• 締切済み

マイノリティが日本社会に受けいれられるためには?

現在の日本社会における活発な社会的排除の傾向と,行動する保守によるヘイトスピーチの問題は,マイノリティの立場であるわたし自身にとっては大きな問題であると受けとめています。 どのようなことをすれば,マイノリティが日本社会に受けいれられるのでしょうか? 非常に漠然とした内容の質問なので,必要があれば,わたし自身のこれまでの経験を参考にしてもかまいません。 1.日本理解 日本語の習得,日本史の学習,日本文化に慣れ親しむ,日本文化の実践,日本の習慣や風習を理解する,地域の行事への積極的な参加,日本教育を受けること 日本社会におけるマイノリティの包摂の問題においては,マイノリティ側が日本社会に適応しないことがたびたび指摘されています。わたし自身は日本教育を受けたことから,日本語を使い,日本史を学び,また,海外の日系人事情を学習しました。 2.特別な能力 楽器の演奏,球技系スポーツの実践(とくに野球,サッカー,テニス,バスケットボール,など),格闘技系のスポーツの実践(柔道,剣道,空手,レスリング,など,),ダンス系(バレエ,日本舞踊,その他のジャンル,など),伝統芸能系(詩吟,落語,講談,など),語学系(複数の言語を使用すること) マイノリティが日本社会のなかで受けいれられるためには,特別な能力が要求されることがあります。このことは,特別な能力をもっていることから,マジョリティから差別や偏見を受けないことと理解されることがあります。わたし自身は,クラシック音楽を勉強したこともあり,現在では練習などをする時間が限られてしまいましたので,レパートリーを広げることはせずに,すでに演奏したことのあるベートーベンやモーツァルトのソナタ,他の作品の練習に力を入れるようにしています。 特別な能力があることで,マジョリティがマイノリティを「認める」ケースがあります。また,マイノリティにとっては,特別な能力を得ることで,社会的な包摂につながると認識している人々は少なくないでしょう。

noname#181693
noname#181693

みんなの回答

回答No.6

そもそも社会に受け入れられるってどのようなことを言うのでしょうか? 人種的なマイノリティのことを質問されているのであれば、 日本生まれの生粋の日本人であっても、友達や知人も少なく恵まれていない人は多数いますし、外国籍の外国人でも友達がや知人の多くに恵まれている人もいます。 それは別にマジョリティでもマイノリティにも関係なく個々の資質の問題でしょう。 私も若い頃に海外で生活しましたが、やっぱり日本人でも受け入れてくれる人たちもいますが、日本人というだけで毛嫌いされることもありました。 それで毛嫌いされている人たちのコミュニティに無理に参加する必要は感じませんでしたし、素直に受け入れてくれるコミュニティに参加してました。 そうこうしていると毛嫌いしているコミュニティでも、「日本人は嫌いだけど、お前はいい」という状況で日本人嫌いのコミュニティにも参加できました。 また、基本的に能力の優劣のはっきりするコミュニティにおいては、やはりその能力の優秀であることはコミュニティに受け入れられる強い要因でしょう。 判りやすくいえば、チームスポーツにおいてその人がチームにいれば試合に勝てるとすれば、チームメイトはその人を受け入れるでしょう。 最終的には、他人との付き合いって広い意味で「自分にとっても損得」で受け入れるか否かを判断しているのは仕方ないでしょう。これは相手がマジョリティでもマイノリティでも同じだと思います。 ただし、自分と同質の相手であるほうが苦労が少ないので受け入れやすいのも事実でしょう。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 「能力の優劣のはっきりするコミュニティ」 このような場においては,当人の能力が優先され,人種や門地などで,人間がジャッジされることは,基本的にはありません。 しかしながら,こういった場は,とても限られているのではないでしょうか? そういった場で活躍できること自体が,多くの人々にとっては,まれなことであると思います。

回答No.5

国がどうとかではなくて、対人間での付き合いで溶け込めるかどうかは やはり人間の資質の問題ですから。

  • Guan-Yu
  • ベストアンサー率13% (60/436)
回答No.4

No.3ですが続きを書きます。 外国人が日本に受け入れられる為の、良いお手本になるのが『王貞治氏』です。 これを続けるのは非常に難しい事ですが、継続すれば確実に日本社会に受け入れられると思います。 それには特殊な才能、特別な能力は必要としません。 自分が住んでいる地域で、ただボランティアをし、地域やそこに住む人の利益の為に貢献するだけです。 王貞治氏は有名人ですから、障害者施設などを定期的に訪問したり、子供の為の野球教室を開催したりして全国的な社会貢献活動を続けて来ました。 多くの人は、その様な活動をしている人を見ると偽善ではないのか?、などと穿った見方をしたりもしますが、長年、コツコツと社会貢献活動をする人に対しては、穿った見方はせず、逆に尊敬の念を持って見ます。 王貞治氏のような長年の社会貢献活動の実績がある人を偽善者扱いする人は、周りの人間から批判され下劣な人間として扱われるようになります。 つまり、自分以外の人達の為に労を惜しまず、汗を流し、信頼を勝ち取るしかないという事です。 そうしなければ、日本の村社会に受け入れられる事はありません。

noname#181693
質問者

補足

あなたは,著名な方を例にしていますが,たとえば,それが,どの出自,どの民族的なバックグラウンドをもつ人々にたいしても,それがアプライ,つまり,該当しますか? 〇〇につながりをもつ人々なので,いくらボランティア活動をやったからといって,信用できない! これが,日本人の心の内ではないでしょうか? 特定の出自をもつ人間にたいしては,やたらフレンドリーになり,特定の出自をもつ人間にたいしては,反感をあらわにする。 あなた自身は,いわゆる理解の幅の広い人物なのかもしれませんが,日本社会は,じつは,生きにくい場になりつつあると,そのように思うことがあります。

  • Guan-Yu
  • ベストアンサー率13% (60/436)
回答No.3

あなたは日本を理解していません。 日本は村社会です。日本の地域も会社も一つの村です。 この傾向は、田舎に行けば行くほど強くなります。 自分と同じ地域の人は自分の家族の様に扱い、これまた自分と同じ会社の人は自分の家族の様に扱います。 日本人は自分の村によそ者が入ってきたら、その人を排除しようとしたり、距離を置いて付き合います。 私が以前、働いていた会社に隣の県出身の人がいました。(日本人) その人は、私の県に20年住んでいるにもかかわらず、今だによそ者扱いされるとぼやいていました。 三代続かないと、江戸っ子ではないなどと言いますが、あなたの子供か孫は日本に受け入れられると思います。

noname#181693
質問者

補足

「三代続かないと、江戸っ子ではない」,とのことですが,たとえば,いわゆる同和地区で生まれ育った人々や,同和地域につながりをもつ人々にたいしても,同じことがいえますか?  差別を受ける人々は,未来永劫,差別を受ける人々。 これが,日本人にとっての「心の内」なのでしょう。「三代経てば江戸っ子」などの,「美しい言葉」をわたしは使うつもりはありません。 閉鎖的,排他的な部分については,「徹底的に批判」します。そのほうが,日本のためであると思います。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

”どのようなことをすれば,マイノリティが日本社会に受けいれられるのでしょうか?”      ↑ 私は中国人(大陸)の知人が多く、彼らと 煩雑につきあっております。 マイノリテーが日本社会に受け入れられることは それほど難しく考える必要はないと思います。 1,日本人からみて、不愉快なことをしないこと。 2,尊敬されること。尊敬とまでは行かなくても、   一目置かれる存在であること。 これだけ守っていれば、日本人は受け入れます。 まして外国人には親切ですよ。日本人は。 ”日本理解”   ↑ これは、必ずしも必要とされないと思います。 日本人の眉をひそめさせることをしなければ よいだけです。 それにはある程度、日本を理解する必要は あるでしょうが、それだけです。 ”特別な能力”    ↑ これは、私のいう尊敬に繋がると思います。 特別な能力でも、ピッキングのような能力では 逆効果です。 敬意を持たれるような、特別な能力という意味に なると思われます。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • t78abyrf9c
  • ベストアンサー率47% (3029/6402)
回答No.1

>どのようなことをすれば,マイノリティが日本社会に受けいれられるのでしょうか? 「世間」に従属すれば良いのです。 変(中途半端)な「人間性」は捨てて、「世間」の中でロボットの如く皆の言動に従うのです。 それが出来ないからマイノリティであり、ご自身の現状を保ったままで世間に受け入れられる方法を探っての質問かも知れませんが、はっきり言って「愚問」です。 「世間」は、個人の事情など知った事ではありません。 「皆が一緒」 これが世間における最も重要な掟であり、それに従えない者は、徹底的に断罪されます。 従えない者は、一生世間から距離を置き生きるか、世間が平伏す位の特別な才能を持つ以外に打開策がありません。 「世間」は、「先天性」を重要視します。 「世間」に順応する先天性を持てずに生まれてしまった者は、それ以外の先天的で特別な才能が無い限り、一生苦しんで生きる事になるのです。 日本人が、長年自らの手と力で変える事が出来ない「世間」を、明治期以降は欧州の「社会」を入れる事で変えようとしてきました。 欧米では、12世紀以降からキリスト教が根付いおり、その影響で「強い個人」形成され、それを基盤として出来上がった「社会」も根付き、その延長上でマイノリティとマジョリティのバランスが取れてる側面が大きいです。 しかし、キリスト教が根付かず、大半が「弱い個人」として生きる格好になる日本では、いくら(「強い個人」の存在を前提とした)「社会」を入れたところで上滑りとなり、無理に「社会」を入れ込む反動から、元々「世間」に温存されている悪い面が増長するという悪循環が顕著になってます。 これを少しでも是正するには、日本人自身が「世間」と「社会」の違いを冷静に分析し、その狭間で「(弱い)個人」を活かすにはどうすれば良いかを考えていく以外に道がないでしょう。 が、(皮肉にも、ある意味学校教育が成功したとも言えますが)「世間」と「社会」が同質であるという観念が日本では浸透し切ってますので、そこを変えるには並大抵の方法では無理だと言えるでしょう。 そもそも論ですが、日本に「社会」が根付き切っていれば、「社会人」なんて言葉は必要ないのです。 なのに、「世間」では当たり前の様に「社会人」が使われており、日本人にける「社会(観)」の狭さを露呈する格好になっていると感じます。 改めて申しますが、日本の中でマイノリティを自覚する方ほど、「社会」ではなく、「世間」に目を向けて考えて欲しいと切に願います。 「世間 社会 違い」検索結果 http://goo.gl/tMnfs

noname#181693
質問者

お礼

あなたが指摘されたように,「世間」を超越した,「新たなるアイデンティティ」の構築が必要であることは,誰もが理解できることでしょう。わたし自身,日本のアイデンティティを分かちあっている立場から,日本人にはそれをやってのける能力,実力,創造力があると,いまでも,そのように認識しています。そうしたい,という強い思いもあります。 しかしながら,あなたのコメントも含め,さらには,排外主義的な純日本人のプリゼンスを知ったことで,わたし自身,非常にペシミスティックな気持ち,考え方をもつようにもなりました。 あえて,「世間」に目をむけない。わたしなりの,「わたしのやり方」を模索する,追及する。同じような言葉のつかいまわしですが,いわゆる「新・日本人像」の構築に,積極的に向きあうべきだと,わたしは思います。 「世間」に流されること,「世間」に従属,隷属されることを「是」としている状態が,日本人の多くにとっては,納得のいくものではないのですから,「思いきったアクション」にでても,それは理解の出来るものでしょう。 また,「皆が一緒」である必要など,まったくありません。わたし自身は,親が外国出身ということもあり,日本文化と外国文化が共存する空間で生活をしていたとから,「皆が一緒」という空間は,非常に異常な空間であり,いわゆる「リスキー・シフト」にもなりかねないと,そのように受けとめています。

関連するQ&A

  • 「日本が好き」をわかってもらうために

    この質問について: この質問の目的は,日本社会における「マイノリティの問題」にかんする質問です。また,マイノリティ事情を理解するためには,ひとりひとりの個人の経験を理解する必要があるため,わたし自身の「経験」について言及されている部分があります。 質問: どのようなことをすれば,マイノリティも「日本が好き」であり,「日本社会とともに活きている」ことを,マジョリティである「いわゆる純日本人」は理解しますか? 参考までに: マイノリティの社会的包摂の問題について考えたとき,わたしが考えたことは,マイノリティのもつ「日本社会にたいする考え方」をひとつひとつ,マジョリティである「いわゆる純日本人」に「紹介」することでした。とても地道な作業ではありますが,こういったことをとおして,マイノリティの「日本社会にたいする考え方」が理解されれば幸いです。 わたし自身は台湾系日本人であり,「日本のアイデンティティ」を分かちあっています。言葉は少々悪いのですが,いわゆる「半分だけの日本人」ではあるもの,日本にたいしては,日本社会にたいしては,「特別な愛着」をもっています。さらには,「日本のアイデンティティ」を分かちあっていることから,日本教育時代には,日本史を勉強しました。受験のための日本史の勉強ではなく,「日本のアイデンティティを分かちあっている人間として,やらねばならないこと」として,日本史の勉強をしました。 わたし自身はマイノリティという立場ではありますが,日本が好きですし,日本の文化も好きです。マイノリティの人々にとっても,そのあり方や方向性に「違い」がみられたとしても,日本にたいして「特別な思い」をもっていることは,確かなことです。 近年,マイノリティにたいするヘイト・スピーチの問題がさけばれていますが,マイノリティの「ほんとうの姿」を理解してもらいたいために,今回の質問を用意しました。

  • 日本社会の一員であるための「条件」

    ここ数ヶ月のあいだ,マイノリティにたいする「ヘイト・スピーチ」の問題が論じられるようになりました。このような問題の背景には,マイノリティにたいする「無関心」と「無知」が指摘されています。 いまだに日本社会においては,マイノリティを理解する「機会」に恵まれていないことは,当事者にとっては,非常に遺憾なことです。 わたしは台湾系日本人です。ひとりのマイノリティにとって,マイノリティにたいする「無関心」と「無知」の問題は,「真摯な態度で向きあわねばならない問題」であると受けとめています。なぜならば,このような問題のの背景には,マイノリティの「日本理解」と「日本社会への適応」に,何らかの「課題」があるからです。 マイノリティという立場からわたし自身は,マイノリティが日本社会の一員として認められるための「条件」を強く意識するようになりました。 わたし自身は日本語を母語とします。そして,日本教育を受けたことがあります。さらには,日本企業で働いたこともあります。これらの「経験」を「基礎」のひとつとして,わたし自身は日本の文化や習慣を肯定的に受けとめるようにしています。そして,いかなるかたちの「反日感情」については,「毅然とした態度」で向きあうようにしています。また,積極的に日本の歴史を学んでいます。 言語,さらには,文化や歴史にたいする「深い理解」などといった「条件」をクリアすることでわたし自身は,日本社会の一員として認められるだろうと考えています。 上に挙げたことは,あくまでも,わたし自身のケースではありますが,皆さんが考えるところの,日本社会の一員であるための「条件」とは,どのようなものでしょうか?

  • 「同化の強制」VS「多様性の尊重」

    ひとりのマイノリティとして,わたしは日本社会のなかで生活をしています。わたし自身は,さまざまな事情があったものの,日本社会の一員として,日本社会のなかで生活をしています。スポーツにたとえるのならば,いろいろな「努力」をして,それが認められて,ようやく,スタメン,あるいは,レギュラー入りした,ということになるでしょう。 多くの日本社会に活きる人々,とりわけ,マジョリティである,純日本人とされる人々にとっては,現代の日本社会はひとつの大きな「分岐点」にさしかかっていると受けとめていることでしょう。 その主な理由は複数ありますが,「社会の多様化」がその理由のひとつに挙げられます。 「多様化」した現代の日本社会の「将来像」については,さまざまな意見があると思います。このような課題にかんしては,マイノリティ集団にたいする社会的包摂の「あり方」が問われることが少なくありません。 1.マイノリティ集団にたいしては,個人のアイデンティティを尊重すると同時に,ホスト社会への包摂に向けた努力を,社会規模で実践する。 2.マイノリティ集団にたいしては,ホスト社会に「同化」してもらうことを前提とし,ホスト社会に「同化」することを,包摂のための「条件」とする。 これからの日本社会は,「同化の強制」なのでしょうか,あるいは,「多様性の尊重」なのでしょうか? これは,マイノリティ集団にたいする課題だけではなく,これからの日本社会を活きる,すべての人々のための質問になります。

  • マイノリティの問題解決に向けて

    ひとりの台湾系日本人として,わたしは日本社会に存在するマイノリティの「問題」に向きあってきました。 マイノリティの「問題」を解決するにあたり,わたし自身が考えたことは,マイノリティ自身の,うそ,いつわりのない,「ほんとうの心の内」を明かすことが解決法のひとつであると,わたしは考えるようになりました。 「ほんとうの心の内」を明かすことで,マイノリティの人々が「日本人と共に歩みたい」,「日本人と同じ価値観を分かちあっている」,「日本をまもりたい」,「日本の将来のために,何かをしたい」,「日本社会のなかで受けいれられたい」,「日本人から認められたい」などの「特別な気持ち」があることを,多くの人々が理解できるはずです。 「ホンネ」で語ることが,マイノリティの問題解決につながるのでしょうか? 参考までに: わたしは台湾系日本人で,日本教育を受けた経験があり,日本語でコミュニケーションをすることが可能です。 それと同時に,わたしは台湾にたいする「特別な思い」があります。わたしは,「台湾は東アジアに存在する国民国家のひとつ」であると考えています。台湾の将来については,「危惧」することがいくつかありますので,「台湾という国民国家がなくなってほしくない」という「特別な思い」があります。 台湾への「特別な思い」を強調することが多々ありますが,わたしはそれと同時に日系人の歴史に向きあい,日系人との「対話」に取りくんでいます。 歴史を学ぶことは小さい頃から好きなことではありましたが,滞米生活を機に日系人の歴史に向きあうようになりました。 (言葉は悪いのですが)「半分しか日本人でないわたし」が日系人を歴史に向きあったのですが,そこには「もうひとつの理由」がありました。それは,わたしがみずからの「日本のアイデンティティ」に真摯に向きあっていることを,日本人に「証明」したいという「強い気持ち」です。 多くのマイノリティにとっては,日本ににたいする「(良いイメージの)特別な思い」があると,わたしは考えています。それを,マジョリティが理解すること,さらには,マイノリティ側の人々がそれを「説明」することが,いまの日本社会には必要だと思います。 マイノリティだって,「皆と仲良くなりたい」と思っているのです。

  • <マイノリティの利権>という「言説」

    日本社会においては,<マイノリティの利権>という「言説」がありますが,マジョリティである「いわゆる純日本人」にとって,このような「言説」を「高らかに主張」することによって,どのような「メリット」が考えられるのでしょうか? 参考までに: 利権というものは,マイノリティだけの特徴ではありません。マジョリティの側に立つ人々のなかにも,なにかしらの利権から,さまざまな恩恵を受けている人々が多くいます。 わたし自身はマイノリティのひとりとして日本社会のなかで生活をしていますが,生まれてから一度も,<マイノリティの利権>による恩恵を受けたことがありません。ひとりのマイノリティとして,そのような「言説」が,さも事実であるかのように扱われることは,大変遺憾なことです。 <マイノリティの利権>という「言説」の社会的な背景には,マジョリティである「いわゆる純日本人」の「ネタミの心」があると,わたしは考えます。このことを,わたし自身の「経験」をとおして,考えてみることにします。 わたしは台湾系日本人です。そして,親や親族のつながりなど,さまざまな「良い影響」があったので,わたし自身はみずからの台湾との「つながり」を,大切なもの,欠けがえのないものとして受けとめています。 このような事情があって,わたしはたびたび,台湾系日本人,あるいは,台湾につながりをもつ日本人であることを,自己紹介のときなどに「主張」しています。 ところが,このような自己紹介をすることを,快く思わない「いわゆる純日本人」がいました。そういった人々にとっては,わたしがみずからのアイデンティティを「強調」することが,台湾系という,(「いわゆる純日本人」からみれば)特殊なアイデンティティを,「利権のようなもの」として扱っていると,「誤解」したと(あるいは,「曲解」したと),わたしは考えます。言葉をかえると,「ハーフであることが特権のようなものであるという,大きな誤解をした」ということになります。 日本社会という,マイノリティにたいしては「同化の強制」が存在する社会のなかにおいて,みずからのアイデンティティを確立することは,容易なことではありません。わたし自身の場合は,みずからの「日本のアイデンティティ」を第一に尊重したうえで(そうでないと,日本社会のなかで認められない),台湾系であることの「意味」,「意義」,「日本社会に貢献できる要素」を見出すことは,難しい作業でした。 多くの「いわゆる純日本人」にとっては,民族的なバックグラウンドというものは,「手にすることのできない,輝かしいもの」なのかもしれません。「ハーフにたいするあこがれ」というものがありますが,いまだに,そのような「幻想」をもっている「いわゆる純日本人」は少なくありません。 しかしながら,「みにくいアヒルの子」という童話のごとく,民族的なバックグラウンドを当事者が重要なアイデンティティとして受けいれるためには,さまざまな「試練」があることを,「いわゆる純日本人」は理解しなければなりません。

  • 社会的マイノリティーについて

    22の男です。 去年、欅坂46の「サイレントマジョリティ」って流行りましたよね。 この曲を聴いて、「あ、確かにこの世の中って多数派が優勢で、私みたいなマイノリティに属する人間が付け入る隙はないもんな~」と思うようになりました。 私もオタクで非リア充なので、誰にも理解されない時があって、公言したとしても共感してくれる人は0なのでそれがなかなか辛いものです。このままの自分を受け入れようと頑張るも、同類の人間が近くにいないという現実に気圧されてしまう。 思えば、 多数派=強者、絶対的優勢(流行に乗っているパリピー、リア充とか) 少数派=弱者、絶対的不利(オタク、マニア、偏った趣味を持つ人々、非リア充とか) こういった構図になってるので、どうしても劣勢に立たされてしまいますよね。 やっぱり少数派は少数派で細々と社会の激流に飲まれながら生きていくしかないのでしょうか? それとも、ノイジーマイノリティーとなって「マイノリティーも社会に貢献できるんだ!」ってことを主張するべきですか??

  • わたしの「日本の心」はホンモノ!?

    ひとりのマイノリティという立場から,これからの日本社会を活きるマイノリティのために,このような質問文を考えました。 わたしは台湾系日本人(日本国籍保持)であり,いわゆる「外国につながる日本人」です。 親が外国出身ということから,わたしは日本社会のマイノリティの問題に,大きな関心をもっています。 マジョリティである,いわゆる「純日本人」にとっては,マイノリティが日本社会に受けいれられるためには,いわゆる「日本の心」をもつことが重要であるとされます。そのようなことを「強調」する人々は少なくないと思います。 ここでいう「日本の心」とは,日本人を理解することや,日本語を習得すること,さらには,日本の文化や習慣を受けいれることなどを意味すると,わたしは考えます。 では,「日本の心」があれば,マイノリティは日本社会に受けいれられるのでしょうか?

  • ニッポンはマイノリティを「否定」、「黙殺」するのか

    日本人は、日本社会のなかで生を営むマイノリティ集団―たとえば、在日コリアンや在日中国人などの、外国につながりをもつ人々、同和地区につながりをもつ人々、アイヌの人々、ハンセン病患者、エイズ患者、LGBT関係者、障碍者、被爆者、水俣病関係者など―の存在を、どのようなものとして受けとめられているのでしょうか? ・日本社会の構成員であり、彼ら、彼女らにたいする差別や偏見を許してはならない。 ・日本社会の構成員ではあるが、社会の「表舞台」には立ってほしくない存在である。 ・日本社会の構成員ではあるが、彼ら、彼女らのアイデンティティについては、認めたくない、あるいは、共感できない部分が存在する。 ・日本社会の構成員として認めたくない。できれば、彼ら、彼女らの存在は「否定」、あるいは、「黙殺」したい。 先日の、ある地方公共団体の市会議員による、日本社会における先住民族の存在を「否定」することを意図した発言が、現在も大きな議論をよんでいます。当人の真意は、社会福祉政策による恩恵を必要としている人々がかかえる諸問題を提起したかったことでした。しかしながら、当人の先住民族やマイノリティ集団にたいする基本的な知識、認識が著しく欠如していたことから、多くの人々は彼の発言を問題発言として受けとめ、「舌禍事件」へと発展しました。 社会福祉政策がかかえる諸問題について論じたいのであれば、わざわざ先住民族の「存在」について触れ、それを強調する必要はあったのでしょうか。先住民族が直面している問題をふくめて、日本社会においては、マイノリティ集団にたいする批判のなかには、日本社会の「構造」がマイノリティ集団に悪影響をもたらしたといった見方ではなく、マイノリティ集団みずからの「精神的な問題」であるという指摘が少なくありません。こういった問題が論じられるたびに、「個人の問題」―たとえば、差別や偏見の問題であれば、差別や偏見をする人々や、それを受けとめる人々の「心の問題」であることが強調されるように―であることが「強調」されます。 わたし自身、外国につながりをもつ立場で日本社会のなかで生を営んでいます。この市会議員の「問題発言」は、わたしにとっては、極めて衝撃的なものでした。彼自身のマイノリティ集団にたいする浅はかな知識、理解の程度のみならず、彼が世間に向けて発信した「メッセージ」の裏側で、彼自身の「真意」に、先住民族の存在を認めたくないという<強い考え>があることを読みとったとき、心の底から怒りがこみあげてきました。こういった存在を知るたびに、わたしは、わたしのような外国につながりをもつ人々は、日本の市民権を持っていても、決して日本社会では歓迎されない存在であることを悟るのです。

  • マイノリティは脅威!?

    ・マイノリティは脅威であるという「根拠」はどこにありますか? 外国に「つながり」をもつ立場として、ここ最近の日本社会における排外主義の高まりに危機感をいだいています。 排外主義を標榜する市民団体のなかには、活動の第一の目的に、「純日本人」以外の日本人を日本社会から「排除」することを挙げている組織があります。こういった組織に属する人々は、日本社会においては少数派ではありますが、そういった人々の存在、組織の存在は、外国に「つながり」をもつ立場としては、非常に恐ろしいものです。 わたし自身は外国に「つながり」はもっているものの、日本の歴史や、日本の文化を学び、「知日」、「愛日」という立場をまもっています。日本社会にたいしては、やや批判的ではありますが、批判をする以上に、日本社会を深く理解している立場です。 外国に「つながり」をもつ人々をふくめた、マイノリティの人々は、いまの日本社会にとって「不都合な存在」なのでしょうか? すでに外国に「つながり」をもつ日本人の多くが、社会人となり、日本社会に「貢献」しています。彼ら彼女らは、日本社会の脅威なのでしょうか? いくら外国に「つながり」をもつ人々が<努力>をしたとしても、日本社会が外国に「つながり」をもつ人々にたいする<まなざし>を改めない限り、彼ら彼女らにたいする偏見や誤解は解けないだろうと思うときがあります。

  • マイノリティ集団の「連携」

    マイノリティ集団の「連携」は、社会にたいする「脅威」になりうるのか? 外国につながりをもつ人々、障碍をもつ人々、ハンセン病の関係者、アイヌの人々、LBGTの関係者や支持者、さらには、同和地区につながりをもつ人々など、さまざまなマイノリティ集団が「連携」することは、日本社会のみならず、マジョリティの日本人にとっては、「脅威」になりうるのでしょうか。 日本社会においては、1980年代の後半より、同和地区につながりをもつ人々がリーダーシップをにない、反差別国際運動という非政府組織を立ちあげましたが、このような動きを、日本社会にたいする「脅威」として、あなたは受けとめますか。