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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:スピリアル系に興味のある人って?)

スピリアル系に興味のある人って?

tumaritou1の回答

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回答No.9

スピリアル系とは『永遠からのメッセージです。』私達の思考方法とは違う思考方法が存在しています。この事は簡単に説明する事が難しいです。 人間は誰でも二つの世界を行き来しています。今この見えている現実の世界が二つ存在していると言う意味です。貴方が信じようと信じまいと、一つの事実です。 一つの世界は『真実のままの世界です。』全てが真実で出来ている世界です。現実の真実だけの世界です。 もう一つの世界が又在ります、所謂『虚の世界です。』この世界を誰でもが真実の世界と思い込んでいます。本当の真実の世界と、本当は真実ではない『妄想として』真実として疑う事がない世界です。 こう云った、二つの世界を行き来しています。 では虚の世界です。思い込みの世界観と言う言い方も可能と思います。虚の世界では事故やいさかいや、争いが絶えない世界です、おまけに人間の不幸が重なる世界です。お互いが信じられなくなってしまう世界です。 こういった世界を引っ張っているものが『人間の欲や得や見栄や我執』です。きれいな女性に惹かれて結婚をした場合や、財産家である男性に惹かれて結婚をして、実際に幸福になれない場合では『虚の世界の幻想にだまされていた事を知らないでいた事』を意味します。 或は逆に『みすぼらしい』と人が思っていたとしても、二人で人生を切り開いて見事に財産を築来上げて、死ぬまで仲良く寄り添う事が出来た場合では、二人ともお互いの真実の愛を見つけて(赤い糸で結ばれて)育んでいた事を意味します。 目に見える世界の真実性を見抜けなかった事を意味します。こう云った目に見えない世界を『スピリアル系』と表現します。 幸福と言う意味を論じた場合では、少し説明し易くなります。幸福と言う意味ですが、幸福を捜し求めている間は『幸福が逃げてしまいます。』幸福は捜し求めなくなった瞬間に手に入ります。 安心も同じです、安心を求めている間中『不安や恐怖に襲われる場合が生じています。』安心を求めなくなった瞬間から『安心の中にいます。』 お金も同じです、お金を求めて、働いている間は『対してお金に恵まれません』只、お金を求めなくなって、働く事に専念する時から、お金が付いてくるようになります。 疲れもそうです、楽になりたい気持ちも同じです、楽をしたいと求めた場合では、一日中寝て過ごしたとしても、もっと楽をしたい気がある間は『楽が逃げています。』 こういった精神性をひっくるめにして、スピリアル系と表現します。 人間の一番の不幸を話をします。それは『死』の問題です、一個人の死で一個人の人生は全てなくなってしまいます。自分の死の場合では如何でしょうか?考えただけでも不安や恐怖心に駆られると思います。 こう云った問題を解決するものがスピリアル系になります。 人間が『身体の機能も脳の機能も』変わらない健常者と同じでいながら、自分の頭の中に『病気を作り出してしまう現象が在ります。』その為に専門の医師が沢山存在しています。 検査では異常が見付からない場合です。健常者と何も変わりが無いにも拘らずです。こう云った場合を具体的に書いてみます。一つは心を病むという現象です。是は始めから何処にも無かった『心の健康を望む心が、頭の中に作り出した、自分で作り出した妄想』を現実に存在すると思い込んでいる現象です。 一つは、身体の健康を求める余り『頭の中に自分で病気を作り出して、その妄想としての病気を信じ込んででしまって、恰も自分が病気と錯覚をしている現象です。 もう一つは『神経症』と言われているものです。主に『自分で自分の行動に制限を掛けてしまう現象です。』強迫行為や強迫観念、或は恐怖症などもあります、話す事も字を書く事さえ出来なくなる場合が在ります、所謂手の震えが止まらなくなる現象ですので、執刀医の場合では致命傷にまでなってしまうケースもあります。 こう行った事が起きる原因が『頭の中の世界観』と『目の前の真実の世界観』の食い違いです。頭の中で描かれた世界観が妄想で出来ていた場合を『虚の世界』と表現しています。 こう云った虚の世界から人間を救出する責務を負っているものがスピリアル系の課題です。 或は宗教の課題と言っても良いです。 先に上げた三つの障害、病気と思われているものには共通点があります。最大の共通点は『死に対する不安や恐怖感』です、是が基点となって様々に枝分かれしてゆきます。 次の問題点は『意識性』の問題です。共に共通しています、その共通点とは『不安になり易い性格とか、神経質な性格』と言う点です。 この問題を端的に表している物に聖書があります。人間が知恵のみを食べて、天国から追放されて苦しみを受ける事になった、と言う部分です。 この苦しみが先の三つの障害に当たります、もっと広く解釈するなら『欲や見栄を絡めた結婚に失敗する事や、お金に執着をして貧乏から抜け出せないでいる事』にも通じています。 人間は何故苦しまなくてはいけないのか?がスピリアル系を理解するキーワードです。そうして最後に死の中で、或は死にも左右されない幸福の境涯を手にするための教本の役目を果たしている事を意味します。 上手く説明出来なくなりましたので、ある動画をコピーして張って置きます。キーワードは『自分を捨てる、或は自分が全てを諦める』です。この意味は自我意識という自分が、自分の中に存在している自分自身の命の働きに全てを委ねると言う意味です。 或は自分自身の『無意識の意識』に自分を預けると言う意味です。 右脳の機能は『永遠からやって来ましたので、永遠の意味を理解している者』と言う言い方になります。左脳の意識としての言葉を使う様になってから自我意識は脳の機能から、永遠を理解する機能が入っていない事を意味します。物事を割り切って分別する機能を持った時からです。 割り切れる問題は有限に属しているからです。 この二つの意識の仲違い出番争いが『心の中の不安や恐怖心の元』であった事を、二つの意識が出会う事によって理解します。禅で言うところの見性体験です。キリスト者なら『神との和解です』 是以後『心の矛盾に苦しむ事がなくなる体験』と言う意味です。涅槃寂静の世界に入るという意味です。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。 この動画を裏付ける科学的な証拠です。 自分では分らないとしても、人間にはもう一つ心が在ります。科学的な証拠をウイキペデアから紹介します。 『”ロジャースペリー 分離脳』 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

0123gokudo
質問者

補足

回答ありがとうございます。 貴方が説明された諸点は、わざわざスピリアルを持ち出さなくても、全て、少なくとも私には説明可能なことばかりです。私は精神分析医の著作を主に読んで来て、納得できる説明で納得して来ました。現実に我々の周りに転がっているものを使って説明してくれますから「本当かい?」という反応にはならないです。 しかし、スピリアル系の人は、エクハルトも若干読んでいますが)、説明が難しいが事実なんだといきなり結論を押し付けて来ます。 虚の世界と真実の世界は、厭離穢土、欣求浄土の思想と同じ、というより、そのパプリカでしょうが、こういうのも何も、浄土の思想を持って来なくても、虚と実の奇妙なつながりは精神分析学者が平易な誰でも納得できる説明をしています。   要するにスピリアル系に説明を求める人たちは、現実的な説明より、あるかないか分からないような架空の世界の理論を好むということでしょうか? スピリアル系に感動する人たちの、感動点が分からず質問しましたが、大体のところが見えて来ました。 ありがとうございます。 

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