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大岡政談で有名な、江戸南町奉行の大岡「越前守」につ

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.9

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 少々、間違って回答が寄せられているようですので・・・(_0_); >>1.まず、名前の「忠相」はどこへつながるのですか?江戸南町奉行大岡越前守「忠相」というのですか?江戸南町奉行大岡「忠相」越前守というのですか? 正式には、大岡越前守忠相・・・と呼ばれました。 町奉行は、江戸の街の「司法」、「警察」、「民政」の全般に渡る役職で、 現代で言えば、「東京都知事」 兼 「地方裁判所長」 兼 「警視総監」 兼 「東京駅長」 の権限がありました。 将軍は、もちろん江戸の街の行政も担いましたが、全国を掌握していましたので、 現代で言えば・・・「総理大臣」に当たります。 江戸の街の実質的な権限は「町奉行」が全て持っていました。 >>2、「越前守」は、官位というのですね。実質的な役目(権限とか義務)はあったのですか? >>3、「越前守」は、幕府が大岡に与えるのですか?、あるいは大岡が、自分で手に入れるものですか? 武家の官爵(かんしゃく=官位)は、家康が「公武諸法度」の中で、 「武家の補佐は当官の外たるべし」 と、定めてあり、 要は、 「武家の官位は、朝廷から与えられる官位とは別物で、名義(飾り)だけのものですよ」 と言っているのです。 従って、美濃守が伊勢国の大名だったり、播磨守などは7人もいました。 美濃は上等な国であったため、栄誉のために与えられたものです。 ですから、大岡越前守も越前国とは全く関係がありませんので、越前国の「県知事」などではありません。 後に、3,000石以上の者は「○○守」を名乗ることができ、希望の国名を上申すれば、大概の場合許可されました。 大岡越前守は、1,500石位の旗本でした。しかし、幕府の権力者(老中など)と親しくしていたため、町奉行に抜擢されました。 そして、奉行の石高は3,000石ですので、「○○守」を名乗る要件が整ったため、「越前守」と名乗ることを許されたのです。 ただし、奉行の役務手当が3,000石ですが、大岡はすでに1,500石取りの旗本でしたので、1,500石 + 3,000石ではなく、1,500石 + 1,500石 = 3,000石で、3,000石に足りない分だけを追加されました。これを「足高」(たしだか)と言いました。 >>4、江戸南町奉行大岡越前守忠相を現代語風に訳すと、東京都南方面警視総監大岡福井県知事忠相になると思います。江戸時代の人は、東京都南方面警視総監と福井県知事とが、並んでいても、違和感がなかったのですか? これは、前述の通り、越前国とは全く関係はありません。福井県知事などではありません。 (よもやま話) (1)町奉行所の歴史 町奉行は、古くは室町時代まで遡ると言われています。また、「徳川実記」などでは、三河で松平氏を名乗っていた頃から、すでに、町奉行の職務が定められていました。しかし、当時は、在所の決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。江戸幕府が開幕されても、家康、秀忠のじだいまでは、その形式が続いていました。 しかし、3代将軍家光になって、寛永8年(1631)に、加賀爪民部少輔忠澄を北町奉行に、堀民部少輔直之を南町奉行に任命し、北は常盤橋門内に南は呉服橋門内に、正式に奉行所を造ったのが始まりとされています。そして、与力50騎(北25騎、南25騎)、同心120人(北60人、南60人)を配しました。 なお、与力に任じられたのは、関ヶ原の戦いで「足軽大将」を務めた者の中から選び出されました。 また、同心は「足軽」を務めた者が選び出されました。 (2)大岡越前守が有名になったわけ 享保十六年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。 (3)奉行所が三つ? すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄十五年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保四年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。 (4)南北奉行所・・・どっちが偉い? 南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。 (5)割合平穏 与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」(ふじょうやくにん)と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。 (6)与力、同心の数 両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。

park123
質問者

お礼

詳細な回答ありがとうございます。 小説家らしく、読者の興味を引っ張るような面白い説明と読みました。 1、了解しました。 2、家康がはっきりと <名義(飾り)だけのものですよ> と言っているのですか。 3、<希望の国名を上申すれば> ですか。強い力士を抱えているように、良い名前の国名は、周囲から一目おかれたのでしょうね。 4、飾りだから、違和感なんてなかったのですね。 よもやま話では、大岡は異例の吟味のやり直しをし、これを庶民が喝采し、現代でも人気が高いのですね。

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