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価値の哲学

bofdの回答

  • bofd
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回答No.3

ご存知かもしれませんが、価値一般について書かせてもらいます。 「もの」に「価値」がある場合、必ずそれを感じている主体がいます。主体が自らの意を「もの」に向けない限り「価値」はありません。つまり、概して、「もの」に「価値」がある場合、主体から「もの」へなんらかの志向性があります。 この志向性の内実として、人が「もの」を見るとき、その眼差しの中には配慮があります。これは、意識的なものから、本能的なものまで様々な段階があります。 例えば、床の上を歩いているとき、主体は床に向けられた眼差しから、視覚的情報(色彩、明暗、形、左右の目に映る像のずれ、など)を得ますが、これだけでは、ただの2次元の情報です。これらの情報に、「奥行きを感じ取る配慮」が向けられることで初めて、主体はそれを「歩くことのできる奥行きのあるもの」と感じ取ることができます。つまり、主体の眼差しには、歩くために必要な「奥行きを感じ取る配慮」が含まれていることになります。 また、眼差しに配慮が含まれる理由は、主体に「~のため」という必要性、欲望があるからです。逆に言えば、この「~のため」というのがなかったり、複数で矛盾しあったりしていると、主体が「もの」に「価値」を与えるのが難しくなります。 つまり、簡単に言ってしまえば、主体が持っている欲望が、世界に「価値」(意味)を与えている。それゆえ、「価値」そのものを語るためには、主体が持っている欲望について語る必要がある。大抵の場合、この欲望は「生命を維持するため」と「種を保存するため」で説明できます。しかし、美的感覚など、「~のため」というのが見つけにくい場合もあります(「なぜ花は綺麗なのか」・・・お世話になりました)。 以上の「もの」に対する志向性という考え方は、現象学でよく使われるもので、参考にされるならば、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、日本では竹田青嗣がよろしいのではないでしょうか(というか、このくらいしか知りません)。加えて、認知心理学も参考にすると面白いと思います。

noname#15238
質問者

お礼

bofd様、お忙しいところご回答頂き有難うございます(笑。 「花の質問」参考になりますね、価値論や貨幣論まで出てきてどうなるのか、ひやひやしています。 実は「美」について考えたことが、「価値」の役に立ったのです。 それは丁度、このご回答の「欲望」という言葉と同様な意味での「関心」です。 「もの」は「欲望・欲求」や「関心」の対象になるべく待っているのでしょう、丁度、花が美しいと認められるために待っているように。私が、「花の質問」に書いた、(世界は美で溢れている)でしたか、それは同じように(世界は価値で溢れている)ともいえるわけです。 対象は主観の「欲望・欲求」や「関心」により、認識され、その後、対象の性能が、主観の価値感を引き出すのでしょうか、その場合、主観の条件も重要ですが、その事を「関係」で片付けるのは、いま一つ、理解不足があるようです。 もう一点は、「美」と「価値」を比較した場合、「美」には、最後の最後の点で普遍的な形式があるような気がします、そして、「価値」にはそれが見つからないということです。 尤もカントは「何が美かを概念によって規定するような、趣味の客観的法則はありえない」と言っていますし、#2様のご回答にあるシェーラーは、価値の客観的アプリオリ性を強調していますので、難しい問題ですが。 以下は、少し意見を異にする部分です、お聞き流しください。 遺伝子工学の発展は確かに目を見張る進歩があります、人間が遺伝子を運ぶ道具であることには、確かに説得力が有ると思います。しかし、私たちは世界についてまだ何も知らないといった方が正しいと思います。 全体を知る為に、部分の知識に極端な突き出しがあれば、それを基礎としての全体評価は、誤りに向かう可能性が高いと考えることは出来ないでしょうか? ご紹介いただいた3人の名前は解説書のたぐいで知ってはいますが、一言難解といった印象です。竹田さんを読んで見ましょう、わたしはそろそろ、経済哲学の経済的部分に重心を移したいと思ったのですが、それにしても最後と宣言したことを後悔しています(笑。

noname#15238
質問者

補足

ご無沙汰しています。 先日、図書館で、期限の延長と取り寄せをお願いした本を受け取りに行ったついでに、本棚を眺めていましたら、竹田さんの本と目が合ってしまいました。 頭のすみにこのご回答があったのでしょうか、結果的には大変参考になりました。 内容については、今、判断を保留いたしますが、平易な文章で現象学を解説するだけでなく、「価値」を記述することに挑戦していました、こういうこともあるのかと、感服した次第です。改めてお礼申し上げますとともに、失礼なお礼をお詫び申し上げます。

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