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「神」を否定する

 初めまして。 大学一年で、理学部の者です。  哲学の講義に於いてディペートを行いました。 テーマは「『神』は存在するのか?」  哲学の基礎知識が無い人学生ばかり集まっていた(?)ので、後半はテーマとは違う方向になってましたが、汗。  神は存在する→科学的に存在しないことを証明されていない・無限者なので、発見されない  神は存在しない→科学的に証明されない・(コスモスの)世界に「神」という言葉が存在していること自体が否定そのものではないか?  自身としては、神の存在を否定する側です。    神は存在するのでしょうか? また神は存在しないのでしょうか?  勿論、神は存在する・しないの問題ではなく、信じる・信じないの問題とは思いますが。  無知者なので、(自分で調べても)分からない用語があれば質問する場合がありますので(その時は、解説を御願いします)。

noname#48072
noname#48072

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  • tyr134
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回答No.12

ANo.4です。 >>キリスト教の国々が「科学」という「概念」を生み出したのも忘れてはならない事実ですね。 > 失礼な質問をしますが、何故忘れてはならないのですか? と、新たな疑問を提示していただいたようなので、私なりの回答を。 「神がいるか・いないか」という議論は、キリスト教世界で科学革命や近代哲学が進むなかで戦われる議論となりました。 当然、キリスト教社会で戦われている議論なので正確に言うならば、「キリスト教が想定する全知全能・唯一絶対の神はいるか」という事になるんです。 キリスト教社会から見れば、日本は「無神教の国」なんですよ。 日本にいる「八百万の神」は、「神様」じゃないんですよね。 でも、日本人はその事に無自覚ですね。 なんで、「神」という概念が知らず知らずに「キリスト教」という一つの宗教の上に立っている事に気付かず議論してたりする。 これと同じように、「近代科学」という概念も「キリスト教」の中で醸成されたものです。 でも、この「科学という概念」が実はとてもアヤフヤなモノだという事に自覚的な人は少ない。 で、「科学」という名が付けば無類の信頼を置いてしまう。 その事が、所謂「疑似科学」の蔓延の原因だとして、再定義しようとする動きもありますね。(「論理実証主義」や「カール・ポパーの反証可能性」など) もともと「(近現代)科学」というのは、「(キリスト教の)神が作った世界を知りたい」という欲求から始まっています。 ベーコンだって、ガリレオだって、ニュートンだって、みんなキリスト教徒です。 でも、「科学」が進んでいくと「聖書が教える世界」と食い違いが生じ始める。 当然、「聖書が嘘だった」なんて事になったら教会にとっては根幹が揺らぐことになる。 そこで、「科学」は「悪魔の術」として禁止してしまった。 でも、人間の欲求は抑えきれずについにはニーチェに「神は死んだ」って言われるまでになってしまった。 いずれにせよ、「現代の科学」というのは「キリスト教」と密接に関わっているんです。 もちろん、それ以前にも洋の東西を問わず「科学的なモノ」はありました。 まぁ、一番良い言葉は「哲学」ですけど。 でも、「科学」は無かった。 「科学」というのは、近代キリスト教社会で生まれた概念なんです。 当然、無意識的に「キリスト教の思想」が入り込んできている。 別に、それ自体は善い・悪いというのは無いと思いますけど。 まぁ、「科学的世界観」は「キリスト教的世界観」と密接に関わっていると言うことです。 と、少し横道にそれた気がしますが、参考になれば幸いです。

noname#48072
質問者

お礼

>「神」という概念が知らず知らずに「キリスト教」という一つの宗教の上に立っている事に気付かず議論してたりする。  確かに、ありますね。  科学の根源が「宗教への問い掛け」ということでしょうか。  宗教があると(逆の立場があるからこそ)、科学・哲学が発展していく。  そういう意味では宗教は必要不可欠な存在ですね、笑。  丁寧に、時間を割いてまで書いて頂いて、感謝です。

その他の回答 (16)

回答No.17

>物質(有限)世界では絶えず、運動を行っているので、無理があります。 >無の世界と言いたいのでしょうが、証明されていないので、不明ですね(そして、それは完全と言えるのか?)。 >(失礼ですが、)論理的に欠陥があります。 前述でも記載したように確かに議論にはなじまないんです。a-0429の反論はもっともです。 でもイメージは伝えたいので追加説明します。 次元を上げて想像するのは、物理的に次元を上げるということです。 縦横高さそれぞれに直行する座標とか、もう一つの時間軸の存在という風な次元です。 そうすると、物質の素粒子の挙動や固有振動やあらゆるエネルギーの形態さえ、時間軸を一気に把握しますから、固定化され変化では無くなくなるというイメージなんです。 たとえば、1次元+時間世界で直線上を正弦運動する点があったとします。 1次元+時間の生物からみるとこの変化は、どう考えても変化です。 しかし、この変化を1次元+時間+1次元生物から見ると正弦波のグラフとなりとなり、もはや変化では無くなります。 そして、2次元+時間+1次元生物からみるとさらに全体を掌握することができます。 そして、3次元+時間の世界での変化は、次元を上げると変化では無くなるということになります。論理的証明はリサランドールにお任せです。 >>直感的に、あなたも神である、転じて、あなたが神であるとなります。 >「完全は『神』が創造した、故に我々も完全な『神』」では無理でしょう。 >人間の肉体(身体)は神から授かったものとされてます。 神の創造主はいない。 神の完全性の帰結から創造主と創造物は一体である。(神の存在を肯定する立場) なので、 前述のすべての次元の総体が神であると仮定すると、 不完全であるが故にあるいは思考自体も変化であるが故にどう考えても不完全の中に神の存在は認められないという帰結が逆転して、あなたも神の一部であり、ということは、あなたが神であることになります。 時間軸を越えた総体としてのあなたですから自覚はできません。

noname#48072
質問者

お礼

 今の自身には追い付けない内容ですので、保存しときます。  どうも。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.16

<<人間以外の動物でも夢を見る。妄想・夢として『神』があるならば、存在しているのではないか?>> では全ての概念としてあるものは存在するということですね。 つまり個人個人の想定のルール・概念は実際にすべて存在し、それらが混在しながらもあるということでしょうか。 相反するものでも。論理的道徳的に成り立たなくとも。それを全て正しいとも間違っているとも好き勝手に妄想する概念全てが。存在するとw 当然「ない」という概念もありますから…ww 頭の良いこと。 僕には想像もつきません。 <<概念での存在なのですから、物質ではないのですから(『神』は)、前提条件は考える必要は無いと判断しました。>> それでは「『神』は存在するのか?」自体の論としての、話し合い自体の意味がなくなりそうな感じがします。 『』を無記入にしても同じ事になるのでは。「は存在するのか?」前提条件が無限にあるものについて多数の意見を募ることに何の意味を見出せましょうか。 題材がなくそれが存在するのか? 「何が?」といった答えがまず出るでしょう。 この状態で何か論ずるは論理的理性的に何かかけていると判断されるかもしれません。 「それはね~…だよ!」っておかしいでしょ? まずテーマを出した人に前提条件を聞くのが対話のはじめだと感じます。 論理的理性的ならば。

  • pojipoji
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回答No.15

科学の探求を続けていくと、何らかの法則性が発見されるのではないかと考えます。その法則性そのものは因果関係の外にあって、変化するものではないというところにまで探求が進んだ場合、それは人々が待ち望んだ実存するものの証明ではないでしょうか。 一方、物質やエネルギーこそが存在し変化しているので、法則性と物質等とは切り離して考えることが出来ない関係であると考えます。 そこで世界は全体として神であって、神であることと神の現われが表現されていると考えます。

noname#48072
質問者

お礼

>法則性  「自然の斉一性」ですね。 >変化するものではないというところにまで探求が進んだ場合、それは人々が待ち望んだ実存するものの証明ではないでしょうか。  下記にも記〔しる〕しましたが、同じ考えです。 >そこで世界は全体として神であって、神であることと神の現われが表現されていると考えます。  『神』誕生の年数が記載されている様なので、恐らくは、無理があります(宇宙が誕生する前では『神』は生きていない。キリスト教の『神』として)。  やはり、『神』の内容を明確にしないといけない様ですね(当然)。 其処を反省しています。

回答No.14

神は存在する 側で考えてみました。 議論にはなじみませんが・・想像はできます。 次元を2つ上げて想像します。 空間の三次元と時間、そして、これらを一括して積み上げる次元と さらに下位次元を知覚あるいは創造あるいは自己認識する次元です。さらに上があるかもしれませんが・・・ そうすると、人間が知覚するいわゆる変化、つまり、物質、エネルギー、思考、意識がもはや変化ではなくなってしまうということになります。 なぜなら、縦、横、高さ、過去、未来、力の全体を写真でも撮るかのように一括して認識、記憶する者がいるなら、これらが固定化されるが故に完全が達成されるからです。 いわゆる全知全能、完全、絶対が達成され、それが神となります。 蛇足ですが、あらゆる次元の総体が神であるとするなら、 直感的に、あなたも神である、転じて、あなたが神であるとなります。

noname#48072
質問者

お礼

>次元を2つ上げて想像します。  次元での説明は、分からないので、恐らくは「人間が物事を認識可能な範囲を越えた場所(=精神)」と考えた方が良いですね。 >人間が知覚するいわゆる変化、つまり、物質、エネルギー、思考、意識がもはや変化ではなくなってしまうということになります。  ?(後述) >なぜなら、縦、横、高さ、過去、未来、力の全体を写真でも撮るかのように一括して認識、記憶する者がいるなら、これらが固定化されるが故に完全が達成されるからです。  物質(有限)世界では絶えず、運動を行っているので、無理があります。  無の世界と言いたいのでしょうが、証明されていないので、不明ですね(そして、それは完全と言えるのか?)。 (失礼ですが、)論理的に欠陥があります(自身の、読解力の問題かもしれないので、分かり易く説明を頂けたら、幸いです)。 >直感的に、あなたも神である、転じて、あなたが神であるとなります。  「完全は『神』が創造した、故に我々も完全な『神』」では無理でしょう。  人間の肉体(身体)は神から授かったものとされてます。

noname#91067
noname#91067
回答No.13

神の概念は人間が作ったものです。 しかし、「万物の創造主、全知全能、そして無限な存在の証明せよ」 ということの議論なら科学的(?)な代用解説として 「ビックバンが起こったことを信じますか?、それを証明出来ますか?」 という設問にして、神を信じないのならそれを否定するしかないかも。 地上で歴史上で一番賢い人間でも、無から何かを創り出すことはできない。(サイババさんにも私は懐疑的) 有限なものを利用して、在るものに再構築したり、ある作用を利用するに留まります。 つまり全体(端がない)で無限(量ではない)という「虚無か混沌した有」かから、有限の物質と時間と空間を同時に創り出せた有能な人間はまだいないのです(居るのか?)。 そういう意味でどんなに霊感や魂の浄化が出来た人も神からすれば無能です。 神は無から万物を造ったのですから。

noname#48072
質問者

お礼

>ビックバン  証明されていない。  そしてまた、上記の通り、ビッグバンというものは証明されてないですが、ビッグバンが存在しなくとも、宇宙の起源前の時代がある。  創造論者は「(宇宙の起源前に)時間という概念が其処には存在しない。」と口答している、よって創造論者は宇宙の起源前を(必然的に)認めていることになる。    ということで、 >「ビックバンが起こったことを信じますか?、それを証明出来ますか?」   という設問にして、神を信じないのならそれを否定するしかないかも。  というものは全く関係の無いことである。 >神は無から万物を造ったのですから。  その主張には無理がありますね。    神=無限者・混沌的な存在・素材の世界・空間と時間に縛られない   人間=有限者・秩序な存在・言語の世界・空間と時間に縛られる  その無限の『神』が、我々が住む有限世界に『神』として存在すること事態が『神』の存在否定となる。  懐疑論より(詳しく書くと、長くなるので省略)、論破(説明を求めるなら、書きます)。 >有限の物質と時間と空間を同時に創り出せた人間はまだいないのです  時間と空間の知識を得ると分かりますが。 人間が存在することで、既に「時間」も「空間」も誕生していることになる。  ということで、論破。  我々人間の頭の中で『神』という存在はイメージ可能(ただし、動物が生きている「時間」のみ)。  (人間を含む)動物が死滅した瞬間、『神』は死ぬ。  何故ならば、頭で思い浮かべることが不可能になるから(イメージする主体・根源である、動物が死滅しているから)。  『神』は存在しない。

noname#155689
noname#155689
回答No.11

魅力的な回答が寄せられる中 回答でない教科書的なアドバイス?で申し訳ないのですが 哲学の講義の中で「『神』は存在するのか?」を議論する目的は ●神の「存在論的証明」 について学んで欲しいということではないかと思いました。 近代哲学史において非常に重要なトピックだと思います。 これを、この場で簡潔に説明できるほど私は詳しくないのですが、多分 ●デカルト ゲーデル 神の存在証明 で検索すると沢山出てくるので 読み込んでいけば概ね理解できると思います。 ちなみに、こんなQ&Aを見つけました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313472923 さかのぼって読んでいくと、非常に参考になるのではないでしょうか。

noname#48072
質問者

お礼

 教授は何も考えてないと思います、汗。 議論中も見ている(?)だけですし、笑。 好きですが、笑。 >近代哲学史において非常に重要なトピックだと思います  ですよね。 『進化論』がアメリカでは問題になっている様で。 >デカルト ゲーデル 神の存在証明  参考になるキーワードを有難う御座います。 調べてみます。 >http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313472923  読んでみますね(時間が掛かりそうですね、笑)。

noname#80116
noname#80116
回答No.10

 《結論の為の議論であり・・・》とおっしゃっているのですが そうすると 二つの場合が 考えられます。  一つは もともと論証不可能なのだけれど 信じる人と信じない人(存在しないと信じる人)との間で 神を指し示すような比喩や代理の表現によって 出来るだけ 説得力のある議論を 経験科学的に おこなってみようという場合。  いま一つは 信じる人の側では この論証不可能な存在(つまり非存在)が しかも この自然界や人間世界に介入することがあると唱えている。これについて 論証不可能なのだが 出来るだけ 経験科学的に 議論してみようという場合。  前者は 文学や人文科学が 経験科学であるとするなら そのような学問の営為によって あるいは 議論しうるのかも知れません。あらゆる差異を吸収するかのごとく認めこれを噛み砕いて説明する存在(はたらき)などと たとえば言ってみることができるかも知れません。ですが これは 永遠に議論はつづくでしょう。ひまな人びとの余興です。(いや 茶化すわけではありません)。  後者は――結局は同じなのですが―― 自然科学によって解けないことがらとは 一体何かという問いに変わりませんか。科学的にまだ証明されないというのではなくて どこまで行っても 科学による証明は無理だということがらがあるとすれば それは 何かです。むろん 経験現象としてです。  となると まだ 時を俟つということになるのでしょうか。(よく分かりませんが)。  むろん 神とは 経験現象を超えた存在(あるいは 力・はたらき 領域=非領域)のことを わざわざ 想定しているのだと思います。わざわざで止めておけば いいのに さらにこれを 経験合理性で分かるようにと 説明しようとするまでに及んでいるというのが 良心・信教あるいは表現の自由にもとづかざるを得ない人間の歴史ですよね。

noname#48072
質問者

お礼

 あらゆる事象に結論は必要だと思います。 真理を求める為の学問ではないのか?  今思ったのですが、生命(有機物)が死ねば、『神』は存在することは無いですね。  ということで、『神』は存在しない(駄目かな)、汗

  • magga
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回答No.9

五感と思考を六根と呼びます。 そこにそれぞれの刺激があり認識します。 そこで大きな存在になるのが思考です。 この思考は好き勝手に初期データを捏造し妄想します。 ここまではざっくりとした人の構造の分析。 ここから始めれば「神」の概念すら出てきそうにありません。 認識の範囲外は妄想でしょうから。 存在するかしないかですが… そもそもまずその神の前提条件がなければ何も論ぜません。 何万何億もの神の概念があるでしょう。 どの概念で、それはどのような特徴を定義されているのでしょう。 その前提条件がなければ論じている気分になれても論じることはかなわない気がします。 論理的に道徳的に理性的に。

noname#48072
質問者

お礼

>妄想します  人間以外の動物でも夢を見る。 妄想・夢として『神』があるならば、存在しているのではないか? >そもそもまずその神の前提条件がなければ何も論ぜません。   何万何億もの神の概念があるでしょう。   どの概念で、それはどのような特徴を定義されているのでしょう。  これは、議論中に誰かが言ってましたが。 恐らくは、各々(個人)の『神』の概念でしょう。 >前提条件  概念での存在なのですから、物質ではないのですから(『神』は)、考える必要は無いと判断しました。

回答No.8

●神は存在する。  あなたは、あなたにとってあなたとして間違いなく存在している。  そのあなたの存在原因である、あなたの創造主たる神は存在する。 ●神は存在しない。  神は不完全であってはならない。完全であるが故に、また、変化は不完全を意味しているが故に、神にはいかなる変化も許されない。したがって、神は、いかなる言葉も物質もエネルギーも発せず時間がない。(裏を返せば、存在は不完全であるからこそ継続して存在している。)  結論は、「神」と「存在」は矛盾するので、神は存在しない。 検証。 神が全宇宙を創造したのか。 完全が不完全を創造することはあり得ない。完全ではなくなってしまう。完全は何をも創造しない。完全だからである。神が存在するなら宇宙も完全な存在でなければならない。 したがって、神は存在しない。 ●特異点は存在といえるか  無から発生した宇宙の如く、神は、存在はしないが創造はするのか・・・・・・・・・ 神を含め全体が何次元で構成されているのか解っていませんし、 人間が知覚でき想像できる範囲が残念ながら人間知性の限界です。 この限界の外に神が君臨するか否かは神のみぞ知るです。    

noname#48072
質問者

お礼

>「神」と「存在」は矛盾するので、神は存在しない。  無限者の『神』は有限な世界に触れている時点で、やはり存在してないですよね。 >特異点は存在といえるか  未来の科学か、異なる学問が証明してくれると思います。  自分の立ち位置によって、『神』は存在する・存在しないとは、不思議です、笑。  この辺りを、もう少し疑ってみます、汗。

  • kigurumi
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回答No.7

「神」という語彙をネットにある辞書で調べたことがあるんですね。 驚いたことに、どの辞書にも載っていない。 つまり神というものを人間は定義できていないんですね。 wikiは辞典のようなもので、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E 『人間の及ばぬ知恵・知識・力を持つとされる存在の一種で、人間を含む生命やこの世界そのものなどを創り出した存在であるとされることもある。』 「であるとされる こ と も ある」 ということで、人間によって定義されて、はじめて神だとされるんですね。 実際はそうじゃないかもしれないが、人間が「神」だとすれば神。 日本だって鹿を神の使いだと定義した結果、法律? 宗教? で鹿は保護されるまでになりましたよね。 神は存在するということを主張はできても、立証することは不可能。 でも、神は存在しないということを立証するのはたやすい。 「これが神」とされてきたものは、実際にそのようなものは存在しなかったと立証すればいいわけなので。 例えば天使は背中に羽を持っているが、人間があと何億年進化しつづけようと、羽が生えた人間などにならない。 生物的に無理らしいです。 でも空想上は何億年たたなくても、存在させることができる。 組織を作って「いる」とみんなで一致した考えを共有すれば、たとえ立証不可能でも、存在するってなるので。 それは存在の立証の必要などなく、共通了解により存在することになる。 例えば、Aさんというタレントがいて、その人が好きな人がファンクラブを作り、みな「Aさんはこの世一美しい」といえば、その集団の中でのみはAさんはこの世で一番美しいことになる。 Aさんがこの世一美しいかを、科学で証明するなんて馬鹿げている。 好みの問題で、好みが一致したものが作った集団の特徴だから。 「他人の奥さんをあれこれ評価するな。個人的な嗜好の問題で、本人が妻は美人だと思っていたら、それでいい。」という領域。 ところが、同じ類でも神となると、そうはいかない。 それは個人の嗜好を超え、人の生き方や政治的なものが絡んでくるから。 結束力もすごいが、破壊力がすさまじいので、「個人の趣味だから いる いない 論争に突入せず ほっとけ」とならない。 テレビで「宇宙人はいる いない」という論争を、娯楽番組として放映こそすれ、「神はいる いない」を娯楽として放映するなんて、テレビ局はできない。 そんなことしたら、大変な事態になってしまうことが目に見えているから。 超能力者 幽霊 など娯楽番組として放映するのにね。 神を娯楽番組で取り扱ってしまうと、テレビ局に火炎瓶投げ込まれるかもしれません。 それだけテレビ局は影響が大きいので、無難なものを選ぶわけです。 というわけで、神の存在を否定を立証するのは容易ですが、神は存在すると立証するためには、実際神の存在を立証しなければ、立証したことにならない。 で、今まで出来た人はいない。 つまり、神は存在しない でいいんじゃないかと。 すると、「人間は限界能力があり、神は人間の能力を持ってして認識できないので、だから存在を立証できていないだけで、存在を立証できない 即 いない ではない」という人が結構いる。 ってことは、誰も神を今のところ認識できていないわけで、認識できないものを存在する主張するのは、、、、 例えば、頭が馬で体が鹿の動物は今のところ存在しません。 そういう名称の動物は中国にいるらしいですが、頭が馬で首から下が鹿という動物じゃあない。 でも、まだ発見されていないだけで、いつかそういう動物が見つかるかもしれない? 宇宙人だっていつか見つかるかもしれない、地球と同じ惑星が将来見つかるかもしれない。 そもそも地球の誕生は奇跡としか思えないそうです。 奇跡の連続で今のような状態になり、このような奇跡のオンパレードが他でも起こって、地球そっくりの惑星がどこかに誕生しているかもしれない と主張する人。 地球誕生の確立は0.0000000000000000000000000と0がいくつつくか忘れましたが、天文学的数値分の1くらいの確立だそうで、普通科学はそれを1ではなく0とみなします。 じゃあ 地球は存在しないのか。 いえ この場合 実際存在していますから1です。 地球は存在しているので、私達はこの地球の上で「神はいる いやいない」などやれているわけです。 同じ論法でいくと「神が人間を創った」と主張すると、「神が人間を作ったから、神はいる いない と議論できている」となるかというと、ちょっと待ってください、その前提が本当に正しいのか? 地球誕生の説得力ある番組をNHKで見たことがあります。 非常に科学的で、説得力のある現実的な説。 何十億年という歳月をかけ火の玉が冷却していき、回転することでどういった影響がでてき、どうやって水、大気ができることになったか、納得できる内容です。 でも神が人間を創ったという神話からすると、この全宇宙は約6千年ほど前にできたことになります。 誕生と死亡の年数を遡って出した結論が、宇宙誕生の年数を測定可能にしたわけです。 でもおかしいです。 宇宙の誕生が6千年弱前など、科学的に無理。 日本列島より宇宙の誕生の方が若いなんてありえない。 つまり、その神話の内容が間違えていると考えるのが妥当。 つまり、神というものが存在し、人間を作ったから人間は存在することになったという話は、ある特定の人たちの共通了解であるが、事実に反している。 神話を保持した人の最大のミスは、年数を書いてしまったことだと思います。 神話を読むと、恐竜出てこないです。 恐竜が出土しているのに、その生き物が神話に登場しない。 つまり 恐竜が絶滅した後に書かれたもので、存在を知らなかったから書けなかった。 このように科学的に立証できるものをもってして、神が宇宙を創り、人間を作ったということを否定できる。 そういう人間に似た生物が宇宙を作り地球を作り人間を作ったのではないことは明白。 人間が地球の主であるかのように思っているが、人間 とくに男性はあと数万年すればこのままでいけば絶滅する。 「そうか 人類は滅びるのか」と思うのなら、ちょっと待ってください。 人間じゃなく人間の男性は滅びるが、女は生き残るかもしれない。 男が滅びたあと「神の怒りで女から男が奪われた」とする宗教ができるのか「男があまりにも邪悪な生き物だったから神によって滅ぼされた」とする神話ができるのか。 いやいや 宗教は男の作り出したなぐさみの文学なので、女ばかりになった時、今のような組織的な宗教は存在しなくなる。 神がいるというのなら、男が絶滅するのをなんとか食い止めてもらおうと、神の啓示を待つしかないわけですね。 もし、本当にいると思っているなら。 最後の男 誰になるんでしょうね。 残念ながら私が生きている間には起こらないので、確認することはできません。 「いや 最後の審判で死んだ人も神が蘇らせ最後の裁きをする。その時思い知るがいい」って言われたら、「あのですね それってエジプトの神話の内容でしょ?ミイラになってよみがえらせてもらうの? はい どうぞ 神話を科学だと思うのなら今すぐミイラになったらどうですか?」って思います。

noname#48072
質問者

お礼

 やはり『神』という存在は、信じる人にしか存在しないですね。 しかし、概念上では、生きている人間は『神』という存在を存在させてしまっている。 ただ、その『神』は一人一人、違う解釈なのであり、共通した『神』ではない。  逆に言えば、人間は一人一人、違う価値観を持っていることが分かる(もし、『神』が共通しているのであれば、様々な論争など起きない) 。  自身が演出であれば、『神』論争を敢えて取り上げますね。 結論は「分からない。」として、笑。 >地球誕生の確立は0.0000000000000000000000000と0がいくつつくか忘れましたが、天文学的数値分の1くらいの確立だそうで、普通科学はそれを1ではなく0とみなします。  自然の斉一性からすれば、反論されそうですね、汗。 自身も、例え天文学的数値の確立としても、その可能性があるのならば、否定すべきでは無いと思いますが。  個人的な宇宙解釈は、ある一定の時間までは、自然は生まれ・死にを繰り返す。 同時に、その時間の間、空間上では膨張をし、そして最終的には一点に集束すると考えてます(根拠無し)。 >でも神が人間を創ったという神話からすると、この全宇宙は約6千年ほど前にできたことになります。  ある記述を見たことがあります。 「(問)神は宇宙誕生の前まで、何をしていたのか?」 「(答)宇宙の始まる以前は、時間は存在しなかった。」  良く分からなかったですが、汗。  それは気になる記述ですね、探してみます。 やはり、神は頭の中でしか、存在出来ないものですね。 

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    幽霊を否定するのは科学者として問題ありますか。 科学的に証明できないという理由で存在を否定をすることは、科学者としてどうでしょう?

  • 神は、存在しない

    神は存在しないことを、哲学で証明できますか?

  • アルケーの神は偉大なり

      宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神を除いて神は存在しない アルケーの神は唯一絶対である、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は永遠無限である、 アルケーの神は永遠不変である、 アルケーの神は永遠不滅である、 アルケーの神は偉大である これを否定できる者などおるまい。  

  • 神は存在しない、神は「妄想」です!

    従来から、神の存在証明には、以下の3つがあります。 (1)自然神学的証明(一名、目的論的証明) これは生物の仕組みがものすごく精巧にできていることから、このような生物は神がいて、その神が設計図を引いて創ったに違いないと推論し、神の存在を証明しようとしたもの。 カントは確かに生物の仕組みが合理的に精妙にできているのは確かだが、だからと言って神が存在するとは言えない、と批判しました。 ダーウィンの進化論では、生物は長い歳月をかけて、現在の精密な仕組みを作り上げたことが分かっていますので、この証明は今では無効です。 (2)宇宙論的証明 これはアリストテレス、トマス・アクィナスの証明と言われるもので、以下のようなものです、 「この世には運動するものがあるが、それには原因がなければならない。そして原因があれば、その原因も結果であり、さらに原因の原因がなければならない。しかし、原因の原因も結果としたら、さらに原因の原因の原因もなければならない。かくて原因の系列は無限にさかのぼってゆく。しかし、人間は無限にさかのぼることはできないから、どこかで初動者とか、第一原因に突き当たらざるを得ない。その初動者とか、第一原因と言われるものが神である」と。 しかし、無限にさかのぼるということは、行けども行けども果てしがないということであり、どこにも行き着かない、ということです。 アリストテレス、トマスは初動者とか、第一原因に突き当たるというけれど、突き当たりません。 だから、この証明は間違いです。 (3)存在論的証明(一名、本体論的証明) これは一切の経験を除外して、ただ概念のみから最高存在者の存在を推論するもの。 以下のものがあります。 聖アンセルムスの証明。 「神は全知全能、完全無欠の存在である。全知全能・完全無欠の中には、存在も含む。もし、存在を含まなかったら、神の全知全能・完全無欠という定義に反する。よって神は存在する」 デカルトの証明。 「この世に存在するすべてのモノは偶然の存在である。偶然の観念があれば、必然の観念もなければならない。しかるに神は必然の存在である。よって神は存在する」と。 この証明に対しカントは「純粋理性批判」の「神の存在論的証明の不可能の理由について」で、以下のように批判しました。 「神の全知全能・完全無欠というのは、神の述語である。しかるに存在は述語ではない。だから、神がいかに全知全能・完全無欠と言ったからと言って、神が存在するとは限らない」と。 つまり述語とは、もともと主語に含まれた性質なり属性を外に展開したもの、いわば分析判断ですが、しかし存在は主語に含まれた性質でも属性でもない、主語に何ものも加えない、ということ、いわば総合判断です。 アンセルムスの証明は存在を主語に含まれると言っているが、それは分析判断と総合判断をごっちゃにするもので、間違い。 デカルトの証明は、観念としてあるものは実在してもある、と主張するもので、観念があるからと言って実在があるとは限らない、という意味で、間違い。 こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。 現在、神は道徳的な行為の元に価値として、あるいは信仰の問題として残っているだけです。 みなさん、どう思いますか? 確認質問です。

  • なぜ神の存在を証明しなければならなかったのか。

    中世のスコラの哲学者はなぜ神の存在を証明しなければならなかったのでしょうか?