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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動)

終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動

Kittynoteの回答

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.4

No.2の Kittynote です、再度失礼致します。 その後、アメリカの当時の対中政策について下記などを紐解いてみましたが、 ・米中関係の歴史と日本/小野勇 『江戸川女子短期大学紀要 11/1996-03-31』(103-113頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000468845 ・アメリカの中国観/山極晃 『二松學舍大學東洋學研究所集刊 27/1997-03-31』(83-94頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110006178107 ・「中国の喪失」(一) : 朝鮮戦争とアメリカの対中政策イメージの変容/石田正治 『法政研究 58(3)/九州大学/1992-03』(371-491頁) ※これは飛ばし読み^^※ http://ci.nii.ac.jp/naid/110006261860 やはり当時の米国の対中政策については、表舞台での積極性は感じられません。 ただ一方で、岡村寧次元陸軍大将は「'49年1月に国民党政府に由る「無罪」判決」 とは言え、帰国すればGHQから改めての訴追があってもおかしくないところ、 GHQ参謀2部のカイン大佐と面会した程度でお咎め無し、 後年例えば昭和26年5月26日衆議院行政監察特別委員会でも、 「梨木委員/岡村寧次元陸軍大将は蒋介石政権の最高顧問として中国においても活躍し、 その後いろいろの情報によりますと、日本においての募兵計画についての大きな密令を 帶びて日本へ来ているというように伝えられております。…」 「梨木委員/…さらに岡村寧次元大将が日本に帰つて来た後において、台湾から呉鉄城 氏という人が来まして、この岡村寧次元陸軍大将を訪れたということを雑誌などでわれ われは散見するのでありますが、…」等と質問に出る程度で勿論お咎めも無し。 なので蒋介石・岡村寧次間の問題に止まらず、 GHQの黙認と言うよりは関与抜きには考え辛いため、 米国の表舞台の対中政策とは別に、マッカーサーやウィロビー等の何らかの裏工作が 有ったと思わざる得ません。 また、前投稿では 「戦犯容疑者という己の立場を軽減・回避する為の自己保身と考えるのが妥当かと…」 カキコミましたが、敗戦とは言え自らは負けていないとの思いの中の復員・引揚業務、 それが軍事顧問などを引き受けることで職業軍人としての新たな活路が見出せたこと、 やがて戦犯容疑者という立場を回避することにも繋がったかと… ややニュアンスを変えてみました^^ あと、余談ですが気になったこと。 蒋介石の留学期に関しましては、下記が典拠も明確で詳しいかと思います。 ただし、注[10][12}[16]等のいわゆるアジ歴のデータ側に関しましては、 「蒋介石」が当時の称は「蔣志清」になっています。 〇「蒋介石の人格形成と日本/黄自進」 『日本研究 42/国際日本文化研究センター/2010-09』(93-121頁) http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/handle/123456789/1637 [93~98]<1~6/29> 二、留学期 以上 またまた新ネタは殆ど無く、お騒がせして申し訳ありませんm(_"_)m

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答真にありがとうございます。 >敗戦とは言え自らは負けていないとの思いの中の復員・引揚業務、それが軍事顧問などを引き受けることで職業軍人としての新たな活路が見出せたこと、やがて戦犯容疑者という立場を回避することにも繋がったかと… そうですね。そういうことも言えるでしょう。 中国から見れば、憎い相手の一番手は暴支膺懲声明を出した近衛文麿、そして日本軍人では南京戦の松井石根でしょう。 この二人に比べると、岡村は許せる存在かと…。 >やはり当時の米国の対中政策については、表舞台での積極性は感じられません。 分かりました。 アメリカは、共産主義の広がりを阻止するために、蒋介石に働きかけ、岡村寧次と日本軍を利用したのではないか、と想像していましたが、こんな露骨なことはやっていませんね。 自己保身だろうと疑うのは、何かの本で外務大臣・東郷茂徳が次のようなことを書いていたのを思い出したからです。 「最高戦争指導会議」で“国体護持”が最重要と言っていた軍部が、会議が終わるとすぐさま東郷のもとへ寄ってきて「自分は戦犯になるのか」としつこく聞いてきた。軍にとっての国体護持の意味とはこの程度のことだと思った。 しかし、#5のご回答を読んで、保身のための「取引」や「密約」というような裏交渉があったのか、考え直しています。

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