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どうすれば自己受容ができるようになりますか?
自己受容をするためには何が必要でしょうか?もしくはどのような 心理特性(自分を信頼しているとか、精神的に健康だとか)が自己受容につながるのでしょうか? 自己理解のために内省をしてみるとか、 他者から受容されることを通して自己受容ができるようになるとか、 人間関係をうまくわたれる人が自己受容できるようになるなど いろいろ考えてみたのですが、素人の考えでは具体的に思いつきません。
- modest1231
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- magga
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慈悲の瞑想をオススメします。 簡単なことです。 『素直に』心を込めて念じるだけです。 言葉に出してもかまいませ。 ちなみに「悟りの光」は今やるべきことがわかっている状態のことです。 以下の文です。 私が幸せでありますように 私の悩み苦しみがなくなりますように 私の願いごとが叶えられますように 私に悟りの光が現れますように 私が幸せでありますように(3回) (心の中で私が幸せでありますようにと念じてください) 私の親しい人々が幸せでありますように 私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように 私の親しい人々の願いごとが叶えられますように 私の親しい人々にも悟りの光が現れますように 私の親しい人々が幸せでありますように(3回) (心の中で私の親しい人々が幸せでありますようにと念じてください) 生きとし生けるものが幸せでありますように 生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように 生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように 生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように 生きとし生けるものが幸せでありますように(3回) (心の中で生きとし生けるものが幸せでありますようにと念じてください) 私の嫌いな人々も幸せでありますように 私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように 私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように 私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように 私を嫌っている人々も幸せでありますように 私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように 私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように 私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように 生きとし生けるものが幸せでありますように(3回) これらを真剣に念じてみてください。声を出しても良いですし、心の中で呟いても良いと思います。あと、暇があれば気に入ったフレーズを頭に中で念じるのもいいです「生きとし生けるものが幸せでありますように」がお勧め。 通勤・トイレ・移動・掃除・選択・マッサージ中・歯磨き・風呂… 結構時間はあると思うので頑張ってみてください。 きっと善い結果がまっているとおもいます。 効果を感じたら「現代人のための瞑想法」サンガ新書を読んでみてください。
自己受容できていない・・・と思うのであれば それは、自己嫌悪か自己否定の状態にあると 私なら判断いたします。 そうでないのであれば、あえて自己を受容する必要などなく 自然に受容しているであろうと考えるからです。 あるいは、他人と自分とを比較して、不満に感じるモノや 違和感のようなモノが見えているのでしょうか? いずれにしても、己をマイナスイメージで捉えている心境だと思うのです。 私は、何事も、存在するというその事で、プラスもマイナスもバランスよくなっている状態だと考えます。 ですから、あなたの意識が、今は、マイナス方向しか向いていないのかも知れませんが 必ずやプラスの方向もあるはずだと認識します。 ぞれを自分が感じていなくとも・・・ですね。 自分が認識できていないだけで、他の誰か、あるいは、別の方法で それが認められる可能性はあるだろうと予想できます。 なぜなら、生きている「あなた」ですから、プラスとマイナスとのバランスの中で 「0」ではなく、「プラス」であることに間違いはないのですから。。。
- hamakkotarou
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様々な問題を抱えていようが、上手く出来ないことをたくさん持って ようが,自分が今ここにいることには何も問題がないと思うことです。 もちろん,問題を解決したり,上手くできるようにしていくことを 何もしないでいいというわけではありません。 何かを始める時にはどうやってもスタートラインから始める必要が あるということです。 スタートラインというのは今の自分です。 そこからしか自分を変えていくことは出来ません。 今の自分でない理想の自分が手に入ってから何かを始めようと すれば,いつまでも何も始められないと思います。 理想の自分になるのも今の自分から始めなければならないからです。 自己受容とは今の自分でOKであるということです。
私はNo.2の人と同意見です。私としてはまずは自己分析をしてみるぐらいでいいと思います。
よくメンタルヘルスや心理学では自己受容について質問がされたりしますが、少し大事なことがあります。 アダルトチルドレンの人は永久に自己受容できません。小さい頃の心の傷によって、修復不可能になってます。一生自分を認められずに生きる人も多くいます。 ただ、改善されたり、多少良くなったりします。 だから、私としてはACの人に対して精神科医やカウンセラーが自分を受け入れなさいと頭ごなしに言ってるのを見ると、疑問に思います。
- hipotama
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自己受容をどうすればということですが、私自身それについて悩んだことがあります。今は一応解決してます。 では、自分はどこで自己受容できたかなと振り返ってみました。大学時代に自分を変えたくて、丸坊主にしました。友人は「おまえは髪の毛が変わったが、変わってないよ。」と言われました。 勤めてからロールプレイングという、心理療法の研修会に出席しました。私は女性恐怖が少しありました。意見をばんばん言っていたら、監督が「君、その女性に道順を尋ねてごらん。」と言われて、実際にその場面を演じました。 ロールプレイングは観客の前で、即興劇を行います。観客は女子大学生が多く、しどろもどろでした。監督は「だから、だめなんだ。」と言われました。観客、演技者、監督の意見交換の中で、生育歴の中で女性恐怖に至ったことを話しました。 観客、監督は、それを嘲笑することなく受け入れてくれました。 監督には見透かされている、観客はそれを見ている、しかし受容されて気分が良いと感じました。 その感情を感じてから、No.4の方が書いているように「ええ、どうでもいいや。」と開き直ることができました。自分はこんな自分でしかない、それを判断するのは周りの人。どう判断されようがかまわない。それをよしと判断する人いるし、それも否と判断する人もいる。 自己開示できるようになりました。 私の場合、受容と自己開示でした。自己開示は、別な言い方をすれば「開き直り」です。 これを書いていて」もう一つ思い出したのが、「80%の生き方」 です。どうしても完璧をねらって100%をねらってしまいます。100%達成できたときは良いのですが、それに達しないときは自己嫌悪に陥ってしまいます。 80%合格ならば、気分が楽になります。80%でも実質100%達成をねらっているわけです。 ゴジラの松井が「120%の努力」と言ったのを聞いたことが、あります。私が120%の努力をしたら死んでしまいます。しかし、言っていることは同じかもしれません。120%の努力をしても、実質は100%達成かもしれません。 長々と体験談を書いてしまって、申し訳ありません。体験者として何かの参考になれば幸いです。
- maremare
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プロのカウンセラーに必要な態度と言われてますが、 プロのカウンセラーでもなかなか難しいですね。 ロジャースが提唱する「自己一致」が大事だと言われてますが、 自己概念(自分が持つ自分自身の特性やイメージ)と現実の自分のあり方が 自分の中で“一致”しないと、なかなか「自己受容」までに至らず こころが安定しないとのことですね。 自分の良い部分はもちろん、自分の悪い部分・ふたをして見えないように している部分にも「気づき」を得る必要があるのですが、 自分の悪い部分を認識すること=あきらめる、開き直る ことではないんですよね。例えば、つまらないことにも怒りっぽくなる 自分がいったとして、「自分はこんなんだからこらえ性がないんだ」 とネガティブに諦めてしまうのではなく、つまらないことに怒っている 出来事や自分の姿を思い返したときに、もう一人の自分が 「ああ、こんなことで怒っている自分がいるんだな」と 冷静に見られるようなイメージを持つことが「自己受容」かなと 思っています。現実では、自分が怒りっぽいことに気づかなかったり、 怒りっぽい自分が醜く見えて自己嫌悪に陥ってしまうんですが、 良い部分も悪い部分も全部自分そのものなんだ、と受け入れたときに 自己嫌悪が起こらなくなり、「自分が怒りっぽくなるのは こういうときだから、同じようなことがあったら気をつけよう」 と、気持ちが安定してくるという感じですね。 鏡を見ないと自分の顔を認識できないように、自分の頭の中だけで 必死に自己受容の努力をしても、結局自分のことがわからないことが多いです。 自己一致を得るために自分からカウンセリングを受けて 自分を振り返るカウンセラー候補もいるくらいなんですが、 いわゆる「コーチング」と呼ばれる公開講座を受けてみたり (何十万もかかるようなものじゃなくても大丈夫です)、 自分の気持ちをどんな形でもいいので思いっきり言葉に出し続けてみて、 なんでそんな言葉が出てきたか振り返ってみるといいと思いますよ。 言ってみて自分の言葉に驚くことも実は案外よくあります。 良いことも悪いことも含めて「なぜそんな言葉が出てきたんだろう?」と。 自分から出てきた気持ちや言葉を見つめて「なぜだろう?」という 疑問を投げかけてみましょう。
- 1961aug
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「自己受容」=自己肯定、存在不安の解消と考えて回答させていただきます。 あなたのタイプによって自己受容への脅威(不安)が変わりますが、下記の3つに大別すると、 あたなが、 「帰属層」なら ・・>所属不安。趣味系とか自分が帰属しやすい集団を探して入り込む 「他人志向」なら・・>他人からの賞賛獲得不満。誉められるよう何かがんばる。「いいこと」をしてみる(ボランティアとか)でも可 「自分志向」なら・・>自分の好きなこと、大切にしたいことを考え、自分で満足できるようにがんばる。インテリアに凝るとか絵を勉強するとか、親を大切にして親孝行でもOK。 人は人、人はみなそれぞれです。 とりあえず、「自分って何?」「何がしたい?」から始めてみてください。 PS. もしあなたが「自分志向」なら、自分が大切にしたいこと(信念とか)を探すのに苦労されているかもしれません。そのときはまたここに質問してみてください。
- 9mm
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「他者から受容されることを通して自己受容ができるようになる」 これは真逆かもしれません。 判断のよりどころを他者からの評価に置くと自己受容から遠ざかると思います。 逆に「あーっ!もうどうでもいいや!」 と思った瞬間に「ポン」と抜けることができるかもしれません。 そしたら楽になると思います。
- basaku
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自分も素人ですのが、同じような事で思い悩んだことがあったので書かせて頂きます。 >他者から受容されることを通して自己受容ができるようになるとか、 >人間関係をうまくわたれる人が自己受容できるようになるなど >いろいろ考えてみたのですが、素人の考えでは具体的に思いつきません。 最後の一文が、全てを物語っている気がしました。 人間関係について多くを書かれているので、その事で悩んでいると推測させて頂きます。 他者から認められたり、人間関係をうまく構築できるようになれば自分に自信が付いて自己受容しやすくなると思いますよ。 ただ人間関係の構築というのは、あなたにとって意外と難しいという現実を受け入れる事も大事なんじゃないでしょうか。 だって今あなたはそれについて悩んでいるわけですから。 その中でも、あなたにできる良好な人間関係のアプローチ つまり「行動」することが大事なんじゃないかなと思います。 考えて、思い悩んでいるだけでは現状は変わらないんです。 自分もやはり素人ですので、説得力がないかもしれません。 もしそうでしたら有名な先生の本などを読み、自分が納得できた内容のものを実践してみる。 人間性がいきなり変わるということは、よほどインパクトのあることが起きないと難しいとは思いますが、いろいろな経験をして少しずつ成長していくものです。 自分は自己分析をしたつもりで、自分にこれはできないということがとても多く、人生の時間をとても無駄にしたと思っています。 少しずつあなた自身が変わっていけば、周りも少しずつ変わっていくと思います。 そして人間関係であるのならば、良くなると疑わずそのための行動を焦らずちょっとずつでいいから継続していく。 そして周りが自分を少しずつ受容してくれれば、自分に自信が付き、自己受容ができるようになるにはどうすればいいのだろうという「考え(悩み)」は消えていると思いますよ。 大切なのは考えた事を「実践しそれに伴う経験をする」という事じゃないでしょうか。
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