• ベストアンサー

資本主義の中でニート以外に《自律》しうるか? 

noname#210533の回答

noname#210533
noname#210533
回答No.4

ひきこもることと自律することは別々の「軸」に よるものです。 生計を立てねばならぬことから解き放たれれば ニート生活も一人の人間として自律することも 意味を変えるでしょう。 自分が考えるところの生産的な生き方に注力 出来るのですから。 少し現実的な話を書きましょう。 不労所得を生計を立てるに足る金額で得る。 そのためには資産が必要ですよね。 銀行にお金を預ける、とか資本家は労働者を 搾取して肥え太る、許せぬという人には何故か 経済的に豊かでない人が大半であるように 見受けられます。 同時に、競馬やパチンコ、酒、趣味などに 借金してさえ入れ込む人の比率もまた高い。 10万円ぽっち、そんな僅かなお金では 人一人一か月も生活するのは厳しいです。 でも、逆に云えば、余程厳しい経済状況でも 10万円を一年かけて貯金することはそれ程 不可能じゃない。 この10万円は絶対に生活費として手をつけない。 借金もしない。 これは、厳しい現実に晒されている人には とても難しいことでもあります。 仕事なんて、あるだけマシだという人も 大勢いる。 お金がないから学ぶことも出来ない。 学ぶことが出来ないから、精神的にも 能力的にも豊かにならない。 生きることが辛い。 だから、享楽に身を浸し、心を癒すしかない。 そこで散財してしまう。 当然、お金の出入りは出の方が多いという 逆転になり、借金、複利、元本減るどころか 増える、携帯止まる、貸家を追い出される、 これで子供でも抱えていたら、いつも死と 背中合わせに生きてるような現実になる。 誰が良いとか悪いとかの話がしたいのでは ありません。 人間は、その殆どが、自分が知っていることしか 理解できないし、出来ること、やったことがある ことしか、出来ない、という厳しい事実について 書きました。 10万円のお金がキープしてある、ということは、 核兵器の抑止力と同様に、使えないが力を持つと いうことにつながるのです。 さらに、それを少しづつ増やして運用する知識と 経験を持てれば、10年も経たずに100万円に 増やすことが出来るでしょう。 100万円のお金は、専業のデイトレーダーなら、 一年間で二倍から三倍には増やします。 仮に利率30%程度で回しても、更に9年経てば 1000万位にもなります。 資産であれ、人間関係であれ、知識であれ、 努力に比例して大きくはなりません。 漠然とですが、指数級数的に増えていく。 だから、勢いがついて加速がついてくると 一般人には想像も出来ない数千万、数億という 巨額の資産になって、お金がお金を生む サイクルが大金持ちを生みます。 ホリエモン始め、優秀なベンチャー企業家で 金融に無縁という人は少ないのではないで しょうか。 そういう知識と経験は、他人の話を聞いたり 本を読んだだけでは到底身に付きません。 迂闊に手を出せば丸裸になって以前より 悪い状態になる・・・はずだ。 そう恐れる人が大半です。 お金は給料としてもらうもの、自分の時間を 切り売りしてもらうもの。 だから、組織の中で自分の商品価値が 上がって行く努力をしようとする人も多い。 それでも、運用益で多額のお金を手にする 人々の思考とは全く別次元の考えですから、 総額がた易く計算出来てしまう。 簡単に生涯賃金や、それで贖える生活を 考えれば、生きながらにして既に死んでいるも 同然、と考えてしまう人が沢山出てくるのも 理解出来ないことではありません。 でも、銀行の僅かな利息に不平をもらし、 まず当たらない宝くじをまとめ買いし、たまに パチンコで当たればパーっと使って仕舞う。 見栄を張り、でかい車に乗りLEDで改造し、 古くて安い貸家住まいで貯金なんか無い。 いくらロスだらけの人生だと判っていても それをやめられないのは、「お金を増やす ことが自分にもできるのだ」という経験が 余りに乏しいからです。 一回で多額のお金を代償なしに手に入れる。 思考は泥棒と余り変わらないのですが、 この射幸心そのものが(哲学的にも、です) そのまま商業主義の中では安っぽく再生産 される消費財に過ぎません。 お金も時間も知識も経験も・・・人生の価値 それ自体が、巻き上げられる宿命を負っている。 それはまさに、逆説的ですが、「自律的」に 巻き上げられていく姿そのものです。 お金を高い所から低い処に流れていく、 それだけの見方でいると永久にお金が 何かということについて何の進歩もないまま 子供時代と同じ世界観で生き続けることに なってしまう。 どんなことでも、新しい何かを手に入れるには 代償を支払うことが必要ですよね。 ま、釈迦に説法ですけど。 努力、費やす時間、投資する資本、共同する 仲間関係。 私が書きたい大事なことは、資本主義を語る 人は、それが是であれ否であれ、お金が 生き物のように振舞うことを学ばねば見当違いな 考えから抜け出せないだろう、というご指摘です。 資本家を蔑視し、清貧を尊ぶ生き方は昔から 繰り返されてきた不平等に対する頑固な拒絶 ですから、ここで俎上に載せる程の意味のある テーマではありません。 ですが、知らぬままの素人考えから抜け出せず ちぐはぐな思考ループ、迷路の中をぐるぐる回って いるばかりでは、そもそも設問の意味さえ疑わしく なります。 だらだらまたもや書いてしまったけれど、設問は カテゴリーが哲学ではなくて経済学に答えが あります。 単なる不平不満を哲学的に書きなおしても、 「金持ちはズルイ、楽して僕達の命を吸って 肥え太ってるんだ!」という程度の古く臭い 僻み根性を言い換えているだけのお粗末な ものになりがち。 豊かになることも目的にするのが生きること。 清貧を崇めるのは単なる表現ですが、現実は 今月の生活費も老後の貯金も全部必要額が 存在し、出さねばならない時は支払わねば なりません。 そんな当たり前のことさえ、僻む人は何としても 勇気を出して自分を見つめようとはしません。 誰をなじっても世間を憂いても自分の暮らしは 全く豊かにならないばかりか、労働に対する 意欲さえ薄れさせ、自分をスポイルするばかり。 自分の中に、そこら辺の連中より、人間として 上位の存在だ、と盲信したがるのは私も含めて 普通の凡人の偽らざる本音です。 無論、あなたご自身もかなりその思いが強い。 それは無報酬、労働の喜び、清貧などとは 全くベクトルが別の欲望そのものです。 哲学と異なり、欲望充足には明確な方法が あり、手順があり、効率があり、結果があります。 その中でどんな手法で何をしていくら手にしたのか。 それ以上でもそれ以下でもありません。 運用が出来て初めて、資本について意味のある ことが語れるのです。 経済は哲学ではないし、不平不満も哲学では ありません。 要は、お金を稼ごう、或いは増やそうと実際に 動く勇気があるか、自分の欲望をまるで無いことの ように隠して自分でも見ようとせずに自己欺瞞の 罠に落ちるかの二者択一でしかありません。 本当に欲がないなら、あなたのように次々と 他人との議論を必要としたりはしません。 自分の中で穏やかに、確固たる哲学があり、 死ぬまで静かに一人で完結して行けるからです。 でも、自分の欲望を普遍的かつ絶対的な 崇高な意味、価値にすり替えようとする気持ちが 先に書いた凡人のありがちな自己保存の欲望から 生まれるものだと明確に自覚できるなら、実際に 不労所得をどっさり稼いでみる挑戦をするだけの ことです。 実現する。 それなしに語られる哲学的な経済程、お腹が 膨れないものはありません。 根源的な意味において、全ての事物は自律して いますし、単独では而立し得ませんよね。 毎度失礼ながら、お考えになればなるほど、 昔からの考え方を多少違う言葉で言い換えた だけのどうどう巡りのはまってる感が否めません。 あなたはリタイヤしてお勤めしなくても良いお立場なら 100万円単位位のお金なら動かせるのではないでしょうか。 銀行に預けたお金はまさしく、広義の賭博と言える運用で 彼らに莫大な利益を与えてくれます。 その大本が、金持ちを唾棄すべき存在と憎む労働者達が 僅かな金利と引き換えに預けたお金なのです。 これも釈迦説ですね。 その運用をやってみれば、もはやバカバカしくて 銀行にお金など預ける気になれなくなります。 まあ、生活費の引き落としは別にしてね。 そうして運用することで、労働の単価、価値と いうものにきちんとした「価格」を与えて考えることが 出来るようになります。 一生懸命高度な知識と経験を奮って時給2000円。 でも、運用が生み出すお金はそういう換算でなら 時給一万円にも十万円にもなります。 生活や将来設計から逆算した必要貯蓄額、所得。 その物差しで社会を見る限り、永遠に社会の実像は 見えません。 戦争も宗教も哲学も何もかも。 私達普通の庶民が与り知らぬ高みで、巨大な資本 という「生きたお金の気象」に動かされています。 正直毎度のことなので余り期待はしていませんが、 お金が生き物であることを学び直すために、純粋に しばらくお金の運用にのめり込んでみることを お勧めします。 そこから、全く新しい、社会の見方を学べます。 今のあなたは以前ほどではないけれど、頑なに ご自分の世界にこだわり過ぎです。 もう少し、若々しい考え方をなさる方が良いと 思います。 これであなたが金融筋の企業や組織の退職者で あったなら、私の方が赤っ恥ですけれどね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  おのが反応を持ったままにお応えしてまいります。真理は中間にあるということにでもなれば おなぐさみですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  生計を立てねばならぬことから解き放たれれば  ニート生活も一人の人間として自律することも  意味を変えるでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というとき ですから わたしの質問趣旨は これを言わば逆手にとってあたらしい命題を推し出したかたちになります。  すなわち:    生計をみづからのチカラで立てねばならぬにも   かかわらず ニート生活に甘んじているし むし   ろ 積極的にそうしている。――これが 言うとす   れば 《自律》的な社会行動である。  です。《社会的》というところに 力点があるはずです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  お金も時間も知識も経験も・・・人生の価値  それ自体が、巻き上げられる宿命を負っている。  それはまさに、逆説的ですが、「自律的」に  巻き上げられていく姿そのものです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは おもしろい。《自律的社会行動》論者に聞かせてあげたい。というための質問でもあります。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  私が書きたい大事なことは、資本主義を語る  人は、それが是であれ否であれ、お金が  生き物のように振舞うことを学ばねば見当違いな  考えから抜け出せないだろう、というご指摘です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まさに――前項の議論と合わせて―― いまの世の中では 《自律的に生きようとするなら その仕組みからしてその仕組みに巻き上げられなければ 生きて行けないというほど 他律的な社会だと知るべき》であり 《お金のウゴキに素直にしたがって他律的に行動するなら あんがい自律しているがごとき余裕を得ることが出来る》ということではないかと思います。  ★ 設問は カテゴリーが哲学ではなくて経済学に答えがあります。  ☆ とは考えない理由は No.1でのやり取りに書き込みました。資本主義という他律的な社会にあっても そのひとつの根拠は 人間の自然本性として誰もに共通の基礎たる共生性(または 関係の絶対性)にあるということ そしてそれゆえに この他律的で残酷な経済システムであっても 自由と等価交換といった共生性をえらんでいるということ。ではないかと考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~  要は、お金を稼ごう、或いは増やそうと実際に  動く勇気があるか、自分の欲望をまるで無いことの  ように隠して自分でも見ようとせずに自己欺瞞の  罠に落ちるかの二者択一でしかありません。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 申し訳ないが 市場で売られているものは 良心の呵責なく何でも買って食べればよいのですという実存形式を思うべきでしょう。二者択一だとは考えません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  本当に欲がないなら、あなたのように次々と  他人との議論を必要としたりはしません。  自分の中で穏やかに、確固たる哲学があり、  死ぬまで静かに一人で完結して行けるからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここにも物言いをつけます。  欲望はすべて――じんるいのありとあらゆる欲望を――わが心に受け留めて やがてこれらを突き抜ける。  ただし 突き抜けたあとにも これらの欲望をみな知っている。けれども 突き抜けている。――こういった境地もあるとお伝えしておきます。  (外から来た欲望については これをわが身に受け容れ――というよりは その相手の存在や心を受け容れ―― その相手や情況のいかんによれば・その状態に応じて こちらはその相手のいだく欲望をじっさいにこちらが欲し実行をもすること これもありです。それは それが 欲望の生け捕りです)。  ★ 根源的な意味において、全ての事物は自律して / いますし、単独では而立し得ませんよね。  ☆ これは 質料(モノ)が 人間の手に負えない。また神の手にも負えない。といった物質の自己運動を言っているだけだと思いますが。  あとは ハウ・ツーものであり そのことをまなんだあと どう考えどう行動するかの問題になるでしょうから いまは受け留めただけとしておきます。  

bragelonne
質問者

補足

 No.16のお礼欄を承けて そのつづきです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  知れば知るほど人間は多種多様であり、  一把ひとからげに都合よく解釈・分類しても、  それは人間が一人一人持っている固有の色合い  ・・・個人の特有性を塗りつぶして判ったふりを  するだけの「裸の王様」状態になります。  ・・・  無論、私の目線とて、世界を広く捉えようと  考えすぎて若いころに広角レンズになって  しまった感が否めませんし、最近ではとみに  老眼が厳しく近くが見えません。  乱視も入っているようですし、お酒など  頂いた日には世界が揺れている日さえ  ありますから偉そうなことなど言えません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう《まえがき ないし 但し書き ないし 効能書き》については 取り上げません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  あなたのお話を読むと、眩暈がするほど  度が強い、魚眼レンズのような世界観だと  毎回感じます。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこに見えたものが何か? そのことをめぐって議論するのが ふつうです。  魚眼レンズかどうか知りませんが 科学の眼とは そういうものもあるのではないしょうか。  《眩暈がする》とき だから よくないか だからよいか いづれもの見方があり得ましょう。それは 中身で勝負です。それだけのことです。――この一点から あなたの議論の半分は 目をそらせようとしているのではありませんか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  根本的にあなたではない、私、という  存在について、あなたに判ろう筈も  ありません。誰の欲求も、です。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かるという認識の問題ではないと お応えしておきます。あるいはつまり あとでは分かることになるわけですが 初めの接点といったものは まづ感性であり その感性をつうじて捉えるものは 先ほど触れたミラーニューロン現象が いちばん分かりやすいのではないかと考えます。  ただの観念をとおして想像力だけによる思弁的な思索もあるわけですが この外から来る欲望・つまり相手のそれが 鏡のようになってこちらの身と心とに映し出され これを知る。このことは じゅうぶんあり得ますよ。心配要りません。  全部を分かるというのは 想定です。あらゆる欲望を――つまりは ふつうに言えば人間の意志内容です この意志行為の中身を――知ると 理論としては 言います。そして 突き抜けるとも言います。つまり 客観視の問題です。  そのあと おそらく大きな違いは この突き抜けたあと それでも 欲望を知っているし これを実際にみづからの内にも起こす。それをつうじて そのとき向き合っている相手〔との間に生じたところ〕の欲望を生け捕りにする。こうも言っています。  これは 生活日常における思惟と行動とで実証するよりほかはないと考えられます。(そのよい説明をさらにさらに表現しても行くでしょう)。  ★ ~~~~~~~~~~~~  根本的にあなたではない、私、という  存在について、あなたに判ろう筈も  ありません。誰の欲求も、です。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それでは お尋ねします。まづ《欲求や欲望》を 意志行為として捉えた上でですが これを《誰の欲求も欲望も ほかの人間としては誰一人として 判ろうはずがない》というとき そしてそれに対してわたしは 《少しづつ・そして想定としてはぜんぶ(または 全体として) 分かるようになる》というとき あなたは何故《このわたし( bragelonne )が ほかの人の意志行為について分かっているとか 分かっていないとかというかたちで 分かる》のですか?  意志行為として分かるから それらの欲望を突き抜けるのだとわたしが言うとき そのことの真偽が なぜあなたには分かるのですか?  そうではなく 具体論や各論をめぐって 議論をして行けばよいのではないですか?  もし相互理解がどうしても行き届かない部分が出てくれば それはそういう分野だと相互に了解して ほかの分野で話をつづけて行けばよいのではないですか?  あなたの論旨は 《そもそも哲学は》論において ご自分の定義に合わない・そこから逸れていると判定したとき ゆえに それは 目の視力もメガネの度もくるっていると決めつける議論です。  ★ ~~~~~~~~~~~  一生を費やして考え抜いても、傍らの  伴侶についてさえ、識ることが出来るのは  僅かな部分だけ。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 認識論です。敢えて言えば そこから一歩も出ず 閉じこもった蛸壺哲学です。  出来るところから 行動する。という実存形式もあり得ます。そこのところに目をやってみてください。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  私が伝えたいのは、理にかなった《巨視》は  当然に、己は無に等しい、という焦点を結ぶ  ということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 敢えてふるくさい言いぐさを出してみましょう。    自未得度先度他     ○ 「自未得度先度他」の話    http://www3.omn.ne.jp/~imanari/howajimitokudo.htm  人によって好き嫌いのある言わば宗派の問題にもかかわるコトワザのようなものですが かえってそういった批判もがあたえられているところにおいてでさえ こういう理論が持たれているという意味でも 出してみました。  すなわち順序がぎゃくであって   ★ 己は無に等しい、という焦点を結ぶ  ☆ に到ったそのあとでもいいのですが たとえそうではなくても・つまりは そんなことにはお構いなしに(自未得度) 荒々しいほどに荒削りのままに おのれの捉えた《巨視》を表わしこれを展開し ひとびとにそれをめぐるさらなる問い求めを問う。こういった行き方もありなのではないですか?  ★ 己は無に等しい、という焦点を結ぶ  ☆ ことは すでに我れに還った我れにあっては おぼろげにも見えており ならばそのままたとえば《無我:アン‐アートマン》として立論したり あるいはぎゃくに 《無にひとしいわれ》ゆえにこそ《ブッダター(≒アートマン:霊我)がやどる》といった想定をもしてみる。  このような実存形式――ひとつの説明に過ぎませんが――だととらえてみてください。  順序がぎゃくだという点に ミソがあります。実践哲学もありえますよ。

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    以前にも同様の質問をしたのですが、そのときはご回答にお礼や返事ができませんでした。 今度はちゃんとお礼や返事をしたいので、すみませんが、もう一度お願いします。 今、日本は未曾有の危機です。 国家財政は切迫しています。 東日本大震災の被災者は、高齢の方ですら働いている。あるいは働こうとしています。 そして今後、長期間にわたって、日本の景気は回復しないという予測があります。 そのような大変な時に、働ける能力があるのに働かない、ニート・ひきこもり・ホームレスは他人のためになんの役にもたっていません。 ○○年金や生活保護という公的資金を食いつぶす、悪です。 社会のお荷物です。 そういう人たちは、人間として恥ずかしくないのでしょうか? 例えば、今までアルバイト程度であっても長年やってきてホームレスになってしまった人は、年金の掛け金や所得税という税金を払っていたわけですから、働けないときに公的資金を使ってもよいと思います。 しかし、今までに働いたこともない。職歴も資格もなくて、今後も働ける見込みのないニートやひきこもりの人は、自殺すべきだと思います。 親や兄弟が「何もしなくても生きていてほしい」と思ってくれているならともかく、親兄弟にまで見放されているような人たちは、早く死んだほうが世の中のためではないでしょうか? ニートやひきこもりで生活保護を受けている人は、普通の人よりもかなり多い回数、病院にかかっているという調査結果もあります。つまり、受診・通院する必要のない人までが、受診・通院しているのです。 医療費の無駄使いです。 ニートやひきこもりの人は、自分が公的資金を食いつぶすという、「迷惑」をかけていることもわからないのでしょうか? わたしは、「生存権がある」とか、「憲法で最低限の生活が認められている」とか、法律上の議論がしたいわけではありません。 法律上は、ニートやひきこもりの人に、自殺を促すことはできません。 しかし、ニートやひきこもりの人が、自発的に自殺するのは問題ありません。 「ニートやひきこもりのために消費されている公費は、国の予算全体の中では少ないから」、などと言うのは、ニートの甘えです。 少しでも予算を使わないことが、今の日本に必要なのです。 質問は、次の3点です。 1、ニートやひきこもり、一部のホームレスの人は、社会に迷惑をかけていて、人間として恥ずかしくないのか? 自分で甘ったれているとは思わないのか? 2、ニートやひきこもりは、死のうとはしないのか?  (自殺を試みたが死にきれなかった、なんてのはダメですね。手段が甘いだけです) 3、ニートやひきこもりの人は死んだ方が社会のため(みんなのため)である、という考え方はおかしいか? 「お前の意見は極端すぎる」などのお叱りでもかまいません。 正業についている方はもちろん、ニートやひきこもりの方からも多くのご意見をうかがいたいです。 ただ、感情的な感想ではなく、冷静な理詰めなご意見・ご感想をいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • ニートやひきこもりの人は死んでよいのではないか?

    今、日本は未曾有の危機です。 国家財政は切迫しています。 東日本大震災の被災者は、高齢の方ですら働いている。あるいは働こうとしています。 そして今後、長期間にわたって、日本の景気は回復しないという予測があります。 そのような大変な時に、働ける能力があるのに働かない、ニート・ひきこもり・ホームレスは他人のためになんの役にもたっていません。 ○○年金や生活保護という公的資金を食いつぶす、悪です。 社会のお荷物です。 そういう人たちは、人間として恥ずかしくないのでしょうか? 例えば、今までアルバイト程度であっても長年やってきてホームレスになってしまった人は、年金の掛け金や所得税という税金を払っていたわけですから、働けないときに公的資金を使ってもよいと思います。 しかし、今までに働いたこともない。職歴も資格もなくて、今後も働ける見込みのないニートやひきこもりの人は、自殺すべきだと思います。 せいぜい、親や兄弟が「何もしなくても生きていてほしい」と思ってくれているならともかく、親兄弟にまで見放されているような人たちは、早く死んだほうが世の中のためではないでしょうか? ニートやひきこもりで生活保護を受けている人は、普通の人よりもかなり多い回数、病院にかかっているという調査結果もあります。つまり、受診・通院する必要のない人までが、受診・通院しているのです。 医療費の無駄使いです。 ニートやひきこもりの人は、自分が公的資金を食いつぶすという、「迷惑」をかけていることもわからないのでしょうか? わたしは、「生存権がある」とか、「憲法で最低限の生活が認められている」とか、法律上の議論がしたいわけではありません。 法律上は、ニートやひきこもりの人に、自殺を促すことはできません。 しかし、ニートやひきこもりの人が、自発的に自殺するのは問題ありません。 「ニートやひきこもりのために消費されている公費は、国の予算全体の中では少ないから」、などと言うのは、ニートの甘えです。 少しでも予算を使わないことが、今の日本に必要なのです。 質問は、次の3点です。 1、ニートやひきこもり、一部のホームレスの人は、社会に迷惑をかけていて、人間として恥ずかしくないのか? 自分で甘ったれているとは思わないのか? 2、ニートやひきこもりは、死のうとはしないのか?  (自殺を試みたが死にきれなかった、なんてのはダメですね。手段が甘いだけです) 3、ニートやひきこもりの人は死んだ方が社会のため(みんなのため)である、という考え方はおかしいか? 「お前の意見は極端すぎる」などのお叱りでもかまいません。 正業についている方はもちろん、ニートやひきこもりの方からも多くのご意見をうかがいたいです。 よろしくお願いします。

  • 国民三大義務を果たしていれば。

    国民三大義務、『教育』『勤労』『納税』を果たしていれば、社会の底辺人間で生きていても良いですか?