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価値の哲学

comodesuの回答

  • comodesu
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回答No.8

これまで傍観していましたが、価値についての考察もそろそろ終わりということで、少し私見を述べさせていただきます。聞き苦しければスルーして下さい。 「価値(の本質)とは」という問いは、それ自体、すこぶる形而上学的なアプローチだと思います。いわば固定的な世界観の発露と言いうるかも知れません。 もし「万象変化」という世界観から見るならば、価値は当然相対的なものであり、関係的であり、変動的なもの、であることは明らかです。あなたが「価値にそのものについて言うことは出来ない」と口走ったり、「価値とは関係の概念である、ということがわからない」とおっしゃるのは、変動するものを形而上学的にとらえようとするムリが現れたものと思います。(と言っても、これまで考察されたことがムダだったと言っているわけではありません。ここらで別の観点に立つ必要があろう、と思うのです。) 価値の問いをご自分の視点から立ててこられたあなたが、先哲にその答えを求められるのはスジが通らない。なぜなら先人達もほとんど形而上学のワナにはまっているからです。その例として、価値に対するマイナスの価値(反価値)の考証が不足していることを挙げましょう。一般に反価値はこれまでまともに考察されず、価値からの類推にまかされている面があります。だが私見によればそれで済むものではなく、たとえば真善美の逆は何か、それらは人間の具体的な世界にどんな関係があり、どんな感情と関わるか、そして何よりも、正の価値とどんな関係があるのか、負の価値から正の価値への転換(あるいはその逆)の問題、へと広がります。ことにあとの方の問題こそ現実世界の多様で深遠な様相をあぶり出します。いったい、男の世界についての認識を、女の世界に類推して適用できるでしょうか。なにより男と女の織りなす世界は次元の違った深遠さを持つことは明らかです。 価値と反価値は具体的には、「真善美」に対する「偽・悪・醜」、財(資産)に対する負債、生産物に対する廃棄物、安全に対する危険、などありますが、考察すればこれらが容易に相互に転換しうることが分かるはずです。 ところで、私はあなたが「価値とは」の問いを立てられたこと自体を考えたいのです。この問いを立てられたということは ⅰ)「価値」観を重視し、価値目的的な自己の生を構成したいと思っている、か ⅱ)とくにそのようには思っていず、知的関心から、か ⅲ)その他(内容省略) に分けられるとすれば もしⅱ)であれば、これ以上考えれば考えるほど、ペダンティックな知的遊戯に陥りかねません。 そしてもしⅰ)であるならば、個人における価値体系は、その個人の目的が決まればおのずとすべての価値の序列が決まっていくはずです。(複数の価値目的を持つことも出来ますが、その相互にも序列をつけられる。)この場合、先人や世人の価値観を元にする必要はありません。新千円札の見本が99億円の値をつけようとも、私はそれを欲しいとも思いません。私にとって価値あるものは私自身にしか決められず、それを求めていくことが「私の世界」の構築です。 あなたの価値とは何か。一般論を離れてそれを突きつめていくこと、そこに別の価値観が見えてくるのでは、と思います。 たいへん失礼しました。

noname#15238
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 なるほど、マイナス価値ですか、マレーという方が、「負の価値」と言う表現をしたようですが、確かにまともに考察していませんね。しかし、そもそもマイナスの価値とはなんでしょうか? 価値とは、われわれが現実の世界の中で何らかの行為を主体的にはじめる要因、つまり要求されるわけですが、われわれがより善く生きることを一般的に目的とする場合、マイナスの価値自体が無意味だと言うことにならないでしょうか。マイナスの価値はプラスの価値に対立することによって現れるような気がします。 さらに、価値は主観の感情に負う所が多く、関心の可能性の問題もあり、わざわざマイナスの価値を対象として行為をはじめる人もいない様な気もします。 男と女の対比としても、価値はその上位概念としての人間を捉えられると言った領域にあるのではと考えていますがどうでしょうか。 >価値と反価値は具体的には、…容易に相互に転換しうることが分かるはずです。 これこそ価値の不思議なところと申しますか、私の心をつかんで話さない「知的好奇心の対象」などと逃げては怒られますか、反価値と言う表現は置いておくとしても、価値の恣意性の原因を考察することにより価値に接近することが出来るような気がしますが。つまり価値はあくまで一過性の感情であり、生産物と廃棄物の対比として判断するわけではなく、廃棄物そのものを、との時その場の状況により価値ありと判断するのではないでしょうか。(自信なし) 私の質問は、私の主観的価値判断にしたがって、為すべき事を為し、為さぬべき事を為さぬだけです。 それをどう評価するかは、ご回答者様のご自由で、私があれこれ言い訳する事柄ではないと思います。 マイナス価値ですかお礼?に苦労しました、どこかに破綻がありそうですがよい勉強になりました。 そうそう、そろそろ少し変えたいと思ったのですが(汗。

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