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時代劇「必殺仕事人2009」の問題回での切腹シーンの歴史監修について
- 時代劇「必殺仕事人2009」の問題回での切腹シーンには、白い布で被せた畳と屏風があり、切腹用の刀が置かれた三宝と御家人の白い着物が登場します。
- このシーンは時代劇の切腹シーンとしてよく見られるもので、一般的な描写です。
- しかし、歴史監修の観点から見ると、実際の切腹の際には畳や屏風は使用されず、刀も置かれず、着物も異なる可能性があります。
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辞世と末期の酒 辞世について切腹の場で作成することは江戸時代ではまず例がありません。それ以前でも、辞世については事前に作っておいたものが多いようで、『平家物語』の平忠度の辞世とされる「行(ゆき)くれて木(こ)の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし」の和歌も、忠度が討たれた後に、箙(えびら-矢を入れ、背負うもの)にあったものです。このような例は多いので、嗜みとして事前につくったと者も多かったと思います。なお、切腹前に辞世、音信を書く場合には、控えの間で、筆墨を借りて記載した例がありますし、切腹の前には当人には通知がされませんが、親族書の提出が求められる(これで切腹と薄々分かる)ので、準備する者も現れます。 末期の酒については、切腹の場にて出るとするものと、事前に出すとする史料があります。切腹の場にて出る例としては、下が塗盃、上が土器の盃を重ねたもので出し、とした『刑罪大秘録』の記述があるのですが、これは「切人」に対するもので、「切腹人」(文中に表記あり)とも「介錯人」(文中に表記なし)とも判断が付きかねる記述になっていますが、切腹人に出したとする『「侍」入門』の記載もあります。 以上のように、史料から関連する事柄を抜き出してみましたが、時期、地域、藩によっても違いがあり、さらに検使役の指図によっても違いがある(浅野内匠頭の場合)などがあります。 最後に、赤穂浪士の切腹の間隔が、一人当たり6分ほどであったとの記録があります。江戸時代の切腹は、切腹人が座に着きます、介錯人が入り一礼し名乗ります、介錯人が切腹人の後方で介錯刀を抜きます、副介錯人が手伝って切腹人の肩衣などを脱がせ(上半身裸になる場合もあります)、副介錯人の合図で短刀などの乗った三方が運ばれます、副介錯人が切腹人に三方を取るように促し、三方(実際は短刀など)を取ろうとして手を伸ばしたときに首を刎ねます、副介錯人が首を掲げ、死体に覆いを掛けまたは包んで、運び出すという一連の動作です。これに6分です。服装も浅黄色の上下、背後は白幕、それも場合によると花色。 それに比べて歌舞伎や時代劇は、白い屏風を背にして、白一色の衣装(稀に浅黄の裃)に身を包み、切腹の場で辞世を詠み、肩衣を取って膝に敷き、三方の上の短刀を取り、奉書紙を巻き、三方を戴いて礼をし、三方を尻に敷いて、上衣をくつろげ、おもむろに短刀を腹に刺し、横に切り、というスタイルです。歌舞伎では介錯人がつかないこともあります。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の「四段目 判官切腹の場」のように、由良助を待ちながらも短刀を腹に刺すのを躊躇し、堪え切れずにさし、やっと到着した由良助に安心して、短刀を引廻し、「この九寸五分は汝への形見、我が鬱憤を晴らさせよ」と告げる。歌舞伎の様式美の世界で、いかに判官や由良助を美しく見せるかであって、そのためには史実から離れることも躊躇されません。歌舞伎は封建社会の制限の中で、現実の世界を描くことができない場合、忠臣蔵のように、時代を江戸から室町に変え、人物を浅野から塩冶に変えることにより、現実・史実に捉われない、より自由な発想の世界が広がったともいえます。 時代劇や歴史小説で史実にこだわり、作品が面白くなくなったら本末転倒だと思うのですが、いかがなものでしょうか。 以上、長々と書きました。退屈な内容で申し訳ありません。参考程度に。
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- fumkum
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NO4です。追記で申し訳ありません。 屏風と幕ですが、屏風の使い方については、時代劇と史実の決定的な違いになります。切腹人の後方は屏風とされますが、これは『「侍」入門』というムック本にさえ、「この図は、切腹が執行されなくなった明治に入ってから描かれたものである。」とされているほどです。切腹人に使う屏風は、実は死骸を隠す、目に触れさせないために使うのであって、『凶礼式』には、「頸を打て、死衣をうけ、屏風を引廻し、死骸人に見せぬように仕廻すべし」としています。江戸時代の図には、切腹人の右前(『細川邸義士切腹図』)、もしくは真ん前に置かれている(『続視聴草三集』の「赤穂義士切腹図」)ように描かれています。切腹前にその場所に置いたならば、検使が検分できなくなるでしょうから、端に寄せてあったと思われますが、切腹人の後方に置くようなことはありません。また、色ですが、『細川邸義士切腹図』は「白紙屏風」、『甲子夜話』は「白張屏風之事 障子両面張、蝶番付、三枚折一双」、『凶礼式』には、「屏風は表裏白張白縁なるべし」としています。 なお、死骸を見えなくするのは屏風だけではなく、「三畳敷計(ばかり)之ふとん」(『憲教類典』)の例もあります。 屏風のいま一つの使い方は、検使の後方に立てることです。『刑罪書』に、「両面唐紙張屏風一双、合左右二枚、後ろ三枚、薄縁形を建、上之方江開き申さず候様、四ヶ所木に而(て)留打申候」とあり、『刑罪大秘録』の「佐野善左衛門切腹図」でも、検使役の御目付の後方に、屏風状に書かれています。 幕は、庭で切腹する場合に用いるようで、*北を口にして「コ」の字に切腹の場を囲むように設営しています。ただ、『細川邸義士切腹図』は、西側に竹の垣根のようなもので囲み、その後ろで死体の処理をしている図になっています。『久松家赤穂御預人始末』では、「検使衆御差図に依り、花色無地幕に而囲-中略-幕之囲之後ゑ-中略-死骸取込候之砌(みぎり)蒲団に而包候節之を手伝ふ(一部書き下し)」としています。赤穂浪士のように、一度に多くの切腹人を扱う場合の特殊な例だとは思いますが、一応、書き添えます。 なお、南側の幕の中央部分を二重にして、切腹人の入り口を設ける例がありますが、その口を設けず、開いた北の端から入れる例もあります。 幕の色については、白色無地とするものが多いのですが、上記『久松家赤穂御預人始末』では、「花色無地幕に而囲」として、*花色としています。 なお、切腹場の後方に、水桶と、血を隠す砂を入れた桶を準備します。 *北を口にして=西という説もあるのですが、『刑罪大秘録』の「佐野善左衛門切腹図」や他の史料を見ると、小伝馬町の牢屋敷の、揚座敷の三ノ部屋と四ノ部屋の間の当番所に検使役の座を設け、そこを北と図示しています。他の牢屋敷の図を見ると、実際の方位は西にずれており、検使は北西の方角にいて、切腹者は南東から北西方向を向いて検使と相対するようになっています。「佐野善左衛門切腹図」で北と書いてあるように、検使は将軍の検使ですから、南面(座は北)することが礼法ですので、場所により設営の都合で正北にならなくても、北とみなしたと思われます。なお、庭で切腹する場合、検使役はおおむね屋内に座があり、そこより検視しているのが一般的ですが、庭に検使の床机を置かせた図もあります。なお、検使に付き添う徒・小人目付以下も、縁側、縁側脇庭先に場所を与えられています。また、切腹人を収容していた、牢奉行・牢役人ならびに町奉行所役人、旗本・大名家の家臣が切腹の場に連なります。(旗本・大名の当主は正式には座につかず、垣間見の形式で見ることがあるようです。) *花色=縹(はなだ)色とも言い、薄い藍色で、浅黄色に近く、文献によっては浅黄色の幕としているものもあります。 介錯人について 介錯人については三人とする史料が多くありますが、2又は1人とするものもあります。 介錯人の1人は、正(本)介錯人ともされ、首を落とす役です。副(添)介錯人は、史料により違いがありますが、切腹人に付き添って切腹の場まで連れてくる、切腹人が肩衣などを脱ぐのを介助し、三方に短刀を載せて切腹の座に置き、合図により切腹人に短刀を取るように声を掛け、首を揚げて検使に見えるようにします。連れてくる、三方を置くなどは別の者が果たすことがあります。 なお、切腹人が肩衣などを脱ぐのを介助された後は、ほぼ上半身裸の例も(『細川邸義士切腹図』) あります。 介錯人の名乗りについて 三田村鳶魚(えんぎょ)の『江戸武家事典』に次のような記述があります。 切腹人は、その人物を知りたがる。もし、聞かれた場合、介錯人は「ご安心めされ、槍一筋の者でござる」とか、「士分でござる」とか、勇気に満ちた語気で答えるのが作法であった。 としています。ところが、同じページの後ほどに、次のようにも記載しています。 また、小伝馬町牢内における中士の自裁は、その一隅に砂を撒き、上に畳二枚を敷いて、切腹場とする。介錯には*牢屋同心が当り、抜刀前に職務姓名を名乗れば、切腹人は「御苦労」と答えるのが例であった。屠腹(とふく)の瞬間、上体が後倒するのを恥とし、うつ伏すのを以って武士のたしなみとした。 と矛盾した内容になっています。三田村鳶魚は江戸の風俗研究の一人者で、江戸学の祖とされるべき人間ですが、介錯人の名乗りについては、江戸時代の史料や『古事類苑』のまとめにあるように、名乗りをすると考えられます。 *牢屋同心=『刑罪大秘録』の「佐野善左衛門切腹図」では、佐野善左衛門を尋問した江戸北町奉行所の同心が、介錯人をつとめています。牢屋同心が介錯をするのは斬首の場合もあるので、もしかすると、資料の混同があったのかもしれません。 三方について 三方をあらかじめ切腹の場に置くことはほとんどありません。短刀・脇差の場合(短木刀・扇子のことがある)は尚更で、切腹人が切腹刀を持って抵抗することも考慮に入れているからで、抵抗した場合、介錯人が切ります。ですから、順序として『古事類苑』のまとめにあるように、「正介錯人、囚人に対し、自ら姓名を陳べて一礼し、刀を抜きて其背後に居る、副介錯人、囚人を扶けて衣を袒せしめ、相図の咳を発するや否や、牢屋同心木刀を載せたる三方を持て来りて、囚人の席を距ること三尺許に置く」とあるように、介錯人が刀を抜いて切腹人の背後にいるときに、三方を持ってくるとの順序・段取りだったと思います。 三方を切腹人が脇差を右手に、左手に三方を持って尻に敷くというシーンを良く見かけますが、今回調べた限りではその例はありませんでした。切腹の礼法が定まった時期になると、三宝の上の脇差に手が届くか、届かないうちに首が切られることになりますので、三方を尻に敷く時間が無いからだと思います。ただ、尻に敷くことが無かったのかというと、逆にあったのではないかとも思います。それは、自発的に-介錯人なしで切腹する場合、仰向けに-切った腹を上にして倒れるのは、武士として恥ずかしい行為ですので、それを防止するために、実施したのではと思います。 江戸時代も初期から、扇子を用いた例があるそうで、中期以降は特に、実際に腹は切らず、三方に手を伸ばした(首が伸びた)状態のときに、首を刎ねますので、切腹とはいいながら、実態は斬首に近いものでした。そのため、腹が切れなくともいいわけで、木刀・扇子を三方に載せておくことが多くなっています。 短刀の例については、『浅野内匠頭殿御預之節控』に、「小脇差三方に之を載せ」とあります。脇差は、『憲教類典』に「小脇差」、『久松家赤穂御預人始末』では、「三方に小脇差居之を出す」としています。木刀は、『刑罪大秘録』に、「三宝に九寸五分を乗せ木刀之九寸五分、」、『甲子夜話』は、「短刀之事 木刀八寸」、としています。扇子については、具体的な史料が分からなかったのですが、『国史大辞典』に、「三方にのせる木刀のかわりに扇子をのせる場合を扇腹と称し」と記載しています。ですが、懐剣という例はありません。 脇差等の下に奉書紙を置くということに関しては、今回調べた史料の中にはありませんでした。脇差等はあらかじめ奉書紙で包んで、切っ先を出し、紙縒り縛ってあるものを三方に乗せて出す形式で、木刀でも奉書紙で包んでおくとされます(『国史大辞典』) なお、三方等について『切腹 日本人の責任の取り方』の中で、次のように記述しています。 脇差を載せる三宝は、「凶礼」を取る。すなわち、刳形(透かし穴)のないほうを前向きに置き、脇差も刃のほうを切腹人に向ける。そして、三宝から脇差が落ちないように側面に彫り込みを入れ、また凶例(*礼の誤字か)であることから切腹人側の縁を落とした。
- fumkum
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No4です。追記をさせていただきます。 基本的には幕府の旗本・大名を例にしながらになります。なお、原文のカタカナは平がなに改めています。 切腹ですが、自主的に行う場合もあって、江戸時代の初期に流行したのが、主君の死に際し、殉死して後を追うという切腹です。また、前回にも書きましたが、旗本が罪を犯したときに、評定所から老中の封書御尋ねが、上司などは経由せず、直接本人に来るとされ、この時点で自主的に切腹をすれば、家名は続き、家督相続もできるとされます。このような場合は、自宅で切腹することになるわけですが、介錯は無いことが普通(江戸初期は一般の切腹でも介錯が付かないことが多い)で、長時間の非常な苦痛があるとされます。終戦の時に、当時の陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれちか)と、海軍中将大西瀧次郎がそれぞれ介錯なしで切腹していますが、切腹してから6時間前後死に切れなかったとされています。自主的に行うので、基本的な事柄はともかく、詳細で統一された作法というものは、なかったのではないかと思います。この場合、自主的な切腹ですので、検使がつきません。 刑罰としての切腹の場合ですが、切腹以前に取調べがあるわけで、500石をおおよその境にして、それ以下の場合は、小伝馬町の牢屋敷内にある揚座敷に収監され、それ以上から大名は、旗本や大名家に御預となり、それらの屋敷に身柄を移されることになります。 切腹の場所ですが、揚座敷に収監されていた者は、牢屋敷内の揚座敷前の庭で執行されます。御預の場合、身分の高い者(大名・有位の旗本など)は屋敷内の座敷で、下位のものは庭に切腹の場が設けられました。この場所選定は、預かった大名・旗本家から、検使に確認・指示を仰いで決めるもので、江戸城松の廊下で刃傷した浅野内匠頭の場合、大名でありながら庭での切腹となったのは、正使である大目付庄田下総守安利の指示とされ、それもあってか庄田は約半年後に大目付を解任されています。 切腹の言渡し。 揚座敷に収監されていた者は、当日に評定所に移送され、大目付・町奉行・目付立会いで申し渡しをし、その後駕籠に乗せて牢屋敷に帰り、駕籠のまま庭に「差置」とされています。(佐野善左衛門の場合。『刑罪大秘録』より) 御預の場合、江戸城より正使(ほとんどが大目付)と検使(ほとんどが目付・使番)に、小人目付・徒目付などが従って屋敷に行き、正使が申し渡しをします。その後正使は直ぐに帰り、検使以下が残ります。 切腹人(切腹する人)の服装 これが千差万別で分かりづらいのですが、『国史大辞典』は「浅黄(色)無垢無紋の上下」としています。『憲教類典』は中川八郎左衛門の場合の例で、「下に白小袖、上黒小袖、麻上下」としています。『甲子夜話』の朝比奈弥次郎の場合に、「無紋浅黄小袖同上下」を用意しています。『凶礼式』では、「装束は白衣、左前にあわせ、柿色の上下を着す、口伝有レ之、帯も白きなり」とします。 びっくりするのが浅野内匠頭の例で、『浅野内匠頭殿御預之節控(本字は扣)』(御預先の殿様が書いたとされる)には、「内匠へ上意有レ之(これ)間、上下着候様にと申遣す、上下出し着させ候、小袖は昼より着致候儘(まま)にて、上下着させ申候、若(もし)御紋付之*熨斗目に而(て)候はば、為2着替1可レ申と存候得共、自分之(の)定紋故如レ此」とあります。切腹言い渡しのために浅野に上下を与え、小袖が昼からのままで紋付の熨斗目だから、着替えをしましょうといったけれど、浅野は自分の定紋だからこのままでと言ったとあります。言渡しの後直ぐに切腹の場に移っていますので、着替えはしていないので、定紋付熨斗目小袖に、色は不明ですが上下という服装で、切腹したことになります。 歌舞伎の忠臣蔵の塩冶判官(浅野内匠頭がモデル)、時代劇の映画・テレビの浅野内匠頭の切腹装束は、ほぼ白の小袖に、白の裃姿で、定紋付熨斗目小袖が本当であるならば、イメージが違うということになります。これは、文章で説明しても分かりづらいので、下に画像のURLをコピーしましたので、ご覧ください。 *浅黄色=薄い藍色。水色に少し黄色を混ぜたような色。 *熨斗目=(のしめ)縦糸に生糸、横糸に生糸を灰汁などにつけて柔らかくした練(り)糸で編んだ布地を使って仕立てた小袖。江戸時代の武士の礼装である裃や、素襖(すおう)の下に着た。熨斗目小袖のこと。 熨斗目の画像 http://www.bing.com/images/search?q=%e7%86%a8%e6%96%97%e7%9b%ae&qpvt=%e7%86%a8%e6%96%97%e7%9b%ae&qpvt=%e7%86%a8%e6%96%97%e7%9b%ae&FORM=IGRE 熨斗目小袖の画像 http://www.bing.com/images/search?q=%E7%86%A8%E6%96%97%E7%9B%AE%E5%B0%8F%E8%A2%96&qs=n&form=QBIR&pq=%E7%86%A8%E6%96%97%E7%9B%AE%E5%B0%8F%E8%A2%96&sc=0-3&sp=-1&sk=&undefined=undefined 浅野内匠頭の切腹装束(映画で大川橋蔵?が演じた物か) http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/54/9cbc75f0196402b41c7347d790968eba.jpg 浅黄色裃の切腹装束 http://www.sankei.com/images/news/141228/wst1412280010-p3.jpg 切腹の座について 基本的には北に検使の座、南に北を向いて切腹人の座が設けられます。切腹人の座が庭先でも、検使の座は室内に設けられるのが普通です。 畳を敷きますが、その前に、『刑罪書』は「一丈四方程砂を敷」とし、『刑罪大秘録』は図の中で、「四方引砂」としています。『甲子夜話』の記述からは、砂の代わりに糠をつかったようです。砂をまいた上に、畳を敷きます。 畳については、『凶礼式』は「土色を用、長さ六尺、白縁に二畳用べし、敷様口伝あり」。『甲子夜話』の朝比奈弥次郎の場合に、「畳八畳之事 近江表にて新規床共に申付る」。『刑罪書』は、「(敷いた砂の)上江(え)無レ縁(ふちなし)畳二畳敷申候」。『刑罪大秘録』は図の中で、「ヘリナシタタミ」としています。 畳の敷き方については、山本博文著『切腹 日本人の責任の取り方』の中に、参考になる記述があります。井上哲次郎氏旧蔵の「切腹口決」という史料に基づいたものです。 1、極上の敷き方。畳3畳。一畳を長辺を東西にして置き、その下(南)側の長辺に、他の2畳の畳の短辺を合わせて敷く(「丌」)。その敷いた畳の中央部分に布団を置く(長辺を東西にして置く)。 2、上の敷き方。畳3畳。長辺を南北にして川の字状に置き、中央部に布団を置く(長辺を東西にして置く)。 3、中の敷き方。畳二畳。2の敷き方の、畳を一畳減らした敷き方。 4、下の敷き方。畳二畳。「T」字の頭を東(右)側に90度回転させた形に敷きます。頭の部分に切腹人が座り、今一畳のほうに介錯人が立ちます。 この例については、『続視聴草三集』の「赤穂義士切腹図」には、畳三畳としています。敷き方ははっきりしませんが、1の極上のようです。ただ、『細川邸義士切腹図』は畳三畳ですが、明らかに2の上の敷き方です。ただし、『久松家赤穂御預人始末』には「畳二枚」としています。さらに『刑罪大秘録』の「佐野善左衛門切腹図」は畳2畳ですが、敷き方が3ではなく、「日」の字のように敷いてあります。 畳の上ですが、布団が敷かれていたと上記しましたが、布団だけではありません。毛氈、大風呂敷なども敷いています。布団は、『官中秘策』・『久松家赤穂御預人始末』(浅黄木綿に入蒲団敷レ之)、毛氈は『甲子夜話』・『浅野内匠頭殿御預之節控』、大風呂敷も『甲子夜話』(白木綿袷・五布四方)・『凶礼式』(死衣の事、四口長六尺、白地也、畳の上に敷)とあります。これらの布団・毛氈・大風呂敷などは、切腹の後の死骸を包むことや、血を吸着するための目的もあります。前記した砂についても、最初に撒くだけでなく、手桶に砂を入れておき、血で汚れた部分に砂をかけて、血を隠す準備もしています。 夜も更けたので明日。 仁杉五郎左衛門幸信については、以前から知ってはいたのですが、確認のために資料を探したのですが、まとまったものは『徳川幕臣 人名辞典』と、下記のWikiにしかないので、参考に。 仁杉五郎左衛門幸信 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%9D%89%E4%BA%94%E9%83%8E%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
- fumkum
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こんにちは 時代劇や歴史小説は、時代背景を江戸時代に借りて、現代の事柄を描いていることも多く、厳密な歴史考証・監修が必要であるとは思いませんが、時代劇や歴史小説をきっかけに歴史に興味を持つ人が増えることは、良いことだと思います。ただ、歴史の分野では史料に基づく事が必要で、そこが時代劇や歴史小説との違いであると思います。 さて、時代劇「必殺仕事人2009」のことですが、切腹のシーン云々よりも、切腹を命じられる、することができるのかということがまず問題になります。江戸時代の後期、天保の改革をめぐって権力闘争がありましたが、その時に、江戸南町奉行所年番方与力の仁杉(ひとすぎ)五郎左衛門幸信が罪に問われたことがありました。江戸町奉行所は、奉行-与力-同心という階層になっていますが、奉行は旗本が選任されて、トップとして就任します。しかし、奉行は現在のキャリア官僚と同じく、さらに転任することが多い職です。ただし、中には20年ほども在任する者もいます。これに対して与力・同心は身分的には御家人で、*一代限りの*抱(え)席という身分でした。江戸町奉行所与力・同心は、ほぼ転任することがなく、親から子と役職を引き継いでいく者がほとんどで、実務を切り回しており、現代のノンキャリア官僚と似ており、町奉行は与力・同心組織に乗っている状況でした。この中で、年番方与力は3名(2名の時期もあり)で、実質的に奉行所の実務を統括し、人事と予算を握っていた存在でした。 このような立場にあった江戸南町奉行所年番方与力の仁杉五郎左衛門幸信が、南町奉行が筒井政憲であった時期に、天保の飢饉(天保4年~天保10頃まで)で御救小屋の運営、御救米の調達に活躍し、褒賞されます。しかし、御救米の調達に不正があったということで、天保12(1841)年に矢部定謙によって告発されます。この告発により矢部定謙は、筒井の後任の南町奉行になり、仁杉は牢屋に入れられ、獄死します。しかし、矢部も奉行を解任されます。その結果について『徳川実紀』の「天保13年3月22日」に次のような記述があります。 この日西城(西の丸)留守居前町奉行筒井紀伊守(政憲)は。与力仁杉五郎左衛門が事に座せられて職とかれ*御前をとどめらる。寄合(無役の旗本)矢部駿河守(定謙)はとがめられて松平和之進へながくあづけられ。前町奉行所与力仁杉五郎左衛門はながらへあらば死罪たるべく。その子二人は遠流(島)に処せらる。また連座のもの多し。 処分としては、旗本の筒井は解任で自宅謹慎。矢部は重く、家を潰し(改易)、伊勢桑名藩に御預(この場合は島流プラス投獄処分に近い)となっています。 これに対して仁杉は、獄死しなければ死罪=斬罪処分であるとされています。切腹ではないのです。これは、仁杉が御家人身分、それも与力であったことによるだろうと思います。 与力は、江戸町奉行所だけでなく、武官の大番組や書院番組、江戸城の留守居、大坂町奉行などの遠国奉行の組下にも存在し、その中でも町奉行所与力は、罪人を扱うので不浄役人とされ、格下と見られています。町奉行所与力について、戦国時代の足軽大将とする珍説がありますが、実際は足軽身分だと見られています。これは、江戸幕府が塙保己一に命じて作らせた『武家名目抄』の「職名部附録 同心」の項に、「同心は与力の意と異なることなし。-中略-騎馬の同心をば与力と称し、歩(かち)同心をのみ同心といふこととなれり」。さらに別の『武家職号』という書籍には、「与力は馬上同心とし、それに付を歩行同心といふ歟、是は足軽と同じ事なるべし」としています。町奉行所与力は、騎馬足軽ということになります。ただし、江戸時代も後期になると、与力も武士身分になったとする説もあります。 何を言いたいのかというと、切腹は武士に許された名誉刑であって、武士とは認められない足軽以下(卒族)には適応されないということで、御家人には与力・同心である者も多く、切腹ということは認められなかった可能性がある(高い)ということです。それなので、旗本であれば「ながらへあらば『切腹』たるべく」とされるところを、仁杉は『死罪』とされたと考えられるのです。 話は変わって、山本博文著『切腹 日本人の責任の取り方』の中に、次のような文があります。 千葉徳爾氏は、「江戸時代に切腹は、正式に認められる形では極めて稀なことであり、八百万石の徳川幕府の刑としても約二五〇年の治世にわずか二〇件ほどしか執行されていないということを注意しておきたい」(『日本人はなぜ切腹するのか』)と述べている。これは重要な指摘で、筆者が探索した限りでも、史料に残る旗本の切腹刑が稀だったことは確かである。 これは、評定所への呼び出しを受けた場合などに、自主的に切腹した場合には、罪を問わず、子などに相続を許すという慣行があったことにもよるとしています。それができなかった場合、尋問され、牢屋である(小伝馬町の牢屋敷内にある)揚り座敷へ入れられて、『一服』といって、御薬頂戴で服毒を強要され、その場合「先祖の功績が多大な者は、知行の半分を召し上げられるだけで、家督相続が許されたという」としています。仁杉の場合も、家督相続はできませんでしたが、一服だった可能性もあります。これらのことは、「どうあっても旗本に不心得者はいない、という建前を維持しようとする幕府当局の姿が窺える」としています。 山本博文著作では、切腹刑についての言及が旗本・武士のことのみですが、御家人の例がないわけではなく、享保11年に、伊賀者が切腹になった例があります。乱心の朋輩(多分伊賀者)を取りすくめようとして、討ち止めてしまったという事件内容にもよるのだとは思います。 *一代限り=実際は子息などが見習いという形で臨時採用され、本人の隠居などを受けて、子息などが親の身分を引き継ぐことがほとんどで、実質的には世襲でした。 *抱(え)席=御家人の家格は、譜代(席)・二半場(准譜代席)・抱(え)席に分かれます。譜代席・二半場は、世襲制で、役職を退いても、御家人身分と家禄を保証されました。これに対して抱(え)席は、原則一代限りで、役職を引く、死亡する時は、御家人身分を失い、俸禄はなくなることになります。与力・同心は抱(え)席でしたが、江戸時代も進むと、譜代席に移行したとされ、与力の中には旗本身分に昇格したとする説もありますが、大部分の者は、御家人身分でした。 *御前をとどめらる=差控(さしひかえ)のこと。自宅謹慎処分。 切腹の作法・故実については、『古事類苑』の法律部の小項目「切腹」の項の先頭に、次のようなまとめがあります。 切腹は、士以上の者を処刑する法なり、徳川氏の時に至りては、正副介錯人ありて、獄舎内に於て之を処刑するあり、又は罪人を預け置く大名の邸中に於て処刑するあり、共に検使を発して之を監視す、其儀庭中を画して砂を敷き、其上に畳二畳を敷きて、処刑の場と為し、正介錯人、囚人に対し、自ら姓名を陳べて一礼し、刀を抜きて其背後に居る、副介錯人、囚人を扶けて衣を袒せしめ、相図の咳を発するや否や、牢屋同心木刀を載せたる三宝を持て来りて、囚人の席を距ること三尺許に置く、副介錯人、囚人に令して三方を戴からしむ、囚人手を伸べて之を執らんとする時、正介錯人背後より首を刎ぬるなり。 以上の切腹の作法・故実については、一例というべきで、時代によっても、地域(藩)などによっても違いがあります。 今日はここまでで終了とさせていただきます。明日にも追記したいと思います。以上、参考まで。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 「必殺仕事人2009」は見ていませんが、以前、「必殺仕事人」をTVでみていました。 菅井きんさんの「婿殿!」が何とも面白かったですね。 さて、一応正しいと言われる切腹の作法を述べてみます。 (1)畳はなるべくなら縁のない、いわゆる「琉球畳」と言われる物を使います。白い布などで覆うことはありません。通常は1畳ですが、大名(例えば、浅野内匠頭)などの位の高い人物の場合は2畳にする場合がありました。 (2)屏風も無地の薄茶色、または、無地のグレーを立てます。白い布で覆ったりはしません。 ただ、大名などの切腹の場合は、刑場の四方に枝葉の付いたままの細い竹を4本立てて、左右には白い布を垂らします。後方は屏風。 (3)切腹人(以下、当事者とします)の前には三方が置かれてあり、その上には、半紙が三方と斜に置かれ、その上に柄を外した懐剣が平行に置かれてありました。 また、大名など位の高い人物の場合は、その上に短冊が1枚乗せてあり、三方のそばに硯箱が置かれ、辞世の句を書きました。 (4)いよいよとなると、当事者は、両手を襟のあたりまで持っていき、襟をス~ッと撫で下げて、腹部のところで白衣を左右に広げます。 (5)三方に乗っている半紙で懐剣の切っ先を残して2/3ほど巻き包みます。 (6)懐剣を右手に持ち、左手で三方をやや高く持ち上げ、軽く一礼をしてから、三方を尻に敷きます。 これで、当事者は前傾姿勢となり首がやや突き出た状態となります。 (7)この間に当事者の左やや後方に立っている介錯人は、音を殺して鞘から刀を抜きます。身分の高い正式の切腹(御公儀=幕府からの命令)などの場合は、介錯人のさらに後方に水桶が置かれ介添人がおり、介錯人が刀を下げて、介添人が柄杓で刀に水をかけます。そして、静かに刀を振り上げます。 こうした動作の折、当事者から 「ご貴殿の名は?」 と聞かれても、 「剣一筋の者でござる。御安心めされよ」 と答えて、決して名前は名乗らない。 (8)当事者は、懐剣を握ったまま平行にして、また、軽く一礼をします。 (9)やがて、当事者は懐剣を左わき腹に突き刺し、右へ真一文字に引き、さらには、少しばかり上へと引き上げます。 しかし、これは一応は正式な作法ではあるのですが、当事者の苦痛は相当なもので、「L字」まで斬りあげる人は全くと言って良いほどいませんでした。 そこで、江戸時代中期頃からは、当事者の苦痛を和らげるため、「エイッ」と一声叫び、腹に刺す真似をしました。 (10)この声と同時に介錯人が刀を振り下ろし首を刎ねました。 この時、首の皮1枚を残すのが礼儀です。 (11)御公儀(幕府)の命での切腹では、大名などでは「大目付」が、畑本や御家人の場合は「目付」が必ず見届人として立ち合いました。 白い布で畳や屏風を覆ったりしたのは、多分に演出効果を狙ったものだと考えます。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11121/34617)
必殺シリーズは、時代劇版007シリーズみたいなものです。「007は実在するイギリスの情報組織MI6に所属している設定になりますが、実際のMI6にもボンドカーのような車があるのでしょうか。また、00のコードネームを持った人は殺しのライセンスを持っているのでしょうか」と聞くようなものです。 あるいは、「ゴジラシリーズを見ていたら自衛隊が秘密兵器を出してきましたが、現実の自衛隊もこのような怪獣が上陸してきたときに備えて秘密兵器を保有しているのでしょうか」と聞くようなものです。 蛇足:句点が、多すぎて、えらく、ひどく、読みづらい、です。句点は、そんなに、いりませんから、もうちょっと、読みやすく、書くように、してください。子供の頃、作文で、先生から、指摘、されません、でしたで、しょうか?
- kuma56
- ベストアンサー率31% (1423/4527)
必殺仕事人のような時代劇に、厳密な時代考証を求めるほうがナンセンスだと思いますよ。 質問文中で質問者自身が、 時代劇の切腹シーンとしては、良く見るシーンなので、すぐに、分かります。 としているように、視聴者の多くが持っているだろう江戸時代の切腹のイメージで作ると、そういうシーンになるんでしょう。 実際には衣装の色など相違点はありますが、そういうものというイメージで流してしまうのが、あの手の時代劇というものだと思うよ。 他の番組だが、やはり長らく続いた時代劇シリーズで、時の将軍と同じ名字のとある大名家の髭の隠居が興味本位で?全国を旅して地元の代官所などに乗り込んで裁きを行う・・・・・なんて、史実には沿っていないし、そもそもその主人公は髭など生やしていなかったので、四代目に主役を演じた俳優の時に髭無しで放送したら、クレームが来たってくらいだからねぇ・・・・ トムクルーズ主演の時代劇映画だって、明治初期なのに忍者集団が出てくるなんて米国事情で時代考証的にはおかしいし、勝元に捕えられたオールグレンが連れて行かれた勝元の地元の女性の中で、たかだけが頭抜けて綺麗ってのも演出上のそれなんだろうね。
お礼
回答、有難う、ございます。 「一口メモ的に、色々、回答されたので、BAにしたい」と、思います。 又、質問した時は、よろしくお願い、致します。