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fict923ikayomaの回答

回答No.7

同感です。違っていることが分かっていて違うことをするのは挑戦です、違っていることが分からず違うことをするのは間違いだと思います。この一節は一定の常識のある人が云ったから意味があるのだと思います。

noname#189115
質問者

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コメントありがとうございます。

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  • 日本社会の一員であるための「条件」

    ここ数ヶ月のあいだ,マイノリティにたいする「ヘイト・スピーチ」の問題が論じられるようになりました。このような問題の背景には,マイノリティにたいする「無関心」と「無知」が指摘されています。 いまだに日本社会においては,マイノリティを理解する「機会」に恵まれていないことは,当事者にとっては,非常に遺憾なことです。 わたしは台湾系日本人です。ひとりのマイノリティにとって,マイノリティにたいする「無関心」と「無知」の問題は,「真摯な態度で向きあわねばならない問題」であると受けとめています。なぜならば,このような問題のの背景には,マイノリティの「日本理解」と「日本社会への適応」に,何らかの「課題」があるからです。 マイノリティという立場からわたし自身は,マイノリティが日本社会の一員として認められるための「条件」を強く意識するようになりました。 わたし自身は日本語を母語とします。そして,日本教育を受けたことがあります。さらには,日本企業で働いたこともあります。これらの「経験」を「基礎」のひとつとして,わたし自身は日本の文化や習慣を肯定的に受けとめるようにしています。そして,いかなるかたちの「反日感情」については,「毅然とした態度」で向きあうようにしています。また,積極的に日本の歴史を学んでいます。 言語,さらには,文化や歴史にたいする「深い理解」などといった「条件」をクリアすることでわたし自身は,日本社会の一員として認められるだろうと考えています。 上に挙げたことは,あくまでも,わたし自身のケースではありますが,皆さんが考えるところの,日本社会の一員であるための「条件」とは,どのようなものでしょうか?