• 締切済み

悟り 2

【悟り】に向かって努力しよう と考えています。 これだけ【悟り】という言葉があるからには、 存在するんだろうとは思うんですが、 【悟り】を体験する前というのは、 どうしても暗中模索といいますか、 どうも力強い目標となりません。 【試すか】or【試さない】 しかないとは思うんですが、 何かいい案があったら、 力を貸して頂けると助かります。 よろしくお願い致します。(-人-)

noname#164825
noname#164825

みんなの回答

回答No.11

 こんにちは。  あえてきわめてクサくて 誰もが引くような文章をかかげてみましょう。  ◆ (アウグスティヌス:逆におまえがわたしに変わるのだ) ~~~~   私の見た・・・光は 油が水の上にあり 天が地の上にあるような仕方で私の精神の上にあったのではなく 私を造ったがゆえに私の上にあり造られたがゆえに私はその下にあったのです。   真理を知る者はこの光を知り この光を知る者は永遠を知る。それを知る者は愛です。   おお 永遠の真理 真理なる愛 愛なる永遠よ!   あなたこそはわが生命 あなたを求めて私は日夜あえぐ。   はじめてあなたを知ったとき あなたは私を引きよせて     見るべきものがある     だがそれを見うるだけの者にまだ     私はなっていない   ということをお示しになりました。   そしてはげしい光線をあてて弱い私の視力をつきはなされたので   私は愛と恐れにわななきました。   そしてあなたからはるかにへだたり   似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。   そのときはるかに高いところから     私はおとなの食物だ。     成長して私を食べられるようになれ。     食べると言っても 肉体の食物のように     おまえが私を自分のからだに変えるのではない。     逆に おまえが私に変わるのだ。   というみ声を聞いたように思いました。     (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)  ~~~~~~~~~~~~

noname#164825
質問者

お礼

bragelonneさん、いつもアドバイスありがとうございます。 アウグスティヌスかぁ。 世の中には凄い人が沢山いたんですね。 うんうん、きっと人生というのは、 愛情のない自分によって苦しみ、 愛情のある自分に変えていく過程なんじゃないかと、 最近やっと少しづつ考えがまとまってきました。 愛情のある自分で幸福感が手に入るのかは、 今の自分では分からないですけど、 愛情のない自分で苦しんできたのは、 30年生きてきて、確実に経験出来てますからね。 とにかく愛情のない自分をコツコツと変えていこうと、 こう考えるようになってきました。 いつもありがとうございます。(-人-)

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.10

悟り、悟り、って声高に鳴いて、変な鳥もいるもんですね。 周りの人にうっとうしがられませんか。 こんな鳴き声を聞くと不思議に思います。 もし、 殺さず、盗まず、嘘をつかず、禁欲し、酒も麻薬もタバコも遠ざけ、売られている食肉も口にせず、 勤勉であり、生産性や成就や成果や、何事かの為し甲斐を夢見ることなく、 役に立つ人間だなどと評価されないように役立ち、 不幸な他人の子供を大勢育てて、 ただつとめをつとめ、心をしつけ、こつこつとすごす日々に、 あなたが自足していて楽しいと感じていたら、 あぶく銭を手に入れては、宵越しの金にせず、 異性の情人や同性のお人好しを渡り歩くように放浪し、 殺すか殺されるかの渡世みたくなって、 賭け将棋や賭け囲碁をすれば百戦百勝の、 日々は欲の赴くまま、社会人としてダメな自分に正直に、 ああ野垂れ死にたいなあ、 というような人が悟っているということがありえるのかどうかが、 きっとよくおわかりになるんでしょうね。 ただ、逆のケースでもわかるかどうかは、怪しい。

noname#164825
質問者

お礼

amaguappaさん、アドバイスありがとうございます。 日々勉強していきます。 ありがとうございました。(-人-)

回答No.9

「運が悪い」と「誰もが口にする」けれど、 実際に確定的な運命がある訳ではない。 無意識から全宇宙の因果の把握までの過程は、 いくつものパラダイムの変換を経ながらも 連続的であり、「悟った」と思うその先に、 また課題は待ち受けているものだ。 たまたま先頭をゆく覚者を、完全に思いたがる 依頼心の強い衆生がいるだけで。

noname#164825
質問者

お礼

psytexさん、アドバイスありがとうございます。 肝に命じます。(-人-)

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.8

私達が強く生きていこうと思うときは、人生の意味の全てを理解した時ではなく、自分の手で改善していけるというささやかな感触を得たときだけです。 悟りへの決意も同じで、悟りを頭で理解することは不可能であるし、仮に理解できたとしても傲慢さが生まれ先に進めないでしょう。身の丈にあった善行をしっかりやることで意欲は徐々に高まると思います。

noname#164825
質問者

お礼

MOG56222さん、アドバイスありがとうございます。 【身の丈にあった善行やることで意欲は徐々に高まる】 それしかないですよね。 本当に、ありがとうございます。(-人-)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.7

>【悟り】に向かって努力しようと考えています。 それは無理だよ。 犬が自分のしっぽにかみつこうとぐるぐる回るように堂々巡りになりますよ。 方法は無いという事を悟るべきだと思うな。

noname#164825
質問者

お礼

shift-2007さん、アドバイスありがとうございます。 じっくり考えてみます。 本当にありがとうございます。(-人-)

回答No.6

 ANo.3:誰の悟りを邪魔するものは誰もいません。  大なる存在が此の世を夢想したとき、このよが出来ましたが、大なる存在は直ぐに悟り、自己に戻りました。  私達とこの世界は、大なる存在が夢想したときの過去の残影だと思います。  だから大いなる存在の中の者たる私たちとその世界の本体自体は大いなる存在と同じにもう本態的本体的に悟り、自己本体になっている。  だからその本体を気付き、大いなる存在になっていればいいということです。  私は新興宗教か新宗教でも起そうかと存じています。でもこれって結局受け売りなんです。  Self-Realization Fellowshipというラージャのヨーガの。  ヒンドゥの古典的思想ですね。仏教も実はカルマというヨーガの一種とされています。  

noname#164825
質問者

お礼

krya1998さん、貴重なお話ありがとうございます。 まだ頭の中がうまく整理できませんが、じっくり読んでみます。 お礼だけ先に。 本当にありがとうございます。(-人-)

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.5

釈迦には、(違った)多くの子分がいたが。強いのばっかり揃っちゃいない。 内にゃ、とぼけた奴もいる~? 「そこの人間の古いの、教えてくれ、私の行き先何処でしょう?」 ご存じ、虎三の、次郎長外伝、灰神楽の三太郎、なんて浪花節があったようですが。 1980年生まれでは知らないですよね。 釈迦の弟子にも、愚鈍でなにをやっても要領が悪く、兄弟子達から嘲笑されている若者がいました。 彼は意を決して、釈迦に、どうすれば、悟れるのでしょう、と訴えます。 釈迦は、一枚の白布を取り出し「これを、汚れのない石の上に広げ、洗い清めた手で、毎日、さする事を、修行、としなさい」と言います。 彼は、教えを守り、来る日も来る日も、石の埃を払い、布を広げ、洗い清めた手で、布を、さする。 という行為をくり返します。 そしてある日、彼は、ハツ、とします。汚れるはずがない、真っ白だったはずの布が、 汚れ、黒い布、に変わっている事に気づいたのです。 彼は考えます。 やがて彼は、その布を洗い。その布で、毎日、釈迦の話を聞きに集まる、兄弟子達の、履き物を ふき、揃える。ことを日課とするようになります。 彼は感謝されこそすれ、彼をバカにするような者はいなくなります。   仏教の「白布の悟り」とか「白布の教え」とかの話しです。 前に、悟り、などはない。とも回答しましたが。あなたが、悟り、という言葉にふずいさせている。概念が、会社を辞め、あるいは、止める口実として、禅寺にでも行き、座禅修行でもすれば、 霊的な、変化、体験、によって、超能力が得られる、というようなものであるなら。 そんなものはあり得ません。おやめなさい。ということです。 釈迦の八正道の最後が、正しい瞑想、ですが。 瞑想=禅定 であり。 定=静けさ を得るのが禅定であり、定、は知恵を起こす縁、静けさ=無心 となるが故に 、心と反対の、知恵、が起こる。 毎日何時間も、無心布をさする、のが、禅定、となるのです。何も(意識的には)考えていない、時に意識に上がらない知恵が働いているのです。自覚出来ないのは、自我とは関係ない事を考えているから、意識に上がらないのです。それが、知恵、でもあるのです。 その、知恵、が意識に上がった時、が、突然の閃き、独創的アイデア、神の掲示。などと言われる 、悟り=解らなかった事に突然気づく、 の一つの概念、でもあるでしょう。   「試すか」or「試さないか」良い案があったら教えて下さい? 達磨は7年石の上に座り続けた、そうですよ。

noname#164825
質問者

お礼

hanniyagiさん、貴重なお話ありがとうございます。 まだ頭の中が、うまく整理できませんが、じっくり読んでみます。 本当にありがとうございます。(-人-)

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.4

個別具体的に目標をたててやらないと暗中模索になります。

noname#164825
質問者

お礼

MOG56222さん、アドバイスありがとうございます。 まずは自分の考えをハッキリとさせたいと思います。 ありがとうございます。(-人-)

回答No.3

 ANo.2さんが書いています。  それはその通りです。  そしてそのことは自分と自分のもっとも大事なものを去る事です。そうして始めてANo.2さんのことができます。  それには心身の問題や顧慮することや不調を完全に突破しないと常人には不可能です。  そういうことがあっても自分や自分の大事なことを去れる人は稀です。  そして完全に自分を出るためには、普通は横になっては難しいです。立っていても難しいです。  そして日常のことをやっていても難しい、飲食していても難しいです。  それでもできる人はいます。それは稀です。  はっきりいえば、本当に悟りたいなら悟ればいい。  みんなが、誰かが悟りについて云っていることを、本当に自分のことだと思えるなら悟ればいい。  悟りが必要なら悟ればいい。それだけのことです。

noname#164825
質問者

お礼

krya1998さん、回答ありがとうございます。 いろいろと考えてみます。 ありがとうございます。(-人-)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

私の勝手な考えですが。 悟りとは、何が自分にとって一番大切なのか を解ることだ、と思います。 これが解れば、人生をどのように生きていけば良いのか 判ります。 一番大切なモノに向かって、生きていけば良いのですから。 これを得る方法ですが、私は次のようにして 確かめました。 真夜中、一人きりで床につきます。 そして、両手をへその周りに置いて、もうすぐ死ぬ 死ぬんだ、と何度も繰り返します。 それを長時間やっていると、本当に死ぬ気になります。 そうすると、自分にとって大切なモノが見えて来ます。 私は怖いので、一度しかやっていませんが。

noname#164825
質問者

お礼

hekiyuさん 回答ありがとうございます。 おぉぉぉ..恐そうですが、僕も一度試してみます。 hekiyuさんにとって、一番大切なものは何だったんですかね? 聞いてみたい。^_^ゞ ぽりぽり ありがとうございます。(-人-)

関連するQ&A

  • 悟り

    『悟り』というものは、 本当に存在するのでしょうか? 『瞑想をする』 『自分の感情を観察する』 『自分の思考を観察する』 という事を普段行っているのですが、 いまだに確信が持てません。 どんなに努力や我慢をしようと、 その努力や我慢をしているのは『自分』です。 その『自分』が無くならない限り、『悟り』は訪れません。 という意見も聞きます。 『自分』の力では、『悟り』は開けないのでしょうか? もっと良いやり方が、存在するのでしょうか? 皆様の意見を聞かせて下さい。 よろしくお願いします。

  • さとりとは 動態である。

     にわか仕立ての立論です。  批判・修正・そしてさらなる展開を よろしかったら 思う存分おこなってください。  1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。  2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言う。(ヱ゛-ダだか何だったかの請け売りです)。  3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方である。  4. そのような池は 要らない。(池のために人間があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないか?  (4-1. ただし その溜め池を――覚え書きとしてのように――つくったりすることは なおも怠らない。必要であろう)。  5. 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりである。つまり 動態だ。  6. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業もこれを共業(ぐうごう)として捉えているということであろう。  (これは ここで ぼんぼにえさんたち専門家におそわりました)。  (6-1. ゴータマくんら ブッダはどうでもよいでしょう。いかにブディズムに通じているという人たちのあいだに 過去にとらわれている場合が多いことか。つまり いわゆる精神論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをもたらして世界を蔽っている。あぁ うっとうしい)。

  • 『ニコニコしているとね、楽しい事ばかりなんだもん。(ある少女の悟り)』

       『ニコニコしているとね、楽しい事ばかりなんだもん。』  いつも明るく賑やかな6歳の少女が先日私に語ってくれた言葉です。 でも、1年前の彼女は笑う事を忘れ、家庭の不和やいじめに対して、怯えることしか知りませんでした。   多くの人達との温かい交流は、時に人の心を和やかに変えていきます。 彼女はまだまだ幼い時期であるにもかかわらず、自分の体験を言葉であらわすこと(人生哲学)ができるとは、とても素晴らしい事だと思います。  人には大小の差こそあれ、常に試練はつきものなのかも知れません。 それをネガティブに考えれば「苦」であり、ポジィティブに考えれば「楽しみ」という事になるのでしょうか。 確かにポジティブ思考は困難を乗り越えさせ、明るい未来に繋がらせるパワーを秘めているように感じます。  今回は前置きが長くなってしまいましたが、みなさんが悟りを得た成功法則には、どんなものがあるのでしょう? 日常のどんな小さなシーンの中の法則でもかまいません、みなさんが日々感じたり、考えたりしている、みなさんなりの「人生の成功法則」を教えて下さい。   

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。

  • 自分磨きって・・・

    「自分磨き」って言葉、よく耳にしますよね。 この単語で済ませてしまえば簡単ですが、なかなか難しいように思います。好きなことを極めたり将来の目標があればそれに向かって日々努力したり・・・ってことを指しているのだと解釈しているのですが、皆さんはどんなことをしていますか? 自分のやりたいこと(やるべきこと)を頑張ればいいというお答えではなく、「コレにはまってる」とか「これは面白いし役に立っている」などといった具体的なことを教えていただきたいです。 私自身は、現在模索中なのでまずはお料理やマッサージなどの体験レッスンに行ってみようと思っています。 そうしている中で自分にぴったりくるものが見つかればラッキーですが、参考までに皆さんの体験談(?)をうかがいたいと思いました。 また、このサイトでお稽古など色々検索できて便利!というHPなどあれば、教えていただけるとなお嬉しいです^^ よろしくお願いします☆

  • 言葉の力

    池田晶子さんの「言葉の力」という教科書用の中学生ようの書き下ろしの中に 「言葉の意味が存在するからこそ、その物やその事が存在する」 という一節があります。これを中学生にわかりやすく説明するのに なにか具体例がほしいと考え悩んでいるのですがなかなか案がでてきません。どなたか、ご助言いただけないでしょうか?

  • 50歳以上の方に質問です。

    はじめまして。私は20代女性です。 私は今まで、男に依存する生活をずっと送ってきてしまいました。 それに気づき、彼に幸せにしてもらおうと思っていた考えを改め、 一人で楽しめる時間を増やそうと模索して来ました。 その甲斐あり、自分の好きなものや熱中できるものが少しですが見つけ 「私は一人でもやっていけそうだな。もちろん彼と一緒にすごす時間は楽しいけれど、自分一人でも楽しむ方法・幸せを感じる方法はあるんだな」と思えるようになりました。 昔は依存心から、嫉妬深く疑い深く悩みすぎてノイローゼ気味になってしまっていましたが、 最近では前ほど苦しくなくなりました。冷静に物事を考えられるくらいの余裕が生まれて始めました。 しかし、なんといいますか・・・自分を成長させるために、今までは依存している自分から抜けだすことを目標で努力してきましたが、大きな目標が消えた今、何を目標に努力していけばいいのかわからなくなりました。 最終目標が定まらないといいますか・・・(乱文で申し訳ありません) そこで、人生の先輩方に教えて頂きたいのですが、 「若いうちは○○だけど、それじゃいけないよね」 「人生とは○○だから、○○して生きるべきだ」 など、さまざまな経験の中で学んできた皆様の持論を教えてほしいのです。 本や自分の経験だけでは最終目標を見出せずにいます。 図々しいお願いではありますが、教えていただければ幸いです・・・ ここまで読んでいただきありがとうございました。

  • 表現の模索の楽しみが分からない

    よく「表現の模索を試行錯誤しながら少しずつ絵の幅を広げて上達していくのは楽しい」という言葉を同じ10代の絵を志す仲間から聞きます。 私も訓練のひとつと思って気合を入れてがんばろうと模索をしようとしました。 しかし私は模索ということが理解できず、 とりあえず探ってはみるのですが、自分のいうことを聞かず、 以前とはさほど変わらず、正直形にすらしたくないほどの過程を追ってしまいます。 結局最後には頭の中も作品もぐじゃぐじゃになって、 作品に手をつけたくなくなり完成させずに、 本来の目的だった「模索」という目的を果たせずに「意味のないことをしてしまった」と思って悔しくなります。 努力家のライバルが少しずつ確実に力をつけていく中、私だけ不器用に、上手に訓練を積めずに自分で自分の根気のなさともどかしさに非常に憤りを感じてしまいます。 困っています。 アドバイスありましたら宜しくお願いします。

  • 小論文の添削

    閲覧ありがとうございます。 過去の成功体験から得られた教訓を題材として小論文を書きました。(200~400字) 改行を含めると400字です。 構成、言葉遣い、文末、句読点、ら抜き・い抜き言葉など。 自信がありません。 添削をお願い致します。  私の成功体験は、デイサービスのボランティアをして善行表彰を受けたことだ。   私は中学3年生のときに何か自分にできることはないか探していたところ、デイサービスのボランティアがあることを知った。社会経験ができるとともに、人のためになるという点で興味を持ち、始めることにした。  始めた頃は、慣れない環境で思うように行動することができず、戸惑いを感じることが多々あった。そこで私は相手の立場に立って考え、周囲をよく見て行動するよう心がけた。この心がけを諦めずに続けた結果、自分が何をすべきかが分かり、主体的に行動することができるようになった。また、利用者の方が心を開いてくれ、職員の方の力になれた。  私はこの経験から諦めずに努力を続けることの大切さを学んだ。大学や社会に出た後も慣れないことや困難なことがあると考えられる。しかし、この経験と学びを活かして目標や夢に向かって諦めずに努力を続けていきたい。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。 添削をしていただけると嬉しいです。 よろしくお願い致します。

  • こんな私になにか言葉をかけてやってください。

    こんな私になにか言葉をかけてやってください。 いつもお世話になっております。高校2年の女子です。 私は今、恋をしています。叶えたい目標もあります。ですが、最近疲れてきたのか、どうせ無理なんじゃないかと言う気持ちが湧いてきます。 好きな人は男性からも女性からも好かれる、顔の悪い地味な私からすれば高嶺の花の存在です。 目標は、生徒会長になることです。でも、対立候補は人気者で手ごわいです。 一応努力はしているのですが、もうやめようかとよく思います。 こんな私にもしよろしければなにか言葉をかけてやってくださいますと大変嬉しく思います。