《〈自律〉教》に意味はあるか?

このQ&Aのポイント
  • 資本主義社会に社会行為として自律的な行動はあるか?自律を説くことに意義はあるか?
  • 自律的な行動は可能なのか?資本主義社会においても自律を目指すことは可能か?
  • 資本主義社会において自律的な行動の意義とは何か?自律を説くことの意義を問いたい。
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《〈自律〉教》に意味はあるか?

 資本主義社会に 社会行為として 自律的な行動はあるか?  あたかも満員電車で急停止するとき皆が片寄り 中にはたおれることもあるというかのように 人びとは 他律的に・または《社会律的・相互他律的》に 行動せざるを得ないと考えられる。  ただし その仕組みの中では 何を職業とするかは 自由である。また 他者との交通において 経済価値の問題としては 等価交換である。  理論上は 民主制が敷かれており 共同自治のための資金供与(つまり税金)にしても 社会の経営を任せているお二階さんたちが決めるのではなく 市民のわれわれが決めていることになっている。  この社会の中で自律を説くことに 意義があるのか? という問いですが さらに一歩そこから進み入ってみたい。  まづ 一般にどの時代どの社会にあっても 生活の糧をかせぐという意味で・ということは 社会律に従属しつつもという意味で経済的に《自立》するということは ありうる。と確認した上でですが:    いったい人間は 社会行動として《自律》して生きるということが出来るか? つまり資本主義社会であるか否かに関係なくという問いにすすみたい。  せいぜい歯磨きと目が覚めるまで眠っていることくらいではないだろうか? それが 自律的行動だというのならば。  資本主義のもとでは 《社会律》にしたがい《相互他律》だと言ったけれど 一般に人間社会にあっては もし自律がありうるのならば それは 《相互自律を目指すこと》であり 《自律共同にむかって互いに歩み寄ること》でしかないのではないか?  《自律》を説くことに 意義はあるか? これを問います。

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  • hekiyu
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回答No.2

自律てのは、要するに自分の事は自分で 律する、てことでしょう。 しかし、自分で律しているつもりだが 本当にそうなのか。 自分で律しているつもりだが、本当は 社会が律している(フッサール) 人間関係で律している(フーコー) 神によって律されている(ヘーゲル) 無意識によって律している(フロイト) 構造で決まっているのだ(レヴィ=ストロース) 歴史の上でつくられた枠に律されている(ハイデッカー) とまあ、色々な立場がある訳です。 ”《自律》を説くことに 意義はあるか?”   ↑ と、いうことで意義があると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんばんは。ご回答をありがというございます。  そうですね。その《いろいろな立ち場》は ほとんどぜんぶ《自己以外によって律されている》という見方のようですよね。  すなわち 職業を自分でえらんであたらしく社会人になるといった晴れの出発があるわけですが そのときおのれの意志として行為しているにことに間違いはないのだけれど その自由な意志行為が 果たしてどの程度まで自己が律しているものであるか?   ★ ~~~~~~~~~~~  自分で律しているつもりだが、本当は  社会が律している(フッサール)  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった側面もあるのだし じつは そちらのほうが優勢である。といった見方になるのでしょうか。  少し細かく見てみますが:  ★ 社会が律している(フッサール)  ★ 人間関係で律している(フーコー)  ☆ これらは 《社会律的・相互他律的》などというへんな言葉で表わしましたが だいたいそういうことでしょうか?  これらは 生活が社会として共生ということが基礎になっているからには――また 子どもから大人へと成長して社会に出て行くからには―― 歴史や社会の総枠としての仕組みによって影響を受けるであろうし その枠組みを出ないとすれば(亡命したとしても 別の国も似たり寄ったりであるとすれば) 或る種の仕方で社会や人間関係によって――自己の自由意志によるとともに――律されている。かも知れないのでしょうね。  だとすれば  ★ 歴史の上でつくられた枠に律されている(ハイデッカー)  ☆ この見方も 同じたぐいに入れても さほどマチガイではないでしょうか。  わたしは次のふたつの見方に真っ向から反対しています。  ★ 無意識によって律している(フロイト)  ★ 構造で決まっているのだ(レヴィ=ストロース)  ☆ 《構造》というのは 早い話が《〔社会としての・また歴史としての〕無主体の過程》だというそれだと思います。いわゆる《関係の構造》ですよね。  つまりは この構造は さきほどの《人間関係や 歴史的に作られて来ている仕組みないし制度》のことではなく・必ずしもそうではなく むしろ《無意識》とあたかも同じように知らない何らかのチカラ(権力)が われわれ人間にはたらいて その社会装置の作りに応じて 行動せざるを得なくなっている。というような見方をしているのだと考えます。  言ってみれば ムイシキが主観内部において意識を超えてはたらくのと そしていまの関係構造のチカラがあたかも主観の外にあってはたらくのとは ほとんど同じような類型における見方であるかに思われます。  要するに 経験的にしてナゾのチカラが われわれにはたらく。これらは ハタラキとしては 経験事象として人間にも分かる。ということは ちなみに  ★ 神によって律されている(ヘーゲル)  ☆ は そのハタラキについてすら人間には分からない。歴史の狡知か何だか知りませんが かろうじて事後的にうっすらと分かる場合もあるのでしょうか。  つまり 《神》は ナゾであることにおいて 《ムイシキ》や《構造》と同じようであるが 神は あくまで非経験の場である。後者二者は 経験世界におけるチカラとして想定されている。  ということは 神は 信教・良心の自由において それは 一人ひとりそれぞれの判断にゆだねられている。だから そういうヘーゲルのような見解を出しても それだけのことである。  ところが 関係構造もムイシキも これは思想として 大いなるチョンボであると見られます。問題を起こすだけであって 有益なところはないと考えます。  経験事象であるのに ナゾだということは けっきょく何についてもどんなことについても その構造やムイシキの所為にして済ますことが出来るという代物です。唾棄します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   ”《自律》を説くことに 意義はあるか?”   ↑  と、いうことで意義があると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その理由は?   自己の意志行為として行動していても それ以外のチカラがはたらいていると見られることがある。つまり相互他律のような側面もあると考えられる。ゆえに そこにおいて――結果を考慮しないとしても 自由といった観点からは まづ――自律を説くことに意義はある。――こういった見方でしょうか?  ちなみにわたしは 自由意志というのは 社会におけるほとんど無効に近い力学がはたらいているその相互他律の場にあって その他律にあまんじて従うこと この行為にも〔自由意志は〕はたらいている。と見るものです。  つまりは 相手や社会にゆづるという行為も おのが自由意志のハタラキである。こう考えます。  その考えにおいては 社会が社会であるかぎりでは 自律をうんぬんすることは それほど重要であるとも思わない。こういう見方でいます。

その他の回答 (11)

回答No.12

こんばんはです。 カント的な定義にしたがえば、 理性や自由意志によってその決まりやオキテなどを是として受け入れ、そのオキテを自らに課して行動するのは、 自律ですよね。 そのオキテや決まりが、他者由来であろうが、自己由来であろうが、お二階さん発祥であろうが、それは問題にならない。 理性の命ずる命令は絶対であり、そして、この理性は万人が有し、その命令は普遍的なものとなる。各人で異なることはない、 となりますから。 カント的な考え方にしたがえば、 動物的な欲望や本能などに支配される生き方、他律的な生き方を脱し、主体的で人間的な生を獲得するために、 《この社会の中で自律を説くことに 意義があるのか?》 に対しては、意義があるということになるのでしょう。 そして、真に自律的になることによって、人と社会はよくなるであろう・・・。 この質問の場合、 自律と他律という言葉の意味合いの問題も出てくるのでしょう。 ただし、人間に、そのように、たいそう御立派な理性なるものが存在していればの話ですが。 わたしは、この点についてかなり懐疑的ですけれども・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ カント的な定義にしたがえば、  ☆ おっしゃるようなご議論のようになりましょうか。  言いかえると 違いを出そうと思えば:  ◇ 理性や自由意志によってその決まりやオキテなどを是として受け入れ、そのオキテを自らに課して行動するのは、 / 自律ですよね。  ☆ 《オキテ》をめぐる規定内容を  ただ単に《みづからの欲するところ》と言いかえると 一般論になると考えるのですが。  ◇ 理性の命ずる命令は絶対であり、そして、この理性は万人が有し、その命令は普遍的なものとなる。  ☆ 場合もある。そういう生き方が好きな人もいる。  ですから   ◇ そのオキテや決まりが、他者由来であろうが、自己由来であろうが、お二階さん発祥であろうが、それは問題にならない。  ☆ この《由来や発祥》は そのようにさまざまであってよいのですが 《自律かどうかの一般論》としては 自己の内外からの由来や要請の如何にかかわらず それをおのれが欲するということ・欲してそれを行動しようと判断しじっさいに行動すること これが 前提とならなければならないと考えます。  言いかえると 《おのれが欲して そのことを行動に移すというとき おのれの思うがごとく自由に行動できる》なら 《自律している》ということになるのかと思います。  カント流の自律は この一般論の中で 《おのれの欲すること》の内容を 倫理的に・倫理学的に考え抜いてそのおのおの主観の理想とするところを さらに細かく特定して決める場合だと考えられます。  したがって そうでなくとも 欲するがままに行動することがむつかしいときには 他律的な行動になる。と見るわけですが ここでの論点は ひとつに この他律的な行動を余儀なくされるとしても それをも社会的な共同生活という基礎においては 甘んじて受け留め さらには引き受ける。という広く実践される自由意志の行為がある。のではないかという主題。  だから もうひとつの論点としては そういう事情や情況において 《自律》を説き さらにはそうでない場合の《他律》を貶(けな)して あたかも自律教なるオシエとして自己表現することは いったいどういう意味があるか? これを問うています。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  カント的な考え方にしたがえば、  動物的な欲望や本能などに支配される生き方、他律的な生き方を脱し、主体的で人間的な生を獲得するために、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで問題とすべきなのは          《動物的な欲望や本能などに支配される生き方》と   《動物的な欲望や本能などを持っており それに従う行動をするときもあるその生き方》とは   別だと考えられることです。後者が 《他律的な生き方》だと決めつける必要はないはずです。(じっさい いま上で考察したところによれば すべての生活行動は 《他律的な要素だらけ》だとなるのですが)。  《主体的》というのは このように他律的な行動を余儀なくされているときにも その事情にかんがみてその行動を引き受けることが 自由意志のハタラキによった主体的な行動であると捉えます。  このようなとき ほんとうに  ◇ 《この社会の中で自律を説くことに 意義があるのか?》 / に対しては、意義があるということになるのでしょう。  ☆ か? すなわち最も早い話をしますと 《人間は 動物的な本能のごとき欲望に 屈服します》よ。それなのに 《自律》を説くことに意義があるか? です。  ええ。すなわち  ◇ ただし、人間に、そのように、たいそう御立派な理性なるものが存在していればの話ですが。 / わたしは、この点についてかなり懐疑的ですけれども・・・。  ☆ という論旨になるかと考えています。  たぶんこの《懐疑》をさらにくわしく問い求めて行くと この主題についての哲学が深まるのでしょうね。

  • kurinal
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回答No.11

B様、どうも。 >「一般に人間社会にあっては もし自律がありうるのならば それは 《相互自律を目指すこと》であり 《自律共同にむかって互いに歩み寄ること》でしかないのではないか?」 これでいいと、思いまーーーーーす。 (基本的人権を侵害しないという前提において、「自律」している・・・それなら、無問題)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そして 賛同の一票をありがとうございます。    ヒト型とアリ型とに二分して 互いに対立していると捉え そこから 蟻型を他律であると見て否定し ヒト型を《自律》型として推し進めようとする。これは ひとつのシュウキョウであると言って 批判しています。  つまり ことさら自律を推し出すウゴキについてです。

回答No.10

>《自律》を説くことに 意義はあるか? ◎回答:ある。 ◎理由:ホモサピエンスは「社会進化」において、「ヒト型進化」の代表であるから。「ヒト型進化」は「自律的社会化」を意味しているから。 ◎そう断言できる具体的な根拠は?: 答:現代文明から離れた地域では、明文化された法律が無くとも、後天的・自発的・自律的に、その社会独自の、うまく継続可能な伝承的システムがある。南ポリネシアの島々に残るマタイ制度の村。中南米に移動し続けて生活するジプシー民族。モンゴルの伝統的な生活を維持できている一部の遊牧民。日本の滋賀県の琵琶湖畔に残る伝統的な漁で生活している里山の人々。 ◎「自律的社会化」に反する【身近な】具体例(社会性の欠如): まずは、例えば「当サイトの規約は以下」を参照せよ。 ++++++++++++ 1)■指摘回答 他の会員の【質問あるいは回答】内容に、当サイトの利用規約や禁止事項に反するおそれがあると思われることや、その内容に間違いや錯誤があると思われることなどについて【ことさらに指摘したり、批評・批判する回答】は、削除・編集の対象とさせていただきます。 2)【趣旨にそぐわない記述/投稿】 当サイトは、質問と回答の形式で会員の方同士の助け合いによる情報交換の場として運営しております。 3)教えて!gooで質問をしたら、回答者から回答をもらって、補足説明があれば補足質問を投稿してやり取りを行います。 ++++++++++++ よって、この読者は【次のような社会性欠如人間の投稿】を容易に探す事も可能である。=「自律的社会化」に反する【身近な】具体例(社会性の欠如) ・『3)質問をしたら、回答者から回答をもらって、補足説明があれば【補足質問】を投稿してやり取りを行います』に【違反し補足質問をせず、""お礼質問"" を繰り返す】 ・1)に記された「禁止内容が対象」としているのが【質問と回答のみ】であることをねらい、【法の穴をくぐり、わざと『 ""お礼欄"" 』】にて【ことさらに指摘したり、批評・批判する】 ・結果として、上記の悪質な例が【2)質問と回答の形式で会員の方同士の助け合いによる情報交換の場】という【趣旨にそぐわない記述/投稿】であることを、この読者は、容易に見破ることができる。これが =「自律的社会化」に反する【身近な】具体例(社会性の欠如)。 ・「助け合い・思いやり」は「自己の内側に公益を最優先される基準」を自然に身につけた人間でなければ、【(自発的・創造的・自律的な)社会全体の利益を頭で考えながら、同時に、目前の判断をして実際の社会貢献活動(家事・育児・福祉~等々)】は不可能なのが、読者さまには理解できるでしょう。 ・【(自発的・創造的・自律的な)社会全体の利益を頭で考えながら、同時に、目前の判断をして実際の社会貢献活動(家事・育児・福祉~等々)】が=「自律的社会化」を意味する事がイメージできるか?は読者さまの認識力の深さに依り、できる人もいればできない人もいる。 ・逆に考えると判りやすい。もし仮に読者さまが【普段の行為全てを、じっくり回想したとき、自己の外側の要因に左右されて、仕方なく動く『度合い』が強ければ】、それは「ヒト本来の【クリエイティブな発想=自発的自律的な考えを動機】に、社会貢献する」という【ヒトの道】から徐々に遠くなり、蟻に代表される「アリ型進化=他律的社会化」に近づいていることをしか意味しない。(アリは女王から共通の遺伝子という法規に従い、無意識に条件反射で活動している-->他律的] にすぎない。ウソか?どうか?、生物の社会進化専門の研究員にでも尋ねれば、そんな事は常識すぎる事が判明するであろう)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   現代文明から離れた地域では、明文化された法律が無くとも、後天的・自発的・自律的に、その社会独自の、うまく継続可能な伝承的システム    1. 南ポリネシアの島々に残るマタイ制度の村。  2. 中南米に移動し続けて生活するジプシー民族。  3. モンゴルの伝統的な生活を維持できている一部の遊牧民。  4. 日本の滋賀県の琵琶湖畔に残る伝統的な漁で生活している里山の人々。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1)のサモアでは 共同体の人びとのあいだでそれぞれの一応の所有物を 自由に他人が使ってもよいというナラワシがあるようです。  これは ほかの人間の行動を自由におこなうにまかせるという意味で――その行動は 自分の所有物が占有されてしまうという或る種の不便をこうむるからには―― 他律的に生きざるを得ないと見られます。  そして他律的に生きざるを得ないことにも甘んじており これをおのれの自由意志で引き受けている。つまり せいぜいが 相互自律といったかたちだと考えられます。  ここに 《自律》を説く意義はあるか? という問いです。  それとも 日本社会にあっても このような相互他律≒相互自律のナラワシを採用せよというご見解でしょうか?  というよりも すでに――別のナラワシによってはいますが(つまり 個人の所有物は それを借りるときには 所有者のゆるしを得なければならないという仕組みですが) それでも―― けっきょく相互他律的な生活共同はおこなっている。すでに共生している。  それなのに 《自律》を説く意義はあるか? と問うています。    ★ ""お礼質問"" を繰り返す  ☆ 《お礼欄》にではなく 《補足欄》に書けという意味でしょうか?  お礼欄に お礼とともに補足要求を書き込んで 補足欄をまづは取っておくというやり方です。あとで思いついたときに 補足の情報や質問をさらに補足欄にておこなうことができるという利点があります。  ★ ・1)に記された「禁止内容が対象」としているのが【質問と回答のみ】であることをねらい、【法の穴をくぐり、わざと『 ""お礼欄"" 』】にて【ことさらに指摘したり、批評・批判する】  ☆ マチガイは あらためれば済むことです。あらたまらなければ 問いもとめつづけるのは ふつうのことでしょう。  それが  ★ 【2)質問と回答の形式で会員の方同士の助け合いによる情報交換の場】という【趣旨にそぐわない記述/投稿】  ☆ であるのではなく そうではなく まさにその趣旨に沿った情報交換をおこなおうとしている。ということでしょう。  もっともそのこちらの補足要求に対する答えは 一向に来ませんが。答えなくてもよいのですから その見解のマチガイである部分をあらためれば済むことです。(哲学カテにおける情報交換というのは そのようであって初めて 哲学としての問い求めである。と言えましょう)。  この応答無しという態度こそが  ★ これが =「自律的社会化」に反する【身近な】具体例(社会性の欠如)。  ★ 【(自発的・創造的・自律的な)社会全体の利益を頭で考えながら  ☆ これは はっきり言えば 味噌も具もない味噌汁。ゆーだけ。  ★ 【普段の行為全てを、じっくり回想したとき、自己の外側の要因に左右されて、仕方なく動く『度合い』が強ければ】、それは「ヒト本来の【クリエイティブな発想=自発的自律的な考えを動機】に、社会貢献する」という【ヒトの道】から徐々に遠くなり  ☆ とは考えません。そのように大波をかぶらざるを得ないような時化なる資本主義社会にあっては 自律しえなくても その他律状態にまづは甘んじる。これをも 自由意志は受け留め あたかも社会のどこかに位置する司令部が一人残らず全員にそれぞれの《自律による行動と生活》をするように・またそれが出来るようにさまざまな交通計画を実施するというよりは そういう行き方よりはすぐれている(または ましだ)という考えにおいて その大波をかぶることをも引き受けている。(自由主義市場経済)。  この大波の時化の中をすすみゆくことで・その制度を突き抜けることで 互いに自律および自由をめざす。と思っている。  よって 《自律》を説くことは意義があるか?  相互他律を相互自律へと転換していこうというなら まだしも。・・・  少なくとも 《ヒト型とアリ型》との二項対立なる図式を持ち出して 自律を説くシュウキョウの出る幕ではない。  どうでしょう。

回答No.9

自律、自由意思を認めない所に、一層の悲惨さが立ち現れるのです。 「あんな犯罪をしたのは、家族が悪いせいだ、家族も追いかけまわし、地獄におとせ」 どうもこういう意地悪がまかりとおっているようです: 秋葉原事件の弟が自殺 http://www.j-cast.com/tv/2014/04/11201931.html 資本主義や市場の悲惨さが日本で一層大きなものとなっているように見え、それは個人の自由と自律がないがしろにされている、個人主義のもとでの選択の集結が社会を形作っているという社会の基本がないことにあるように思える。 ちなみに、アメリカでは犯罪者の母親が堂々とマスコミにも出て受けこたえ、プライドをもって生活しているようですよ。 自由意思を認めるか認めないか、個人を尊重するかしないか、そういう問題であると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 すーぱーけろよんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  「あんな犯罪をしたのは、家族が悪いせいだ、家族も追いかけまわし、地獄におとせ」  どうもこういう意地悪がまかりとおっているようです:  秋葉原事件の弟が自殺  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 法律上の問題としてではありませんが 資本主義の社会においては・そしてさらに一般に社会にあってはどの社会においても ひとは 自己の自由意志において行動していますが それでもその自由の内容として 残念ながら他律的な側面がある。相互他律的に行動することを 余儀ないこととしておのれの自由意志において受け留めこれを引き受けて生きざるを得ないようになっている。  よって ここから帰結される命題は こうです。:    秋葉原事件の責任は 哲学として捉えるなら 家族に及ぶ   といった問題ではなく そうではなく わたしたち一人ひとり   におよぶはずだ。  と。    したがって  ★ 自律、自由意思を認めない所に、一層の悲惨さが立ち現れるのです。  ☆ というご見解については こう考えます。    ひとつに 自由意志をみとめることは 基本の基本である。    大前提である。    ひとつに 意志自由は おのれのおのれのためのおのれによ   る自律を 同時に志向する。のであるが これは 社会にあっ   ては むしろ自己の主張をつつしみ 互いに相手の意向にまづ   ゆづるかたちを採る。意志行為にとっての縁側のごとくに ま   づ ゆづりあう。    つまり 自律を控える。    つまり そうでなくても 社会という人間どうしの意志行為   が錯綜して関係しあう構造にあっては その社会律において・   相互他律的に生きることを余儀なくされると知っているからで   ある。    そのあとである。つまり 自律をそれぞれが目指すのは。    このように生きているとき わたしたちは 法律上にまでは   採り込まないけれど 互いの社会行為は 相互依存的な関係を   持ち あたかもそこで不法行為が侵されたときには 一人ひと   りにその責任がおよぶ。というまでに その存在ないし生きる   ことが 社会的にして関係構造的である。と判断している。  のではないか?  だから 事件を起こした者を その自由意志による行為として責めると同時に 哲学上(生活態度の基本として) そのほかの人間も残す者なく連帯責任を帯びるという立ち場をも引き受けることを成す。と考えています。

  • 3355Teach
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回答No.8

あなたの主張の欠陥は、簡単に指摘できます。 社会と自己を勝手に分断し、関係性において考えていません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですかねぇ。  《他律的》と言えば すでにそこには 自己のほかに他者がいますよ。  相互他律的だとか 相互自律的だとかという見方を出しています。  ★ 社会と自己を勝手に分断し  ☆ 社会ないし他者と そして自己とは いちおう分かれていますよ もともと。  もっとも そのような独立性が 同じくもともと社会的な関係性において互いに存在するとも見ていますが。  具体的にどういう文章が いけませんか?

回答No.7

仏教批判に飽き足らず、社会批判の準備体操ですか。 その究極は私のように人類を悪と見なし全人類に宣戦布告する仮面ライダーだよ。 攻撃すれば、彼らが全力で自身の正当性を主張すると言うのは日本限定の世間において幻想のようだ。 攻撃すれば、悪心を燃やし、悪として反撃する事しかしない。 そんな彼らは、ペットとして養っておく方が良い。 小銭をため込む能力は大したもんだ。 以上はいつもの口調で、それとは別にふと思ったんだが、動物が環境に適応する生理現象と同じで、自称人間は社会を環境と見なして適応の努力をしているんでないかい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  それでは 動物と変わらないのでは?  でも 悪や善ということは知っていると。  ★ 自身の正当性を主張すると言う  ☆ ことは知っている。  ですかね。  いえ 《自律》教というオシエに対する批判です。

  • kurinal
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回答No.6

>「☆☆ 「あたかも満員電車で急停止するとき皆が片寄り 中にはたおれることもあるというかのように  ☆ といった《他律性 または 相互他律性》を知った上で そのような社会情況の中でしかも意志行為をおこなう。つまりは 自己の思うように自由な意志行為は出来ないけれど その不自由にも――相手にゆづるというかのように――甘んじる。つまりは 自由意志による意志行為として 基本的に一般に 人間の行為は成り立っている。  早合点しないでね。」 「甘んじる」は「自律」なんですよね?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「甘んじる」は「自律」なんですよね?  ☆ 相手の意志をおもんじて それに対してゆづる。そういう他律的な行動にもあまんじる。これらは すべてわが自由意志によって引き受けている意志行為である。  おそらく《自律》がのぞましいものであって ありうるとすれば このとき《互いのゆづり合い》をとおして 互いにその自律に向けて歩み寄るという意志行為の突きあわせによるものと考えられます。

  • kurinal
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回答No.5

>「すなわち このゆづる・あまんじるは 自由意志によるものです。  勘違いがはなはだしいようです。」 いやはや。 >「あたかも満員電車で急停止するとき皆が片寄り 中にはたおれることもあるというかのように  人びとは 他律的に・または《社会律的・相互他律的》に 行動せざるを得ないと考えられる。」 ・・・これを「自由意志」と言われては立つ瀬が無い、という立場もあるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 「あたかも満員電車で急停止するとき皆が片寄り 中にはたおれることもあるというかのように  ☆ といった《他律性 または 相互他律性》を知った上で そのような社会情況の中でしかも意志行為をおこなう。つまりは 自己の思うように自由な意志行為は出来ないけれど その不自由にも――相手にゆづるというかのように――甘んじる。つまりは 自由意志による意志行為として 基本的に一般に 人間の行為は成り立っている。  早合点しないでね。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。  《自由意志による意志行為として 人間の行為は成り立っている》については それがたとえ事後的な承認として わたしが自分の意志でおこなったのだと認める場合にも当てはまります。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

>「自由意志による行為 これが 人間の行為にかんして 基本であり基礎となっていると考えます。  それにもかかわらず その意志行為が おのれの自律として成っているか? どうも社会からの相手からのチカラもはたらいており 言わば相互他律になっているのではないか? ――こういう問いです。  言いかえると たとえ他律であったとしても その他律にあまんじる・つまりは 相手に相い対してその意志行為にこちらはゆづる。または 互いにゆづりあう。このゆづり合うのは おのれの自由意志によっている。  こんな事態であり社会事情においていまの問いが起きると考えるのですが どうでしょう?」 ・・・だから、「本人に責任を問えない、という場合、「問題」を本人の責任に帰すべきでない」 そういうことでしょう。 ・・・「他律的に、ゆづる」、何か、勘違いか思い違いでなければ、良いのですが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 《自律》を説くことに 意義はあるか? これを問います。  ☆ この内容は つぎです。  ☆☆ ・・・一般に人間社会にあっては もし自律がありうるのならば それは 《相互自律を目指すこと》であり 《自律共同にむかって互いに歩み寄ること》でしかないのではないか?  ★ 責任を問う・帰す  ☆ 問題とは 別です。  自由意志による行為に説明責任がついてくるのは すでに織り込み済みですから やはり 問題が別です。  ★ ・・・「他律的に、ゆづる」、何か、勘違いか思い違いでなければ、良いのですが。  ☆ 《相手にたいして 自己のそれもおもんじるゆえに相手のその自由意志をとうとび 道を一歩ゆづる。その行為が たとえ他律的になったとしても それにあまんじる》。  すなわち このゆづる・あまんじるは 自由意志によるものです。  勘違いがはなはだしいようです。

bragelonne
質問者

補足

 No.5の補足欄をさらにおぎないます。  ☆☆ 《自由意志による意志行為として 人間の行為は成り立っている》については それがたとえ事後的な承認として わたしが自分の意志でおこなったのだと認める場合にも当てはまります。  ☆ それが証拠に たとえ満員電車の中で急停止によってとなりの人に寄りかかることを余儀なくされた場合にも――つまり 必ずしも自分の責任ではないとしても―― ふつう 《ごめんなさい》とあやまります。  総じて言って わが自由意志による行為であると事後的にでも みとめる。こういうことになっています。

  • kurinal
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回答No.3

bragelonne様、こんばんは。 >「《自律》を説くことに 意義はあるか? これを問います。」 刑法に、「本人に責任を問えない事態については、その責任を阻却する(問えない)」という、 理屈があります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  それは 《意志自由――その選択の自由とそれによる行為――》のことではないでしょうか?  自由意志による行為 これが 人間の行為にかんして 基本であり基礎となっていると考えます。  それにもかかわらず その意志行為が おのれの自律として成っているか? どうも社会からの相手からのチカラもはたらいており 言わば相互他律になっているのではないか? ――こういう問いです。  言いかえると たとえ他律であったとしても その他律にあまんじる・つまりは 相手に相い対してその意志行為にこちらはゆづる。または 互いにゆづりあう。このゆづり合うのは おのれの自由意志によっている。  こんな事態であり社会事情においていまの問いが起きると考えるのですが どうでしょう?

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     つまり  (α) われわれ日本人のあたまは あまりにも《観念》が巣食っているのではないか? そうだとしたら なぜそうか?  これが 問いです。  この問題を捉えるに当たっては 聖徳太子の事例を取り上げるのがよいと思われます。    (β) 特に《さとり》の主題については これをどこまでも《精神 ないし 精神主義》において捉えるという傾向があり それは 聖徳太子の次の命題に現われている。のではないか?   【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html  あるいは この傾向は 言わずと知れた《神》観にも現われます。  (β‐1) 《神とは 人間の精神である》とする勘違い神学。そうならば 人間が神であるとなる。  (β‐2) 《キリスト教を信じる》だの 《宗教を信じる》だのという勘違い。教義は 思考の対象であり 信じるのは 非思考の問題である。  (γ) 《主権在民= スサノヲ市民主権》についての勘違い。つまりはこの現実が ぎゃくに《精神上の問題》だと見なされ その主権問題は ただの観念に過ぎないと思われている。  (γ‐1) 《和を以って貴しと為す》と言うけれど この和の実態はあくまで スサノヲ市民社会・つまり二階建てから成る国家の第一階における生活現実にもとづいている。それを勘違いしている。→(γ‐6)  (γ‐2) 【Q:和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6633903.html  というように ウマヤドノトヨトミミがこの条文をしるしたのは あくまで 仏教の輸入について是か非かを問うて 崇仏派と排仏派とに分かれて殺し合いをおこなった結果 権力をにぎったあとである。   ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~   一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (γ‐3) つまりは  《上と下 すなわち アマテラス圏とスサノヲ圏との睦び合い》としての《和》も  遠くは あくまで S 圏が A 圏に《くにゆづり》をしたあとの段階で言っている。  (γ‐4) つまりは ウマヤドさんは よっしゃこれでわれらが権力は安泰である どうだ 文句あるか? と言っているに過ぎない。   ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (γ‐5) そのためにこそ 《世間虚仮 唯仏是真》として 人びとのあたまを《観念》で覆おうとした。観念を巣食わせようとした。これが うまく行ったのである。大成功!!  (γ‐6) 自分じしんは 《和を以って貴し》としなかった。成し得なかった。そのあと あくまでスサノヲ市民社会のありさまとしての《和》をパクって 条文に掲げたのである。スサノヲ市民どうしは けんかをするほど互いに仲が良かった。《和》そのものであった。ウマヤド氏は うらやましかった。ゆえに頭をひねって考えた。  (γ‐7) そのアマテラス・マジックが どんぴしゃり うまく行った。この観念の手品が あたかも千数百年ものあいだトラウマのごとくにか あるいは白雲境のごとくにか 人びとのおつむに作用して来ている。  (δ) ゆえにそののち遠く西のほうから渡って来たところのたとえば自我なる概念 この《自我》も ただ《わたし das Ich 》と言っているに過ぎないのに 何か高尚な観念でもあるかのように後生大事にいだかれている。  (ε) このような大いなる《観念》――あるいは 観念の繭――の中で たとえば《自律せよ》などというまぼろしの哲学が 声高に言われている。  (ε‐1) 経済的に自立せよというのなら まだ分かる。自律・他律などというのは せいぜいが 共同律・社会律に人びとが参加するというほどのことしか言えないはずなのだ。  (ε‐2) それは 《自由 ないし 自由意志》の問題なのだから。たとえシガラミから自由になったとしても 社会は相手のいることだから 相互自律として成るしかないはずだ。  (ε‐3) それを 声高に《自律》と言って なおも観念の繭の中に居続ける。くだらん。まぼろしのアマテラス語(その訛った方言)で カッコウをつけて言えばいいとでも思っている。  (ζ) ・・・(つまり観念があたまに巣食うのは ほかにも 原因があるかも知れません)。  以上 日本のルネサンスがかかっているかと思われますが どの事柄でもいいですから ご教示をお願いします。質問者からもツッコミを入れると思いますが まなんでまいります。

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