• 締切済み

無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?

adaypajimyの回答

回答No.1

海馬のことはよく分かりません。 >かなり抽象的な幻想がまかりとおってしまう まかり通っていると思います。 >意識とは別ななにかが脳の作用の中に何か存在しているという考え 意識を、有意識と無意識に切り分けた、心理学の創始者がフロイドであることはご存知だと思います。哲学は言葉の表現の問題ですので、誤解を生む哲学用語は沢山ありますが、他に置き換え可能な言葉が無いため色々な造語が哲学者におおじて定義され作成されるのは、仕方がないことです。あと、哲学はあらゆる学問の統合体ですから、フロイドは思想家として捉えても問題ないのではないでしょうか。20世紀の代表的な(人に大きな影響を与えた)思想家は、フロイドとマルクスなのだそうです。そういった意味でも。

arayata333
質問者

補足

☆海馬(記憶を司る脳の部分の名称らしい)のことは、私も解ってなどいませんが、 たとえば、私自身が集団暴力下におかれていて、毎殺される夢を見てうなされて飛び起きるような状態の日々にて、その都会のオンボロアパートの2階の風呂場から見た たった一枚の木の葉が 特にそこにほんの雪が積もった時に、どれだけやすらかなまた 荘厳なというか、たったそれだけのことにすごい何かを感じたか、 それも、ひとつには脳の記憶がそこで奥深いところからふと引き出されたというふうに理解できたりするんです。 ☆抽象的な幻想には、さまざまな危険がともなったりもします。 抽象的表現にはただ曖昧だというだけでなく、大きな視野から見たから多少ぼやけた仮の表現で大きな方向を示している言えるときもあり、そこにほんとは曖昧なだけの表現までが変に権威を持ってしまう時があるからです。 だから、そこには真に俯瞰的なまた鳥瞰的な一目で考える事の出来やすい図とか絵とかをも使いながら具体的かつ幅の広い、その上で本質もとらえた見通しを それこそ相当的に統合体として示す役割が「哲学」にはなるほどあるところなんです。 そうほんとに 思うんです。 宗教戦争に巻き込まれるなんていうのは、これです。情報化時代がきたのだから なんとかしたいところです。 マスコミの踊らされるのもそれです。 哲学者や思想化が今こそ立ち上がるべき時ですよね。 ☆なるほど、フロイトは思想化として捉えられるのですね。 その言葉の表現の問題としてまず捉えておくと、この心理学の文脈もすこし納得ができますね。 私自身も表現としては 便利なんでかなりこの「無意識」という言葉も多用しています。  便宜上、解りやすくするために言葉や図を使うということはたくさんありますし、それは便利かつ有効だったりします。 でも、たいていは便宜的説明である事断っておいてから使うのですが(笑)。 こんな感じです。  「動物的なあるいは生身の人間としての部分の欲望も人間だからと言って見落としてはならないだろう。 でも「見つめる目」、自他を見つめる目がいきなり進化したから ともかくも脳がいきなり発達したから反省し進歩するよすがを人間は獲得したのだから、 自分とか仲間(自分を守る集団)という概念を越えた助け合いとか人間性とかも人間は手に入れたし、そこからの始めての「ゆとり(笑いとか人のための涙とか)」を手にいれたのだし、そのゆとりで大自然を眺めることにもせいこうしたし細やかな言葉と生るような感受性もてにいれたのだし、ここに社会性とか社会的欲求も生まれるようになった。 でも それが複雑になりすぎたために そのよすがが 動物性も人間性も含めて意識としては普段の意識にのぼってこない。 だからその実際の本能や、感動の記憶の蓄積の反射運動のほうが意識にはわからない形で表にでできちゃったりもする。 無意識のほうが巨大なのである。」というふうな使い方です。 上記の分は 現在の私の考えを例として使ってますが、そのほかにもけっこういろいろ使ってることを思い出しました。 そんな表現の原点として考えると それをより具体的かつ鳥瞰的にしてゆくのは現代のわれわれの役割ですね。 過去のながれに疑問をいだくというよりこの件は感謝すべき地点なのでしょう。 思想表現としてはむしろこれからさらに発展させていくべき課題だというふうな観点から考えたことは 考えてみれば無かったですね(笑)。 なにか がってん するものがありました。 ガッテン、ガッテン(笑)テレビの見すぎですね(笑)。 追記 最近回答者様の 回答の文面を見ていて その裏の人生を感じてしまいます。これ無意識の力なのでしょうかね。 でも神ならぬ生身の凡人の身と脳、それがなんだ解らす、ただ圧倒されて 言葉を失いそうになります。書いてることに その意味では自信なんて今は無いです。 ただいっしょうけんめい書いてます。  お礼が上手くかけないです。 なんでこんなにありがたいのか わたしじしんにも解らないからです。 でもなんかこうして一生懸命「海馬のことはよく分りません」とまず書きながら書いてくださった心に なんといったらいいかわからないすごさを感じてしまうんです。 意識では分らないものかもしれません。 ことばにすればやはり 「アリガトウございます。」ということになるのでしょう。 いっぱい心のつまったお言葉ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 記憶の低下と海馬の働きについて

    トラウマがあるとストレスで海馬が萎縮し、記憶力が低下する と聞きましたが、これは嫌なことを思い出したくないという 無意識が、海馬を使わなくしているのでしょうか? 脳は持ち主の意思(意識的か否かを問わず)に忠実に働くと聞きました。 例えば、「自分はなんでダメなんだろう」と考えて落ち込んでばかりいると、 脳は「ダメな理由」を忠実に提示し、その結果さらに落ち込むと聞いたので、 記憶についてもそうではないかと考えました。 何をきっかけに嫌な事を思い出すかわからないのだから、思い出す・連想すること 自体を忌避するようになり、その結果、使われなくなった海馬は衰えるのではないかと思いました。 詳しい方がいらっしゃったら、どなたかご教示頂けないでしょうか。 以上、よろしくお願い足します。

  • 脳科学。「見る」と「意識」の関係

    たとえばリンゴを見たとします。 ネットなとで調べると 目から入った情報は視神経を通って後頭葉の視覚で捉えられる。その情報は、過去の記憶(新しい記憶は海馬に、古い記憶は大脳皮質の側頭葉などにファイルされている)と照合して大脳の頭頂葉でリンゴと判断される、とありました。(これが正しいかどうかは私は知りません) ところで、この表現だと頭頂葉に「意識」があるようにも受け取れます。しかし意識に関する他のネットを調べると,「頭頂葉」というわけでもなさそうです。  ひょっとしたらこれは私の「意識」というものに対する理解が違っているのか、それとも頭頂葉に「意識」があるという説もあるということでしょうか。 もし分かっているなら「リンゴを見る」という意識の場所を含めて教えてください。

  • 記憶と万物流転

    人間が記憶できることについて。 外界での物理的変化を、身体の感官で生理的な作用に書き換えして、 諸神経を通じて脳に送られる。此処までが物理学的作用でしょうか。 脳の中で、海馬や大脳皮質に記憶が残ることは、物理的な作用でしょうか。 物理的万物流転の中で、記憶が保持され、あるいは、記憶が捨てられる、 この辺りに、物質と精神の境界があるのでしょうか。 ベルクソンの「物質と記憶」は、時間性が問題になっているようですが、 時間性にあまり関わらずに、この点に詳しい本などご紹介ください。

  • 「潜在意識は自分と他人を区別できない」という内容の出典

    よく、成功哲学などの本で、 「潜在意識は自分と他人を区別できない」 という内容を目にしますが、これはどのような出典に基づくものなのでしょうか? たとえば、「おまえは馬鹿だ」という言葉は、 「私は馬鹿だ」ということと同じ暗示を潜在意識に与えてしまう ――とよく成功哲学の本などに書かれているのですが、 一般の心理学の本などを探してみても、このような内容が見あたらないのです。

  • 記憶について(1)「矛盾?」

    ここでスクワイアとカンデルの「記憶の仕組み」を教えて頂いて読んでおります、講談社のブルーバックスですが、私にはかなりの難物でまだやっと二冊構成の一冊と少々を読み終えた処です。 幼い頃の事故の後遺症で極度に重篤なテンカン患者となったH.Mは海馬を切除する手術で海馬のほとんどを失ったが手術は成功しテンカンは消失した。だが「新しい記憶」を蓄積する能力を完全に失った「様に見えた」相手がだれか直ぐ忘れる、数分前に見たことを覚えて居ない。脳の研究者はこれを言語表現と結び付け陳述記憶と名付けた。一方H.M.の記憶能力は完全に失われたのでは無かった、テニスを教えてみた、当たり前だが最初は普通の初心者だ、だがどんどん上手くなり、健常者と変わらなくなった、だがH.M.はテニスを聞いたことも無ければプレーした事も覚えていなかった。こちらの「世界」の記憶を研究者は非陳述記憶と名付けた。両者は全く別世界に見える。遺伝子工学が進歩してノックアウトマウスを「設計」可能になった。そこで海馬が極端に少ないマウスを得る事が出来た。この子達とふつうの子でテストを行った、四角な箱の四面にマウスでも覚えられる図形を描き、足が着かない深さの水を張った、その中に一つだけ「浅瀬」を作って、両者の差を見た、海馬の有無にかかわらず、マウスは浅瀬を見付けて「ああやれやれ」と落ち着いた。意地悪して浅瀬をはずして仕舞った、健常マウスは壁に描かれた模様を覚えているので以前浅瀬のあった場所ばかりにこだわる、ところが海馬の無いマウスの行動は完全にランダムになってしまった。これはオカシイ非陳述記憶が残っているはずだ、だがノックアウト君達は何も憶えていない。H.M.の行動と矛盾する。これは人間とマウススの差なのか、別の要因か? ご存知なら教えて下さい。当初の本の二巻目も斜め読みしたが見いだせなかった。

  • 意識(心)が脳ならばやはり死後は無になるのでは?

    意識(心)は脳そのものではないでしょうか? 意識(心)が脳ならばやはり死後は無になるのではないでしょうか? 子供の頃は意識(心)は心臓なのではないかと思っている時期がありました。 しかし、つい最近、心臓を人工心臓に替えて一年程過ごし、その後ドナーの心臓を移植した男性のニュースがありました。 https://www.cnn.co.jp/amp/article/35084162.html このニュースを受けて自分は意識(心)は心臓ではないのだなと思いました。 そこでやはり意識(心)は脳にあるのではないかと考えが至りました。 自分の主張は以下です。 ❶全身麻酔の経験から、意識が麻酔という物質的作用によってオン・オフを切り替えることが出来てしまうこと。 もし意識(心)が物質的存在でないなら物質世界側の麻酔の作用の影響を受ける筈がないと考えられる ↓ 「麻酔が効くとどうして意識がなくなるの?」 https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00197.html ❷意識(心)が五感を感じるということ。これは身体から受け取る五感の物理的情報を意識(心)が受けとっているからではないか。電気信号として脳が受け取るから五感を認識することが私達は出来ている。つまり、意識(心)は脳、脳ということは物理的存在であると考えられる筈です。 ❸意識(心)が脳又は脳の活動であれば、私が死んだ後は脳は機能終了し崩壊するので私の意識(心)の存在は消え去ることになると思います。 つまり意識(心)が消え去るという事は何も何処にも存在しないので無だということになります。 以上の考え方に何か科学的矛盾はあるでしょうか? 自惚れている訳ではないのですが、今知られている程度の科学的真理だけでも死んだら無になるのだろうと結論する気がします。

  • 「思い出す」脳と、「知っていることを出す」脳は違う?

    このカテが適切かどうかわかりませんが。 脳の働きは右脳・左脳で違うということは聞いています。 私は外国語を学習しているので、よく暗誦をするのですが、覚えたことを使って話そうとすると、実際自分の知識(引き出し)の中にある情報を呼び起こして話をするときと全然違う感覚になります。 「記憶したものを取り出そう」とする感覚で、それはもしかしたら、脳の潜在意識にはまだ到達していないのかなと思います。 しかし外国語を学習するときには「暗記する」ということが必要になるし、自分では作り出せない文を暗記することで使える文が増やせるのも確かなのでこれをうまく利用しながら外国語を上達させたいのです。 できたら、暗記したものを思い出すという作業ではなく、これを自分の考えにして自由自在に使えるようにまで持っていきたいのです。 「暗記したものを思い出す」ときに使う脳の部分と、「自分の知識の引き出しから引っ張り出す」ときに使う脳の部分は違うのでしょうか? 自分でも脳を使っているときに違う意識が働くのを感じるのですが本当はどうなのでしょうか? わかる方教えてください。

  • まだ意識がありません。

    先週の16日早朝に、自分の大切な人(48才)が心臓が苦しくなり倒れました。 倒れてから救急車が来るまで家族が人工呼吸・人工マッサージを行いましたが、心臓が再び動いたのは病院に着いてからで、結局「38分間」脳に酸素がいかなかった状態だそうです。 先日CTを撮りましたが、海馬の周りに黒い部分があるらしく、お医者様からは「意識の戻る確立は低い・戻っても感情を表現することは難しい」と言われました。 現在は脳の治療は終了し(今これ以上の治療はない、と言われました)、循環器(心臓)の治療に入っています。 呼びかけには反応するように瞼はピクピク動いたり、今日は黒目が横に何度も動きました。 それは単なる痙攣かもしれませんが、呼びかけは脳に対して刺激になると聞きます。 呼びかけ以外にも、なんとか意識が回復するような方法をご存知の方、是非どんな方法でもいいですので教えて下さい。お願いします!

  • 自我意識とは記憶が作り出すものなのでしょうか?

    ヒトだけが持つと言われる「自分」という概念、 すなわち自我同一意識(アイデンティティ)は、 記憶を源泉として成り立っているものなのでしょうか?     *** 私は自分の過去が記憶でしかないことに気がつきました。 自身の一秒前の行動と二十年前の行動を振り返ると、 両者では記憶の“鮮度”が異なります。 しかし両者とも、自分が行った無意識の動作を、 記憶を頼りとして客観的に認識していることに 所詮変わりはありません。 そして、自分の過去が真実なのか否かについては、 他人の証言や物証を自身の記憶と照合する以外には 確かめようがないことにも気がつきました。 仮に途中で自身の過去についての記憶が 何らかの事故で変容していたとしても、 自分一人だけではそれに気がつく由もありません。 自身という認識は記憶に過ぎないのでしょうか? また、冒頭の話題との関連で、 もう一つ派生的に記憶についての疑問が湧きました。 精神的トラウマが原因で多重人格になった人は、 互いに他の人格でいる時の記憶がありません。 その一方で、コトバを話したり字を読んだなどの 後天的学習により習得した基本的能力の一部については、 大抵どの人格であっても発揮できるようです。 母語については後天的に習得するものとはいえ、 無意識的行動をつかさどる領域に まるで本能のように刷り込まれるためなのでしょうか?

  • 文脈的認知とは? エピソード記憶との違いは?

    脳科学の文章を読んでいて,この言葉が出てきました。 ラットなどに電気ショックを何度も与えると、実験するための箱に入れただけで恐怖反応が見られるという説明が付け加えられています。 これはエピソード記憶とどこが違うのでしょうか?