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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:スピリアル系に興味のある人って?)

スピリアル系に興味のある人って?

ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)の回答

回答No.2

それ系の本に興味はなくはないが、あくまでも、科学的な根拠が書かれてない場合が多い以上、『この著者はこのレベルの人なのか・・・』と全て見えてしまう。 超常現象だって、実は全て未来の科学で解明される。現に、私自身が、幻覚を自在に生み出せる能力だって、単に『同時に複数の場所にいる波の性質を持つ【量子論】』で、簡単に説明がつくし、法則性だってある。実例なら、舌を使い身体のどんな組織も突き破り、固い骨や歯さえも軟化して自由にその歯のみを、自由意思で動かせるし折ったり回転も可能だ。実に面白い法則性ならば、それら身体の組織は必ず脱落しない、という点で、糸のようなもので必ず周囲の組織と連結している点だ。その糸さえ、上側に1本だったり、それが瞬時に消えたとき、下側に2本出現したりする。だから、歯をグルグルと10回右回転されてから、舌で様子を見ていると、逆に10回の左回転で元に戻っていくのが観測できる。 また、私の皮膚細胞には「黒い毛のようなモノ」があり、それを抜いてみると、その毛はフッと消えてしまうのだ。他には、皮膚や紙などに色の暗い「何らかの短い線」を描き、それを下地を曲げることで「弦のような弓状に目で認識した瞬間」その描かれた短い線が立体化し、まるで太い毛のようになる。これは見えるし触れる。特徴は非常に固くハサミで切る事は不可能。なぜなら、それは2次元の平面に存在するモノを切る事が出来ないからだ。もちろん下地もろとも切る事は可能に思えたが、それは下地もろともカッターで傷をつけた程度の結果しか得られない。 量子的な相補性の実験なら、自分の身体で実験が容易に可能だ。例えば真ん中あたりの奥歯を1本内側へ折り曲げると、口の周囲の肉をめくれば、当然ながら穴ができる。そしてそこのみから空気を肺に入れて呼吸することが可能で、ところが、指で外側から穴のあるぶぶんを「突く・さわる」と、その瞬間、歯は元々の基本位置(元の場所)に存在し、穴は塞がれ、突然、呼吸不可能になる。面白いのは舌で折り曲げた歯をちゃんとキープしておけば、先ほどのように突いたときのみ、穴がふさがり空気の移動が止められてしまう点で、モールス信号のごとく、突いてみれば、その度に、同じ現象が起きる。これは私の脳が触覚において、口の中と外で同時に異なる座標に歯を認識できる事を意味する。この『同時に異なる座標にある、とする考え』は、「1つ量子が同時に、異なる座標に居ることが可能」という量子の持つ『粒子であり同時に波である』という、もう有名すぎる事実の再現が、私の身体なら、「自由意思と無意思」が併存した形で、未だ試していない多くの実験が可能である。例えば、歯を舌で抜き取ったとき(ちなみに無限の回数で可)、下の肉から「手=hand・足=foot」の形をしたモノが生える事は多く、その手の形や指の本数を数えても、明らかに自分の手そっくりな肉塊がそこにあり、その小さな手を握ったり開いたりも可能である。これが意味するのは脳のアクセスしやすい部位の設計図が、単に異なる座標にも再現でき、例えば別の舌さえ生えることがあり、お互いに握手が舌同士で可能である。やろうと思えば、自分で自分同士でキスさえ可能であろう。まるで忍術の分身の術だが、何の事はない、我々の身体も「量子という最小単位の集まり」だから、量子の性質があって当たり前なのだ。 ネコのノド鳴らしは、未だ科学的に観測されていないので、解明不可能なのだが、量子の肉をノドあたりで振るわせることにより、実はあの振動や音は出ているのである。ネコ科の動物が鳴らす理由は解明されており基本は『低周波治療』が目的である。獣医なら誰でも「イヌよりネコの方が骨折の回復が早い」という常識を知っている。 また、中国における伝統的な「気功」というモノもあるが、あれも私の「量子脳」で考えてみれば100%説明できるであろう。そもそも、気功を及ぼす対象は、「もう1つの自分=宇宙(日常世界)」なのだから、離れた対象に力学的な作用で動かす、という事は、私の歯がビヨーンと自由意思で延ばせるのを想像すれば、気功は手の分身たる「量子肉塊」を手から延ばせば、かなり細くはなるだろうが、対象に触り、力学的に影響を及ぼすことも不可能でない訳がない。 この読者が「量子って何?」という事ならば、下記をご覧ください。そして一定のこの星のこの時代での必要な方向性を言語化すると、私の大好きな厳しいお兄様の述べた『1つの結論の一節』を次に紹介します。 【愛によって真理を成し、真理によって愛を為し、而して完全な意志に於いて完全な充足は果たされるのだ】by my dear big-brother. ======== プレゼント: 「認識体=観測者」の数だけ宇宙はある、と言えます。『博愛目的で無から』生じるのが、ヒト型の現代レベルの【自分=外界(=宇宙=時間と空間があるイメージ)】です。この「自我と宇宙」の関係は「相補性」であり、

実際のイメージは、絶対無に、ある運動を仮想定すれば【自我】と【時空(=宇宙)】が【相補分化】して【愛し合い目的】で「併存する」、ようなイメージが持てる。 

頭の悪い我々一般人でさえも、下記を参考に ""感性のアンテナをのばす"" ことで、「(量子を知る=)物理 =もののことわり」-->「もののことわり=助け合う愛や【笑顔】に満ちた世界」が、イメージとして直感でき、

【現状の地球人は、博愛による美しい『均衡が、崩れ』かけている原因が、自分自身の心理状態によるもの】というようなイメージを直感できる。下記の映像は読者へのプレゼントです。 

https://www.youtube.com/watch?v=-cM6aVIyQ_Ihttps://www.youtube.com/watch?v=HsbV_QHCBT8https://www.youtube.com/watch?v=wLKJz73DTGEhttps://www.youtube.com/watch?v=kYsGS5QAORE

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 貴方の書いていることを理解するのは、なかなか時間がかかりそうです。 リンクありがとうございます。このYouTubeの実験、以前もどこかで見ました。

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