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価値の哲学

konstellationの回答

回答No.6

こんにちは、補足欄を拝見しました。 私の拙い回答というよりも、私の回答を契機に『価値の哲学』を読んで頂けて幸いに思います。あの本の「まえがき」に見られる、 「経済の高度成長は価値とは貨幣価値のみのことであるかのような錯覚をさえ生じさせる。しかし人間がホモ・エコノミックスに成りきることも不可能である」 という言葉がまさに私の言いたいことでした。現代社会において「文化価値」が軽視されてきていることが様々な弊害をもたらしていると思うのです。 あれ、いきなり脱線してしまいましたね・・・ さてさて >「真理感」これが感情と言うことに違和感を感じました そうですね~、確かに。でも私は感じませんでした。 というのも、カントやフィヒテが用いる”Wahrheitssinn”という言葉やこれに類する表現 (…fuer wahr halten..「真であると思う」など)で、「真理感覚」というように言われます。”Wahrheit“が「真理」で、”Sinn”が「感覚、知覚、考え、意味」でして、英語で言えば“sense“ですね。 あの本の著者は、「この判断は真である」という例に見られるように、真偽の感覚を言っていますので、確かに感情という表現が単体であれば問題があるような気がしますが、あの文脈では言っている意味はよくわかります。 >探し物は、諦めた時に見つかるのでしょうか?不思議な偶然としかいえません。 はい、人と人との出会いと結びつきも星辰のように不思議な偶然ですね。(笑 >客観的に「良い」と「悪い」の質的違いを主観的に「良さ」に通約して比較するのか?その場合、アプリオリ性が存在するのか? つまり「価値は感性的な存在に制約されることの少ないものほど高次であるという」、という価値序列の問題ですね。たとえば、大事な契約の打ち合わせに遅刻しそうなときに、見ず知らずの困っている人を助けることが「よい」か「悪い」かという問題です。一人の今生きている人間としての自分の立場では、自分の人生やお金がかかっている「遅刻しない」ことは「良い」のですが、客観的な価値序列でいえば、「困っている人を助けること」の方が道徳的により高い価値がある「善い」のだと思います。 このように、シェーラーの言うようなアプリオリな価値序列はあると思われます。 >この序論の最後の言葉、選択と比較の違いは有りますが、私の質問と意図的には同義と感じるのは私の偏見でしょうか。 この点に関しては、私は問題にしてませんでしたが、両者に違いがあるとすれば、本の『価値の哲学』では、比較した後の選択決定に重点が置かれている、ということでしょうか。 >不満は、価値客体と価値主体の距離の問題が欠けていますが、アプリオリ性を考える上では重要だとは思いますが、贅沢の言いすぎですね。 そんなことはありませんよ。「美」を巡る議論でも、「心的距離」は重要な問題だと思います。 なので、 >最後の質問と宣言したことを後悔しています(笑。 と言わずに、あの本に対する不満・疑問点も含めて、さらにご研究をすすめてください☆ >お礼(この本)は100円(文字)ですって 文化価値を無視した古本屋のおかげです(笑

noname#15238
質問者

お礼

お礼が遅くなり、大変失礼しました。 文字制限がありますので、此処まで延ばして、儀礼的な言葉を続けるのは勿体無い気がします。 私は、反省しています、そもそも、価値についての道楽的な考察は、経済学における「効用」の内容を曖昧にしたまま、「合理的人間によって選択された行為」の結果を元に精密な理論によって、経済的効率性に「価値」を幻想させる逆説的な現状に疑問を持ったことからです。 そのため出発点からして、私の「価値一般」は経済的価値から見れば「価値一般」かもしれませんが、「価値一般」から見れば、経済的価値への傾斜は否定できないものだったようです。 文化的価値とか美的価値といった形容詞のついた価値ではなく「価値」そのものを考えたいと考えなから、「価値」についての考察にひとまず区切りをつけようとしたら、私はただ「価値一般」についての考察の「入口」に着ただけだったようです。 「まえがき」から最後の討論まで全て価値に関連して大変役に立ちました、特に、これまで意図的に避けていた、ウェーバーと宗教に関しては、いままでの偏見を反省する良い材料になりました。 それでも疑問点は多々あります。 48p~49p「より善く生きる…餓えた者が…芸術ではなく食物である。…「汎通的規定の原則」が作用している。…従ってより善く生きることは、より高い価値体系を求めることであるといってよい。」 この部分が、私の質問の要点である質と量の問題になるのかも含めて、もうひとつ理解できません。 241p「ここでは自由を持つ人間が…次善のものだとしていさぎよく主張しよう、それがわれわれのなしうる最善だと私は言いたいのである。」 これがアダムスミスの「道徳感情論」における適時性としての「次善」と同一のものなら、カントの「実践理性批判」での「経験論」に対する激しい批判に耐えうるのでしょうか。 そして、最大の疑問は、「価値序列」にアプリオリな序列が存在するのか? その他、「文化的価値と経済的価値」の「序列」では無く共通する何かが有りはしないか? シェーラーの序列では、分割できる価値の概念となど有るのか? これらの疑問には自ら「答」を出したいと思います、それが「道楽」ですね。 おっ、まだ余裕が有る、私は「お馬鹿さん」の上に「嘘つき」になってしまいますが、 また質問してしまいそうです、大変有難うございました。

noname#15238
質問者

補足

大変お世話になります。 現在、(1)と(2)を読み返しています。 ウェーバーを価値を科学から追放した悪人と考えていましたが誤解だったかもしれません。そんなことも有りましてなかなか先に進めません。「美」をめぐる議論まではまだかかりそうですが、この本を読み終わったあと、再度お聞きしたいことが恐らくでるでしょう。 そのためにもお礼は完読後にさせていただきます、忘れた頃にお礼が届きましたら宜しくお願いします。

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