• ベストアンサー

価値の哲学

konstellationの回答

回答No.9

お礼欄拝見しました。 「文字制限がありますので、此処まで延ばして、儀礼的な言葉を続けるのは勿体無い気がします。」という所から11行ほどの部分が何を仰りたいのかがよくわかりませんでしたが、、、お返事が遅くなりまして申しわけありません。 といいましても、特に何が言えるというわけでもないので、再回答すべきかどうか迷いました・・・ >最大の疑問は、「価値序列」にアプリオリな序列が存在するのか? 「確かに価値間にはア・プリオリな高低の序列が認められる」(S. 40) 「価値間にア・プリオリな序列すなわち、序列一般が成立すると言ってよい」(S. 42) 病気の時にデートの約束を断る、という場合は、「生命価値」を優先しています。これが芸術のためであれ、仕事のためであれ、勉強のためであれ、病気の時は身体をいたわるのが「よい」というのが一般的な価値観であり、個人の経験に関わらず、「生命価値」が高い位置をしめる。つまり価値にはアプリオリな序列があると言える。しかし、この価値序列の高低に関わらず、実際には個々の状況によって選択される、ということでした。 私はこの見解については、理解できますし同意もできます。・・・ しかしfishbowl66さんはこの点が「最大の疑問」だと仰る。 しかしそれもそうかも知れません。fishbowl66さんは、もうずっと以前から価値について考察されてきていたのを私は知らずに、経済価値に対するfishbowlさんの思い入れを理解していませんでした。つまり、fishbowlさんにとってみれば、私の見解の方がきっと一面的なのでしょう・・・でも私は、「価値の哲学」(Wertphilosophie)という場合、やはり美学や倫理学における哲学的分野だと理解しています(念のため、ドイツの哲学辞典でも確認してみました)。 では、どうしたら、fishbowl66さんが求める価値の哲学を考えることができるか、、、 いろいろ考えてみました。・・・・・・・・・・・・・・ 日常生活では、私たちは意識せずに、「価値」という言葉を多義的に使用していますが、経済価値を論じる場合は、言葉の厳密な意味では、価値ではなく、「価格」、「賃金」という方が適切なのではないか。 「物の価値を貨幣で表わしたもの」が「価格」であり、この「価格」や「値段」であれば、量的に比較可能ということではないでしょうか。しかし基本的には、「価値がある」とは「よい」ということで、空気がよい場合は、空気に価値があり、価格がよい場合には、価値がある。もちろん、よりよい場合は、よりよい価値がある・・・ 要するに、難しく考えすぎなければよい、という非常に間の抜けた結論に私は落ち着きたいと思います。 ところで、fishbowlさんがもう一つ気になっていた章、「〈信仰〉について」の、 241p「ここでは自由を持つ人間が…次善のものだとしていさぎよく主張しよう、それがわれわれのなしうる最善だと私は言いたいのである。」 の部分ですが、ここの主眼は、「信仰の問題について、またとくに生き方の問題で、どこの誰にでも通用するという価値はないのである」、しかし、「近似値的な真理を得ることはできる」、それは「次善」と呼ぶべきものではあるが、それが「最善」だと考えるのがよいだろう、ですね。 なぜでしょう? これは次の段落にキーワードがあります。すなわち「寛容」の問題です。これはまさにカントの時代の啓蒙思想(ドイツの啓蒙思想)が示した一つの大きな価値の転倒とも呼べるものです。一神教のキリスト教を唯一絶対のものとして選択しても、それは普遍的にはあり得ない。なぜなら、信仰においてはキリスト教に限らず、ユダヤ教、イスラム教という他の人にとっての真理があるからです。カント的に言えば、私に選択の自由がある、という格律がなりたつとすれば、他の人にも選択の自由があるということを認めざるを得ない。つまり「主体的な絶対性」を主張しようとも、相対的にならざるを得ないのが信仰ということです。 「互いにまず尊敬しあうこと」、これか理性を持った人間がなすべき寛容の精神であると考えられます。この意味で著者は最後に、「各人の自由を現実に認めることが自己の自由を享受することにもなることを確認」する必要性を説いています(S. 253)。 やはり長くなってしまいました、すみません。

noname#15238
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり、申し訳ありません。 最初に以下の二点をご説明するのが大事だと考えます。 ひとつは、すでに知っていることを、知らない人に理解させる時の歯痒さをkonstellation様がお感じになるだろうということです、これは、自分の理解力不足の結果ですが、問題に対する真面目さの現れと寛容なお心でお許しいただければ幸いです。 もう一点は、「価値間のアプリオリな序列の存在」についてです。 私がこの事を最大の疑問とするのは、否定しているわけではなく、その前段階でまだ確認したい事柄が数多くあると言うことです。ご紹介いただいた本は大変役に立ちますが、ドグマのようにただ受け入れるだけでは理解したことには成らないと考えるからです。 おかげ様で、価値は感情であると再確認できました。 そして、意識にも感情にも「作用面」と「内容面」があることの再発見。 さらに、両者の共存できない関係については大変勉強になります。 ところが、感情の分析に入ると、真理感情・知識感情・知識価値感情これらの区別の説明は理解できるのですが、そうなると全体としての感情は、どれだけの質的に違う感情で構成されるのか、感情についてもう少し確認したいところです。 ジョンストンという方が、確か感情を「快・不快」に還元出来るような事を書いていたと記憶していますが、もう一度確認したいところです。 それと、意識と感情の区別がつきません。 上記の「作用面」を感情「内容面」を意識とそのまま区別つければ便利ですが、残念ながら、そのように単純ではないようです。価値は感情の領域から意識の領域へ複雑に絡み合うわけですが、価値を感じるものとする狭い範囲に限ると、序列は意識の領域に限定されるような思いから抜けられないのが現実です。 シェラーとマイノングの比較は面白いです、私は、やや、マイノングの下から上の考えに方法的に賛成したいです、「現象学」と言う武器を持っていないことも共通していますし。 おかげ様で、壁を乗り越える方法が見えたようです、上を越すのでなく、下に掘り下げることでした。 私の求める価値に合わせてご回答いただきましたが、私の求める価値は、玉野井芳郎博士の「広義の経済学」と言う概念より広い「広義の経済学」を想像しています。説明不足を深くお詫びします。 此処で取り上げなかった、ご回答の内容も、大変参考になりました。有難うございます。

関連するQ&A

  • 価値の哲学 価値考量(カント哲学の関係で)

    いつもお世話になります。 カントの哲学を理解しているわけでは有りませんし、カントは「価値・所有・交換」といった概念には関心が無いようですが、私なりに考えてみると、非常に困った問題が有ることに気がつきました。 価値考量 価値を量的に考える事ですが、 私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか? それとも、例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?

  • 結果無価値と行為無価値について

    結果無価値と行為無価値について 現在ロースクール2回生(既修1回生)のものです。 題名の通り、結果無価値と行為無価値についての質問です。 最近、「新司法試験では『結果無価値と行為無価値』の対立に拘泥することには意味がない。(試験対策の答案作成という意味で) 事案の事実を正確に評価し、適切な問題解決を図ることを答案で示すことが重要だ。 また、学説の争いにはまりこむより、判例が最も重要だ」というような言葉を頻繁に聞きます。 しかし、行為無価値の論者と結果無価値の論者では大きく論証は異なりますし、答案上にも大きな差が出てくると思います。(特に規範部分において) そこで、上のような発言の意図はどういうことかわかりやすく説明してただけるでしょうか?  単に、結果無価値論者の立場からでも行為無価値論者の立場からでも、いずれにせよ同じような結論が導かれるのだから、どちらをとってもさほど不都合はない。 結局、論理の筋が通った妥当な結論さえ出せれば、それで良い。 というようなことを意味しているに過ぎないのでしょうか? ちなみに、現在、私自身は刑法総論は西田典之「刑法総論」(第一版)を使っており、既に3回ぐらいは通読しています。また、既に論証は学部時代からのものを含め、たいていの部分につき既に自作しております。 (学部時代に山口厚「刑法総論」(第二版)も読んでいました) しかし、判例理論と大きく異なる部分もあり、心配なところがあるので質問させていただきました。  回答よろしくお願いします

  • 価値観というものを理解すると自我が崩壊しませんか?

    価値観というものをしっかりと認識すると自我が崩壊しませんか? 例えば、人助けの使命に燃えていても、「人助け」に価値を見出したのは「私」であり、それを周囲に評価され嬉しくても、それもまた「周囲に評価されること」に「私」が価値を見出してるだけですよね。 つまるところ、人を馬鹿にすることに価値を見出すのと本質は何ら変わらないと思います。そうすると、あらゆる事象が「絶対的」に無価値でそこに価値を付与しているのは自身だとわかり、自分の信念や矜持等の価値を感じていたもの全てが崩れます。社会の成り立ち方すら、いわば地球規模の宗教と言えるかと思います。 人の価値観っていうのは思っている以上に極めて儚いものではないでしょうか?自覚していなければ儚いことにすら気がつかないとは思いますが。 この考えの矛盾点、現実で生きる上でこの視点を見失っている、こんな話があります、私も崩壊しました等なんでも良いのでご意見いただけませんでしょうか。

  • 「絶対的価値は存在しない」の考えの理論について

    勝手にこんな理論を考えてみました、少し神学的です。 まず人間が愚かだとするならば、その原因はそんな「愚かな人間」を作ってしまった、もしくはそんな「愚かな人間」が生まれる世界を作ってしまった、神様が愚かだということになります。 同じように、「神様」に「愚かな人間をつくる」という行為をさせ、結果「神様」を愚かにした「神様」の{神様}が愚かだということになります。 このように考えると、どんどん無限に「愚かなのは神様の神様の神様の・・・・・・・・・・・・・・・・神様だ」となり、愚かなのは最も上の神様ということになります。 しかし、無限の考えでは「最後」や「最大」などの考え方がないように、「最も上」という考えもできないので、結果その「最も上の神様」は存在しないことになり、愚かな人間、もしくは神様という存在は一切存在しないということになります。 よって「愚かな存在」は存在しないことになります。 しかし、ここで「愚か」を「素晴らしい」にしても、まったく同じことが起きます。つまり、「素晴らしい存在は存在しない」ということになります。ほかの「〇〇な存在」としても同じです。 結果、(哲学的な)絶対的価値は存在しないことになります。 こんな内容です。またこの後、考察として自分の中では「絶対的な価値観が存在しないのだから、「自分に価値観に自信を持ち、そして他の価値観も認めるべきだ」ということを考えました。

  • 光速を超える宇宙の膨張

     相対性理論では光速より速く移動することはできないとされています。しかし、膨張する宇宙においては、銀河等が光速を超えて遠ざかることは可能で、また現実に起きていている(た)と考えられているが、この事実は相対性理論とは矛盾しないとのことです。初心者向けの科学誌等には、この理由が簡略に説明してありますが、馬鹿な私には今一つ理解できません。初心者にも理解できるように、説明願います。

  • なぜ自分の考え方や価値観を説明できない?

    私の友人は私とは違う考え方や価値観をもっていますが、理解したいのに問い詰めると答えがでてきません。 友人は比較的一般的な価値観の持ち主で、その友人の説明もある程度は聞かなくても察しはついていました。しかし、私がさらに「どうして?」とさらに質問すると答えが返ってきませんでした。 私はその友人が自分自身の価値観とその理屈は分かっているがその真理は理解していないことはすぐに分かりました。 話が漠然としているので例をだしてみます お題は「人の幸せの価値観」とすると 友人は「お金があれば幸せ」というどこかで聞いたことがあるような考え方で、 友人はその理由として「お金があれば…」というそれなりの理論をとなえてきました。 そこで、私が「お金があれば…」でどうしてそれが幸せと思えるの?と聞くと答えられませんでした。例えば、「お金によって地位と名声を手に入れ、周りからチヤホヤされ、欲しいモノを手に入れ欲求を満たすことが幸せなんだ」とかなら全て線が繋がったかなように理解できるのですが… 自分の価値観を最後まで説明できない(分かってない)ってどういうことでしょうか? 虚学阿世とは意味合いが違いますが、そのようなニュアンスで一般的な考え方、価値観を持つことで周りと調和を保とうとしてるだけにみえます まるで流行りのファッションをしてるみたいに… 流行りの意見、考え方をマネして周りについて行く輩っています?

  • 経済学では「価値」をどう定義しているのですか?

    経済学でか「価値」をどのように定義していますか? 古典派経済学ではある財やサービスを生産するために投入された労働が価値を決める(労働価値)だとか、マルクス経済学では財やサービスを使用したときに得られる満足感が価値を決める(使用価値)、ある商品の使用価値がその他の商品の使用価値と交換される場合の比率が価値を決める(使用価値)と言っていた気がします。しかしどれも需要サイドや供給サイドからしか議論していない不十分な説明であり、19世紀の終わりに物理学者たちが財やサービスを追加的に1単位消費したときに得られる紅葉、すなわち限界効用という概念を導入して経済学を構築し直したと聞きました。つまり、新古典派経済学では人間が主観的に感じる限界的な効用のことを「価値」と呼んでいるのですか?また需要曲線はこの限界効用理論から導出されており、需要曲線と供給曲線の交点で財やサービスの量と価格が均衡することになっていると思いますが、敷衍するとこの価格のことを「価値」と呼んでいるのですか?(実際、貨幣は価値の尺度であるという言葉があると思います。貨幣は価格を表しているので、価格が価値なのでしょうか?)しかし、現実には貨幣の供給量などによって物価は大きく変わるため、財やサービスの価格もその時の経済状況によって変動します。モノは同じなのに他の条件によって価値が変わってしまうことに違和感があります。加えて、マクロ経済学のでは初期にGDPを付加価値の合計だと定義していますが、ここでいう価値の定義もあやふやだと思っています。 経済学では「価値」をどこでどう定義しているのか教えていただきたいです。

  • 素朴な疑問です。どちらに価値を・・・?

    どのカテゴリーに投稿していいのか迷いましたが、こちらに質問させていただきます。私は文章が下手なので分かりづらいかも知れませんがお願いします。 私はホラーなどやSF、ファンタジー、サスペンス物の映画は好きではありません。ほとんどが非現実な内容だからです。 以前City of godという作品をみました。ブラジルの治安の悪い町を舞台にした映画です。ギャング?の争いで殺しあったり、子供がゲーム感覚で簡単に人を銃殺したりするシーンもたくさんありました。とにかく人が殺されるシーンが多かったです。これは現実のことを映画にしたものらしく、いまでもその町に治安は悪化していると聞きました。 私はこのように戦争の事実やショッキングな作品でも見たいと思ってしまうのです。怖いものやグロテスクなものは嫌いなんですが、それが事実であるなら知りたいと思うんです。コレがフィクションならば興味はありません。 ある人の意見でこのようにいっていました。 「このような痛ましい現状や歴史、事件など聞くとすごく切なくなるしテンションがおちるから聞きたくない。それを知って、その地にいる人や、死と隣り合わせの人を助けたいと思っても自分には何もすることができないという壁にぶつかって終わりだから。だったら何も知らず自分の今を生きてるほうがいい」 と。確かに知ってさあどうするというわけにもいかないですよね。何もしてあげれないという結論はたしかにいえてると思います。  この人は私より正義感が強くやさしい人間なのかもしれません。私は知るということで、少なからずそこで学ぶことがあると思うのです。それはきっと自分のためなのだと思います。貧しい人をみて自分は裕福だと思う ではないですが、かなりそれに近いような気がします。こたえはどちらともいえないし、出すことはないといったらそれまでですが、意見がきいてみたいです。このような実態や歴史を、テンションさがるけど私たちは知るべきなのか、自分に関係のない事は聞かず今の自分を幸せにすごしているほうが賢くていいのか。   人それぞれでいいと思うのですが、あえて言うならどちらに価値を感じますか?

  • 磁気カー効果から分かること

    一般に磁気カー効果の測定結果はどのような物理量と比較することによって評価すればよいのでしょうか?また、得られた結果を考察する際に他の測定が必要な時はどのような場合でしょうか? 初歩的な質問かとも思いますが、ご教授願います。

  • 情報に関する理論・モデルを教えてください。

    情報に関する理論・モデルを探しております。 システムやネットワークの話しではなく、一般的な意味での「情報」についてです。 少し広義なのですが、具体的には、 1.情報の質を形成する要素に関する理論・モデル(3Cや4Pみたいなイメージです) 2.情報に付加価値が与えられ、分析されたりするようなプロセスに関する理論・モデル(AIDMA理論みたいなイメージです) 以下が、私が今まで探した情報です。 1.については、「量、質、見つけやすさ、新しさ」と定義しているサイトを見つけましたが、一般的に使われているモデルなのか(?)です。 2.については、Create、Read、Analysisといったプロセスを定義したモデルがあるという話を聞きました。ただ、Webで調べても出てこなかったため、本当の話なのか(?)です。 もし何かご存知の方がいらっしゃいましたらお願いします。 キーワードや理論・モデルの名前だけでも教えていただけましたらとても助かります。