• 締切済み

武士 卑しい商売 どういう考え?

noname#210533の回答

noname#210533
noname#210533
回答No.4

例えば、バイオレンスをテーマにした 小説や漫画やビデオを見れば、暴力で 他人を支配することを正当化する思考の 持ち主が非常に多いことに気づくでしょう。 それが進むと、力の序列を作りたがります。 力の種類が異なるだけで、それは女性の 美意識の競争や学者の言い争いでも同じ。 より強くなりたがるわけです。 弱い者は強いものにたてつかず、素直に 支配されれば守ってやる、という思考です。 まるっきりヤクザのみかじめ料の理屈です。 自分に敵対するものは、殺す。 信じられないほど単純な、動物的な動機です。 それらが武士の社会を確立していくに連れて、 様々な自分達に都合のよい社会のルール造りを するようになる。 その中では、強弱で全ての人間に序列を割り振る 必要があった。 何故なら、自分達の存在意義が、「全てにおいて強いから」 という理屈だったからです。 戦闘能力だけでなく、石高でも家柄でも、とにかく 上位下達のピラミッド状の絶対的な階層構造を作ることで、 少ない人数で巨大な組織を、更には社会を、支配出来る。 古今東西、このシンプルな思想でほぼすべての 社会は動いていますよね。 儒教というよりも、人間の人間たる性質がそうなのだと 私は思う。 商人を卑しいと決めつけた理由は主に三つ。 一つは産業の生産性を米で計っていた時代で、何か実物を 生み出すことだけが「生産」だと思っていた。 原始的な経済学の概念しか、頂点以外の武士は持って いなかったから。 もう一つは、生かさず殺さず農民を奴隷化するためには、 言い訳でしかないけれど、米を生産する彼らを高い地位に 置いておかないと、自分達の社会統治の理屈が矛盾して しまうから。 でも有名無実だけど。 実際には、戦の要員を全員仕官させる金はありませんから いざという時だけ戦闘に参加してもらい、普段は農民として 自給自足してもらうスタイルが長いこと続いたからでも あるけれど、山奥や雪国になるともう、喰うので精一杯。 世代交代に連れてこれも有名無実になっちゃった・・・ 親も子の俺達も戦はねえけど飢饉はあっから・・・、とね。 三つめは、実物を何も生産せずに、その流通と金融だけで 巨万の富を持つ商人たちを二つの側面で牽制する必要が あったから。 食うや食わずの農民漁民たちが武家支配を死ぬ気で ひっくり返さぬように、商人たちに美味い汁を吸わせ、 自分達も裏側で結託することで、一揆が起きぬように すること、の政策の一つとして。 そして、国を実質的に支配する経済連とも言える彼らが 武家社会の根幹を脅かすような支配構造の脅威にならぬ ように、知恵の回る彼らをコンツェルン化させずに 中小規模の「殿様商売」に固定しておくための、逆説的 ですが、一種の隠れ蓑、兼、シャドウ・コントロール機構と して機能した。 と、私見ですが考えています。 参考にでもなれば幸いです。

関連するQ&A

  • 朝鮮民族の精神的支柱は?

    朝鮮民族の精神的支柱は? 主として江戸時代、明治時代、李朝朝鮮に焦点を合わせます。 江戸時代の支配階級には武士道というものがあったそうです。明治時代にもこの気風が残っていて、指導者層の中には良質の人間が混じっていたように思います。また、この流れが庶民の間にも、そこはかとなく漂っていて痩せ我慢にもせよ、金銭や物質の利得よりは気高さに名誉を置く気風があったようにも思います。 日本と同様に、朝鮮にも儒教を規範とする他に両班には支配階級としての精神的支柱があったのだと推測します。朝鮮では何を精神的支柱としていましたか。それはどんな思想でしたか。 よろしくお願いします。

  • 小西隆佐と行長について

    小西行長の父、堺の商人、隆佐について。 父が商人であるのに、行長は武士(大名)になっています。 このことで父の商売に影響は出ていたのでしょうか。 1・例えば大名小西家の御用商人になっていた。つまり利益が上がっていた?(行長が薬屋と呼ばれるのを嫌っていたのでこの線は薄いかも・・・) 2・行長の兄弟も代官などを務めたようですが、隆佐だけが商いをしていた。子供には後を継がせなかった?(隆佐の代で商家としての小西家はなくなった?) 3・1とは逆に関ヶ原の合戦で行長が負けたので、商家小西家も無くなった(取り潰しにあった)? 調べても判らない部分が多くご存じの方は教えてください。お願いします。

  • 江戸時代と歴史認識

    江戸時代の人は「歴史(的事実)」をどの程度認識していたのでしょうか? 農民・商人などは信長や秀吉、道長などの歴史的人物の存在や元寇来襲・応仁の乱・前九年の役など歴史的事実について、どの程度知っていたのでしょうか。 また武士階級については歴史的事実全般に関する知識・認識はどの程度あったのでしょうか。

  • 学問をするのにふさわしい人がやっていたのは

    教育問題かもしれませんが、歴史のほうにかかる範囲が広いと思ったので質問します。 日本史上(あえて世界史上でもかまいませんが)、一番「学問すべき人が学問していた」時代はいつなのでしょうか。 古代からみてきますと、おそらく江戸時代までは、庶民に対して学問の風はかからなかったでしょう。 江戸時代の生産安定性の時代に入ってようやく、寺子屋などの庶民的学問機関ができた。しかし、士農工商で武士がやるような思想とか洋学などは円がなかったでしょう。しかし、武士が学問する慣わしといいますが、ふさわしい人が多かったか?中にはまったく向かないのに学問の強制を強いられた人もいた。農民商人に、遠大な思想史や科学洋学などをやるにふさわしい人物が多く埋もれていたかもしれない。 明治からは、身分廃止とともに、金さえあれば?やりたい学問ができるようになった。農民が大臣になることもできた。この時代が一番公正だった気がします。 戦後から現代まで、だんだん学問は衰退し、庶民的?になり、ふさわしくない人が点数を効率よく取るための教育が隆盛している。そんなところでしょうか? 一体いつが一番「ふさわしい人」が勉強していたんでしょうか。

  • 戦国時代の人々の名前について

    司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。 戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。 たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。 武田信玄は徳栄軒信玄 織田信長は織田上総介信長 明智光秀は明智十兵衛光秀 といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか? ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。 ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか? また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。 小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。 (苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています) (また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います) 苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。 小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。 質問がわかりづらいかも知れませんが、 1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。 2.庶民(農民、商人等)の人々の名前についてどういう命名規則があったのか。 (農民は名前のみ、商人は苗字(店の名前)のみ、武士は苗字+名前を名乗ることができたなど。) 3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。 (農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など) の3つ教えてください。 よろしくお願いします。

  • 水商売に対する価値観

    水商売に対する価値観 私は大学の学費と家族(母、妹)の生活費を支える為に18際から水商売(キャバ&クラブ)をしてきました。 大学へ進学するのは金銭的に不可能でしたが、勉強を続けたかったため自分の意思で水商売をしてまかなうことに決め母にも了解を得ました。(母は障害があり無職で障害者年金で暮らしています) 結局、苦労はしましたが成績もよく無事大学を卒業し、現在普通の会社で勤めています。 妹も大学へ進学し、その際離婚した父に私への援助はいらないので妹の学費だけはどうか出してくれないかと懇願し、妹も無事卒業しました。 妹はとても水商売を出来る性格ではなく、また私が妹をお水にいれたくない&働きづめにはさせたくなかったので(まるで母の心境ですね)、自分が犠牲になって家族を支えようと思ったためです。 妹に「月にバイト代の2万程度を家にいれてくれないか」と軽く頼んだ時も、妹はいやだと拒否し、またそれはごく普通の18歳の反応だろうな、と理解し、可愛い妹のためにも、とお水だけでなく色んな種類のバイトを続けてきました。私は責任感が強くそれを苦に思わず、また水商売も向いていたのでやり遂げられました。 しかし最近妹と話したときに、妹が心底水商売を軽蔑していることを知り、私のこともばかにはしていないが尊敬もしていない、と言われました。 感謝しろと押し付けがましく言うつもりはないのですが、生活を支えてきた私の職業を未だに否定されていたのにショックです。妹が言うには「お水でなくても普通のバイトでも生活は支えられたはず」「お水しか道がなかったのなら大学へ行くべきではなかった」「自分も父に援助を頼めばよかった」とのことです。 てっとりばやく楽に稼ぐ為に、人には言えない方法でお金を稼いだ、とみなされています。 とても悲しいです…この価値観の違いは、妹がお水を経験しない限りわかってもらえないのでしょうか? そして妹の主張は間違っており、お水をしてなければ今の私たちの生活は手に入らなかったはずなのです…。 妹はここまで自活をした経験がなく月7-10万程度をバイトで稼ぐ大学生だったので、生計を立てる苦しさや世間を知らないだけだとは思うのですが、お水をしていた私を見下しているのが悔しいです。私はブランドに走ったり無駄使いをせずに「学費と生活費を稼ぐ」目標に向かい頑張ったのに、妹からすれば「それは目標とはいえない」そうです。私が学生時代妹に頼めば、二人で協力して支えあえたのに、お水で出来るから、と私が頼まなかったのが悪い、と言われました。 お水を反対している方の意見もいただきたいです、よろしくお願いします。

  • 私は母の水商売という仕事を否定し続けました。

    私は水商売を営む母親の次女として生まれました。 私が生後6ヶ月の時に母は父親と離婚をしたらしく私は父親を知らないまま育ちました。 母親は兄弟が多く兄弟全員が成績優秀な家系に育ち母も学生時代は優秀な成績を残す人だったようです。 母の実家は商人の家系でしたので商売に対する熱意は大きく離婚後、クラブを経営し、地元では一流クラブに伸し上がっていきました。 生まれたばかりの私は他人の家に預けられその家で育ちました。 母に会えるのは月に一度ほどでした。 母の愛も父の愛も知らずに育ちましたが預けられていた家のおじさんとおばさんにほんの少しですが可愛がってもらったような気がします。 母は商売を大きくすることのみに没頭し、クラブ経営の他にも事業を広げ会社の経営者として商売の才能を伸ばしいきました。 母は子供のことは全く思い出すこともなく忙しくなると会うこともなくなっていきました。 小学校に入学するころには預けられた家の人が体を壊し私を預かれない状況になり、私の預け先に困った母は祖母の家や親戚の家強引に私をおいていく形を取っていました。 祖母にも親戚にも無理矢理押し付ける形で置いて行ってしまうのでした。 私は何故自分はここにいるのか、何故皆に迷惑がられているのか、いつもわからなくて、 ただただ悲しさやさみしさが心の中に沢山つまっていました 母の兄弟のほとんどが公務員か学校の教師になっていましたので母の仕事は世間体を壊されると母の仕事に対して否定的で嫌っていました。 長い間水商売の娘として育ち世間からは良い言われ方をしませんでした。 酷い言葉で傷つけられながら育った私は 私も母の仕事を酷く否定するようになりました。 母の仕事も母の人生も受け入れることが出来ない私は高校を卒業後家を出ることを決め、東京に出て暮らすことにしました。 お金が無かった私は1万8千円の風呂無しアパートをようやく借りて住むことになりました。 お金の無い生活は本当に大変でした。 日払いのアルバイトをして食いつなぎました。 風邪を引いて何日も働けなかった時は食べる物もなくなり心細い都会での暮らしでした。 夢も無く希望などない私はその日その日を食いつなぐことだけで暮らしていました。 そんな私も恋をしました。 初めて心を許して委ねていました。 その人に会えることだけが私の生きている力を支えてくれていました。 今までの苦しも悲しみも辛さも全てを癒してくれました。 生きていることに初めて幸せを感じました。 やがて子供が宿りました。 彼はまだ夢を叶える途中でした。 プロゴルファーになる夢を叶えるために子供のころから頑張って来た人でした。 彼は将来プロになったら必ず結婚するから、今は経済的にも支えられないから、今は中絶して欲しいと望みました。 私は静かに身を引きました。 彼に迷惑を掛けずに一人で産み育てました。 子供は天使でした。私は本当に幸せでした。 働きながら子供を育て沢山苦労をしながらも全力で愛情を注いで育ててきました。 仕事と子育てに追われ気がつくと30歳を過ぎていました。 ある日突然なのですが、鬱病になってしまいました。 子供のころの苦しかった苦しみがフラッシュバックするようになり どうにもならなくなってしまいました。 今現在生活保護を受給するようになりました。 生活保護の生活はますます自分を惨めにしていくものとなりました。ますます悲観的になり、投げやりになり、人を恨むようになり、自分に全く自信が無くなり、引きこもるようになり全く人に会えない状態になってしまいました。 その状態が4年続きました。 嫌なほど自分と向き合う時間がありました。 過去の自分と向き合い、これから自分の人生をどう生きるかを自問自答する日々でした。 今ようやく外に出られるようになり、 少しずつ働こうとも思えるようになりました。 母から逃げるように家を出て、経済的基盤の無いままに妊娠、子育てとパートの仕事だけの毎日に明け暮れて、無理に無理を重ねた生き方が精神を痛めいたことにも気づかず、気がつくと鬱病に陥っていました。 今からどうやって人生を立て直していったらいいのか、悩みました。 私には資格も何もありませんが母から受け継いだ血というものがあるのでしょうか。 今から水商売を始めたいと思うようになりました。 不況の波に飲まれて母が築いて来た財産はほとんど失っていました。 気性が激しかった母も大人しいおばあちゃんになり、弱くなってしまいました。 水商売を否定していた私ですが、沢山の苦労をし、苦しみを経験し、水商売という仕事も受け入れることが出来るようになりました。 私には資格も何もないけれども、人を癒す力があることに最近気づきました。 そして商売人の血が今になって目覚め始めました。 何もない私ですが母から受け継いだ容姿にも恵まれていたようです。 母の生き方を否定して水商売を否定し続けた私が今、水商売を今から始めようと思っています。 母から引き継いだ天職ではないかと思えるのです。 私の人生の大転機です。 母の二代目をしようと思うのです。 私が本当にしたい仕事は私が一番否定していた母の仕事でした。 今、水商売をすることにおいて、一番気がかりなのは子供がそれを受け入れるか、ということです。 子供は水商売とは無縁の環境で育てました。 清いこと、正しいことが一番大切と言って育ててきました。 私が母の人生や職業を否定し続けたように私の子供もわたしを否定するのではないかと思い悩んでいます。 しかし、今私の出来る仕事は母の跡を継ぐということしか出来ませんし、 それをずっと仕事にしてゆきたいのです。 夜私が居ない生活は子供は受け入れられるでしょうか。 この仕事を私が母を軽蔑したように私も子供に軽蔑されるでしょうか。 自分の本当にしたい仕事が水商売だということ、母の築いて来たものを引き継いでゆきたいという人生を子供に遠慮して失って後悔したくないのです。 何方かアドバイスを頂きたくお願い致します。

  • 江戸時代の養生方で「色を慎め」という背景

    江戸時代に養生方(健康術)で、色と食を慎めという思想があったのですが、この背景にはどういう根拠があったのでしょうか。 自分なりに想像したのは、予防法的思想で 江戸時代の衛生状態は今よりかなり悪い。食中りをしないようにするには、不必要な食物摂取は慎むほうがよい。また性感染症なども今は梅毒などは治るが、不治の病だった。それゆえ、性に奔放になるのは自殺行為である。 というような理由だと思いました。 また儒教的?に節制が美徳とされているという精神論を重視するからかとも思いました。 実際上はどうなのでしょうか。 また、現在もこの「慎み」健康法は有効なものなのでしょうか。特に「性」のほうは、かなり避妊衛生予防なども手軽にできるようになったので、もし、はじめの理由であったならば、現在はあまり有効な教えではないような気がします。

  • 歴史と伝統について教えてください。

    歴史と伝統について教えてください。 世界中を見回しても日本ほど老舗が多い国はないと思うとります。 中国は4000年の歴史があると言いますが 政権が変わるたびに民族の入れ替えもあり歴史の連続性はありません。 お隣の韓国に至っては儒教思想の社会体制により商売をする事が卑しい行為だと みなされていた事実があり老舗もほとんどありません。 ヨーロッパをみても戦乱続きで老舗は極めて少ないのが現状です。 また、階級社会なのでそのブランドがグローバルな時代にあり世界的に強い老舗が支持をされていますが 全体からみればそれほど多くはありません。 植民地の歴史のある東南アジア各国にも老舗は極めて少ないですし 例えばあったとしてもほんの30年~40年程度なものです。 日本の常識的な感覚で言うところの老舗とはちょと違います。 と言うわけで日本ほど老舗が多い国は他にはないのではないかと思うとります。 この精緻にして緻密な経済分析はただしいのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 商売の考え

    7千円で買った物を5千円で売り、その後4千円で買い直したとします。 これで本来7千円の価値の物が6千円で買えたことになり、1千円得したことになり、これが商売の考えだと友人は言います。 これは商売として成り立っているのでしょうか?