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悟り

『悟り』というものは、 本当に存在するのでしょうか? 『瞑想をする』 『自分の感情を観察する』 『自分の思考を観察する』 という事を普段行っているのですが、 いまだに確信が持てません。 どんなに努力や我慢をしようと、 その努力や我慢をしているのは『自分』です。 その『自分』が無くならない限り、『悟り』は訪れません。 という意見も聞きます。 『自分』の力では、『悟り』は開けないのでしょうか? もっと良いやり方が、存在するのでしょうか? 皆様の意見を聞かせて下さい。 よろしくお願いします。

noname#164825
noname#164825

みんなの回答

回答No.28

貴方が真摯に人生を見つめて、貴方の人生に向き合っている事が分かります。その場合一番手っ取り早い方法は、仏教の極意を求めていてなおかつ手に出来ない理由を、求める事が大事です。仏教の極意は『生死の問題の解決です』この事実を我が物にしたいと言う貴方の態度は、真に、見るべきものが在ると言えます。 仏教の極意をものにする方法は、三つの方向が有ります。一つは『知』です。是は知識からです。この場合には並外れた『頭脳』が要求されます。哲学から人生の極意をものにするほどの頭脳と考えられます。 もう一つは『情』です。是は湧き上がる感情の流れから、『至る事』です。もうどうしようもなくなる場合です、もうどうしようもなくなって『全てを諦める場合です』大抵の場合は『死ぬ瞬間』に至っています。死を間じかにした場合には大抵の場合に『全てが判ると推察出来ます』本当に『自分が死ぬ事になると思う場合』分かるはずです。この体験は『他力宗』による体験と思います。是はむしろ『知識が無いほうが、至りやすいと推察出来ます。畳の上で死にたいと言う場合には『死ぬ瞬間には、悟りが開けて、死を安らかに受け入れて』死んでゆく事が推察出来ます。笑いながら死んでゆく場合です。或いはこの体験後に『笑いながら生きる事を体験できます。』 もう一つは、貴方と同じ『自力』です。是は『意識』の力です。『意識する事』から入る事です。この場合には『人間の知識や計らい』が如何に無力であるかを知るところから入ってゆく事を意味します。この意味するところは『学ぶ事は出来ない事』を了解する事です。この場合のテキストが『禅問答』です。禅問答は『左脳の意識=自我意識』では解くことが出来ないように工夫されています。 此処から入るには『不断の努力が必要です』悟りたいと常に意識する事です。ですが『意識し続ける事は出来ません』出来なくともする事が肝要です。 悟りを開く瞬間は、『意識が無いところからです』この意味は、人間の意識は『意識する自分=左脳の自我意識』と『右脳の意識=無意識の意識』は、『絶えず相談しながら、心(意識)の交代性が出来ている事』を意味しています。 絶えず『どちらの意識』の出番が、『今』のこの瞬間に必要かを『相談しながら人生が成り立っている事を意味します』 悩みと苦悩する事と疑問には同じ意味があります。或いは心を病む事と神経症になると云う事と自律神経失調症にも共通点が有ります。全てが『心の矛盾』を別な形で『心=自我意識』が感じていると言う意味においてです。 心の矛盾とは、右脳の意識と左脳の意識の矛盾です。悟る事はその矛盾が解決すると言う意味になります。二つの意識の間に『ホットライン』が構成される事を意味します。』 その体験後は『心同士が争わなくなる事』を意味します。心に平安が訪れて、心に静寂が訪れる事を意味します。その境涯が『涅槃』です。二つの意識が『解かり合えた』と言う意味です。キリスト教においては、神に会って和解するという体験です。 貴方の場合にお奨めしたいのは『鈴木大拙博士』の書いたものが良いと思います。大拙博士は25歳で悟りを開いています。その体験を生かして研究を進めてものを書いているからです。書かれたものには無駄がなくて、要点が書かれているからです。 私の体験から話をするなら、14歳で『死の恐怖症』になって。27歳で鈴木知準先生に会って『入院森田療法』を受けて、その時に鈴木大拙博士の存在を知って、その歳から読み始めました。そうしてその後32歳で『無意識の意識』に出会うと言う体験がありました。今はもう63歳になりました。 32歳の体験があって『死の恐怖症』になった事も治った事もすべて忘れ果てて過ごしていました。『禅』には力があると思います。精神衛生にはよい事をヨーロッパの人達も認めていますが『如何して良いのかは』まだ謎に包まれている、とされています。』 右脳と左脳が喧嘩していると言っても、まだ世界中の人は『私の言う事を』認める筈が無いことも知っています。健闘を祈ります。

noname#164825
質問者

お礼

(-人-)『tumaritou1さん、いつも回答ありがとうございます。』 (  ̄Д ̄) 『仏教の極意を求めて、手に出来ない理由を、求める事が大事。』 ( ̄へ ̄ )『そうなんです。そこらへんがまだ自分の中で、うまく整理できないんですよねぇ。_| ̄|○』 (  ̄Д ̄) 『極意をものにする方法は、三つ。一つは【知】。もう一つは【情】。もう一つは、【自力】。』 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。人それぞれ、いろんな道を進んでますけど、どの道も【悟り】に繋がってはいるんですよね。きっと。それを知らないが為の苦しみというか。』 (  ̄Д ̄) 『悟りを開く瞬間は、【意識が無いところから】』 ( ̄へ ̄ )『ここがやはり難しい所ですよね。【自我意識】を克服したい【自我意識】。』 (  ̄Д ̄) 『心の矛盾は、右脳の意識と左脳の意識の矛盾。悟る事はその矛盾の解決。二つの意識の間に【ホットライン】が構成される事。その体験後は【心同士が争わなくなる】。心に平安が訪れ、心に静寂が訪れる。その境涯が【涅槃】。』 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。これはこの間教えて頂いた、【ジル・ボルト・テイラー】さんのやつですね。』 (  ̄Д ̄) 『お奨めしたいのは【鈴木大拙博士】の書いたものが良い。大拙博士は25歳で悟りを開いている。その体験を生かして研究を進めてものを書いている。書かれたものには無駄がなく、要点が書かれている。』 ( ̄へ ̄ )『【鈴木大拙博士】の本の中で、初めて読むのにオススメはありますでしょうか?教えて頂けると助かります。』 (  ̄Д ̄) 『私の体験なら、14歳で【死の恐怖症】になり、27歳で鈴木知準先生に会い【入院森田療法】を受け、その時に鈴木大拙博士の存在を知り、その歳から読み始めた。その後32歳で【無意識の意識】に出会う。今は63歳。32歳の体験があって【死の恐怖症】になった事も治った事も忘れ過ごした。【禅】には力がある。』 ( ̄へ ̄ )『私の場合、【なんで人生を生きなきゃいけないんだろう?】と思う事も、ちょくちょくあるんですが、【無意識の意識】に出会った時というのは、【やっぱり人生はいいものだ】と思えたものなのでしょうか?』 (  ̄Д ̄) 『健闘を祈ります。』 (-人-) 『tumaritou1さん、いつもありがとうございます。』

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.27

>「鵜呑みにしないとか、そういう事ですかね。」 「先入観から自由になる」とか、「「思い込み」から離れる」ということと(も)思います。

noname#164825
質問者

お礼

kurinalさん、ありがとうございます 【先入観から自由になる】 【思い込みから離れる】 了解致しました。 アドバイス ありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.26

こんばんは。 仏教において、まず大切なのは「ただしく知ること」であると聞きました。 で、「ただしく知ること」とは、 「99.9999%間違い無い」ということでも、残りの0.0001%を疑う、 といったことではないかと思います。

noname#164825
質問者

お礼

kurinalさん、回答ありがとうございます。 最近仏教を勉強し始めました。 仏教は論理体系がしっかりしているというか、なんというか、凄いんですよね。 【99.9999%間違い無いということでも、残りの0.0001%を疑うこと】 う~ん深い。 鵜呑みにしないとか、そういう事ですかね。 元気貰いました。 ありがとうございます。(-人-)

noname#181697
noname#181697
回答No.25

ANo.11です。 質問者様は、悟りを概念として捉えようとするあまり、自分の解釈が正しいかどうかを気にし過ぎていますね。アナタは「理」から入るタイプで、納得するまで調べないと気が済まない人なのかも知れませんけど、ちょいとばかり努力の方向性が違うかなと思いました。 アナタを納得させ得る悟りの体系は、大きく分けて三つあります。それは上座部仏教と、禅(曹洞宗)と、神智学です。他にも悟りを説く体系?はありますけど、悟りの定義が適当だったり、混乱を招く様な表現を乱用したりするので、それらの体系を勉強するにしても、先に紹介した三つの異なる体系を十分に学び、基礎を固めてからにした方が良いと思います。 勉強する順番はどれからでも構わないと思うのですが、個人的には曹洞宗発心寺、原田雪渓老師や井上義衍老師の著書から読んでみる事をお薦めします。その後で上座部仏教の日本テーラワーダ仏教協会と、神智学協会ニッポン・ロッジのホームページを熟読すれば、得るものは多い事でしょう。 とりあえず、この三つの体系を学べば、悟りについての大抵の話には、ついていける様になる筈です。その上で気になる事や解らない事が出てきたなら、またここで質問してみて下さい。

noname#164825
質問者

お礼

siryuanさん、回答ありがとうございます。 確かに、私は理屈っぽい気がします。_| ̄|○ 教えてもらった学問を、勉強してみます。 本当にありがとうございました。(-人-)

回答No.24

やあ。 ブースターだよ。 とんちんかんで面白いね。 >)『自我を敵に回さず、うまく飼い馴らせと。こういう事ですかね。』 あんたの自我の話だよ。 飼いならす? その実践は、私をペット扱いしてくれるご主人様を募集中ですわん。 オカマ言葉でこのように言っているのと同じだぞ。 自分の自我だぞ。 悟りと言うならばむしろ自らに尋ね自らを知ると踏まえた方がいい。 人に聞くな。 テメエで何とかしろ。

noname#164825
質問者

お礼

Flareonさん、回答ありがとうございます。 (  ̄Д ̄) 『やあ。ブースターだよ。とんちんかんで面白いね。』 ( ̄へ ̄ )『ガックシ。_| ̄|○』 【自我を敵に回さず、うまく飼い馴らせと。こういう事ですかね。】 (  ̄Д ̄) 『あんたの自我の話だよ。飼いならす?その実践は、私をペット扱いしてくれるご主人様を募集中ですわん。オカマ言葉でこのように言っているのと同じだぞ。自分の自我だぞ。』 ( ̄へ ̄ )『確かに。』 (  ̄Д ̄) 『悟りと言うならばむしろ自らに尋ね自らを知ると踏まえた方がいい。』 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。』 (  ̄Д ̄) 『人に聞くな。テメエで何とかしろ。』 ( ̄へ ̄ )『了解しました。』 (-人-)Flareonさん、今回もありがとうございます。

  • satol2012
  • ベストアンサー率23% (3/13)
回答No.23

2012年のアセンションで、悪の原因である自我が、人の心から強制的に抜き取られます。だから人類すべてが善人になります。2012年の、アセンションとは、人が夢から覚めて、本当の調和の世界を、神の世界を見る事です。そして人は、調和の世界、神の世界にいる事を実感するでしょう。この世界は、仮の世界、つかぬまの夢の世界です。脳の自我の霧に包まれて、真実が見えません、しかしアセンションで、脳が自我が人の心から分離して、消滅するので、この世から災難が消滅して、人は神の子である事を知るでしょう。捕捉します。心が、脳の自我の事なら、無い方が良いです。仏教では、自我が人の苦しみの原因だと教えます。そして、動物や赤ちゃんのように、無我になるために座禅、瞑想をします。だから脳が未発達で、無我である、赤ちゃんや動物は幸せです。しかしいよいよ、脳が発達した自我がある大人も、幸せになる時がきました。マヤ暦では、2012年に人の心から、脳が自我が分離、消滅、します。そして人の心は、無我になり、幸せ時代が到来します。時間が、速くなっていると感じる人が、多くなってます。止まる前触れだと言われています。時間が止まり、この仮の世界が終わるのが、アセンションです。この世界は、仮の世界なので、シュミレーションです。この世界の外に本当の世界が、あります。この世界は仮の世界です。だから始めと終わりがあります。始めから終わりまでが時間です。本当の世界は永遠なので時間はありません。これはアインシュタインの相対性理論や仏教哲学で証明されています。マヤ暦では2012年だと言われています。宇宙の太極は、完全調和の世界です。調和の世界が、成長拡大するためには、まわりの周辺部の、不完全、不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が創られました。ここで不調和世界の脳と、調和世界の自然の心である神が、出会う事になりました。そこへ調和の世界から、宗教で言う神の子の無我が来て、不調和世界の脳の自我と、合体して、人が誕生しました。だから人の心は、自我と無我が合体して出来ています。最初の頃は、無我が強く自我が小さいので、神の超能力がありました。だから神と人の合いの子である、神人と呼ばれていました。アトランチス古代文明頃までいました。神人がピラミッドを創りました。現代は、人は、自我が強く無我が小さいので、神の超能力はありません。そして人は、脳が自我が自分だと勘違いをしています。人は本当は、無我の神の子です。しかしいよいよ仮の世界が、終わる時が来ました。終わると、仕切り直しになるので、人の心は、脳の自我と、神の無我が、解体されて、それぞれ元の世界へ帰ります。脳の自我は、不調和世界の脳の世界へ、神の無我は、完全調和世界の神の世界へ帰ります。人は、神の子だから神の世界へ帰ります。

noname#164825
質問者

お礼

satol2012さん、回答ありがとうございます。 (  ̄Д ̄) 『2012年のアセンションで、悪の原因である自我が、人の心から強制的に抜き取られます。』 ( ̄へ ̄ )『ま...まじっすか。自分の力じゃなくて強制的なんすか。』 (  ̄Д ̄) 『脳の自我の霧に包まれて、真実が見えません。仏教では、自我が人の苦しみの原因だと教えます。』 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。やはり苦しみの原因は、皆さんが自我と呼んでいるもんなんですね。』 (  ̄Д ̄) 『この世界は、仮の世界なので、シュミレーションです。』 ( ̄へ ̄ )『うんうん。皆さん、そう言いますよね。』 (  ̄Д ̄) 『だから始めと終わりがあります。本当の世界は永遠なので時間はありません。』 ( ̄へ ̄ )『よく聞きますね。人間にはどんな感覚なのか想像できませんよね。』 (  ̄Д ̄) 『調和の世界が、成長拡大するためには、まわりの周辺部の、不完全、不調和を、調和に変換する必要があります。』 ( ̄へ ̄ )『なんの為に、成長拡大するんだろう。』 (  ̄Д ̄) 『人の心は、自我と無我が合体して出来ています。』 ( ̄へ ̄ )『やっぱりそうなんですね。まだまだ謎が多いな。』 (-人-)回答ありがとうございます。

回答No.22

ブースターだよ。 無我を目指すなら我はにっくき敵なのだろうな。 それで自我が悪なんだろうなー。 あーあー、くだらねーなー。 それじゃあ自分を解き放つと柔らかい表現をしても過酷な人格崩壊しか思いうかばねーだろーなー。 なんたって敵に回してんだよ。 それはやめておけ。

noname#164825
質問者

お礼

Flareonさん、回答ありがとうございます。 (  ̄Д ̄) 『ブースターだよ。』 ( ̄へ ̄ )『ブースター?ジェット噴射ですか?』 (  ̄Д ̄) 『無我を目指すなら我はにっくき敵なのだろうな。それで自我が悪なんだろうなー。あーあー、くだらねーなー。』 ( ̄へ ̄ )『グサッ!!』 (  ̄Д ̄) 『それじゃあ自分を解き放つと柔らかい表現をしても過酷な人格崩壊しか思いうかばねーだろーなー。』 ( ̄へ ̄ )『ふむふむ。確かに。』 (  ̄Д ̄) 『なんたって敵に回してんだよ。それはやめておけ。』 ( ̄へ ̄ )『自我を敵に回さず、うまく飼い馴らせと。こういう事ですかね。』 (-人-)今回もありがとうございました。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.21

悟とは何か特別の境地に至るという意味ではないと思いますよ。 日々の気付きや思索によって自分と他人、その集合体である世界を理解する過程のひとつひとつが悟りじゃないでしょうか。 悟りを努力の報酬と考えてはいけませんねぇ。 >『自分』の力では、『悟り』は開けないのでしょうか? 悟るべきは『自分』でしょうに。 自分自身を悟らせるために貴方は自身を観察しているのではないですか。 悟るほどに自分自身が小さくなる(無に近づくといってもいいかもしれません)という感覚はないですか。 私はよくありますけど。

noname#164825
質問者

お礼

shift-2007さん、回答ありがとうございます。 (  ̄Д ̄) 『日々の気付きや思索によって自分と他人、その集合体である世界を理解する過程のひとつひとつが悟り』 ( ̄へ ̄ )『やっぱり日々こつこつと気づいていくしかないんですよね。』 (  ̄Д ̄) 『悟りを努力の報酬と考えてはいけない。』 ( ̄へ ̄ )『う~ん...これはどういう意味なんだろう?』 (  ̄Д ̄) 『悟るほどに自分自身が小さくなる(無に近づくといってもいいかもしれません)という感覚はないですか。』 ( ̄へ ̄ )『日々、エゴや余計な欲に気づいて、捨てていくと楽にはなっていきますけどねぇ。そういったニュアンスですかね。』 (-人-)回答ありがとうございます。

回答No.20

『私が現在、人生の事で悩んでいる状態で、 【見性】が起こらないという事は、 まだどこかで、【自我意識】で解決できると考えているという事にもなるのでしょうか?』 そういう事になります。貴方の計らいが見性の邪魔をしています。貴方が『貴方の悩みと一つになる時』貴方の計らいが尽きるかも知れません。全ての計らいが尽き果てた時ですので、貴方が『思ってもいない時』です。見性したいと言う気持ちさえ感じていない時ですので、『思いがけずに、、』や「思わずに、、、』と言うタイミングでやってきます。 強く意識して、強く願いながらも、全てを忘れる時です。この意味は『すべからく、何事にも身を入れなさい』と言う意味にもなります。見性を意識しながらも、『全身にも』意識が回っている時です。 一昔の臨済宗では、今書いた意味を『足の裏で考える』と表現しています。

noname#164825
質問者

お礼

tumaritou1さん今回も回答ありがとうございます。 【強く意識して、強く願いながらも、全てを忘れる時】 なるほど。 凄いアドバイスをありがとうございます。 まだうまく、自分の中で整理できませんが、よく考えてみます。 本当にありがとうございます。(-人-)

回答No.19

やあ。 君を家畜人と見下して一つ言い放っておこう。 野獣なり悪魔なりを恐れるのなら悟りはあきらめる事だ。 悟りの至福とはかような困難のさなかにある。 実態は狂気を理解することにあり、愛をかざし理性を持ってふるまってこそ光明が有る。 狂気に流されてマジギレ哲学しか展開できないのならそれが恐れゆえだ。

noname#164825
質問者

お礼

Flareonさん、回答ありがとうございます。 (  ̄Д ̄) 『やあ。君を家畜人と見下して一つ言い放っておこう。』 ( ̄へ ̄ )『グサッ!!』 (  ̄Д ̄) 『野獣なり悪魔なりを恐れるのなら悟りはあきらめる事だ。』 ( ̄へ ̄ )『自我意識で苦しむ事を恐れるな。という事かな。』 (  ̄Д ̄) 『悟りの至福とはかような困難のさなかにある。』 ( ̄へ ̄ )『自我意識で苦しんでいる時に悟りは訪れる。といった事なのかな。』 (  ̄Д ̄) 『実態は狂気を理解することにあり、愛をかざし理性を持ってふるまってこそ光明が有る。』 ( ̄へ ̄ )『自我意識を理解し、愛と理性を持ってふるまう。という事かしら。』 (  ̄Д ̄) 『狂気に流されてマジギレ哲学しか展開できないのならそれが恐れゆえだ。』 ( ̄へ ̄ )『全ての攻撃は、その人にとっては防御である。恐怖ゆえにという事か。』 ありがとうございました。

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    TED(https://www.ted.com/talks?language=ja)にある「All it takes is 10 mindful minutes(必要なのは10分間の瞑想だけ)」というスピーチの内容の日本語訳です。 この文章を6、7文程度に要約したいのですが、うまくまとめることができなくて困っています。 この文章で大事な部分はどこですか? また、実際に要約するとどのような文章になりますか? できれば、要約した文章も知りたいです。 よろしくお願いします。 私たちは信じられないほど忙しい世界に生きています。そのペースはしばしば狂乱的で心は常に忙しいです。そして常に何かしています。 このことを頭において少しの間考えてみてください。皆さんが何もしなかったのはいつが最後ですか?10分間平静だったのはいつでしょう?ここで言う何もしないとは、メール、メッセージ、インターネットはせず、テレビ、おしゃべり、食事、読書もせず、過去を振り返ったり、将来も見据えず、本当に何もしないことを意味します。ただ何もしないんです。皆さん、呆れた顔をしていますね。ずいぶん昔ではないですか。 こんなのおかしいですよね?こんな心持ちでいいんでしょうか。心というものは、最も価値のあるかけがえの無い財産であり、人生の一瞬一瞬は心を通じて経験するんです。個人としての幸せ、満足感、感情状態も心によって決まります。それと同時に心は、人間関係における親切心や思いやりにも影響を与えます。また、私たちが集中したり創造的になったり自発的になるとき、そしてベストを尽くそうとするとき、この心というものを頼りにします。しかし、私たちは自分の心を気遣う時間を設けていません。その代わり、車やファッションには、たくさんの時間を使うんです。だいたいの人がこんな感じでしょう。 その結果として当然ストレスが溜まります。心は洗濯機のように勢いよく回っており、難しくてややこしい感情の渦に飲まれ、どうやって抜け出すかも分からないんです。悲しいことに、私たちの心は阻害され、もはや現実世界には存在しないんです。自分にとって最も重要なことを見失っています。おかしなことに誰もが憶測で動いており、人生という名のもとただ順応せざるを得ません。これはあるべき姿ではありません。 11歳くらいのとき、瞑想のクラスにはじめて参加しました。信じ難いですが、まさに想像通りの環境でした。脚を組んで床に座る人、お香やハーブティーなんかもあり、菜食主義も徹底していました。母も参加していましたし、私も興味を持ったので一緒に続けました。同じ時期にカンフー映画も見ていて、密かに空の飛び方を学ぼうとしていました。とても幼かったのですね。今の私がそこにいれば、きっと皆さんのように瞑想を単なる心の鎮痛剤だと思うでしょう。ストレスを感じると瞑想を行います。瞑想が何かしらの予防になるとは20歳になるまで思いもしませんでした。その頃、私の人生の中でたくさんの出来事が度々起こり、人生を当にひっくり返すほど深刻だったのです。私の頭の中は思考と難しい感情であふれ、対処する術も分かりませんでした。1つを対処しても別の問題が浮上するんです。とてもストレスを感じた時期でした。 私たちは皆、それぞれの方法でストレスに対処すると思います。仕事に没頭する人もいるでしょう。すばらしい気の紛らわし方です。友達や家族と話し支えを求める人もいます。薬の処方を求める人もいます。私の場合は僧侶になりました。大学を辞めて、ヒマラヤへ向かいました。僧侶となって、瞑想の勉強を始めたんです。 何を学んだのか、とよく聞かれます。言うまでもなく物事を見る目が変わりました。禁欲主義の僧侶になることでたくさんの事が変わったんです。それだけではありません。今この瞬間を尊ぶこと、そして理解することを学ぶことができました。思考に明け暮れず、気を紛らわさず、困難な感情に圧倒されず、今ここにどんな状態でいるか、どのように意識するか、どのように存在するかを学んでいました。 今この瞬間というのは、過小評価され過ぎています。言葉は平凡ですが、今という普通とは程遠い瞬間をほとんど意識していないんです。ハーバード大学の発表によると、私たちの心は平均して47%の時間も途方に暮れています。47%ですよ。このように、心が彷徨い続けていると不幸の直接的な原因ともなります。私たちの寿命は、そんなに長くないのに、人生の半分を途方に暮れて過ごし、その結果、不幸な人生を終えます。悲劇と呼ぶべきかは疑問です。特に今回の場合、対処方法があり、思慮深く、気紛れもしない、健康的な心をもてるからです 思慮深く 気紛れもしない 健康的な心をもてるからです この方法は、明確かつ実用性もあり、実現可能であると科学的に証明された、テクニックなんです。このテクニックの素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただ、コツを覚える必要があります。練習が必要で、意識する方法を学ぶためのフレームワークも必要です。これが瞑想というもので、今この瞬間を理解するのに役立ちます。また、今という瞬間から最良を得るためのアプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこのためにあるんです。何故なら多くの人々が瞑想は思考を止めることだとか、感情を捨てたり、心を抑制することだと思っているようですが、実際には全然違います。瞑想とは一歩下がって、思考をはっきり理解することであり、揺らめく思考や感情を分別することなく、リラックスしたまま集中した心で観察することなんです。 例えばもし私が今、ボールだけに集中し過ぎると、こうやって話すこともできません。同様に話すことだけに気を緩めすぎれば、ボールは落っこちてしまいます。人生においても、瞑想においても、過度に集中することがあり、人生は窮屈になっていきます。ストレスがここまでくると、人生はとても苦しいものになります。一方、息抜きをし過ぎた場合でも、こんな感じになっていきます。もちろん、瞑想中に眠りに落ちることもあります。必要なのはバランスの取れた集中的なくつろぎであり、これを実現出来れば、日々のいざこざから思考を開放できるんです。 私たちは普通、意識の仕方を学び始めると、思考によって気が散ってしまいます。例えば、不安があるとします。全てが順調な中で不安なことを思い浮かべます。「そういえばあれを心配していたっけ。」 するとその考えに執着し、「本当に心配でたまらない。不安だらけだ。」 となります。それに気づくまでは、私たちは不安を感じることに不安なんです。おかしな話ですが、毎日のようによくあります。自分の歯がグラグラしたときを考えてみてください。グラグラした歯に気づいてからその痛みに気づきませんでしたか?では30秒毎に何をしますか?痛みますね。そして痛い痛いと自信に語りかけるんです。これを毎回やるんです。心の観察方法を学ぶだけで、このような心の負のサイクルを取り除くことができます。落ち着いて心を観察すると、色んな心の状態が分かります。常にゆとりのない心に気づくかもしれません。何もせずじっとしているのに、興奮を感じたとしても驚かないでください。鈍くて退屈な心に気づくかもしれません。起きて、仕事に行き、食べて 、寝て、また起きて・・と、まるで機械のようだと感じるかもしれません。もしくは、1つの小さなことを考えすぎた結果、心の周りをぐるぐると巡り回っているのかもしれません。何にしても、瞑想によって一歩後ろに下がって、新たな視点で物事を見ることができ、外見とは必ずしも一致しない面を見る機会を得られます。私たちには、物事1つ1つを変えることはできません。しかし、得られる経験は変えられます。これが思慮に富んだ瞑想の可能性なんです。別にお香をたく必要はありませんし、床の上に座る必要もないです。必要なことは1日10分間 一歩身を引いて、今この瞬間を理解するだけです。そうすれば、人生においてすばらしい集中力、平静さ、そして、明晰さを感じ取ることができます。

  • どんな仏様におすがりすればよいでしょう

    私はできることなら悟りの境地を目指しています。ですがまず今は自分が穏やかに暮らすことが最優先です。私はイライラしウジウジやすい人間ですが「自力」で自分のイライラウジウジしやすいものを遠ざけたり、自分ができるだけ穏やかな環境に身をおける環境を居ようという「自力」の努力はできます。しかし肝心な私自身の幼少期からのイライラしやすい性格や人間関係が苦手なことなどは自力では治すことのできない、持病のようなものなのです。そこで私は自分の努力で回避可能なところで自分の努力を使い、自分の努力におよばないところは仏様の加護にすがり「他力」にあやかりたいと思っております。私にお力を貸してくださり、私に努力が必要ならば努力の方法に出会わせれくれるように導いて指針となってくださる仏様を教えていただきたいです。自力でできるところは自力でやり、自分の力ではおよばないところを一緒に寄り添って力を貸して下さる、そんな仏様を信仰したいです(母の勧めで仏壇を置こうか迷っている)。南無阿弥陀仏の阿弥陀さま、人を悟りに導いてくださる釈迦さま、日蓮の南無妙法蓮華経など、誰でも構いません。どうか無力な私にお知恵をお貸しくださいませ、よろしくお願いいたします。お忙しいところありがとうございました。

  • 告白をすることは‥‥

    好きな人への告白は、その相手も自分に対して恋愛感情を持っている、という確信がない限りするべきではない、と聞きました。 人により考え方は様々なのでしょうが、皆さんの体験談などを含めた意見をお聞かせ頂ければ嬉しいです。

  • 理知的なる思考者と感情的思考者の嫌悪感

    物事の考え方における、理知的傾向があるひと、感情的傾向がある人、様々であり、思考対象によって個人の中でもうつろうものだと思います。 例を挙げるとあまりに限定的になってしまうので、総論としておきますが、ある議論について、かなり理知的な思考を持った人と、感情的思考を持った人が、それぞれの存在に抱く感情とはどういうものでしょうか?理知的というのは、自分で掘り下げるという作業を必要としますから、かなり率直な、自分の言葉が多分に入った意見です。感情的な方は、もちろん率直な心からの意見もあるのですが、えてして世俗に惑わされるというか、大衆迎合的な面もあるようで、そのときは、かなり自分の率直なところから出ているのか怪しいが、本人にもなかなか自覚されにくいという厄介な面があるようです。言い方を変えると、世間でもてはやされている多数派的な意見というのは、多分に感情的傾向があるということです。 私は、特に、この感情的思考のなかの後者(世俗に毒されている、影響されている)という傾向がある(気がする)思考を、ここで読んだり、そこここで見聞すると、非常にいやな感覚を覚えます。「自分出してる?考えてる?奇麗事ばっかりヒステリックに言ってない?ちゃんと人の気持ちを考えてる?」というような疑問を感ずることが多いからです。前者の真心がある感情的思考は、これは純粋で打たれるものがあります。 疑問なのは、感情的思考者(特にある状況設定で後者の傾向に思考が傾いている人)が、理知的思考者のいうことを聞くと、どういう感覚を持つのかということです。 それから真心の方の感情思考に対してもどうなのか、これも疑問です。 どんなものなのでしょうか?