- ベストアンサー
孤独と社会の関係について
- 孤独はお互いの孤独関係であり、孤立ではない。ボルケナウの著書『封建的世界像から市民的世界像へ』では、パスカルの存在について議論されており、孤独の存在に終わることはないと主張されている。
- パスカルはアウグスティヌスの思想を受け継ぎつつも独自の思想を持ち、国家観についても異なる考えを持っていた。彼の主観動態は孤立ではなく、お互いの孤独関係であると言える。
- 社会習慣の領域でも孤独は存在し、人々がお互いに関わり合っている。孤独は必ずしも独りではなく、社会の一部として存在しているのである。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (1)
- urigadai2013
- ベストアンサー率37% (92/244)
関連するQ&A
- 孤独死することになるのでしょうか
精神障害を持っている男です。 生活で何も楽しみがありません。 職場で気が合う人はおらず、高校時代の友人は遠方で暮らしているため会えません。 いくつかサークルに参加しましたが、どこでも全く話が続かず孤立します。 散歩しても孤独感しか感じません。 パート勤務のため趣味のためにお金を使う余裕はありません。 何も楽しみがないため、精神病と併発しているうつ病の調子もよくなりません。 このまま孤独死することになるのでしょうか。
- ベストアンサー
- 心の病気・メンタルヘルス
- 学校で孤立!でも・・・
学校で孤立!でも・・・ 自分は、高校一年の女子です 自分は今とても孤立しており、自分の周りには人ひとり寄って来ません・・・(^ω^;) ですが、あまり孤独を感じる事も無く・・・、むしろこの状態を心地よく思ってる自分が居て、ちょっと不安です・・・ とりあえず、孤独している原因(?)を上げます ・スーツを着ている(15歳 ・大人びて見える(らしい・・・ ・無表情で無愛想で無口 ・話し掛けても反応が薄い ・態度が冷めてる・・・etc 上げたら多分キリが無いんですが、こんなもんだと思います! そこで質問(特に大人の方に聞きたい!)なのですが、このまま大人になるまで突っ走って良いんでしょうか!? ずっとこのままの自分で居て良いんでしょうか!? 自分は今のままの自分が好きで、何の支障も無いかなーなんて思ってるんですけど、社会に出た時不利になったら嫌だなーって思いまして・・・ 回答、お願いします!
- ベストアンサー
- その他(恋愛・人生相談)
- 精神的孤独は、どうしたら手放せますか?
32歳男性です。 自分は天涯孤独で、たまに会う友人はいます。しかし精神的孤独感、社会に対して、独り。という感覚があります。 孤立している感じです。 どうしてめ誰か必要です… 仕事も辞める予定で、婚活するのも不安です。また過去は付き合ったりもしていました… 自分一人だと感じると、発狂したくなるくらい辛いです… 人の優しさを求め、たしかに期待しています… でもうまくいかないですね… 他人がしてくれる以上のことを求めてしまいます。過渡期には。 人と深く繋がりたいんです、理解していてもらいたい。 今の自分を肯定できません… 関わってくれる人がいても、親族みたいに深くはならないし、どうしても距離を感じます。感謝はしているのですが、辛いとき求めすぎて、離れてしまいます。お金を払うサービスの場所でも。 どうしたら自分一人で自分を許し認めて、孤独から離れられますか?
- 締切済み
- 人生相談
- 孤独に耐える方法を教えてください。
今、色々な複雑な人間関係のせいで、孤独な生活を送っています。親とも兄弟とも親戚とも縁を切ることになり、友達と話しても受け止めてくれるような人は一人もいない状態です。仕事は、1年位前までは、順調でしたが、今では、朝の挨拶さえないような孤独な作業の職場に回され、人との会話がありません。友達を作ろうとしても、悩みを打ち明けるまでの友達などはできなず、友達を作る前に躊躇するような状態になってしまっています。 孤立感は、何十年も続いています。会話もないので、しゃべることができなくなってしまうのでは、ないかと不安になっています。 孤独な状況を耐える方法があれば教えてください。 宜しくお願い致します。
- 締切済み
- その他(恋愛・人生相談)
- 孤独感に浸りまくってます・・・
はじめまして 現在22歳の社会人です 自分は今孤独感に浸ってます。 社会人になってから友人とは積極的に連絡を取ろうと思うのですが返信も来ず 彼女とも疎遠になり別れ、また別れに伴い彼女の友達とも連絡が難しくなり 現職がホテル業のため休日は一人で過ごすことが多く 元々友達が少ない自分ですが、学生時代の友達や彼女を失い 一人になりすごく空しくなっています。 僕にも原因はもちろんあると思います これから僕はどうして行けばよいのでしょうか? 面白みのない僕にまた友達のような関係は築けるのでしょうか よろしくお願い致します。
- 締切済み
- その他(恋愛・人生相談)
- 友達がいません。孤独な感じです
私はこれまでの人生で友達が1人しかできませんでした。その友達とも大学へ行ってから音信不通となり,今では友達が一人もいません。周りの人が友達と一緒に御飯食べていたり笑いあったりするのを見ると寂しいです。ちなみに異性とはけっこうしゃべったりします。とにかく同性の友達ができないのです。学生時代から孤立している,話かけづらい存在だったようです。 今社会人になり,接客のような仕事をしていますが,同僚との人間関係もうまくいかず,孤立しています。こんな人はほかにもいるのでしょうか 何だか自分だけのような気がして寂しいです
- 締切済み
- その他(恋愛・人生相談)
- 慢性的な孤独感。
慢性的な孤独感。 最近どこにいても孤独感を感じています。 職場でも、家族といても、友人といても、当然一人でいても。 人の輪の中にいても何だか一人ぼっちな気がします。 別に仲間はずれにされたり、目の敵にされているわけではない。 仕事や趣味等日々の生活に打ち込まなくてはいけないけど、 ふとした瞬間に強い孤独感を感じてしまうと集中力が低下します。 結果として物事がはかどらなくて自己嫌悪が強くなります。 でも他人に依存したくはないです、一人でも強く生きてゆくには 自分が主体的に取り組めるものや楽しめるものが欲しいから 色々チャレンジするものの、まだ何がしたいのかが見えてきません。 代わりに孤独感ばかりが募っていくことに何だか感情の行き場がないです。 我ながらだらしないと思います。 寂しさや人恋しさは自分で自分を満たせない人間の甘え。 楽しくない人間が他人を喜ばせることなど出来るわけないし、資格もないです。 楽しくない人間だから孤独になったのに、なぜ求めるばかりなのか。 人を満足させるために与えられるものなんて何一つないくせに。 やるべきことを増やして孤独感を消したいのに消えてくれやしません。 昔は一人だって全然平気だったのに何で今更・・・ 何だか齢を重ねるごとに心が弱くなってきています。 欠陥品が更に欠陥品になるから誰も見向きもしなくなります。 人に囲まれ生きている普通の人は孤独感など感じないと思うのですが、 何処にいても孤独を感じてしまうのは何か病気みたいなものなのでしょうか? こんなに孤独感が慢性的につきまとうのは初めての経験で戸惑っています。
- ベストアンサー
- 心の病気・メンタルヘルス
- デカルトのコギトはどこが独自性なのか
アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~ わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~ だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。 ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。―― ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ る と仮想しようと決心した。 (方法序説 4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。 ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考 する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・ さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。 それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが: ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・ (方法序説 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と書いたことは よく知られているところである。 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~ デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・ なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。 (パスカル:幾何学の精神について 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。 デカルトのコギトに独自性はあるのか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 友達が少ない 孤独を感じてしまう
長文になってしまいます。申し訳ございません。 くだらない悩みかもしれませんが すごく孤独です。 私には友達と呼べる人が4人います。 皆大学時代の友達です(現在、社会人3年目) 小中学校の友達には成人式が終わった後、裏切られてしまいました。 原因は当時私が付き合っていた彼をとられてしまったからです。 10年ほど仲良くしていたのに…。 高校時代は、過敏性腸症候群(ガス型)になってしまい 高校1年生の時は嫌がらせにあいました。 辛い表情はださず、頑張って明るくふるまってました。 すごく辛かったです。少し人間不信になった部分もあります。 高校2年になると、それなりに女の子や男の子とも話したり 部活仲間と一緒に帰ったりしてたのですが…。 例えば11人で道を歩くとき、2人ずつになると 1人あまりますよね。 いつも私があまっていました。 一番後ろでなくても、いつも私の隣はあいていました…。 それがすごく悲しく、孤独でした。 結局卒業すると、連絡をとらなくなりました。 でも、私以外のメンバーは今でも仲良しみたいです・・・・偶然ばったり会ったので。 大学にはいると過敏性腸症候群もだんだんマシになってきたので 少し前向きになる事が出来、友人も出来ました。 卒業し、社会人になっても連絡を取り合い、会う仲です。 でも、孤独なんです。 友人と会って話すとき、必ず「友達が〇〇」という話題になります。 「幼馴染が今度結婚する~」 「地元の友達6人仲いいんだけど・・・」 「友達が~」 「こないだここ友達と行った~」 「夜友達とごはん食べるの」とか…。 「〇〇(私)の周りの友達は結婚決まってる人とかいる?」など…。 楽しいんですけど、会話の中で上記のような話題になると すごく自分がみじめになります。 なんで私は地元に友達がいないんだろう なんで私は高校時代の友達もいないのか…。 大学時代の友人は、数少ない大切な友達です。 でも友人は、私以外にもたくさん友達がいます。 私以上の親友、幼馴染がいます。 同僚と話すときも 「地元の友達が〇〇」 「友達の結婚式いく!最近周りがどんどん子どもうんだり結婚するよー」など・・・ どうやったらこの孤独な気持ちが無くなるのでしょうか…? 私の性格にも、問題あるから友達が出来ないのではないかと考えてしまいます。 過敏性腸症候群さえなければ、もっと明るい高校生活だったのに…等 もうどうしようもない過去を振り返ってしまいます。 久しぶりに、土曜日都会へ遊びにいきました(もちろん一人で) 周りは家族連れ、カップル、友達同士が多く 人は多いのに孤独を感じてしまいました。 私の居場所はどこなんだろうって…。 今家庭の事情もあり、仕事をしてないので 余計な事も考えてしまいます。 皆さん、孤独を感じることはありますか? 25歳で友達が少ない女性っているのでしょうか? 孤独を感じないためにはどうすればいいのでしょうか・・・ 文章が長く、むちゃくちゃで申し訳ないです…。 誰にも相談できず、毎日泣いてしまいます
- ベストアンサー
- 友達・仲間関係
- 一生孤独で生きる覚悟の持ち方。
一生孤独で生きる覚悟の持ち方。 他人と深い関係を築くことが出来ない欠陥人間です。 子供の頃から家族といても安らぐことがありませんでした。 波風立てないよう、気を害さないよう気を張っていました。 学生時代もハブられない、苛められない程度に周りと絡んで それなりの居場所は確保していました。 社会人になったも上辺の取り繕い力を上手く利用していれば 仕事上も社会生活上も大きな問題を起こすことはありません。 ただ、日々が流れてゆくだけです。 自分には他人に尽くしたり、受け止めたりする器量がないと つくづく思います。子供の頃に自分を押し殺すと段々辛くなり、 「自分はご機嫌取るために生きてるんじゃない」とどこかで タガが外れてしまったというか、気に入られたり選ばれるために 頑張ることがどうにも虚しく悲しくなってしまい今に至ります。 最近、両親がいなくなれば天涯孤独なんだなと実感します。 兄妹はいますが、そんな年になってまで迷惑掛けたくないです。 孤独というものを自分がどう受け止めたら良いのか分からなくなります。 漠然とした恐怖感はあるものの、まだ自分には余裕がある。 でも、漠然としたままで年を重ねて、いざその時が来た際には きっと抱えきれないほどのダメージ(寂しさ)を負う気がします。 今の内から孤独にひっそりと生きる人生への覚悟をしないといけない。 そうは思いますが、中々受け入れるのが難しくなってきました。 孤独でも平気、一人でも楽しい、人間関係はやっぱり面倒だということを 受け入れたり、自覚して楽しんで暮らしている方たちがいらっしゃいましたら 受け入れることが出来ず悩んでいる自分にアドバイスをお願いします。 29才、男です。
- ベストアンサー
- その他(恋愛・人生相談)
お礼
うりがだい2013さん ご回答をありがとうございます。 ★ もうちょっと明晰に、簡単に、誰にでも分かるように平易に説明できないんですか? ☆ これは 一般に妥当なご指摘です。 わたしの文章(ないし文体にまで及ぶと考えますが)については多くの場合 弁明があります。 誰が言ったんでしたっけ。マルクスでしたか 何ごとも始めはむつかしい。 たとえば 《非知》という概念を打ち出しています。そう簡単に理解されないようです。何度も説明にこれ相いつとめています。あたらしい理論は そういうものではないのですか? ついでに言っておきますが ショーペンハウアーの《意志》は 分かる人がいますかね? これは ふつうの言葉なのですから もっとしっかりと定義し説明しないと 自分でも分かっていないのではないかと疑われます。 もうひとつついでですが デカルトの《われ考える》のわれは 実存としての存在ではなく形而上のものとして言っていると分かったわけです。つまりは 早く言えば 《アートマン(霊我)》のことです。だから その後 《それが考える( Es denkt. )》なる議論が出て来ました。だから 現在においても・そしてうりがだいさん あなたにあっても きわめてあいまいなままです。これは こんなに物言いを言われたからには ごくつつましい反論でありましょう。 ★ ヨーロッパは個人主義を原理に出来上がっているので、人間が孤独であることは自明であり、社会的にも、人が孤独であることを許容する精神風土が出来上がっており、その社会関係からして、孤独は決して孤立を意味しない。 ☆ 最後の結論は いいはずですが 《ヨーロッパ人にとって 孤独が自明だ》とは どうなんでしょう? あるいはつまり そのことが《個人主義》とかかわっている。という見方も どうなんですかね。 否定はしませんが 一本調子では(一筋縄では)行かないように思います。 理由は かんたんです。《孤独》の中に《人それぞれのおのが固有の時》を見るとは限らない。からです。そういう伝統は ないはずです。薄いはずです。だからです。(議論を 引き延ばしませんが)。 つまりあるいは 《孤独であることを許容する精神風土》と言いますが それは――ヨーロッパ人とその社会における生活感覚がゼロの人間として推測するだけですが―― 要するにその《許容》の仕方は 《互いに相手との関係をそれぞれおのれの意識における対立とその均衡を図ることにおいて捉えており保っている》と考えるからです。 つまり早い話が ヨーロッパ人とて《孤独が孤立に成りやすく 孤独全般という言い方をして捉えるなら やはり孤独に耐えられるかと言えば それほどやさしいことではない。のではないか》という藪にらみからです。(これもいま 議論を深めません)。 ★ それに反して日本の場合は、共同体を原理として出来上がっており、孤独を許容する精神風土がないから、人間が孤独だと、それを社会関係に位置づけられず、社会的に孤立を招く。 ☆ 上に議論めいたことを書いたのは すべて憶測交じりであって 非常にはにかみながら言ったものですが この見解については 積極的に反論したい。 日本人こそが 孤独に耐えると言いますか 孤独に強い。と言いますか むしろ孤独こそが 人間存在の原点であることをよく知っている。――こう考えています。 共同体が出来上がっているとすれば それは むしろ一人ひとりが 孤独だからであり 孤独の人間性を知っているからだと思っています。 近代・現代になりアメリカ化して もはや共同体は遠い昔のお話になったという意味合いの議論をする人は そういう人に限って 孤独の効用を知らない。孤独に強くない。つまりは 個人主義という思想すら知らない。つまり ただ 横文字に酔って 横文字に依拠して何ごとも考え行動しているだけではないか? こう考えています。 ★ やはりヨーロッパの場合、自己の中に神がいるから、どんな辺境にたった一人で赴いたとしても、神と共にある、という信仰があるから孤独感は感じないけど、 ☆ ぎゃくですよ。あたまの中に観念の神 あるいは神という観念が巣食っているから 孤独に弱いのです。 観念は いわゆる偶像であり いつ滅び朽ちてもおかしくないものだからです。もう枯れてしまっているはずです。 ★ 日本の場合、自己の中には何もない、周囲の人びととの「きずな」が唯一の頼りだから、辺境に一人で赴くと、孤独感を感じ、故郷へ帰りたいノスタルジーに駆られる。 ☆ いいえ。その空洞が わが固有の時なる原点なのです。元気の湧き出る泉なのです。 そういう生活の感覚は 村の生活を知ると 分かって来るはずです。 きづななど無くても 生きて行く人たちがいます。(祭りがありますから それなりの信仰も見受けられますが それは 形から入るといった生活様式を採っているだけであって ノスタルジアは おのれの固有の時の内に深くおさめられているのです)。(NHKの新日本風土記を見て そう思います)。 ★ 人間は孤独感に苦しめられる時代がやって来る ☆ これは 先のほうでヨーロッパ人は 個人主義で孤独に強いといった見解と矛盾するぢゃないですか。 ニヒリズムなどというのも 軽く扱われてはいけないのでしょう? むしろ虚無としての孤独を わが固有の時と捉えるなら 人間にとっては《関係の絶対性》という命題にまで揚棄して行けるはずです。 ボルケナウを持ち出したのは たまたまそれに触れた回答を最近したからですが パスカルは 正当にも孤独の問題にかかわっていると考えます。 パスカルを 資本主義の興隆とからませて捉える議論については わたしは M.ヱ―バーの例の議論と同じように あまり触れたくありません。理由は 要素要因がたくさんあるのにあまりにもそれを絞り過ぎだと感じるからです。 というより いくつかの主題ないし論点を出しておられますが いまの段階としては 《孤独》論にしぼりたい。 さもなくば ひととおり全体観を捉えることのできるあらまし論を もう少し展開してもらわないと手をつけることが憚られます。 こんな感じでしょうか。