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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動)

終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動

Kittynoteの回答

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.6

再三お騒がせ致します^^ >ホントに「取引」したのか、したとすればいつ頃か、 少なくとも下記記述からは、蒋介石・岡村寧次間の取引があったとは思い辛いです。 ・『若手研究者研究成果報告論集No.1/愛知大学国際中国学研究センター/2006-03-31』 http://iccs.aichi-u.ac.jp/report/report.html?report_id=32 〇「国民政府の対日戦後処理方針の実際-戦犯問題と賠償問題/和田英穂」 http://iccs.aichi-u.ac.jp/report/file.html?file_id=988 3 アメリカへの反発と現実─酒井隆中将、岡村寧次大将の引渡しをめぐって [128・129]<6・7/11> (2) 岡村寧次大将のケース ただし、帰国後、対GHQ、G2など米国の裏舞台との関係では、 現時点では想像の域を出ませんが、 戦犯容疑部分を含め何らかの取引があってもおかしくないと考えています。 下記は古い論文で、岡村寧次関連の記述<13/77など>も僅かではありますが、 朝鮮戦争前後の米国の裏舞台の状況がある程度把握出来るように思います。 〇「対外関係の構造変化と外交/関寛治」 ・『年報政治学 Vol.28(1977)/日本政治学会』(63-139頁) https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/28/0/28_0_63/_article/-char/ja/ 以上 再三の断片情報に過ぎませんが 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答真にありがとうございます。 質問の原点に戻りますと、 「まさに手のひらを返すがごとく百八十度方針転換して、昨日の敵・蒋介石と手を結び、積極的に蒋介石を支援したのはなぜですか。」。 私は、岡村大将と蒋介石両者の間に何らかの「取引」があったのだろう、それも岡村が自己保身のために蒋介石にもちかけたのだろうと、推測しました。 事実は、まさに正反対に近いものでした。 岡村大将の無罪判決について若手研究者が研究成果を発表しているのですね。 『若手研究者研究成果報告論集No.1/愛知大学国際中国学研究センター/2006-03-31』は、たいへん参考になりました。 後日読み返すこともあるので核心部分を抜粋しておきます。 「以上のように岡村に対して破格の待遇を以って処していたことがわかる。特に軍上層部は世論の岡村の裁判を求める声,あるいは GHQ からの東京裁判への証人としての出廷要請をことごとく連絡班の任務,または病気を理由に最後までかばい続けたのである。この理由として迅速な引揚げを成功させた功績や寛大政策を挙げているが,それ以上に当初は岡村との個人的な関係,そして国民政府の国内・国際的地位が危うくなってからは,対日・対米関係などが作用していたことがうかがえる。」 また、回答#2で提示された「「<論説>南京1945年8~9月─支那派遣軍から総連絡班へ─/三好章」の一節ですが、私にとっての疑問に答えてくれました。 「国民党が日本軍「将兵を信服させるような一連の措置を取った」ことが効果的であり、中共が「国民党政府のように、日本軍に正式な指示を出せる権限がなかった」ゆえに日本軍の抵抗にあったと指摘するのは、本稿の立場とも共通している。」 日本がポツダム宣言を受諾した直後、まず始めに蒋介石のいわゆる「以徳報怨」声明が出たのですね。 この声明は知っていましたが、この思想が国民党軍の末端まで浸透しているとは、思っていませんでした。 トップの「きれいごと」くらいの感覚で捉えていました。 これでやっと「取引」と呼ぶような裏交渉はなかったのだ、と納得しました。 蒋介石・国民党軍が親切だったから、岡村大将以下日本軍もその親切に応えた、そして現在まで日台は友好関係が続いている、という構図と思います。 しかし、捕虜の人格を認めるという思想は、日露戦争に見るが如く、もともと明治日本にあった思想ですね。 日本に留学した経験をもつ彼らがこの思想を実践したのに、教えた日本が今次大戦ではそれを忘れてしまったのはなぜでしょうか。自問自答しています。 前回のお礼欄に「交渉というよりは友好的に話し合いをする中で、蒋介石は岡村大将を戦犯として訴追しないと、自然に思ったのではないでしょうか。」と書きましたが、戦犯として訴追しています。 間違ってました。 いろんな資料・史料を教えてくださるので、丹念に読めば質問したこと、知りたいことがだんだんはっきりと姿を現してきます。 ご教示に感謝申し上げます。 これで締め切りたいと思います。 (メモ)『若手研究者研究成果報告論集No.1/酒井隆中将、岡村寧次大将の引渡しをめぐって』において“第7次戦犯リスト”について疑問があります。後日調べます。 岡村は中国各地の日本官兵善後連絡部を統率し,日本軍民の引揚げや戦犯処理に関して重要な役割を担った。この時期,中共側からは戦犯リスト第一号,国民政府からは“第7次戦犯リスト”に挙げられ,世論からも裁判の要求が高まっており,更には GHQ から東京裁判への出廷要請もあった。 https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/44230/1/SocioScience_20_Shiroyama.pdf#search='%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%BA%9C+%E7%AC%AC%EF%BC%97%E6%AC%A1%E6%88%A6%E7%8A%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88'

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