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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動)

終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動

Kittynoteの回答

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.8

自治会公園清掃&法事などでバタバタしておりまして、 No.7お礼コメント欄を拝見するのが遅くなってしまいました。 >岡村たち戦犯は、マッカーサーが用意した専用船『ヨハネビックス』号で >帰国しています。 >これが事実なら、なぜ“専用船”を差し向けたのか、という疑問が生じます。 >マッカーサーが岡村を確実に逮捕するためだったのか、 >それとも蒋介石に頼まれたのか? 国会会議録検索システムにて、 http://kokkai.ndl.go.jp/ 簡易検索/検索条件(昭和20.8.15~30.12.31/院名すべて/検索語:戦犯)の結果、 検索件数…932件ヒット、検索結果一覧表示のあと、日付による並び替え「古い順」。 (※個々の文字は、画像から読みとったテキストデータですので、誤字・脱字等がある 可能性がありますが、会議録(冊子)画像での確認はしていません※) によりますと、 〇[054/932]/回次4/衆議院/本会議/号数5号/昭和23年12月07日 <10/24>○国務大臣(吉田茂君) お答えをいたします。…(中略)…また、ただいま引揚げ同胞の問題についてお話があり ました。これは最近の吉報として御披露いたしますが、中華民國が御承知のごとく今日 はなはだ不安な状態にあるので、なお戰犯その他の関係から中華民國に残留いたしてお る同胞の安否については、われわれもはなはだ懸念いたすのでありますが、最近承知い たしたところによりますと、連合軍司令部においては、特に艦を仕立てて、その日本へ の帰還について、すでに準備を進めておるそうであります。…(後略)… 〇[64/932]/回次5/参議院/本会議/号数8号/昭和24年04月04日 <14/27>○國務大臣(吉田茂君) お答をいたします。御質問の御趣意は誠に御尤もであります。政府といたしましても、 この処置につきましては從來とも甚だ心配いたしておつたのでありまするが、特にここ の申上げたいことは、昨年の十月であつたか、十一月であつたか、ちよつと記憶があり ませんが、確かな日にちは記憶はありませんが、恰かも南京、上海、あの辺が危險状態 になつて、そのために南京、上海地方において拘禁せられておる陸軍の戰犯に関係して おる將士の安否については甚だ心配な状態のように新聞その他において見られたもので ありまするから、マツカーサー元帥に、これはどう処置せられるものか。 新聞に傳うるところによつては、今にも上海或いは南京地方が共産…中共でありますか、 のために占領せられて、不幸な事件が起りはしないかと思つて心配するのであるという 話をいたしましたところが、元帥は、直ちにそれは船を送つて、そうして全部日本に帰 還せしめることにしておるという話でありました。 それから間もないと思いますが、三百四十何名かと思いまするが、日本に帰還して今は 巣鴨におります。というような…これは上海、南京の話でありまするが、北部の地方に ついては実は状況甚だ不明なのであります。…(後略)… 上記発言だけでは、GHQの独自判断か蒋介石の依頼によるかは定かでありませんが、 中国共産党軍の勢力拡大に伴い、少なくとも中国(国民政府)の管理下にある戦犯などは 昭和23年12月7日以前(10月11月?)から 「…連合軍司令部においては、特に艦を仕立てて、その(※戰犯その他の)日本への帰還 について、すでに準備を進めておるそうであります。…」 状況にあったことは確かなようです。 御教示いただきました 『「日本政界の台湾ロビー及び中日関係に対するその影響/张進山」 2、「恨みを徳で返す」下での日蒋軍事結託』は、 筆者の立場が変われば表現も変わるのが面白かったです^^ また、『ヨハネビックス』号と船名まで記述されているのは中々のものですね。 ただ、「1949年1月26日アメリカと蒋介石の意…」との曖昧表現は、 他の論文などにも言えることですが、岡村寧次無罪判決にGHQが事前関与したのか、 単に事後追認なのか、それとも東京裁判A級戦犯以外の中国国内戦犯については、 中国(国民政府)判決が尊重されたのか、あるいは中国(国民政府)判決にかかわらず、 GHQが改めての控訴的な意味合いの訴追も有り得たのか、 …何れにしても裁判とは名ばかりで戦勝国の一方的な制裁に過ぎないと考えますが… 残念ながらこのあたりがハッキリしません。 〇「中国の対日戦犯処理政策:厳罰主義から「寛大政策」へ/豊田雅幸」 『史苑 69/立教大学/(2009-03-19)』(15-45頁) https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&all=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AF%BE%E6%97%A5%E6%88%A6%E7%8A%AF%E5%87%A6%E7%90%86%E6%94%BF%E7%AD%96&count=50&order=0&pn=1&st=1&page_id=13&block_id=49 <6/31> 国民政府のこのような処置に対し、共産党側は、二日後の一月二八日、これに反対する 声明を発し、「あらためて岡村寧次を逮捕するとともに、われわれがのちほど通知する 期日と地点にしたがって、責任をもってかれを人民解放軍のもとに護送しなければなら ない。その他の日本人戦犯は、しばらく諸君が拘禁しておき、われわれの処理をまつこと、 これを一人でも勝手に釈放したりわざと逃がしたりしてはならない」と命じた。 しかし国民政府は、共産党側の主張を容れることはなく、岡村に加え、既決戦犯二六〇 名をも日本へ送還したために、二月四日の、A級戦犯容疑者に対する裁判の権利を主張 した中央委員会の声明の中で、岡村に対する再審の権利と、二六〇名の再送還を要求し ている。 これに対し国民政府は、要求自体は拒否しつつも、岡村に対する最終決定は考慮中であり、 「若し判決が不当なものと判れば再審のため中国に送り返される」との見解を示した。 <『毎日新聞』1949年2月5日付、『新聞史料にみる東京裁判B・C級裁判 第2巻  BC級裁判・戦犯裁判一般』(毎日新聞政治部、内海愛子・永井均監修・解説、現代史 料出版、2000年)108頁> 上記フレーズが中国共産党に対する単なるデタラメ宣伝なのか、 実際の仕組みを述べたに過ぎないのか定かではありませんが、 当時、仮に中国共産党に岡村寧次が逮捕されるような事態に陥った場合、 一番困るのはGHQではなく、自らのアキレス腱にもなりかねない 蒋介石だったのではないでしょうか。 以上 またまた文字数の割に中味が薄くて申し訳ありませんm(_"_)m

kouki-koureisya
質問者

お礼

衆議院本会議の議事録まで調べて下さって真にありがとうございます。 “専用船”と聞いて豪華客船を想像しましたが、戦犯の管理は移送も含めてGHQの業務ですから、岡村を特別扱いにしたわけではないようですね。 >……岡村寧次無罪判決にGHQが事前関与したのか、単に事後追認なのか、それとも東京裁判A級戦犯以外の中国国内戦犯については、中国(国民政府)判決が尊重されたのか、あるいは中国(国民政府)判決にかかわらず、GHQが改めての控訴的な意味合いの訴追も有り得たのか、 >…何れにしても裁判とは名ばかりで戦勝国の一方的な制裁に過ぎないと考えますが… >残念ながらこのあたりがハッキリしません。 ハッキリしませんね。 これは、今回の質問とは別に質問を立てた方がよい問題だと思います。 >……当時、仮に中国共産党に岡村寧次が逮捕されるような事態に陥った場合、 一番困るのはGHQではなく自らのアキレス腱にもなりかねない蒋介石だったのではないでしょうか。 同感です。 結局、事実が分かったとしても、その事実をどのように認識するのかは、立場(国)によって異なりますから両論併記で結論としたいです。 質問:岡村大将が昨日の敵・蒋介石と手を結び、積極的に蒋介石を支援したのはなぜですか。 蒋介石が、終戦後の日本軍に対して寛大な態度を示したから。 その訳は一言で言えば“岡村との個人的な関係”があったから。 もちろん様々な反対論があったにもかかわらず押し切ったのは、両者、とくに蒋介石にとってメリットがあったから。 では、岡村と蒋介石の間に何らかの“取引”があったのか。 あったに違いないが、取引と呼ぶか、協力と呼ぶのか、なんとでも言える。 そういう訳で、(両論を書きませんが)両論併記ということになります。 岡村の処遇について、蒋介石がアメリカの意向を聞いたのか、聞いたとしても参考程度に留めたのか、何とでも解釈できるので、両論併記ということで締め切りたいと思います。

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