** 私は自分の過去が記憶でしかないことに気がつきました。 自身の一秒前の行動と二十年前の行動を振り返ると、 両者では記憶の“鮮度”が異なります。 しかし両者とも、自分が行った無意識の動作を、 記憶を頼りとして客観的に認識していることに 所詮変わりはありません。 そして、自分の過去が真実なのか否かについては、 他人の証言や物証を自身の記憶と照合する以外には 確かめようがないことにも気がつきました。 仮に途中で自身の過去についての記憶が 何らかの事故で変容していたとしても、 自分一人だけではそれに気がつく由もありません。 自身という認識は記憶に過ぎないのでしょうか? また、冒頭の話題との関連で、 もう一つ派生的に記憶についての疑問が湧きました。 精神的トラウマが原因で多重人格になった人は、 互いに他の人格でいる時の記憶がありません。 その一方で、コトバを話したり字を読んだなどの 後天的学習により習得した基本的能力の一部については、 大抵どの人格であっても発揮できるようです。 母語については後天的に習得するものとはいえ、 無意識的行動をつかさどる領域に まるで本能のように刷り込まれるためなのでしょうか?

  • 文脈的認知とは? エピソード記憶との違いは?

    脳科学の文章を読んでいて,この言葉が出てきました。 ラットなどに電気ショックを何度も与えると、実験するための箱に入れただけで恐怖反応が見られるという説明が付け加えられています。 これはエピソード記憶とどこが違うのでしょうか?