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価値の哲学

ghostbusterの回答

回答No.7

過去ログ紹介してくださって、どうもありがとうございました。 すごくおもしろかったです。 あー、やっぱりプロは違うな~という回答もあったりして、大変勉強になりました。 >丸山圭三郎さんの部分はさっぱりわからないのです。 たぶんそれはfishbowl66さんの問題意識と、かみ合っていないからだと思います。 そういうピンとこないものは、ちょっと脇へ置いておけばいい。 >>価値の概念そのものを量的に比較することはできませんが ここで言いたかったのは、「(なんによらず)概念」を量的に比較することはできない、ということだったんです。あまり深く突っ込むと、「概念とは何か」みたいになって、またそれはそれで大変なことになってくるんですけどね。 「価値」という言葉自体が対立する要素を含んでいる、と指摘したのは、社会学者の作田啓一です。 『価値の社会学』(岩波書店)で、作田は日常語としての「価値」という言葉から、概念の定義づけをおこないます。 ちょっと長いけど、とっても読みやすい部分なので、そのまま引用します。 「日常用語では、価値は何らかの欲求を満たしうる客体もしくは客体の性質を意味する。食物、衣服、家屋、異性、金銭、書物、絵画などは、すべて価値である。経済学で使用価値と呼ばれているものは、だいたいこの用法での価値と一致する。 しかし、他方においては希少価値という用語法がある。この用語法によれば、容易に接近したり、入手したりできないものが価値である。あるいは容易に到達できない目標が価値とみなされる。たとえば、単なる書物や絵画ではなく、誰もが容易に創造できない学問的労作や芸術作品のみが価値をもつとみなされることがある。同様に、誰もが日常的に行っている行為は価値はもたず、強い正義感や深い信仰から出てくる禁欲行為だけが価値をもつ、という見方もある。  右に述べた二つの価値の概念は、明らかに対立している。一方では、欲求を充足させるものが価値であるとみなされ、他方では、ふだんの欲求の充足を押さえることで到達したものが価値であるとみなされている。経済学を除いた領域では、しばしば第二の価値の概念が用いられてきた」 おもしろいですね。日常用語としての「価値」に、すでに対立する概念が含まれているんです。 第一の意味では、量に換算できます。 でも、第二の概念ではどうでしょうか。 「希少」というぐらいだから、当然量としての意味が前提としてある。それでもここでは量というより、質の問題になってきている。 作田はこのあと日常用語の「価値」を精錬していきます。 第一の意味では、欲求充足=価値である。 第二の意味では、入手あるいは到達に困難なもののみに価値を認める。 いいかえれば、何かを犠牲にしてはじめて、入手された客体に価値が付与される、ということになる。 そうやって、ジンメルの、価値とは、入手あるいは到達に犠牲を伴った客体の持つ充足的な意味である、という考え方に準拠しつつ、価値の定義づけを行っていきます。 どうですか?これはピンときそうですか? 前にも書いたけれど、価値というのはやはり幅広い概念ですので、自分が読んで一番ピンとくる人の思想に寄り添って、考えていくのがいいんじゃないかなー、と思います。 そのとき、経済学と社会学と哲学ではやはりアプローチの仕方が違うので、あれもこれも、みたいにしていくと、かえって混乱するんじゃないでしょうか。 最後に個人的な感想なんですが、哲学ではないけれど、わたしはずっと研究者になるために勉強してきて、周囲も学生か教官しか知らなくて、fishbowl66さんや、いまでもよく覚えているんですがq=791895の質問者のような方がいらっしゃる、こんなふうに、仕事とは直接の関係がなくても、思想や、あるいは文学に興味を持ち、考えることや読むことを愉しみ、一種のライフワークのような感じで取り組んでいらっしゃる方がいるなんて、想像したこともありませんでした。 うまく言えないのだけれど、そういう方に対しても、深い尊敬の念を抱きます。 わたしは、たとえばq=193056の#3、#6の方のように、哲学を専門的に取り組んできたわけではありませんから、どうしても底は浅く、同じような勉強のやり方をしている学生のレポートのアドバイスならできるんですが、fishbowl66さんに的確な回答ができるかどうかはずいぶん覚束ないのです。 ということで、ずいぶんまとまらない回答になりましたが、過去ログ含め、いろいろ拝見して、こうした感想を持った、ということで。 今後とも愉しみつつ、「価値」について考えていってください。

noname#15238
質問者

お礼

お礼が遅くなり失礼しました。 私のやり方は、科学的ではないです、「価値」を分析するのではなく、直観的という表現が妥当かどうかわかりませんが、「価値」の全体を直観的に理解したいと言う願いです。 北川さんはジンメルを評して、使用価値と交換価値を区別していないと言う批判をしていたと記憶していますし、ウェーバーは、主観的に考えられた意味と客観的に妥当する意味を区別せず曖昧にしていると批判しています。つまり、北川さんは「使用価値」と「交換価値は」は違うものと区別し、ウェーバーは「主観的に考えられた意味」と「客観的に妥当する意味」は違うものだと区別する前提があるようです。 ジンメルははっきりとした記述は引用できませんが、事物(Was)は、ある意味一つの全体であり、経済的、又は文化的といった一つの側面のみで汲み尽されるような事物はないというようなことを言っていると思います、このあたりが上記批判の原因であるとともに、私にとっては共感する部分です。 私見ですが、「使用価値と交換価値」の分析が必要なのかが疑問です、「交換価値」はあくまでも「使用価値」の影に過ぎないのでは、これは言い過ぎかもしれませんが、二つの価値が全く個別の価値と言うことは出来ないような気もします、このあたりは価値から貨幣を考える上ではまだまた掘り下げる必要が有るのですが。 ウェーバーの批判に関しては、そもそもその違いは何かを考えることがこれからの問題です、何しろこの人の事は誤解していて全く無視していたのです。 ところで、ジンメルの価値論は「距離化」の問題ですが、以前質問したのですが、これだと空気に価値は無いことになってしまうのです。これも今後の課題です。 わからないことをわきに置いておくのは大賛成、置き過ぎると整理整頓が大変ですが(笑。 ghostbuster様が哲学は哲学史を研究することも必要とおっしゃるように私に基本的な知識が不足しています、私は、ジンメルを理解するとか哲学を理解するとかが目的ではないので、基本的に専門の研究をされる方とは立場が違うのでしょう。あれも欲しいこれも欲しいと言うただの欲張りです(笑。 そうそう、私はそんな大した者では有りません、世間でこのような話をする相手はいませんから、対話に餓えているだけだと思いますが。 すれ違いのようなお礼を長々失礼致しました、また宜しくお願いします。

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