• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神に抗え)

神に抗え

0fool0の回答

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.4

>見ている方に面白がっていただくことができるというのは真実だと思います 素晴らしいです。 更に次の段階を楽しみましょう。 逍遥の世界を楽しみましょう。 ・・・まぁ、別の質問で・・・w

sohcon
質問者

お礼

ありがとうございました。 せっかくですが、熱い友情を交わす気にはなれませんね。

関連するQ&A

  • 神は人間が創ったもの

    人間の頭脳が優れているので神の概念を創ることができたと思っています。人間だけが神を信じ、他の動物が神を信じているようには思えないのです。私は人間が創った神を否定する者ではありません。多くの民族が神の概念を持っています。その概念は尊くて先祖崇拝や万物崇拝に繋がっています。 もし神が先に存在するとしても人間だけを創ったとは思えないのです。神が他の動物も創ったならば、その動物も神を信じていると思うからです。

  • 神の存在を信じているが崇拝はしていない

    仮に神が人間を創ったとする。 その人間は戦争、差別など愚かなことをいつまでたってもやめない。 自分たちは地球のの支配者だと思い、他の生物を平気で殺す。 自分たちのつくったシステムで、貧富の差をつくり弱者をなかす。 他人の痛みなどわからない。人はそういうふうに創られている。 こんな人間をつくりあげた神を崇拝できるのか? 神を崇拝している人は、その理由を教えてほしい。

  • アルケーの神は偉大なり

      宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神を除いて神は存在しない アルケーの神は唯一絶対である、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は永遠無限である、 アルケーの神は永遠不変である、 アルケーの神は永遠不滅である、 アルケーの神は偉大である これを否定できる者などおるまい。  

  • 神・サムシンググレート 宇宙 悪の存在 なぜ?

    宇宙の全てを創造した神・サムシンググレートは、人類に自由意志を与えただけでは足りず、宇宙をおもしろくするために、悪魔や邪悪な異星人や悪魔崇拝者や闇の勢力やこれらの手先どもである極悪人や悪人どもを存在させているのでしょうか。 宇宙に悪役がいないとおもしろくないという事でね。 それとも何かのミス・失敗で存在しているのでしょうか? それとも、自らの自由意志で、大きく神・サムシンググレートから離れてしまった存在なのでしょうか? そうなら、なぜ神・サムシンググレートは、こういう存在を存在させ容認しているのでしょうかね?

  • 神はなぜ自分の存在を明らかにしないのか?

    皆さんこんにちは。 私は宗教、哲学にまったくの素人で、また無宗教でも ありますが、神の存在は信じています。 しかし、私の思っている神というのは、私を護って くれるだけの近くて、小さい、守護霊的な存在なのです。 宇宙規模のすべての創造主の神の事とは違うのですが、 その創造主の神について、教えていただければ幸いです。 神は自分(神)の存在を人類に知らせたいのでしょうか? それとも隠したいのでしょうか? キリスト教などの信者の方が、神の存在を皆に説いている はずなので、前者だと思うのですが、それなら神はなぜ、 自ら地球上のすべての人類に姿を見せるとか、声を聞かせる とかして、自分の存在をアピールしないのでしょうか? 何卒よろしくお願い致します。

  • アルケーの神は全てを知っている

       問う人: この世界で全知全能なるものは存在するか 「人の道」: 全知全能なるものは存在する、 アルケーの神がそれである、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は宇宙の全てを見てきておる、 この宇宙が無限であること、 この宇宙が創造されたものではないこと、 宇宙の創造主は存在せぬこと、 宇宙の法則は完全無欠であり正しいこと、 宇宙の法則は完全無欠であり正しいが故に不変であること、 地球上の人類が捉えている宇宙は、無限なる宇宙の中の小さなビー玉に過ぎないこと、 この無限なる宇宙の歴史の中で、現在ある地球や人類文明の類が過去に、数百億、数千億どころか無限に多くのものが現れては消え、消えては現れたこと、 宇宙は永遠に不滅であり、無限なる宇宙の歴史は永遠に続くこと、 アルケーの神はその全てを見てきており、 アルケーの神はその全てを知っている、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神ほど偉大なものが他にあろーか、 皆はどー思う、 あ~、  

  • 私は神ですか?しかし、人間は神ではない。

    馬鹿で、非常識で、アホで、間抜けで、有り得ない・・・そんな質問ですよね?これって。 常識的に言って、1人1人は、生きては死ぬだけの、ただの生物であり、 ただの人間ですよね。 だから、ぶっちゃけ、1人が例え、死のうが、地球上には60億人、日本には1億人もの大勢の人がいるのですから、1人が死んでも、別にどってことないわけです。そりゃ、悲しむ人もいたりしますが。 だから、1人がどんなに頑張ろうとも、政治家になって、総理大臣にでもならない限り、どこぞの社長にでもならない限り、日本や世界へ多大なる影響を与えることは無理なわけです。 その上で、とあるブログをまた発見しました。 また、というのは、一度検索して発見していたブログだからです。 そこには、創造主が貴方、とあります。 つまり、創造主=神は貴方、という意味だと思います。 しかし、常識的に言って、私だって、他人だって、ただの人間であり、神ではありません。 神とは?そりゃ、すごい人で、なんだってできる存在ですよね? つまり、私は神ではないということです。 また、他人だって、神ではないということです。 これらは、常識であり、ほぼ100%合っていると断言できます。 この意見に反対する人達は、ただの馬鹿な、非常識な人々でしょう。 キリスト教など、宗教知りませんが、彼らだって、神=偉大な存在だと捉えていて、人間は神ではないとしています。 以下、引用します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー http://www.vcafe.jp/harukanaima/blog/entry-16343 神はサイコロで遊びたかった 2013年02月20日 23:35 カテゴリ : 基本的な理解の整理 「神は創造主なので、当然、「確率」というサイコロを創造できました。 そしてサイコロで遊べる世界、「確率の世界」も創造できました。 さらに神の壮大なところは、確率の世界をもっと楽しめるように、 神であることを忘れた自分までをも創ったことです。 「地球次元」、あるいは「人間」という体験は、こうして創造されました。 『創造主であることを忘れた創造主』、それがあなたです。 あなたは神、創造主の一つの視点を担っている存在です。 あなたは本来、無限に広大な存在です。 ですが、いまそれを忘れているのは「神の計画」によるものなのです。 「自分をもっと体験したい」という神の衝動によって、 自分が神であることを忘れたあなたが創られたのです。 すべてを忘れれば、すべてのものが初めて触れるものになります。 すべての体験が新鮮なまま、深く、詳細に味わえます。 神であることを、創造を、深く体験するためには、 神を、創造を、新鮮な驚きをもって深くつぶさに味わうためには、 神である自分を忘れる=「神ではない自分」、 創造を忘れる=「創造できない」 という体験が必要になります。 その体験をより強烈なものにしてくれるツールが、 「確率」という機能だったのです。 確率に翻弄されれば、 自らが創造主であることなど想像すらできなくなります。 確率に翻弄されるなど、 もっとも創造主らしからぬ振る舞いです。 どんなものでも思いのままに創造できる創造主にとって、 これほど楽しめる体験は他にありません。 神の計画ですから、当然、完璧に成功しました。 あなたは自らの無限の広大さを完全に忘れ、 「確率」というシステムは完璧に作動し、 確率に振り回される世界とあなたが完璧に創造されました。 あなたは神の計画に見事に協力してきたのです。 神は『「確率」という体験』を創造しましたが、 神自身は確率に振り回されることはありません。 なぜなら、 創造主は自分の創造したものに支配されることはできないからです。 「確率」は、創造主である神の計画によって、 その計画の通りに寸分違わず創造されたものです。 『神はサイコロを振らない(アインシュタインの言葉)』のです。 しかしながら、この地球次元の体験から確率性が排除できないのは、 単にそのようにデザインされているからです。 そもそも「位置(”ここ”、”そこ”)」や 「運動(”ここ”から”そこ”への移行)」 「時間("このとき”、”そのとき”)」という、 二元性の世界に特有の相対的な現象自体が、創造された幻想なのです。 (さらに言えば、 「現象」という概念も、また「概念」も相対的な性質のものですが。) そして、 それらの現象の現われ方にも様々なバリエーションがあるので、 地球次元的な「位置」や「運動」、「時間」の実現のために、 「確率」という機能をこの次元に組み込んでいるのです。 すべては、『自分が創造主であることを忘れる』という体験を 可能にするためのデザインなのです。 『自分が創造主であることを忘れる』という体験の次元においてのみ、 「確率」が効果を発揮する、 『量子の不確定性(「不確定性原理」:量子物理学上の理論)』 という体験が可能となります。 ですから、 『量子の不確定性』も『神はサイコロを振らない』も、矛盾し合う概念ではなく、 それぞれ 『「確率」がその効果を発揮する次元』と『「確率」を創造した次元』 を説明しているのであり、 それぞれが認識している次元、解明しようとしている次元が 異なるだけなのです。 つまり、 どちらの考え方も成立する、言わば”正しい”ということです。」

  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神に対し「汝」とは!?

    訳文の参考にするため、古代エジプトを舞台にした翻訳小説を読んでいて、ある訳語に違和感を抱きました。 主人公が神(ここでは多神教の神なので対象はその都度変わります)と対話する際、神に対し常に「汝」と呼びかけているのです。 「汝」は一般的に目下の者に呼びかけるときの言葉と解釈していましたので、すぐに辞書で調べてみたのですが、やはり目下を呼ぶ語としか書かれていません。 自分より上位の存在、超越的存在である神に対し、「汝」という呼びかけがはたして相応しいのか。皆さんはどう思われますか? 仮に主人公が神を自分と対等の存在と考えているとして、対等の者に対して「汝」は使えるでしょうか? また「汝」でないとすれば、神に呼びかけるに相応しい言葉としては、どのようなものが考えられるでしょうか?「神よ」とか「神さま」ではなく、「あなた」の代わりになるような言葉で思い当たる方がいらっしいましたら、よろしくご教示のほどお願い申し上げます。

  • 「神」を否定する

     初めまして。 大学一年で、理学部の者です。  哲学の講義に於いてディペートを行いました。 テーマは「『神』は存在するのか?」  哲学の基礎知識が無い人学生ばかり集まっていた(?)ので、後半はテーマとは違う方向になってましたが、汗。  神は存在する→科学的に存在しないことを証明されていない・無限者なので、発見されない  神は存在しない→科学的に証明されない・(コスモスの)世界に「神」という言葉が存在していること自体が否定そのものではないか?  自身としては、神の存在を否定する側です。    神は存在するのでしょうか? また神は存在しないのでしょうか?  勿論、神は存在する・しないの問題ではなく、信じる・信じないの問題とは思いますが。  無知者なので、(自分で調べても)分からない用語があれば質問する場合がありますので(その時は、解説を御願いします)。