• ベストアンサー

日本は寛容なのか?

日本社会は、異質な存在にたいして寛容であるといえますか? 日本人は寛容な人々である! 日本社会は寛容な社会である! このようなことを口にする日本人は、少なくないと思います。日本の、良いイメージを語りたいという、気持ちの表れでもあると、思います。 その一方で、あるオーストラリアの歴史学者が、日本社会や日本人にたいして、「うわべだけの多文化主義」という言葉を使って、日本社会の、日本人の「不寛容さ」を指摘しました。そのような指摘から、日本社会のマイノリティ集団にたいする、偏った<まなざし>があることを思い知らされた日本人は少なくないと思います。

noname#189115
noname#189115

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#204885
noname#204885
回答No.5

何をもって「寛容」とみなすかがポイントですね。 「外人(訪問者・一過性の人)に対して親切」と言う観点なら、「おもてなしの心」ではありませんが、一般論として日本人は親切だと思います。新興国も含めて海外10カ国以上訪問したことがありますが、日本ほど、文化や習慣の違いを容認して、親切に対応してくれる国はそうありません。 一方で「外人を公平に扱ってくる」と言う観点で見ると、確かに疑問があります。外から来た人間がどれだけ日本の風習を理解しようとして努力しても、そう簡単に「日本人」のネットワークには入れてくれません。このガードの固さは、確かに日本は厳しいものがあります。 まあ、若干日本のことも擁護すると、外国だって、本当にプライベートな空間では容易に外人(異文化の人)を受け入れることは無く、実態はあまり日本と変わらないように思います。ただ、特に西欧では、「パブリック」と「プライベート」と言う場が厳密に区別されていて、「パブリックな場」ではいかなる不公正・差別も許されないと言う厳格なルールが存在しているので、この空間で活動している限りは、外国人が疎外感を感じることはありません。日本は、このパブリックな空間があまり確立されておらず、プライベートな雰囲気が公共空間にダダ漏れしているので、「典型的日本人」以外の人が近くに居るとそれだけで場が緊張してしまい、ガードが張られてしまうのだと思います。 と言うことで、おっしゃるとおり、日本で最も冷遇される傾向にあるのが「日本に住んでいる(つまり「訪問者」ではない)異文化人」と言うことになります。しかも、その異文化人が「日本文化」に近ければ近いほど冷遇されると言う不思議な現象も見られます。これは、ロボット工学で知られている「不気味の谷」現象と極めて近いものであるように思います。 不気味の谷現象:ロボットがその外観や動作において、より人間らしく作られるようになるにつれ、より好感的、共感的になっていくが、ある時点で突然強い嫌悪感に変わる現象。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%B0%97%E5%91%B3%E3%81%AE%E8%B0%B7%E7%8F%BE%E8%B1%A1 この辺が、「日本社会のマイノリティ集団にたいする、偏った<まなざし>」の正体ではないでしょうか。私見ですが、意外にイスラム教徒の人などは、「日本人の標準的姿」から離れすぎてしまっているので、それなりにプライベートな空間でも自分のポジションを確立できているような気もします。逆に一番気の毒なのは、結婚して来られたため日本語が話せない在日韓国人の方で、これは本当に住みづらいであろうと同情します。(できるだけ支援するようにしていますが。)

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

その他の回答 (5)

回答No.6

No.4の続きです。 そういえば「宗教」に関して言えば日本人は世界に類のないほど極めて寛容です。

noname#189115
質問者

補足

宗教にたいして「無頓着」であると、わたしは考えます。皮肉になりますが、「世間教」、あるいは、いわゆる「日本教」こそが、現代日本における宗教観なのだと、わたしは考えます。ですから、宗教に寛容であるという考え方を、わたしはとっていません。宗教にたいして、非常に無頓着であることが、日本人の問題だと、わたしは思います。

回答No.4

●異質な存在にたいして寛容であるといえますか? ○言えません。  寛容でないからこそイジメや村八分、外国人への偏見・差別が存在するのです。

noname#189115
質問者

お礼

その通りですね。 そういう点があるので、わたしは日本人であることが嫌になることがあります。日本人であること、そのものが「病気」なのです。

noname#209756
noname#209756
回答No.3

基本的に実際は別として認知として単一民族なわけです。 多民族の国、東南アジアやカナダなど民族の折り合いなど知恵を重ねていっているわけです。 日本ではそういうのはあまりないと思います。 日本は昔、舶来物をすばらしいと考えてました。 しかし、最近は蔑視したり、あそこはとかいって、相手を下に見たりもしますよね。 基本的にかっこいいと思う国のものは良い評価されて時には置き換わったり融合したりする。蔑むところは悪い評価をくだす。 ですので、以前より不寛容になったということでしょう。

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

noname#189765
noname#189765
回答No.2

こんにちは。 >日本人は寛容なのか? →何に対しても?でしたらNOでしょうね。 >日本社会は、異質な存在にたいして寛容であるといえますか? →世界中どの国でも、異質に関しては国策で決めている位です、 従いましてNOでしょうね。 オーストラリアの誰かが行った日本分析は、言論は自由である事と 主張は御勝手に!です。 不寛容である事の何の裏付けにもなっては居ません。 オーストラリアと言う国と人分析に関しましてはど~なんでしょう?

noname#188107
noname#188107
回答No.1

日本人は自分たちの村社会に受け入れられた よそ者に対しては寛容だと思います。 基本的には、島国ならではの 差別や偏見があることすら気づいていない というのが真実でしょう。 >少なくないと思います。 少ないと思いますが。 そんな風に公言する人がいたら 自分の無知をさらけ出すだけでしょう。

noname#189115
質問者

補足

あなたが考えているほど、日本社会は非常に排他的なものだと、わたしは思いますよ。

関連するQ&A

  • マイノリティは脅威!?

    ・マイノリティは脅威であるという「根拠」はどこにありますか? 外国に「つながり」をもつ立場として、ここ最近の日本社会における排外主義の高まりに危機感をいだいています。 排外主義を標榜する市民団体のなかには、活動の第一の目的に、「純日本人」以外の日本人を日本社会から「排除」することを挙げている組織があります。こういった組織に属する人々は、日本社会においては少数派ではありますが、そういった人々の存在、組織の存在は、外国に「つながり」をもつ立場としては、非常に恐ろしいものです。 わたし自身は外国に「つながり」はもっているものの、日本の歴史や、日本の文化を学び、「知日」、「愛日」という立場をまもっています。日本社会にたいしては、やや批判的ではありますが、批判をする以上に、日本社会を深く理解している立場です。 外国に「つながり」をもつ人々をふくめた、マイノリティの人々は、いまの日本社会にとって「不都合な存在」なのでしょうか? すでに外国に「つながり」をもつ日本人の多くが、社会人となり、日本社会に「貢献」しています。彼ら彼女らは、日本社会の脅威なのでしょうか? いくら外国に「つながり」をもつ人々が<努力>をしたとしても、日本社会が外国に「つながり」をもつ人々にたいする<まなざし>を改めない限り、彼ら彼女らにたいする偏見や誤解は解けないだろうと思うときがあります。

  • 個人主義の要件となる寛容

     最近、Wikipediaで集団主義の項目を読んだところ、個人主義を養うためには、寛容さが必要だという学説が紹介してありました。あまりに締め付けると、人間が萎縮してしまって、自由に行動ができず、集団主義にしかならないというのです。これは社会が立ち後れている証拠だとも書いてありました。Wikipediaの記事なので、あまり正しくはないかもしれません。そこで敢えて引用しませんが、理屈としては、なるほどなあ、とは思いました。  こうした寛容には二つのレベルがあると思います。国家の制度と、個人の気持ちの持ちようです。制度というのは社会のセイフティネットのことです。失業しても手当があるのなら、会社を逸脱しても自らのペースを保つ自由な行動ができるでしょう。また老後の保障があるのなら、若い時に、様々なことにチャレンジもしやすいでしょう。しかし私がここで聞きたいのは、後者の個人的な人間関係における寛容です。そこで二つ質問させてください。 (1)寛容になった経験は?  ここのカテには年配の方が多く、管理職を経験された方もいると思います。本当は批判してフルボッコにできるのに、他者の個人主義を尊重するために、寛容になった経験があったら教えてください。 (2)日本の近況について  最近、日本はミスにうるさく、不寛容になって来ているような気がします。その結果?、若者が「草食系」などと言われるように萎縮していると思うのです。この傾向は、TwitterやFacebookの履歴を追いかけることで、個人の動向を監視できるようになってからというもの、さらに加速しているように思います。  例えばさっき知った話だと、Twitter上で、Fuck youのジェスチャーをした写真を公開した大学生が、品位ある大学の名誉を汚したとして処分を受けたそうです。プライベートなのだから、それはそれで個人の品位の問題であって、大学は関係ないのじゃないかと思いますが…関係あるとすれば、集団主義の考えがあるからでしょう。また就活でも人事部はFacebookをチェックするのだそうです。  ミスを指摘するという行為は適度ならば「批判」でしょうが、過剰ならば「抑圧」であり、集団主義に行き着くように思います。集団主義こそ好ましいからわざと抑圧しているのだ、と言われればそれまでですが、そうなのでしょうか。案外、何も考えていないのじゃないかなあと思っていますが、こうした現状について考えるところを教えてください。

  • 日本人の「寛容さ」を問う

    少し前になりますが、外国出身者や、外国につながりをもつ人々が日本の市民権を取得したのち、警察官や自衛官になることで、彼ら、彼女らが属するエスニック集団は、日本社会において社会的信用を得ることができるか否かについて問いました。 「自衛隊、警察、海上保安庁、etc」 (http://okwave.jp/qa/q8334676.html) 再び、この質問をしたいと思います。 「日本国籍を取得した人物が自衛官、警察官、消防士、あるいは、海上保安官になることで、この人物と、この人物が所属する集団は日本において社会的信用を獲得できるでしょうか?」

  • 日本社会の一員であるための「条件」

    ここ数ヶ月のあいだ,マイノリティにたいする「ヘイト・スピーチ」の問題が論じられるようになりました。このような問題の背景には,マイノリティにたいする「無関心」と「無知」が指摘されています。 いまだに日本社会においては,マイノリティを理解する「機会」に恵まれていないことは,当事者にとっては,非常に遺憾なことです。 わたしは台湾系日本人です。ひとりのマイノリティにとって,マイノリティにたいする「無関心」と「無知」の問題は,「真摯な態度で向きあわねばならない問題」であると受けとめています。なぜならば,このような問題のの背景には,マイノリティの「日本理解」と「日本社会への適応」に,何らかの「課題」があるからです。 マイノリティという立場からわたし自身は,マイノリティが日本社会の一員として認められるための「条件」を強く意識するようになりました。 わたし自身は日本語を母語とします。そして,日本教育を受けたことがあります。さらには,日本企業で働いたこともあります。これらの「経験」を「基礎」のひとつとして,わたし自身は日本の文化や習慣を肯定的に受けとめるようにしています。そして,いかなるかたちの「反日感情」については,「毅然とした態度」で向きあうようにしています。また,積極的に日本の歴史を学んでいます。 言語,さらには,文化や歴史にたいする「深い理解」などといった「条件」をクリアすることでわたし自身は,日本社会の一員として認められるだろうと考えています。 上に挙げたことは,あくまでも,わたし自身のケースではありますが,皆さんが考えるところの,日本社会の一員であるための「条件」とは,どのようなものでしょうか?

  • ニッポンはマイノリティを「否定」、「黙殺」するのか

    日本人は、日本社会のなかで生を営むマイノリティ集団―たとえば、在日コリアンや在日中国人などの、外国につながりをもつ人々、同和地区につながりをもつ人々、アイヌの人々、ハンセン病患者、エイズ患者、LGBT関係者、障碍者、被爆者、水俣病関係者など―の存在を、どのようなものとして受けとめられているのでしょうか? ・日本社会の構成員であり、彼ら、彼女らにたいする差別や偏見を許してはならない。 ・日本社会の構成員ではあるが、社会の「表舞台」には立ってほしくない存在である。 ・日本社会の構成員ではあるが、彼ら、彼女らのアイデンティティについては、認めたくない、あるいは、共感できない部分が存在する。 ・日本社会の構成員として認めたくない。できれば、彼ら、彼女らの存在は「否定」、あるいは、「黙殺」したい。 先日の、ある地方公共団体の市会議員による、日本社会における先住民族の存在を「否定」することを意図した発言が、現在も大きな議論をよんでいます。当人の真意は、社会福祉政策による恩恵を必要としている人々がかかえる諸問題を提起したかったことでした。しかしながら、当人の先住民族やマイノリティ集団にたいする基本的な知識、認識が著しく欠如していたことから、多くの人々は彼の発言を問題発言として受けとめ、「舌禍事件」へと発展しました。 社会福祉政策がかかえる諸問題について論じたいのであれば、わざわざ先住民族の「存在」について触れ、それを強調する必要はあったのでしょうか。先住民族が直面している問題をふくめて、日本社会においては、マイノリティ集団にたいする批判のなかには、日本社会の「構造」がマイノリティ集団に悪影響をもたらしたといった見方ではなく、マイノリティ集団みずからの「精神的な問題」であるという指摘が少なくありません。こういった問題が論じられるたびに、「個人の問題」―たとえば、差別や偏見の問題であれば、差別や偏見をする人々や、それを受けとめる人々の「心の問題」であることが強調されるように―であることが「強調」されます。 わたし自身、外国につながりをもつ立場で日本社会のなかで生を営んでいます。この市会議員の「問題発言」は、わたしにとっては、極めて衝撃的なものでした。彼自身のマイノリティ集団にたいする浅はかな知識、理解の程度のみならず、彼が世間に向けて発信した「メッセージ」の裏側で、彼自身の「真意」に、先住民族の存在を認めたくないという<強い考え>があることを読みとったとき、心の底から怒りがこみあげてきました。こういった存在を知るたびに、わたしは、わたしのような外国につながりをもつ人々は、日本の市民権を持っていても、決して日本社会では歓迎されない存在であることを悟るのです。

  • ニッポンから「寛容」が消えた日

    日本社会から寛容の精神が軽視されるようになった原因には、どのようなものが考えられますか。 ・数名の日本人が非政府組織の活動の一環として海外に足を運んだところ、現地のテロリストによって身柄を拘束され、数日後に解放されたという事件が数年前にあった。この事件をきっかけに、日本社会では「度の過ぎた自己責任論」がさけばれるようになった。 ・四肢に障碍をもつ著名人がある飲食店に行ったところ、障碍者であることを理由に入店を断られた。 ・ある芸能人が、苦肉の策ということで、心無い飼い主によって捨てられた猫を保健所に連れていったところ、この芸能人が多くの人々によって非難された。 ・盲導犬を連れて歩いていた人物の、その大切な盲導犬が、心無い人物によって刃物で傷つけられた。 ここ数年間、日本社会のなかで生活をしていますが、寛容の精神を著しく欠いた日本人が少なくないことに、驚きをかくせません。

  • 腹を割るのか、それとも、袈裟まで憎むのか

    いまの日本社会に生きる人々にとって、マイノリティ集団などに代表される、異質な他者に出会ったとき、どのような「態度」をとることが最も好ましいと考えるのでしょうか? 1.いっぺん、飲食の場などを利用して、お互いに腹を割って語りあい、「仲間」として認め、社会のなかで受けいれること 2.坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといわんばかりに、憎悪の感情を持ちつづけ、社会から徹底的に排除することに熱心になること

  • わたしの「日本の心」はホンモノ!?

    ひとりのマイノリティという立場から,これからの日本社会を活きるマイノリティのために,このような質問文を考えました。 わたしは台湾系日本人(日本国籍保持)であり,いわゆる「外国につながる日本人」です。 親が外国出身ということから,わたしは日本社会のマイノリティの問題に,大きな関心をもっています。 マジョリティである,いわゆる「純日本人」にとっては,マイノリティが日本社会に受けいれられるためには,いわゆる「日本の心」をもつことが重要であるとされます。そのようなことを「強調」する人々は少なくないと思います。 ここでいう「日本の心」とは,日本人を理解することや,日本語を習得すること,さらには,日本の文化や習慣を受けいれることなどを意味すると,わたしは考えます。 では,「日本の心」があれば,マイノリティは日本社会に受けいれられるのでしょうか?

  • 日本と西洋の個人主義

    西洋の個人主義を日本は誤解していると聞くことがあるのですけど。 具体的にはどういうことでしょうか? やはりキリスト教や歴史がちがっていて、日本の精神はどちらかいうと集団主義の文化なのでやはり違うのでしょうか? 西洋化といってもどうなのでしょう?

  • 「同化の強制」VS「多様性の尊重」

    ひとりのマイノリティとして,わたしは日本社会のなかで生活をしています。わたし自身は,さまざまな事情があったものの,日本社会の一員として,日本社会のなかで生活をしています。スポーツにたとえるのならば,いろいろな「努力」をして,それが認められて,ようやく,スタメン,あるいは,レギュラー入りした,ということになるでしょう。 多くの日本社会に活きる人々,とりわけ,マジョリティである,純日本人とされる人々にとっては,現代の日本社会はひとつの大きな「分岐点」にさしかかっていると受けとめていることでしょう。 その主な理由は複数ありますが,「社会の多様化」がその理由のひとつに挙げられます。 「多様化」した現代の日本社会の「将来像」については,さまざまな意見があると思います。このような課題にかんしては,マイノリティ集団にたいする社会的包摂の「あり方」が問われることが少なくありません。 1.マイノリティ集団にたいしては,個人のアイデンティティを尊重すると同時に,ホスト社会への包摂に向けた努力を,社会規模で実践する。 2.マイノリティ集団にたいしては,ホスト社会に「同化」してもらうことを前提とし,ホスト社会に「同化」することを,包摂のための「条件」とする。 これからの日本社会は,「同化の強制」なのでしょうか,あるいは,「多様性の尊重」なのでしょうか? これは,マイノリティ集団にたいする課題だけではなく,これからの日本社会を活きる,すべての人々のための質問になります。