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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世界観において 二元論と言ったら・・・)

二元論とは何か?

amenhotep2000の回答

回答No.16

なんとか食らいついていこうと四苦八苦していております。ハイレベルな議論にほとんど理解できていないので、回答と言うより、質問ですが、ぶらじゅろんぬさんの「非思考の庭」というのには、人が意識できるものなのでしょうか?私はNo.12のお礼を理解するために、志向性とは何かと調べて、ネットで意識はなにものかの意識であるという意味もわからず、「意識」というものを本で調べてみました。すると「すべての定義は意識が行なうので、意識の定義はない」が「現代では現象学以後、意識の基本構造を志向性として捉えることが定着したようである。すなわち意識はその対象との関係における方向性であるとされる」とありました。No.12のお礼で求心的志向性、遠心的志向性の両方を含む「非思考の庭」の神を人は意識できるのでしょうか?カントは人間の意識が構成できる対象範囲を経験可能なものの領域に限定して人間に取っての世界(現象界)だけしか、認識できないとしたようですが、ぶらじゅろんぬさんの世界観はどのようなものなのかご教授くださると幸いです。じねんさんのお薦めの哲学入門書の「現象学」も読まないと回答にもなりません。すみませんが、よろしくお願いいたします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  出来る限り説明してまいります。  ★ ぶらじゅろんぬさんの「非思考の庭」というのには、人が意識できるものなのでしょうか?  ☆ 《非思考の庭》とは わが心に出来た或る種の窓ととらえてください。  窓を開けて外を見ると言っても その内と外というようには出来ていないはずですが 《志向性》という言葉も出て来たようですので     心の伸び あるいは 心の明け  と捉えてください。それが 《非思考の庭が わが心に成る》という意味です。  つまりは 或る日或る時 ナゾの何ものか――神としましょう――がわが心の窓をノックする。このノックに応えて そのおとづれを受け容れる。このとき 非思考の庭が成ります。  《神なるナゾの何ものか》 これは 意識することが出来ません。思考によっても認識出来ません。わづかに ノックするというかのようなまぼろしを知覚する。のみです。  ただし しかも このまぼろしの知覚を受け留めて さらにこのおとづれを《わたし》は受け容れることが起こる。(こばむことも 自由ですが)。そのときには 相手がまぼろしであるにもかかわらず この《受け容れ》というコトは 《わたし》が意識しており ワタシの意志によっておこなう行為である。という見取り図になっています。  《非思考の庭が わが心に成った》なら どういうことが起きるのか?  問題は わが心が《明け》の状態にある。つまりは はっきりしていることは 《閉じられていない》ということです。これが いわゆる信仰です。信仰という動態です。《ナゾの何ものかを受け容れる》というのが 《信じる》という行為です。  ナゾの何ものかは 非経験の場でありそのチカラです。いっさい分かりません。分かるか分からないかが分かりません。  これを受け容れるというのは 経験的なわが意志行為です。行為そのものは 意識されており 認識もされています。  こういう仕組みになっていると考えます。  《意識》というのは 世界のすべてを知覚し認識したそのものごとと《わたし》との関係です。  意識していない場合にも そのものごととワタシは関係を持っており それは記憶の倉庫におさめられています。  《求心的な志向性》というのは ワタシの内面へ内面へと迫っていくときの意識のウゴキです。反対が 遠心的な志向性です。  このような志向性は 厳密には 《非思考の庭》においてなされるものではありません。それは 記憶行為のほかに生まれつきそなわった《知解》という行為能力によって成されます。  つまり おっしゃるように  ★ カントは人間の意識が構成できる対象範囲を経験可能なものの領域に限定して人間に取っての世界(現象界)だけしか、認識できないとしたようですが  ☆ ということであるはずです。  そのように記憶の倉庫から必要な知識や情報を探し出すという知解行為は そうしようとする《意志》によってみちびかれています。  かくして 記憶と知解と意志 これら三つが われわれ人間にそなわった自然本性の行為能力だと見られます。    こんなところでしょうか。

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