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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動)

終戦時、支那派遣軍総司令官・岡村寧次の行動

Kittynoteの回答

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  • Kittynote
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回答No.7

えっ?!もう締め切るのですか^^ 何て冗談はさておきまして、 本来なら回答投稿側である私の方が自らの投稿分を整理すべきところ、 断片情報を書き散らかしただけで誠に申し訳ありませんm(_"_)m No.6お礼コメント欄で御提示いただきました、 「国民政府「対日戦犯リスト」と蒋介石の意向 ─天皇の訴追回避と米国の影響に関する研究─/城山英巳」 『ソシオサイエンス vol.20/早稲田大学大学院社会科学研究科/2014-3-25』(50-66頁) につきましては、(※キーワード「国民政府」検索でヒットから※) No.6投稿前に「国民政府の対日戦後処理方針の実際-戦犯問題と賠償問題/和田英穂」 とともに軽く^^は読んでいましたが、 …I 戦犯リストの全体像 1.GHQに提出された「名単」… [51頁]<2/17>に …「陸軍罪犯」のトップに挙げられたのは、「日皇裕仁」だった。西尾寿造(中国派遣 軍総司令官)、岡村寧次(同)、寺内寿一(華北方面軍司令官)と続くが、… と直接「岡村寧次」名の記述が上記のみであったことと、リストの変遷も分かり辛く、 天皇と続くため、No.6投稿では特にはURL貼付をしませんでした。 「“第7次戦犯リスト”について疑問」と仰るのが 「45年6月に作成されたのが「侵戦以来敵国主要罪犯調査票」(機密、軍令部第2庁 第1処=以下「調査票」)だ。」とのズレ?のことなのか分かりかねますので コメント出来ません(><) さて、冒頭記述のとおり自らの投稿分を整理すべきところではありますが、 誠に勝手ながら楽をして申し訳ありませんが、 …GHQとの関係において一部疑問点もありますが、 素人の私には分かりやすかったです… 下記URLを貼付して、整理に代えさせていただきます。 既に御存知の場合は御容赦下さい。 〇「日本軍の山西残留に見る戦後初期中日関係の形成/張宏波」 『一橋論叢 134巻2号(2005.8)/日本評論社』(187-208頁) http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/15542 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

何度もご回答くださって真にありがとうございます。 >「“第7次戦犯リスト”について疑問」 >「45年6月に作成されたのが「侵戦以来敵国主要罪犯調査票」 >(機密、軍令部第2庁第1処=以下「調査票」)だ。」とのズレ? のことなのか分かりかねますのでコメント出来ません。 “第7次”ということは、第1次、第2次があると推定すれば、かなり後になります。 いったい、中国は、岡村大将の戦犯としての重要度をどのように認識していたのか、という疑問です。 下記資料のURLをうまく添付できませんが…。 立教史学会『史苑』第54巻1号 「終戦前後における中国の対日政策 戦争犯罪裁判を中心に」 (11/18) 1947年7月、中央政府はさらに日本重要戦犯リストを公表し、地方政府が一層戦犯の犯罪行為を調査するよう指示した。 このリストには261人が掲載されており、階級、職務、主な犯罪行為などが付されていた。 リスト順に並べると、1土肥原賢二、2板垣征四郎、3南次郎、4荒木貞夫、5畑俊六、6東條英機 7平沼騏一郎、8阿部信行、9米内光政、10小磯国昭が上位10名である。 同じページの註12 1945年10月のリストは次の通りである。 1土肥原、2本庄繁、3谷寿夫、4橋本欣五郎、5板垣、6磯谷廉介、7東條、8和知鷹二 9影佐禎昭、10酒井隆、11喜多誠一、12畑 (10/18)にはこれら12名を選んだ理由についての説明があります。 これとは別に中国は2回にわたって極東国際軍事裁判所に33人の重要犯罪リストを提出した(このうち蒋介石が自ら12人の戦犯をきめた)。この中の15人が後日、東京裁判の被告となる。 前回のお礼欄に核心部分を抜粋しました。 「以上のように岡村に対して破格の待遇を以って処していたことがわかる。特に軍上層部は世論の岡村の裁判を求める声,あるいは GHQ からの東京裁判への証人としての出廷要請をことごとく連絡班の任務,または病気を理由に最後までかばい続けたのである。この理由として迅速な引揚げを成功させた功績や寛大政策を挙げているが,それ以上に当初は“岡村との個人的な関係”,そして国民政府の国内・国際的地位が危うくなってからは,対日・対米関係などが作用していたことがうかがえる。」 これを読むと決め手は、「この理由として迅速な引揚げを成功させた功績や寛大政策を挙げているが,それ以上に当初は“岡村との個人的な関係”,そして(以下略) 」だと思います。 では“岡村との個人的な関係”とは何ですか、という疑問が出てきます。 このようにいくらでも疑問が出てきますので、このあたりで締め切ろうと思いました。 もちろん“岡村との個人的な関係”でケリをつけるのは甘っちょろいと思います。 しかし、追求していけばキリがありませんから、若手研究者がこのような結論を導いているので、その結論を一応、由としたいです。 本当は、今の中国(中華人民共和国)の見解がどうなのか、これと比べておかねばなりません。 終戦当時の蒋介石は、当面の敵は日本軍でしたが、真の敵は共産軍のはずです。 中国大陸を制する壮絶な権力闘争を将に始めようとしている時期です。 蒋介石としては“岡村との個人的な関係”を最大限に活かして、日本軍とアメリカを利用しない手はありません。 このような観点から考えると次の論文は参考になります。URLをうまく添付できませんが。 「日本政界の台湾ロビー及び中日関係に対するその影響」 中国社会科学院日本研究所 4ページ 2、「恨みを徳で返す」下での日蒋軍事結託 これによれば、かなり異なる結論を導くことができます。 岡村たち戦犯は、マッカーサーが用意した専用船『ヨハネビックス』号で帰国しています。 これが事実なら、なぜ“専用船”を差し向けたのか、という疑問が生じます。 マッカーサーが岡村を確実に逮捕するためだったのか、 それとも蒋介石に頼まれたのか? >本来なら回答投稿側である私の方が自らの投稿分を整理すべきところ、 断片情報を書き散らかしただけで誠に申し訳ありません。 歴史を楽しむタイプの私は、kittynote 様のご回答で十分満足しています。 断片情報であっても解決につながる大きなヒントが隠されていたことがたびたびありました。 今回でも「電報綴り」は衝撃的でした。 ホントに感謝しております。

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