• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世界観において 二元論と言ったら・・・)

二元論とは何か?

amenhotep2000の回答

回答No.12

bragelonneさんとじねんさんのハイレベルの思考にどこまで、ついていけてるかわかりませんが、回答してみます。考えを変えてみました。またイメージを図で考えますので、文章で書くにあたり不備があったら、bragelonneさんよろしくお願いいたします。bragelonneさん今回の投稿に「他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶ」とありましたので、宗教的には「神様」や「仏様」という超越したものの認識とします。これを「紙」と考えてください(全体的には一元)。しかし、じねんさんの言うように、この「紙」は境界はあるようでないものとします。この紙を認識する場合の思考方法として、一つは私が先に提示したように、善悪など対象を作り円を2つ書いて(先はデカルト的に完全なものとして円としましたが、この考えは捨てます。)外へ外へと思考するやり方、つまり2つの円を包括する更に大きな円を作る「有」の思考方法ですが、この方法では、最大に大きな円が真理としても、さらに対立する円を考えてしまえばきりがありません。そのような意味で「他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶ」なら、現在の人間により認識できていると仮定する円の内と外である「紙」に真理があるとする。この思考方法がこの世の世界観における2元論。もう一つは、円(現在最大に認識して物事に執着している煩悩の塊の自己でもいいですが)内へ内へと円をどんどん小さくしていく思考方法。最後は点もなくなり「無」になることで紙と一体になるという思考方法が一元論。現在の自分に出来うる限りの理屈をこねて見ましたが、屁理屈かもしれません。もう少し本を読み学んでみます。ご検討くださると幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 あめんほてぷさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  この質問は じつは 何を隠そう じねんさんとのやり取りから出て来ています。  (α) 【Q:空仏一如!?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7730857.html  じねんさんのご回答は No.4&6&9です。そこでどうも《二元論》という用語の用い方がちがうのではないかと思ったものですから このようにあらたな質問として立てたものです。  そして今回あめんほてぷさんが提出された《円から外へ向かう志向性と内へ向かう志向性》とでも言えるような例示は じつは すでに じねんさんもそのご文章の中に記しているようでその箇所を紹介してもらっています。回答No.11に掲げられた画像がそれですね。  質問者のわたしとしましては 直前(No.11)のご回答へのお礼欄でのご返答にて かなり問題は整理されたと思っています。解決になっていないとしても 問題の整理は出来たと思っています。つまりそれは 広義の元と狭義の元とに分けてこれらを使い分けすればよい。これです。  ですが あめんほてぷさんのご見解との兼ね合いにおいても あらためてこの・特には《狭義の元》の用法のあり方をめぐって 考えてみておきたいと思いました。      *  (1) まづ ことは じねんさんの次のような世界観の一端をどのように受け取り哲学としてどう取り扱うか ここから出発します。  ◆〔じねんさん (α)への回答No.4〕 ~~~~  この「生死を超えない魂の同一・非同一性」(個)と「生死を超えた【魂】の同一・非同一性」(全体・総体)における、「魂」と【魂】という概念は、「多義図形としてのだまし絵」の一形態ないしメビウスの輪であることに気づく。  なぜならば、それらは表裏一体であり、分派・吸収という過程にて連続して変化する概念の母体(イデア的存在)と派生する(様々に異なる)個体という関係になっているからである。    具体的には、生者ないし個を主体に見る側から見れば「生死を超えない魂の同一・非同一性」が見え、死者ないし全体・総体(というより時間を超越した概念)から見れば「生死を超えた【魂】の同一・非同一性」が姿を現すという図式である。  ~~~~~~~~~~~~~  (2) すなわち次のように図式化し得ましょう。  つまり 《生死》というのは 時空間としてけっきょく世界ないし宇宙ということだと見られます。  そして ここでは 《おのれ》と《おのれ以外》とのあいだに取り敢えず《境界》があると前提されています。  ( a ) 求心的な志向性としてある《わたし》   ◆(じねんさん) 「魂」:「生死を超えない魂の同一・非同一性」(個)   ☆(ぶらじゅろんぬ) 単純に言えば 《わたし》の内向きの自己認識   ★(あめんほてぷさん) ~~~~~~~~~     円(現在最大に認識して物事に執着している煩悩の塊の自己でもいいですが)      内へ内へと円をどんどん小さくしていく思考方法。     最後は点もなくなり「無」になることで神と一体になるという思考方法が一元論    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ( b ) 遠心的な志向性としてある《わたし》   ◆(じ) 【魂】:「生死を超えた【魂】の同一・非同一性」(全体・総体)   ☆(ぶ) 《わたし》の外向きの世界認識   ★(あ) ~~~~~     「他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶ」なら、現在の人間により認識できていると仮定する円の内と外である「神」に真理があるとする。     この思考方法がこの世の世界観における2元論。    ~~~~~~  (3) ここで 質問者が言おうとしていることは まったく単純に( a )と( b )とを総合する見方に立とう。これです。それが 広義の元としての一元論であるという意味です。  (4) あめんほてぷさんの( b )の定義においてその《二元論》は けっきょく たとえ円がひとつであってもその《内と外》を捉えているかぎりで 狭義の元としての二元論です。つまり広義の元としての二元論ではありません。  しかも同じあめんほてぷさんの( a )の《一元論》も じつは ほかに円が存在するという限りで 狭義の元を捉えたものだと言えそうです。    (5) つまりは じねんさんの見解としても まづ( a )( b )を総合する見方に向かっています。そのウゴキを確認することは出来ます。  ◆ それら〔* ( b )=『魂』と ( a )=「魂」〕は表裏一体であり、分派・吸収という過程にて連続して変化する概念の母体(イデア的存在)と派生する(様々に異なる)個体という関係になっているからである。  (6) つまりは ここで元を問題にするなら ( a )も( b )もそれぞれ明らかに狭義の元です。まづ  ◆ ( a ):派生する(様々に異なる)個体  ☆ は 狭義の元でしかない。  (7) そして ( b )=『魂』は 広義の元であるように見えるかも知れません。ですが おそらくそうではないでしょう。  ◆ ( b ):分派・吸収という過程にて連続して変化する概念の母体(イデア的存在)  ☆ という定義によるからには これは あくまで《経験思考》の範囲におさまる概念です。  いくら《イデア的存在》が この経験世界を超えていると仮りに言ったとしても 人間の思考や想像の産物であるに過ぎません。この限りにおいて ( a )の個々の《わたし》を総合しているようでいて まだその思考作業に《依存》しています。想像力の内側において成り立っている概念です イデアは。  (8) つまりは 広義の元は《他に依存せず独立して存在する》と言う定義にもとづこうとするからには 《イデア的存在》としての( b )=『魂』も 求める元ではありません。  総合する広義の元は ( a )そして( b )をも総合するところの神なら神です。  (9) そして もはやこのように規定した神は 人間の思考を超えています。《非思考》として成るものです。言わば《非思考の庭》が わが心に成るといったかたちです。  ブラフマン神ならブラフマン あるいはそれと一体なる我れとしてのアートマン(霊我)ならアートマン これらは すでに《霊》なのです。神の霊なのです。あるいは 仏性です。  つまり 雲をつかむような話として想定されている。ただそれだけの概念として――仮りの概念として―― 人間が持つにいたったものです。  (10) という最広義の元を大前提に据えておいてあるなら あとは いくらでも自由に狭義の元を 使おうと思うのなら使えばよい。こうなります。  (11) (2)の図解における次の規定では おそらくわが心における《非思考の庭》を突き抜けて《最広義の元》に到ろうとする志向性が見て取れるとは受け取っておかねばならないでしょう。   ( a ) 求心的な志向性としてある《わたし》    ★(あめんほてぷさん) ~~~~~~~~~     円(現在最大に認識して物事に執着している煩悩の塊の自己でもいいですが)      内へ内へと円をどんどん小さくしていく思考方法。     最後は点もなくなり「無」になることで神と一体になるという思考方法が一元論    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (12) すなわち 《最後は点もなくなり「無」になることで神と一体になる》というところに 何とかして《非思考の庭》がおのが心に成るという地点を見ようとしている。  言いかえると その志向性は じつは 《思考方法》ではないわけです。初めはそうであったかも知れなくても どこかの一点で それでは済まないという地点にさしかかっているはずです。  どこか一点において《思考》を超えるということでなくてはならない。《非思考の庭》として成り立つのでなければ 最広義の元にはならない。  こう考えますが いかがでしょう?

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