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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動)

終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動

Kittynoteの回答

  • Kittynote
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回答No.2

>大本営も支那派遣軍にだけは、 >「重慶軍及延安軍の無秩序なる行動に対し万止むを得ざるに於ては >局地的自衛の措置を実施することを得」という例外を認めています。 下記論説[65~67]<10~12/21>によれば、 8月17日午前10時、支那派遣軍総司令官名で 「派遣軍ハ厳粛ナル軍紀ノ下ニ一ニ本職ノ命令ニ基キ挙措進退ヲ律シ ……蒋委員長ハ速ニ中国軍全部ニ対シ末梢部隊ニ至ル迄即時現態勢ヲ以テスル停戦実行 ヲ徹底セシメラレンコトヲ要請ス 自今右不穏行動ヲ継続スルモノニ対シハ…… 派遣軍ハ已ムヲ得ズ断乎タル自衛行動ニ出ヅルコトアルヘシ」と通告した流れから、 大本営は単に現場判断を追認して8月22日付で例外条項を認めたとも読み取れます。 また、支那派遣軍の降伏受理交渉である芷江会談は、中国側と中国戦区アメリカ軍作戦 司令部参謀長バトラー准将も加わって8月21日から3日間に亘って進められ、 8月23日、最終的に陸軍総司令何応欽が中国側に代表として加わり、 そこまでの交渉を確認し、10分程で散会した様子からも、 時系列で見る限り少なくともこの時点では、中国・米国側と言うより、 支那派遣軍(岡村寧次)側の自衛の為の主張と大本営の追認と受け取れますとともに、 8月21日20:30-23:30の芷江会談(後記「●件名:第3号 細部に関する連絡事項」)では、 …「蔡(※中国陸軍総司令部副参謀長少将蔡文治)」 何総司令ハ蒋委員長ノ命ヲ奉シ全責任ヲ有シ居ルヲ以テ何総司令ノ命令ヲ受ケタルモノ 以外ニ對シテハ如何ナル部隊ヨリ武装解除ノ要求其他ノ交渉アルモ貴軍トシテハ自衛行 動ヲ採ラルヽモ可ナリ此等武装團体ハ土匪ニ類スルモノナリ… と中国側も支那派遣軍(岡村寧次)側の自衛行動を認めています。 〇「<論説>南京1945年8~9月─支那派遣軍から総連絡班へ─/三好章」 『愛知大学国際問題研究所紀要 143号/2014-03-25』(55-75頁) https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4085&item_no=1&page_id=13&block_id=17 ●件名:第3号 細部に関する連絡事項 [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>支那>大東亜戦争>北支> 第1軍司令部備忘録綴 昭和20年 [レファレンスコード]C13070335500[年代域]昭和20年[画像数]19 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13070335500 <4/19> なお、前記論説<17/21>によれば、 …1945年11月からは国府軍から日本軍将兵への雑費が毎月支給され、その金額は 「将官八千元、佐官四千元、尉官二千元、下士官四百元、兵二百元」 (『岡村寧次大将資料』75頁)であり、 「この金額は、中国正規軍将兵の給料と同じであった」(黄自進『蔣介石と日本―敵と 友のはざまで』武田ランダムハウスジャパン、2011年1月、190頁。)という。… ことと、下記[96]<24/26>の註100)『辞海』の「岡村寧次」経歴の 「→日本投降後に蒋介石の秘密軍事顧問→'49年1月に国民党政府に由る「無罪」判決→」 を併せ見れば、双方の持ちつ持たれつ関係が浮かびます。 〇『立命館国際研究.15(1)/立命館大学/2002-06』 「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(2)/夏剛 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8313250/1 [96]<24/26> 註 100) 『辞海』の「岡村寧次」(1884~1966)の経歴には、 陸軍大学卒→1925年直(河北)系軍閥・孫伝芳の軍事顧問→ '28年に日本軍歩兵聯隊長、済南惨事の元凶→(略)中国派遣軍総司令(最終軍歴)、 「三光」政策を実施→日本投降後に蒋介石の秘密軍事顧問→'49年1月に国民党政府に由る 「無罪」判決→'50年に台湾「革命実践研究院」高級教官に招聘→日本に死去、と有る。 なお、下記によれば「台湾の国民党軍を秘密裏に支援した旧日本軍人による義勇軍を マッカーサー最高司令官が黙認」ということはあったようですね。 〇47NEWS>共同ニュース>記事詳細 http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010122201000838.html 2010/12/22 19:43 【共同通信】 旧日本軍人の台湾支援黙認 マッカーサー関与の新資料発見 戦後の冷戦下、台湾の国民党軍を秘密裏に支援した旧日本軍人による義勇軍を、 連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官が黙認していたことを示す資料を、 有馬哲夫早大教授が22日までに米国立第2公文書館のCIA文書から発見した。 米側が中国共産党軍に対抗するため、ポツダム宣言で武装解除された旧日本軍人の戦闘 行為を、情報工作の一環として非公式に認めていたとみられる。 見つかったのは、国共内戦中の1949年2月4日付の報告書。 GHQ参謀2部(情報機関)トップのウィロビー少将の部下カイン大佐が、 国民党政府に同年1月釈放され帰国したばかりの元戦犯容疑者、 岡村寧次・旧中国派遣日本軍総司令官と面会した際のやりとりが記録されていた。 あと、下記からは、米国の対中方針にも揺れがあった様子が伺えます。 〇「敗者の帰還─中国からの復員・引揚問題の展開─終戦外交と戦後構想/加藤陽子」 『国際政治 Vol.1995 No.109』(110-125頁) https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1995/109/1995_109_110/_article/-char/ja/ >岡村陸軍大将の行動をどう解釈すればよいのでしょうか 断片情報を繋ぎ合わせる限りでは、反共の為に蒋介石と手を結んだ何て言うよりは、 (岡村寧次氏の関係者の方々には申し訳ありませんが) 戦犯容疑者という己の立場を軽減・回避する為の自己保身と考えるのが妥当かと… ただ、残念ながら『戦後、戦死者五万人のなぞをとく/大庭忠男/本の泉社/1999』は 未読なので何ともコメント出来兼ねますが、山西残留事件などを持ち出すまでもなく、 共産党軍と衝突=岡村寧次の責任というのは少し違うように思います。 以上 纏まらないままではありますが 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧なご回答真にありがとうございます。 戦争末期、軍首脳部が最重要課題としたのは、表向きは国体保持、本心は戦犯逃れ(自己保身)だったと思っています。 岡村大将の行動も自己保身以外の何ものでもないと思っていましたが、質問には「どちらにせよ両者の思惑が一致したのでしょう」と婉曲に書きました。 人は誰しも、まず自己が大事と思うのは本能ですから、岡村の行動の是非をとやかく言うつもりはありません。 ホントに「取引」したのか、したとすればいつ頃か、という疑問があって質問しました。 蒋介石は、天皇の戦争責任に言及していますが、岡村を許しています。 そこまでして蒋介石が岡村から何を得たのか、得るものがあったのか、疑問でした。 日本軍の武器・弾薬は武装解除で入手できます。 米軍からは飛行機まで支給されていますから、日本軍の何が欲しかったのかと言えば、“兵”以外には思いつきません。 「密約」「裏取引」は表には出てきませんからね。 >共同ニュース「旧日本軍人の台湾支援黙認 マッカーサー関与の新資料発見」2010/12/22 「戦後の冷戦下、台湾の国民党軍を秘密裏に支援した旧日本軍人による義勇軍を、連合国軍総司令部のマッカーサー最高司令官が黙認していた」 「米側が中国共産党軍に対抗するため、ポツダム宣言で武装解除された旧日本軍人の戦闘行為を、情報工作の一環として非公式に認めていたとみられる。」 こんな事実 (義勇軍) があったのですね。 うっかりしたことはいえませんが、これも蒋介石と岡村の「取引」の一つだったのでしょう。 すると、1945年11月から国府軍から日本軍将兵に毎月支給された「雑費」は、“傭兵”としての費用になるのかも。 百万人全員に支給されたのか、一部の将兵だけだったのか、カネを貰っても日本兵個人が街で使えたのか疑問は尽きませんが、いつか調べてみます。 『立命館国際研究』の「儒商・徳治の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(2)」は、 本文よりも「註」の方が面白いですね。エピソード満載です。 毎回、面白い資料を教えて下さること、楽しみにしています。

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