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人間に上下はありますか?

学生時代はスクールカーストなどで人間に上下を作っていました。 大人になってもあるのでしょうか?(上司、部下などの役割を除く) よく親が口癖のように”社会には程度の低いものがいる”といっていました。 本当でしょうか? 人間の価値に上下があるのでしょうか? 宗教的にいうと、悟るものと悟らないもの、天国へ行くもの地獄へ落ちるものと上下?にわかれそうですが・・・ それでも神仏からみれば、自分の事しか考えてない愚か者でも、かわいい存在なのだと思いました。 うちの親の価値観こそ程度が低いような気がしてきました。 皆さんはどうお考えですか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.15

ご質問者様こんばんは。 人間は価値を比べる生き物ですね(^^;; 僕は、ご質問者様のお考えは正しいと思います。親御さんの口癖に違和感をお持ちになったことは、ご自身が求める正しさを学ぶ為の原動力になりましたね。 それでは、人間があらゆるものを「比較する」と言うことに一体どんな意味があるのでしょうか。 植物、昆虫、生物。あらゆる生き物はそれぞれ面白い、特長のある生き方をしています。 全ての生命に宿るそれぞれの特長はどれも抜きん出ていて、比較してどちらが優れているのかを比べようもありません。しかし、あえてそれぞれの生命の特長を洗い出し、比較をすることで「違い」の発見の中から、共通の「繋がり」を見つけ出すことが出来るのです。 例えば、バクテリアと人間を比較すれば、単純な生物と複雑な生物という大きな違いがあるにも関わらず、生命を維持するのに糖をエネルギーに変える仕組みは、共通であったりするのです。比較することは、全然関係の無いものとものの繋がりを明らかにすることでもあるのです。 そうやって違いが見えて来ると、違いの意味も見えて来るようになります。一番はじめに見えてくることは、全ての生き物は生命を持つと言う意味では共通の、同じものだということですね。しかし、個々の生物が脈々と積み重ね、引き継がれて来た生命の歴史は微妙に、そして大きく異なっているのです。 それは人間にも言えることですね。人間としてはどの人間も同じですが、個々の、一人一人の生命の歴史を調べれば、誰一人として同じ歴史を持つ人間は居ませんね。一つ一つの生命には全く違う、その生命固有の特長や物語が必ずある。これは、植物や昆虫や生物、全てに当てはまるものです。 そして人間が、世界をそのような視点で見ることが出来れば、きっとこのように気が付くはずです。「地球に存在する全ての生命は繋がっていて関連があるが、全ての生命は一つ一つ違う特長や、唯一性を持っている。そして生命は、地球の環境、もっと言えば広大な宇宙が及ぼす壮大な環境に大きく依存している。宇宙そのものの環境と、私たち生命の継続の向かうところは一つであり、それは離れて行くどころか、全く隔たりが無く繋がっている」と。 そう思うことが出来ると、あらゆる現象の中に宇宙の現象を見るようになるでしょう。一人一人の人間の中にも宇宙が宿り、小さなお花や昆虫の中にも、グロテスクな生き物の中にも、唯一無二の宇宙が存在し、そして宇宙の運命と全てのものとが繋がり、宇宙の留まることのない活動や広がりと同じように、生命の可能性や活動、そして生息範囲の拡大は無限に続くものであると感じることが出来るのではないかと思います。 宇宙や自然を「神」と考えても良いですね。人間はどうしても罪へ向かってしまうものですが、罪を犯そうと、飢えて死んで行こうと、幸せに暮らそうと、どんなちっぽけな生命にも必ず神や神秘性がしっかりと宿っているのだと僕は思います。大きな罪を犯した者は、それだけ反省出来る、または、自分の生命を清められる可能性が増したとも考えることが出来ますね。 人間が求める価値とは、続いて行くことです。そのことだけが生命の最大の関心事であり希望です。そして生きることは、生命に宿る可能性を拡大して行く営みなのです。 人間は、上下左右あらゆる方向に向けて比較を行います。そして、あらゆる方向に対して繋がりを感じ取らなければならないのです。比較をすることで、他の生命との繋がりを沢山発見して下さい。生命に対し、無関心になったり、見下したり、無視をすることは、繋がりを否定することであり、自分自身を否定することに繋がってしまいますね。 長文になってしまいましたね(^^;; ご参考になれたら幸いです。

nerostandard
質問者

お礼

ありがとうございます!!! とても勉強になりました!

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その他の回答 (14)

noname#249334
noname#249334
回答No.14

口に出しては言わないでしょうが、実際は存在するでしょうね。 社会が社会たりうるには、ある程度共通の価値観を共有する必要があるため、その価値観の範疇で当然上下は存在すると思いますし、存在してしかるべきだと思います。 宗教にしても、例えば大乗仏教は数人のエリートが修行することによってその他全員を救おうというスタンスですが、この場合全員が天国に準ずる所にいくことになって、質問者さんの例には反するかもしれません。

nerostandard
質問者

お礼

ありがとうございます。 仏教はよくわかりませんが・・・

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  • troml
  • ベストアンサー率17% (561/3167)
回答No.13

No.7です。 悪い行いをする人に温かくすれば、悪人が減って、社会は良くなるんじゃないかって考え方、いいんじゃないかと思います。そういう考え方をする人の存在が、未来への希望ですよね。 ただ、悪いことをする人がいれば、被害に遭って苦しむ人がいるわけですが、悪人に温かくするということは、何も悪いことをしていないのに、悪人のせいで酷い目に遭った人を踏みつけにすることでもあるので、悪いことをして責任もとらない人に、むやみに優しくするのは、違うんじゃないかなと私は思います。 それと、誰の対しても同じに接するんじゃ、人間味のないロボットになっちゃうでしょ?誰にでも同じに優しい人に優しくされるのは、当たり前のことで、優しくされても誰も喜びません。誰にでも優しくするわけじゃない人に優しくされるから、心に響いたりするんですよね。

nerostandard
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 私の周囲では悪い行いをした人でも温かく迎え入れられていると思います。 誰も悪い行いをしたということを知らないのかも知れません。 酷い目に逢った人を踏みつけにはならないのじゃないかなぁ・・・ 私としては、むしろ酷い目に逢った人を癒すには悪人が改心することだと思っています。 誰にでも優しい人に優しくされるのは私としてはとても嬉しいです。誰にでも優しくするわけじゃない人に優しくされても?と思い警戒してしまいます。 私は悪人?って書きました。別に犯罪者のことを差してるわけではないという意味で。(私にとっては人間=悪人?です(笑)) tromlさんは法を犯した悪人に事をおっしゃっているのですよね。 でしたら私も罪を償ってほしいと思います。

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  • rewon
  • ベストアンサー率28% (46/163)
回答No.12

人間の価値に上下はありますよ。 物差しの数だけ、ね。 人種、国家、時代、性別、法律、道徳…大きな物差しだけでもたくさんありますね。 社会人として計られがちな物差しは、仕事系とコミュニケーション系と性格系でしょうか。 より早く、より正確に、より良い結果、より丁寧、より素直、より元気、より聡く… ただし、自分の持っている物差しが全てではないし、正しいわけでもないことを 常に忘れずにいたいものです。

nerostandard
質問者

お礼

ありがとうございます。 所詮は物差しなんですよね。

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回答No.11

>うちの親の価値観こそ程度が低いような気がしてきました。  ほら、質問者さん自身が親御さんを「程度が低い」としているではないですか。上下ってのは人が作るものです。それを疑問に思っている人ですら油断するとやってしまう。逆に言うなら基準のとりようでどうにでもなるということですが。

nerostandard
質問者

お礼

ありがとうございます。 親を程度が低いっていってもそれはもののたとえです;; 育ててくれた親を見下してなんていませんから。 親の一面が「程度が低い」ですね。 はい油断は禁物ですよね・・・。

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  • ni_si_ki
  • ベストアンサー率19% (302/1586)
回答No.10

本当は何歳なの?と思わせるほど奥行きを感じさせる人がいます。 彼らは物事を俯瞰するように大局的に捉えていて、それでいて決して上から目線でないんです。 謙虚だし親切です。 彼らと自分を比べると間違いなく私は劣っています。 人間性において高低はあると思います。

nerostandard
質問者

お礼

なるほどです。 ありがとうございます。 人間性においてはあるのですね。

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回答No.9

>悪い行いをする人に優しくすれば社会は良くなり、悪人が減る。 素晴らしい感性ですね。ちょっと感動しました。 >社会には程度が低い人がいると言ってました。 >本当でしょうか? 正確には程度が低いと感じる事がある、でしょうね。人は人の全ての面を見ている訳では無いので、ある一面を見て「程度が低い奴だなあ。」と感じるんですね。 >人の価値に上下はあるんでしょうか? もともと上下があるのでは無く、社会的個人的価値観や損得感情などによって上下を決めてしまってる気がしますね。 >天国に行く者と地獄に行く者と別れる。 自分は地獄行きかも?と考えるのはいいですが、他人に対して「アイツは地獄行きだ。」などと言うべきでは無いと思っています。 >神仏から見れば愚かな可愛い存在。 本当に素晴らしい感性ですね。その通りだと思います。 仏様の光はどんな人にも平等に当たります。 絶対的な平等心は仏様にしか無いと言ってもいいでしょうね。 例えば、海で沢山の人が溺れているとして、自分の家族から助けるとか、幼い子供から救うとかが人間的な基準ですが、仏様は近くにいる人から助ける。 その人がどんな人かは関係無いんですね。ただ近くの人から助ける、これが平等心ですね。 >うちの親の価値観こそ程度が低い気がしてきました。 僕も自分の親をそう感じる時がありました。ただやっぱりそれはあくまで親の一面でしかないんですね。

nerostandard
質問者

お礼

ありがとうございます。 一面でしかないのですね。 大事な事に気づきました。 感謝です。

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  • vansancan
  • ベストアンサー率23% (341/1422)
回答No.8

人間の価値に上下はないとは言い切れません。 命の重さは誰でも一緒であったとしても、 残念ながら、人間が人間を見た時、 上・同等・下が存在するようです。 神仏から見れば愚か者でも。。とおっしゃいますが、 神仏は上からながめるだけで、賢者でも、愚者でも、放っておきます。 ただ、眺めるだけです。 それでも神仏が人を愛することがたまにあるみたいですけど、 その愛されちゃった人は早くに天に召されるようです。 私も若い時は、人間に上下はないと思っていましたが、 仕事もでき、頭もよく、性格もよく、思慮深く、自分の感情もコントロールでき、 尊敬できるような人に出会ってしまうと、 『この人には敵わない。』と思ってしまうんです。 明らかに自分より上の人を見てしまうと、 人間に上下ってあるんだと知ります。 そして大切なのは、人を上下で見比べる事ではなく、 自らを少しでも向上させるべく精進して生きる事なのかもしれません。

nerostandard
質問者

お礼

ありがとうございます。 >そして大切なのは、人を上下で見比べる事ではなく、 自らを少しでも向上させるべく精進して生きる事なのかもしれません。 大切ですよね。

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  • troml
  • ベストアンサー率17% (561/3167)
回答No.7

この人は程度が高いとか低いとか、そういう言い方をすれば、差別的で良くない感じがしますが、素晴らしい行いをする人を大事にし、悪い行いをする人に冷たくするのは、社会を良くする上で必要なことなんじゃないでしょうか。 人一倍努力して、偉業を成し遂げ、社会にも多大な貢献をしている人と、怠惰で邪悪で社会の迷惑でしかない人を同等に扱うのは、人の努力や功績を評価しないということで、そんなのは平等ではないですから。

nerostandard
質問者

お礼

ありがとうございます。 でも素晴らしい行いを行う人は自然によい待遇を受けますすし、人気ですから、悪い行いを行う人たちに温かくすれば社会は逆によくなりませんか? 悪人?が減るのではと思いました。

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  • fujkn
  • ベストアンサー率52% (19/36)
回答No.6

“社会には程度の低いものがいる”の“程度”の内容なり定義が問題だと思います。  程度とは一般には、あたま、知能、学力、学歴、家柄、教養、見識、常識、行状、する事なす事、・・・いろいろ考えられますので、一度、親御さんに御真意を尋ねてみていただいてはいかがでしょうか。  私も“あの人は程度が低すぎる”と感じることがよくあります。  本来、他人のことをあれこれ気にする必要はないはずですが、「人として、程度が低い」あるいは「社会人として、程度が低い」と感じた場合、社会の共生が脅かされますので、一番、腹が立ちますね。  「相手の心を深く傷つける、たとえば約束を平気で破るようなことをしても、口先で詫びれば帳消しにしてもらえる」とか「物やお金で弁償すれば済む」と軽く考えているような者は人として最低。獣にも劣る。信用できない人。だと思います。  「高学歴なのに、社会人として程度が低い」人が一番始末の悪い人間として軽蔑されます。  私の感覚では、“社会には程度の低いものがいる”は、“社会人として程度の低いものがいる”あるいは、“人間として程度の低いものがいる”がいちばん厄介な困り者だと思います。  親御さんはどのように思っていらっしゃるのでしょうか?  してよいかどうか?のような善悪の判断が自分で出来ない人間も程度が低い類に入ると思います。  たとえば、宗教者の判断に頼るというのも程度が低いと人であると思います。  赤の他人である宗教者が正しく判断できるはずがないのです。  当然、自分のことは、自分が教祖の立場にたって判断すべきものでしょう。  何かにつけて法的判断に頼る人は、違法でさえなければ勝手に何をやってもかまわないと考えがちです。しかし、「違法ではない」であっても「合法」でなければ、社会生活では多くの軋轢を生じます。  社会生活を営んで行く上で必要な普通の判断力さえ備えていれば、人間としての上下・貴賤はないと思います。普通の人ならどんな人にも、尊敬できる優れた長所があります。

nerostandard
質問者

お礼

ありがとうございます。 今、親とは話せませんが、たぶん「人として、程度が低い」あるいは「社会人として、程度が低い」ことだと思います。

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noname#183245
noname#183245
回答No.5

派閥とか。 お局さんとか。 地位に限らない、上下関係はあります。 で、ぼくはどう思ってるかって? くだらねぇ。 以上です。(笑)

nerostandard
質問者

お礼

ありがとうございます。

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