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行き過ぎた無宗教の人は対人関係に面倒な人が多い?
- 行き過ぎた無宗教の人は対人関係に問題を抱える場合がある。
- 無宗教の人は他の人を受け入れず、自己中心的な傾向がある。
- 無宗教の人は親族や関係者とのつながりを嫌い、自立した生き方を選ぶことが多い。
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その他の回答 (7)
- nagata2017
- ベストアンサー率33% (6845/20248)
いずれにしても 現代の日本人は 信仰として宗教を信じている人は少ないでしょう。 儀式としての在り方のようなものですね。意味は失われて 形だけが残っている。だから義理での参加はしたくない という感覚です。
お礼
ご回答ありがとうございます 意味は失われて 形だけが残っている 悲しみや近しい方との思いはあると思います。 その様な中で形骸化された儀礼から、意味を理解できるものへ変えていく必要はあると思います
- Osric
- ベストアンサー率17% (280/1580)
本人がよければそれで良いのではと思いますが。こういう質問をされるという事は、具体的にそういう人がいるのでしょうか。そうであれば、もう距離をおくのが一番としか申し上げられません。 ただ、この人、無宗教というよりは、人との付き合いが嫌で、ケチな人でしょうね。こういう人は、自分の考えが、どんなにおかしく、奇妙でも、きにせず発言行動するので、どちらにしても付き合いはやめるのが一番です。
お礼
ご回答ありがとうございます こういう人は、自分の考えが、どんなにおかしく、奇妙でも、きにせず発言行動する その様な人が多くはないが居られます。 その様な方は法律に違反しているのではないので自由で悪い事はしていないのでしょうが、 多くの周りの方との思い等も「面倒」「知らない」という事なのかと思います。儀礼よりその様なつながりを認識したり、悲しみの心を依りそう事が 「宗教」なのかとも思えます
- okwavey2
- ベストアンサー率15% (251/1593)
色々な人がいるので、人様に迷惑をかけない範囲なら基本的に自由です。 あなたの価値観に合わせる必要もありません。 私は無宗教ですが、冠婚葬祭に関わるものや都合の良いイベントを文化として取り入れています。
お礼
ご回答ありがとうございます
- mochifuchi
- ベストアンサー率45% (67/147)
宗教的なものにはいつでもお金が絡んでくるから嫌気がさしてるというのはわかります。私がそうです。 人それぞれの弔い方や偲び方があり、好きなときに自由に思いを馳せればそれが1番。墓や葬儀やまして戒名にお金をかけたりかけられたりするのは誰のためなのか?何のためなのか?考えると確かにバカバカしく思えてきます。お金のような最たる現世の俗物こそ生きてる人に使われるべき、という新たな宗教観ではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます お金のような最たる現世の俗物こそ生きてる人に使われるべき、という新たな宗教観 それは現代ではそうかと思いますが、その様な方は「偲ぶ」事より 「面倒」が先行している事が多い様に思います。
- bekky1
- ベストアンサー率31% (2252/7257)
あなたのご心情もまた、一種の己の宗教であり、あなたの言われる「わがまま自立派」もまた宗教です。 信じる神は自由ですから、あなたは巡礼でも、葬式でもおやりになればよろしいように、なにもしたくない人は、己の信心をするだけです。 宗教争いは騒動のもとですから、あなたが正しく、ソレ以外はすべておかしい、特に、すべての宗教行事などを否定する、付き合いを否定するのは、特にわがままというなら、あなたの思われる宗教参加の強要もまた、あなたのわがままです。 慰霊祭などの、公的な行事でさえ、参加したくない人の自由はあるのですから、 個人的になさるようなことなら、行きたくない、お金も出さないは、十分にありです。 特に、親族関係と言うなら、生まれたときから親族なので、抜けられない? 親族義務として、ソレを日本国民なら納税の義務があるように、’親族税’を払えのようなことは通用しないと思いますが。
お礼
ご回答ありがとうございます 親族関係と言うなら、生まれたときから親族なので、抜けられない? 親族義務として、ソレを日本国民なら納税の義務があるように、’親族税’を払えのようなことは通用しないと思いますが。 個人主義の人は「親戚付き合いも「好きだからやっている「嫌だからしない」 ということかと思います。
- Ice-Trucker
- ベストアンサー率24% (453/1816)
おっしゃっていることはなんとなくわかりますね。 私は海外生活が長く、加えてキリスト教の聖書、 旧約聖書、イスラム教のコーランなども読んだことが あります。 さらに、趣味で哲学も勉強しています。 哲学の巨人であるカントは神を否定し、 ニーチェは「神は死んだ」と言いました。 なので、あなたのおっしゃっている方は こういう考えだったのかな~と思ったりもします。 1)三途の川とか、亡くなった人に与える戒名とか、 葬式とか、墓前に手を合わせるとか、 亡くなった人にお祈りする とか、そんなんで死者が戻ってくるわけでもない。 2)たとえ死んだ人があの世から私達のお祈りの姿を 見ていたとしても、こちらの世界にいる私達には 全くわからない。 となると、お祈りしようがしまいが、私たちには 意味がないことになる。 3)それなのに、一生懸命をそれらを 信じて実行する(ほとんどの人は)ある意味滑稽。 いや、単に自己満足にすぎない。 4)葬式、法要などが格安でできるなら、 やってもいい。が、値段が不明瞭でしかも 最終的には高い。「効果」が実感できないのに、 そんなにお金をかける必要があるのか? 5)仏教はブッダ発祥のインドが起源。 だから、古代言語のサンスクリット語が元。それを 漢字にあてはめて音を似せてお祈りすることに 意味はあるのか?お祈りするなら、 サンスクリット語でやるべきでは? 6)法事などで坊さんがあの世の説教をするが、 そもそもあの世に行ったことがない人が あの世の話をするのが説得力がない。 アメリカに住んだことのない人が、 アメリカ生活の話をしても説得力はない。 7)キリスト教、仏教、イスラム教などの宗教も、 (「桃太郎」とかゲームのドラクエと同じく、) 昔の人は暇だったし、社会統制、世界侵略に都合がいいので のでそういう「おどき話」をつくっただけ。 8)坊さん自身が「あの世」というのを信じていない。 わかっているのは、「あの世」の話をすると それを信じてくれる人たちがいるということと、 9)「家族」「親戚」というのは 血縁か法的なつながりでしかなく、それも 社会統制をするための道具でしかない。 「家族だから支え合う」というのも、 社会を維持するための「常識」という、 子供のときからの「教育」という「洗脳」を 通じて植え付けられたもの。
お礼
ご回答ありがとうございます 1 そんなんで死者が戻ってくるわけでもない 2 お祈りしようがしまいが、私たちには 意味がないことになる。 3 一生懸命をそれらを 信じて実行する(ほとんどの人は)ある意味滑稽。 いや、単に自己満足にすぎない。 合理的に考えるとそうかと思います。 そこで 4 。「効果」が実感できないのに 6 説得力がないということかと思います。 そして、教義や 7 昔の人は暇だったし、社会統制、世界侵略に都合がいいので のでそういう「おどき話」をつくっただけや 家族の繋がりも 9「家族」「親戚」というのは 血縁か法的なつながりでしかなく、それも 社会統制をするための道具でしかない。 「家族だから支え合う」というのも、 社会を維持するための「常識」という、 子供のときからの「教育」という「洗脳」を 通じて植え付けられたもの。 という事かと思います。あの世観は別として唯、この様な家族観も無視していくと個人主義が蔓延していくと思います。 それが元で争いは起こっておりますが、「和」や「つながり」を教えてくれるものは必要だと私は考えております
- 177019
- ベストアンサー率30% (1039/3444)
仰る意味は充分に理解出来ます。私は「これこそが正しく他のものは受け付けない」そういう宗派の人間です。最近の特に若者は「無宗教」という人が多いのですが、それは既存の仏教宗派の葬式、法要などにお金が掛かり過ぎ、しかも事前にお寺側から掛かる金額が設定されており、信徒側が真心の供養を出来ないようなシステムになっている。そうしますと結局は、「地獄の沙汰も金次第」になり、益々仏教離れが進む結果になると思います。私の宗派は一定の金額が定められていますが、貧困の家庭にあっては出来る範囲の供養となっていて、それを受け取った僧侶は信徒に、それ以上の供養の強要をしてはならない規則になっています。ごめんなさい、質問の答えとは程遠いものになってしまっています。
お礼
ご回答ありがとうございます それは既存の仏教宗派の葬式、法要などにお金が掛かり過ぎ、しかも事前にお寺側から掛かる金額が設定されており、信徒側が真心の供養を出来ないようなシステムになっている その様な形で「宗教離れ」が進んだのは頷ける話です。 貧困の家庭にあっては出来る範囲の供養となっていて、それを受け取った僧侶は信徒に、それ以上の供養の強要をしてはならない規則になっています その様な事が大切で、何故ここで儀礼を行うか この様な事をもっと説明していくべきだと思います
お礼
ご回答ありがとうございます 、「無宗教という宗教」に侵された馬鹿と思われるでしょうから 何でも「無宗教」という言葉で一切の義理や感謝の心を絶ち、自分の好きな事をする それが最近浸透し、相手の心も組まない社会に成り、それで 「どこが悪い」という風潮になるのは可笑しいと思います。