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武士 卑しい商売 どういう考え?
武士が金銭や商売や商人を卑しいもの汚らわしいものと考えていたのはどういう考え方によるものでしょうか? 江戸時代はたしか儒教の影響で儒教では商売は何も産み出さず人が作ったものを右から左へ流すだけで儲けているからけしからんみたいなことで嫌っていたと聞きましたが、それ以前の時代に信長が将軍義昭に商売していことを馬鹿にしていますが武士が金銭や商売を軽蔑したり忌み嫌うような考え方や言動をするのは全時代を通じて儒教のそのような考え方によるものなのでしょうか? 儒教の考え方の商売はけしからん行為という考えを超えて商売は卑しむ行為、武士の恥のように武士が考えているように感じました。なのではたして儒教の思想の影響だけなんだろうかと考えました。 それに儒教の影響なら文盲の武士がいっぱいいた時代にはどうだったんだろうかとも思いました。 どうなんでしょうか?詳しいことを教えて下さい。 武士が金銭や商売や商人を卑しいもの汚らわしいものと考えていたのはどういう考え方によるものだったのか教えて下さい。 本当に儒教だけの影響だったんでしょうか?
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- staratras
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江戸時代の武士に限っても、さまざまな立場・考え方があり、すべての武士が「金銭や商売や商人を卑しいもの汚らわしいものと考えていた」とまでは言えないでしょう。高校の日本史の教科書に書かれている事項で言えば、例えば、田沼意次と松平定信がとった政策の大きな違いを見れば明らかです。また武家出身の学者である海保青陵が、商売を卑しめる武士の偏見を批判して、藩財政の再建は商工業に頼らなければならないという説を展開したように、武士の中から商工業や貿易を重視すべきだという主張も出てきています。 ただし、金銭や商売や商人の力を無視できないことがわかってきただけに、「それに頭を下げることを潔しとしない」傾向は多かれ少なかれ多くの武士にはありました。象徴的なエピソードが「折りたく柴の記」にある新井白石の「小蛇の傷」の逸話だと思います。 新井白石が初めに仕えていた土屋家を追われて浪人していたころ、豪商河村瑞賢の孫娘との縁談が持ち上がりました、白石の学友に瑞賢の息子がいた縁で、瑞賢はゆくゆくは「天下の大儒」となるであろう白石の才能を見抜き、自分の孫娘(学友であった息子の死んだ兄の娘)との縁組を申し込んだのです。縁組の条件に、貧しい白石に経済的な支援を行って学問を続けられるようにすることがあったことは言うまでもありません。しかし白石は、好意に感謝しながらもこの申し出を断りました。その理由に挙げたのが、昔知人に聞いたというこの「小蛇の傷」の比喩です。 小さな蛇に傷をつけると、その時は小さな傷に過ぎないが、大蛇に成長するにつれてその傷も大きくなる。今、豪商と縁組をして経済的な支援を受け、学問を続けることは「小さな疵」に過ぎないが、自分が大成して「世に知らるべきほどの儒生」となったならば、妻の財産があったから偉くなれたと批判されて「大きな疵」になってしまう、というのです。 この逸話は「武士には清貧に甘んじる誇りがあった」とも、白石ほどの学者でも「武士は商人を卑しいものと見ていた」とも受け取れますが、もちろんその両方とも正しいのでしょう。この背景に儒学思想があることは確かですが、儒学イコール商業・商人蔑視の思想とは言えません。それは最初に挙げた商工業や貿易を重視せよと説いた学者・経世家の思想の背景にも儒学があるからです。 回答者は江戸時代の武士が商人や商業を卑しいものと見ていた最大の理由は儒学思想などのきれいごとではなく、貨幣経済が発展して万事「金の世」になっていく中で、武士の多くがその時流に乗り切れずに困窮していったことに対する感情的な反発にあると考えています。自分たちより身分が低いとされていた商人たちが裕福な暮らしを楽しんでいるのを見たとき、多くの武士は「金銭や商売や商人を卑しいもの汚らわしいもの」と考えることによって、心を落ち着かせようとしたのではないかということです。古川柳にも「さむらいが来てハ買ってく高楊枝」とあります。(誹風柳多留十六篇) 回答者が使用していた40年以上昔の日本史の教科書には、「江戸・京都・大坂などには全国の物資が集まり、金さえあれば何でも手にいれることができた。しかし手にはいらないのは金であった。」と書かれていましたが、この記述は「教科書のユーモア」であるだけでなく、「江戸時代の多くの武士の気持ち」ではなかったかと思います。
No.9です 補足を頂戴しましたので、追加の説明をさせて頂きます。 >こういうのも明治時代以降に作られたものなんでしょうか? 寡聞にして明治以降なのか以前なのかは知りません 大内義隆は16世紀初頭の人物です。 当時は、足利氏を中心とて、経済的利益は座・問丸・株仲間によって独占され既得権化していました。 戦国大名はこれを排除して絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図っていた時代です。 史実としてよく引き合いにだされるのが、信長がとった楽市楽座制です。 楽市楽座というのは信長の独創ではありませんので御注意願います。 このような時代において、糾弾して破壊すべき体制の人間と同じ価値観でいてもらっては困る、と主人を諌める家臣がいたとしても不思議はありません。 それを象徴する逸話として伝えられていたとしても、特別おかしなことではないのではないのでしょうか >元々忌み嫌っていたけど、江戸時代は困窮した武士が嫌々忌み嫌っていたものに手を出してしまったのではないでしょうか? 江戸時代にはそれ以前の鈴木正三の哲学を受けた石門心学という思想がありました。 現在の日本の資本主義経済の運営や価値観にも深く影響を残しています。 文化史19 石門心学 - 京都市 www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka19 抜粋 士農工商という現実社会の秩序を肯定し,それを人間の上下ではなく単なる職業区分ととらえるなど,儒教思想を取り込むような形で庶民に説いていきました。倹約や正直,堪忍といった主な梅岩の教えも,それまでの儒教倫理をベースとしたものでした。また,商人にとっての利潤を,武士の俸禄と同じように正当なものと認め,商人蔑視の風潮を否定しました。 江戸時代の人々は儒教という外来の思想をそのまま鵜呑みにしていた訳ではないということをご理解願います。 藩校や幕府の学問所で四書五経を教材としていたからと言って実社会で教科書通りに運用されていた訳ではありません。 中国や朝鮮の王朝は科挙という制度を用いていましたが、日本では歴史的にも一度もこの制度は採用されませんでした。 江戸の思想1(石門心学) www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k8/181022.htm 石門心学とは:石田梅岩の教えを京都で学ぼう! 心学修正舎 shuseisha.info/sekimon-shingaku.shtml 若干見難いですが「一目で見る江戸時代ー心学発展の時代背景」という図表があります。 詳細は別としまして、一つの時代の思想や価値観は単独で成り立っているものではないということをご理解願います >なぜ信長は義昭に天下の将軍が商売をするなんて聞いたことがありませんなどと軽蔑したような手紙を書いたのでしょうか? 先にも説明させて頂きましたが、室町幕府というのは、鎌倉幕府や江戸幕府とは異なり、全国を統治するという意欲を完全に失っていた幕府です。 その結果応仁の乱を端緒に戦国時代へと突入していきました。 日本全体が戦乱で混乱しているのをしり目に足利一族は文芸に耽っていました。 それに必要な財源を京都市内を中心とした流通経済への課税に求めました。 室町幕府財政の発想 -- 贈与・市場との関係 -- - 東京大学東洋文化研究所 www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~5jimu/reports/PDF/Pf_sakurai2.pdf 更に日明貿易で莫大な利益を享受していました。 征夷大将軍として朝廷の委託を受けて全国を統治すべき立場にある人間がそれを放棄して一族の繁栄蓄財に走れば、信長ならずともクレームを付けるでしょう。 現在でも内閣が税収が足りないといって各大臣が政務を放りだして商取引に没頭したら、どう思われますか。 これは儒教思想に反するからいけないことだと、お考えになれますか。 以上ですがなにかあれば追加補足を願います。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 なんだか色々複雑でこういう理由でこう考えていたと一概に言える話しではなさそうですね。
- ithi
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daishogunさん、こんばんは。 そうですね。それは江戸時代の儒教思想だと思います。武家政権では武士は政治に関与しないといけないので、利権やお金に目がくらまないようにという戒めのようなものだったと思います。あとは自分たちより、財をもって富貴を極めている商人たちに対して商人たちを貶めることによって武士たちの誇りのようなものが維持できるという考え方かもしれません。 その前の信長の時代はまだ戦国時代なので、戦争に使う兵隊や食料、武器、弾薬というものが必要であるため、経済についてある程度知らないと破産してしまいます。信長が堺を抑えたのもこの一転に加えることができると思います。また、文盲の武士がいっぱいいた時代というのは儒教がまだ流行していない戦国時代以前ということになります。なんてったって、信長は家来の明智光秀に殺されますが、これは儒教としては受け入れられないでしょうしね。
武士が商取取引を嫌っていた、というのは明治時代以降に作られた武士象のイメージの一環です。 明治時代は江戸幕府についてはボロカスですが、武士には限りなく憧れていた、という不思議な精神構造の時代です。 まぁ~明治政府を作った本人達が元は武士でしたから、武士そのものをボロカスに云う訳にはいかなかったのでしょう。 欧米の騎士に対抗するものとしてどんどん理想化していきました。 その行きついた姿が新渡戸稲造の「葉隠れ」です。 元々の「葉隠」は佐賀の奇書として発禁対象となっていた書物です。 江戸時代の武士というのは現在で言えば国家公務員です。 アルバイトや副業は禁止されていました。 住居は支給されていました。 しかも基本給(碌)は江戸開闢以来親子代々変わりませんでした。 収入を増やそうと思えば、役職について役職手当を貰う以外に方法がありませんでした。 ところがこの役職も親子代々世襲ですから、余程の幸運にめぐり合わない限り職にありつけませんでした。 一方町人は自由経済競争経済で才覚一つで幾らでも稼げました。 江戸の街では、余程の大身でない限りは、支給された土地の道路に面したところに長屋を建てて家賃を取っていました。 本来は規則違反ですが、お互い様ということでお目こぼしになっていました。 借手のある賑やかな通りであれば、いいですが、そうはいきません。 そいう場合は、草花や植木の苗を育てて、それを町人に売ってもらっていました。 というか販売業者の下請け生産者でした。 親子代々でやっていますから腕もあがり、皐月などは名所にまでなりました。 現在の根津神社の皐月が有名なのもこの名残りです。 東京でやたらにサクラソウが目につくのもこの名残りです。 現在もある鬼灯市や朝顔市の鉢植は、江戸時代には下級武士が作っていたものです。 つまり植木屋稼業をやっていたという事です。 TVの時代劇でお馴染の傘張も浪人の仕事ではなく最下級の幕臣である御家人の内職でした 材料支給の出来高払いですから、町人も身元のしっかりした人間以外には材料を渡すようなことはしませんでした。 こんな状態ですから、儒教もヘチマもありません。 まぁ~明治時代の人にすれば、憧れの武士が傘を張ったり、鉢植をセッセと作って町人と値段交渉をしていたのでは興ざめでしょう。 信長も商取引には強い関心がありました。 室町幕府というのは、本来の統治という仕事を放りだして、蓄財に精を出していました。 統治を放棄していますから、年貢という税収が滞ります。 座という特権商人を擁護したり、自分も交易に参加したり、やたらに関所を作って通行税を取り立てたりしていました。 京都の町への出入り口の七か所に関所がありました。 京都七口関と呼ばれていました。 信長はこのことを糾弾して、座の特権を認めない楽市楽座という自由市場をつくりました。 儒教などなんの関係もありません。 ご質問の印象は 新井白石や松平定信が貨幣経済を否定して農本主義に基づいた○○改革なるものが、伝誦に影響していいます。 見事に失敗したことが巷間に伝えられていないでけです。 特に60年代70年代の資本主義を糾弾するマルクス史観に基づいた歴史教育も影響を及ぼしています。 なにかあれば補足質問をお願いします。
お礼
こんにちわichikawaseijiさん。回答ありがとうございます。
補足
江戸時代以前のことはどうなのでしょう? 大内義隆のもりやくが義隆の前で主になる人が銭なんて汚らわしいものは見てはいけないと言って銭を義隆の目の前で肥溜めに投げ込んだという話しを聞いたのですが、こういうのも明治時代以降に作られたものなんでしょうか? 元々忌み嫌っていたけど、江戸時代は困窮した武士が嫌々忌み嫌っていたものに手を出してしまったのではないでしょうか? たとえるなら人間は毎日大便をしなければいけない大事なものだからといって、大便は汚いものなことは変わらないように。 信長は関心を持ってはいたけど、それらを卑しんでいたのではないでしょうか? でなければ、なぜ信長は義昭に天下の将軍が商売をするなんて聞いたことがありませんなどと軽蔑したような手紙を書いたのでしょうか? みなさんの回答を見ると全て江戸時代以降のことや自分の心情をもとに推測した意見が多いと感じたので、正直江戸時代以前のことはわからないものなんでしょうか? たくさん質問してすみません。
- eroero4649
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仏教といっても、禅宗やら真言宗やら浄土宗やらがあり、キリスト教にも大きく分ければカトリックとプロテスタントがあり、その中でナントカ派とかカントカ派があり、イスラム教もスンニ派やらシーア派があるわけです。 同じように儒教(儒学)といっても、後世の人たちによってだいぶいろんな解釈がされてそれによって価値観などに違いがあります。その中で、江戸時代に「江戸幕府公認の儒学」とされたのが朱子学でした。 朱子学ってのは、基本的に超保守的な考え方なんです。士農工商の身分制度の哲学的な裏付けは朱子学が根幹となっています。 んで、武士というのは身分を指す言葉です。思想を指す言葉ではないんですね。ある思想があって武士に「なる」ものではなくて、武士は生まれながらにして武士なのです。だから、何か試験があってそれに合格したら武士になるわけではないですし、武士は本分としては戦うのが仕事だし、戦さがなければ戦国時代までは農家をやっていましたし、江戸時代なら公務員だったわけです。そして、「身分としては武士が一番偉いんだ」というプライドがありますから、他の身分はdisるのが基本になるのは今も昔も変わりません。 ましてや江戸時代が進みますと、商業が盛んになって商人の経済力はどんどんついてくるんですね。一方、武士の給料というのは米払いで昇給がありません。江戸時代はほぼ一貫して米はインフレになっていましたから、ベア(定期昇給)がない武士は現実的には給与は下がっていったといっていいわけです。武士の手取りは減り、その分商人や豪農の手取りは加速度的に増えるのです。ましてや当時は累進課税制度ではないですから、商人は儲けたら儲けただけ儲かるシステムだったのですよ。 そうなったら、「あいつらは卑しい身分だ」とdisらないとやっていられないわけですよ。そして自分らは一生「人に頭を下げて物を売る」という経験をしないわけですからなおさらそういうベクトルがつくわけです。そういう意味では学歴だけはあるけれど他に取り柄がない2ちゃんねらーが「高卒って生きてる意味あるの?」とdisってるのとあんま変わらない部分はあると思います。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”江戸時代はたしか儒教の影響で儒教では商売は何も産み出さず人が 作ったものを右から左へ流すだけで儲けているからけしからん みたいなことで嫌っていたと聞きましたが” ↑ 士農工商ですね。 ちなみに、士農工商という身分制度は存在しなかった ことが確認されております。 だから、最近の教科書には、記載されておりません。 これは、思想です。 国家に対する貢献度の高いモノから並べたものです。 士農工商の士とは、本来は科挙試験を合格したキャリア 官僚のことです。 日本では、政治を司る武士になったわけです。 ”武士が金銭や商売を軽蔑したり忌み嫌うような考え方や 言動をするのは全時代を通じて儒教のそのような考え方に よるものなのでしょうか?” ↑ 貴穀賤金といいまして、これは江戸時代に儒教的考えが 浸透するようになって広まった思想です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A9%80%E8%B3%A4%E9%87%91 ”本当に儒教だけの影響だったんでしょうか?” ↑ おそらくですが、儒教が浸透する以前からそういう 考え方はあったと思います。 江戸時代になって、儒教が蔓延するに従い、そういう 考え方が強くなったのでしょう。 武士というのは戦闘のプロです。 金儲けばかりを考えていたのでは、戦闘はできません。 どうしても臆病になってしまいます。 カントも次の様な指摘をしています。 ●戦争は、国民に数多の困難を与えながらも、それを乗り越えて戦い抜く ことで、国民を崇高な存在にできる。 平和は、商人気質を旺盛にするが、卑しい利己心、怯儒や臆病の風を はびこらせ、国民の心意を低劣にする
- takuranke
- ベストアンサー率31% (3923/12455)
孔子の「富にして求めくんば、執鞭の士といえども、吾またこれをなさん。もし求むべからずんば、吾が好む所に従わん」というのが後世の儒家に間違って解釈されたことが発端のようですね。 現代語訳ですが「正当な手段で富が手に入るならば、私は鞭を使って人々を追い払う露払いの役をしても良い。でなければむしろ自分の好きな生き方をしたい」というような意味で、貨殖を否定した内容ではないです(弟子の子貢は商売上手で孔子一団のお金の面倒を一手に引き受けていたそうです)。 誤った解釈で、商売=利己的と考えられるようになったらしいです。 江戸時代には朱子学は必須学問だったので、当然、武士階級は朱子学を学ぶため、その考えに染まります。 また、商人の中にも、商売においては人格や道徳などは無用と考えている人たちもいたようです。
- Willyt
- ベストアンサー率25% (2858/11131)
士農工商というのは江戸幕府が作った身分制度です。商人が一案下におかれたのは儒教では金銭を扱うことを卑しいこととされたことが影響しています。武士は金銭のことを口にすることさえはばかられたのです。ですから家庭内の金銭の遣り取りは一家の主は一切これにタッチせず、妻女がこれを取り仕切っていたのです。 商業を卑しむ風潮は西洋社会でも同じで、金銭を扱うことは卑しいこととされたのは同じで、それ故にこれに長けたユダヤ人は下賎の民として差別されつづけて来ました。シェークスピアのヴェニスの商人はその影響が色濃く出ていますね。 そうは言っても金銭は生活にとって必要欠くべからざるものであり、これに長けた商人が力を持っていたのは洋の東西を問わず同じでした。これに対するやっかみもその差別意識には混じっていたことは否めません。武士も幕末に近づくほど商人には頭が上がらなくなっていたのです。今アメリカ社会を牛耳っているのは一握りのユダヤ人資産家ですよね。
例えば、バイオレンスをテーマにした 小説や漫画やビデオを見れば、暴力で 他人を支配することを正当化する思考の 持ち主が非常に多いことに気づくでしょう。 それが進むと、力の序列を作りたがります。 力の種類が異なるだけで、それは女性の 美意識の競争や学者の言い争いでも同じ。 より強くなりたがるわけです。 弱い者は強いものにたてつかず、素直に 支配されれば守ってやる、という思考です。 まるっきりヤクザのみかじめ料の理屈です。 自分に敵対するものは、殺す。 信じられないほど単純な、動物的な動機です。 それらが武士の社会を確立していくに連れて、 様々な自分達に都合のよい社会のルール造りを するようになる。 その中では、強弱で全ての人間に序列を割り振る 必要があった。 何故なら、自分達の存在意義が、「全てにおいて強いから」 という理屈だったからです。 戦闘能力だけでなく、石高でも家柄でも、とにかく 上位下達のピラミッド状の絶対的な階層構造を作ることで、 少ない人数で巨大な組織を、更には社会を、支配出来る。 古今東西、このシンプルな思想でほぼすべての 社会は動いていますよね。 儒教というよりも、人間の人間たる性質がそうなのだと 私は思う。 商人を卑しいと決めつけた理由は主に三つ。 一つは産業の生産性を米で計っていた時代で、何か実物を 生み出すことだけが「生産」だと思っていた。 原始的な経済学の概念しか、頂点以外の武士は持って いなかったから。 もう一つは、生かさず殺さず農民を奴隷化するためには、 言い訳でしかないけれど、米を生産する彼らを高い地位に 置いておかないと、自分達の社会統治の理屈が矛盾して しまうから。 でも有名無実だけど。 実際には、戦の要員を全員仕官させる金はありませんから いざという時だけ戦闘に参加してもらい、普段は農民として 自給自足してもらうスタイルが長いこと続いたからでも あるけれど、山奥や雪国になるともう、喰うので精一杯。 世代交代に連れてこれも有名無実になっちゃった・・・ 親も子の俺達も戦はねえけど飢饉はあっから・・・、とね。 三つめは、実物を何も生産せずに、その流通と金融だけで 巨万の富を持つ商人たちを二つの側面で牽制する必要が あったから。 食うや食わずの農民漁民たちが武家支配を死ぬ気で ひっくり返さぬように、商人たちに美味い汁を吸わせ、 自分達も裏側で結託することで、一揆が起きぬように すること、の政策の一つとして。 そして、国を実質的に支配する経済連とも言える彼らが 武家社会の根幹を脅かすような支配構造の脅威にならぬ ように、知恵の回る彼らをコンツェルン化させずに 中小規模の「殿様商売」に固定しておくための、逆説的 ですが、一種の隠れ蓑、兼、シャドウ・コントロール機構と して機能した。 と、私見ですが考えています。 参考にでもなれば幸いです。
- ootemon
- ベストアンサー率13% (558/4273)
金銭や承認や商売を卑しいものと考えさせることで武士は気高い存在であるみたいな世俗に対する情報コントロールする政策の一種じゃないかと思います。
補足
みなさん回答ありがとうございます。江戸時代以外のことはどうだったのでしょう?
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お礼
回答ありがとうございます。 でも武士は商人に税をかければ銭は手に入るところをかけずにわざわざ困窮していたところを見ると欲しくなかったと思います。税のシステムを作って実行するのは武士自身ですから。 現代人はお金のために生きていますから、お金が嫌いとか卑しいという感覚はまるで理解できず、妬みだろうとしか思わないんだと思います。