さとりとは動態である

このQ&Aのポイント
  • さとりとは池に落ちて濡れずに上がって来ることである。
  • さとりとは池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのにという場合を言う。
  • 客観はただ人間が世界を認識したと思い言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方である。
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さとりとは 動態である。

 にわか仕立ての立論です。  批判・修正・そしてさらなる展開を よろしかったら 思う存分おこなってください。  1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。  2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言う。(ヱ゛-ダだか何だったかの請け売りです)。  3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方である。  4. そのような池は 要らない。(池のために人間があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないか?  (4-1. ただし その溜め池を――覚え書きとしてのように――つくったりすることは なおも怠らない。必要であろう)。  5. 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりである。つまり 動態だ。  6. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業もこれを共業(ぐうごう)として捉えているということであろう。  (これは ここで ぼんぼにえさんたち専門家におそわりました)。  (6-1. ゴータマくんら ブッダはどうでもよいでしょう。いかにブディズムに通じているという人たちのあいだに 過去にとらわれている場合が多いことか。つまり いわゆる精神論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをもたらして世界を蔽っている。あぁ うっとうしい)。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

こんにちは、bragelonneさん。 ●1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。 ● ○ さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。  ☆ と書いたら  ▼ それは不可能なので間違いです。    ☆ と評されてしまった。そりゃあそうに違いない。 ↑ そうかな? たとえばだよ、「濡れずに上がる」をどう解釈するかで変わってくるんじゃないかな? 濡れる → 泣く 濡れずに → 泣かずに さとりとは 池に落ちて 泣かずに上がって来ることである。 ∴ さとりとは、起きた出来事に動じないことである。 こういうのはアリかな?

bragelonne
質問者

お礼

 もちろんですとも。  ご回答をありがとうございます。こちらへも来てくれたのですね。それは思っていなかった。  《池》とは 組織宗教あるいは宗教組織であり そこで嫌なこと・欺かれたことがあったとしたら それでも泣かずに(あるいは いい加減泣いてやってあとは清々して)胸を張って自立すること これを言おうと思いました。  No.1の方が 言葉に厳格なかただったので ちょっとおどろいたのでした。  ありがとう。

その他の回答 (6)

回答No.7

久しく此方への投稿が見られない様ですので、 畏れ入りますが、此処へ連続で参加をさせて頂きます。 悟りは緊急事態からの危機回避の為にこそ閃かれやすいのではないでしょうか? http://search.yahoo.co.jp/search?fr=sb-kingbrw1&ei=UTF-8&p=ITIL つまり、外部から自己へ及ぼされてきた影響から自分の立場を守るべく、 自己の発想を切り替えて外部条件を『受け入れる』為に、 無心でベストプラクティスが選択されていくのだろう、と考えられませんでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  確かにこちらの質問は 開店休業のようですね。  ひとつには ブディズム関係の同じような趣旨の質問がこのところほかの方々からも多く見られますので それらに対する回答をこの質疑応答が用意出来ればよいがと 張り切って 思います。そのためまだ閉めていません。  もうひとつに一人にとって同時に五つの質問まで出来ますから あたらしい質問を考えつかないあいだは このままにしておきます。  さて今回はさとりもしくはヒラメキが 具体的にどんなかたちで何のために起こるか これの問い求めになりましょうか。  次のように考えます。  1. まづ大きくはサトリもヒラメキも 人生に一回きりのものとそしてまさに具体的な情況や問題に応じて起こるものと二つの種類があると見ます。  2. それは わが心の燈心に火をともすサトリと そして周りや世界を個別に明るく照らすような光(つまり アイディアでしょうね)を得るサトリとです。(極端なかたちで分けるなら 後者は 前者がなくても 人間の能力と努力とで出来るかに見えます。ただし 感触としては その場合にも 前者の結果としての《非思考の庭》は成っていると見ています)。  3. 自然科学の発見や技術における発明は 後者だと見ます。原子力発電にしてもその事故を収束させる技術にしてもそれらは ともあれ光のごとく 世界を明るくするはずです。  (自然科学は 言ってみれば中立ですからそれらは よきにつけ悪しきにつけというかたちでのヒラメキになりましょう)。  ITIL のベストプラクティスにしても 同じようにこの種の光だと思われます。  4. 人生に一回きりのサトリとは 人生じしんに・つまりは《わたし》自身に 火をともすヒラメキとして起こると思われます。  5. その起こり方は 人間にとって初めに受け身であり それを受け取り受け容れることからは能動的な行為となりますが その初めのあり方は 次のようだと見ます。  ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~   自然といふは   《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。   《然》といふは しからしむといふことばなり。   しからしむといふは行者のはからひにあらず    如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。       * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ▼ (道元:現成公案) ~~~~~   自己を運びて万法を修証するを迷とす。   万法進みて自己を修証するは悟りなり。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《はからひにあらず》および《世界のほうからやって来る(=万法進みて)》だと思われます。  6. そしてあたかも同じようなかたちで 周りの人びとそれぞれとの関係やそれらを取り囲む情況一般 これらの側からこちら側に――暗黙か発言かを問わず公然・隠然をも問わないかたちで――問いかけて来る。というふうに 同じくやはり相手側からやって来つつ しかも具体的な問題をめぐって起こるところのヒラメキ これが ベストプラクティスへとみちびくサトリのことでありましょう。  7. そのとき ですから  ★ 自己の発想を切り替えて外部条件を『受け入れる』為に、  ☆ という場合の《受け容れ》は 非経験のナゾを受け容れる非思考の場としてのヒラメキ経験であるというよりは 具体的な相手や道具機械や情況といった《外部条件》のそれだと考えられます。  8. ★ 悟りは緊急事態からの危機回避の為にこそ閃かれやすいのではないでしょうか?  ☆ これは 実際問題としては 具体的な個々の対処法としてのヒラメキの場合が多いと思います。  その人にとって生涯を決める火入れ式のごときヒラメキ(インスピレーション)は 平時にも有事にもどんな場合や時にも 起こるときは起こる。こう思われます。何しろ向こうからやって来るのですから。  どうでしょう? このように考えました。

回答No.6

更に詳しく伺いませんと回答し難い条件の残留が窺われますので、畏れ入りますが、此処で逆に御尋ねを致します。 悟りの過程は能動的なのでしょうか、それとも受動的なのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。いわゆる教義として・宗派によっても いろいろな説明があるのかと思いますが やはり《ヒラメキ》であるとお応えしたいと思います。  ご回答をありがとうございます。  ☆☆ さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。  ☆ というふうに提起していますので その事例を取り上げてみたいと考えます。次の事件のザビーヌの行き方です。  ○ 【Q:ザビーヌ事件について なぜそれを無効の行為だと判断してはならないか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5724038.html  ○ 【Q:ザビーヌ事件について】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html  ☆ 後者の趣旨説明をさしづめ読んでみてください。    けっきょくザビーヌには みづからの心に思うところがあったということでしょうし それは或る日ふとヒラメキとしてあたえられた電気の走りだったということではないでしょうか?  あたえられたと言えば 受け身でしょうし これを積極的にみづからの思想(生活態度)として活かして行こうとしたのは 能動的なのだと言わねばならないでしょう。  一瞬としては ヒラメキが さとりでしょうし その後の生きる過程・その動態も やはりさとりに属すると思われます。  このとき周りから いわゆる同情を受けて 思うように自由に振る舞えなくなれば さとりは妨げられると思われます。その意味では 共業(ぐうごう)として社会がその行為関係およびその錯綜において連帯責任を負うとともに 連帯感をもってともに互いにはげましあって行くこともできる。  そのとき足を引っ張ることがおこなわれたなら それは もはやさとりに対する妨げと見るよりは むしろその人は 《あぁ ザビーヌはつよいし えらい。さとったようだな。われもそのさとりにあやかりたい》と言っているのだと採ったほうがよいと思います。実際の行動は そうではなく いぢわるをしつづけるのでしょうけれど。  ゆえに さとりは 社会共同の動態的な過程である。と考えました。どうでしょう?  親鸞は そのように言っていると煮詰めたかたちで 思います。ほかの思想家たちについては いろいろであるかも知れません。(追い追い 問い求めていけばよいかと思います)。

bragelonne
質問者

補足

 ○ 同情  ☆ というのは その事情もしくは心情に当人と同じように思いを寄せることです。一面では 気が休まり心があたためられますが 一般にそれは 一時的なものです。つまり取り敢えずの気休めとして 同情はなされるというのが 一般です。  なぜかと言えばそれは 同感や賛同の見解(さらにあるいは 異なった見方をふくむ良心的な批判としての見解)を寄せることとは違って その現在の事態から一歩も先へはすすまないからです。すすもうとしていないのが 一般だからです。ただ忘れろ 泣き寝入りせよと言うのが 関の山だからです。  その意味で ザビーヌに同情する人びとは むしろかのじょをその事件の情況に連れ戻そうとしているだけだとさえ見られることになります。足を引っ張っているだけだとさえ考えられます。  まるで風呂に浸かるかのように 事件の中にいつまでも浸っていなさいと言わんばかりに 結果として成るのではないでしょうか? 池から上がって来るなとまで言っていませんか?   一介の幼い女のおまえさんがさとりを得たように振る舞えるのはおかしい とでも思っていましょうか?    このように考えるなら 周りの人びとがさとりを得ることが待たれます。この世の中にさとりの学校が 見えないかたちで 稼働するとよいでしょうね。むろん経絡の探究も その一環でありましょう。

回答No.5

此方にも復帰します。 【カーブラックホール(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB)】の特異点はドーナツ型になっていますので、其の真ん中への陥入の場合には、無限小の状態へ崩されずに別の領域へ抜け出せるのではないか、と期待されています。 従いまして、若し落ちた場所の中心が空洞化されているのでしたら、其の場合には真ん中に落ちていさえすれば濡れずに戻れるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。むつかしそうです。  きわめて単純な話をしますが たとえば人間の思惟や行為が有効だという場合その《有効》というのは たとえ事実としての力によって思惟や行為が敗北を喫しても そのままどこまでも有効であると考えられます。  つまりは社会力学上のちからによって たとえばソクラテスが死に追い込まれたとしてもその思惟および行為が 有効だと捉えた場合には その死を超えて有効であると捉えられます。    事実としての有力と 思考の上での有効〔というこれもひとつの判断であるに過ぎませんが〕とは 別だという捉え方です。  これにちなむならば たとえブラックホウルによってそこに落ち込んでしまいもはや出られなくなったとしても 情況としてはその有力によって無力にされたわけですが もし初めに有効なものならば それでも・無力のままでも 有効でありつづけます。  (判断がまちがっていたという場合は 別の話になりますが 有効だという前提があれば どこまでも当てはまります)。  ★ 従いまして、若し落ちた場所の中心が空洞化されているのでしたら、其の場合には真ん中に落ちていさえすれば濡れずに戻れるでしょう。  ☆ という場合は なおさら良いわけですが たとえ落ちてしまってずぶ濡れになったままに終わるとしても 有効な思惟および行為は どこまでも有効である。つまりは その無力としてのすぶ濡れと 有効としての《濡れずに上がって来ていること》とは 両立する。こう考えますが いかがでしょう?

回答No.3

再び失礼します。 朝は 私は あるスポーツブログを書いていて 普段は設備業の人間ですので、特に忙しいのですが 即答でお礼をくださったので、 少し書いてみます。 宗教の成立には、 人間が言葉を獲得したことから、嘘もつけるようになったことで それによって人をだませ 欲望が狭い段階から悪に染まって固まってしまい  「社会」に迷惑をかける人が半端でなくなったため 世界的にあらゆる地域から 道徳の必要とその権威の必要によって生まれたという経過があると思っています。 もっと あたりまえの健康の中に たくさんの 自然な思いやりの気持への契機がたくさんあるのに、と考えると スポーツ文化の発展を願わないわけにはいきません。 逆に 私のスポーツブログの場合例えば なでしこジャパンのお祭り騒ぎには反対していたりするので けっこう私も実践的でないかもしれませんけどね^^。( でも トレーナーが少なく ちゃんとした教育体制も出来ていない内から天才的体力のある人たちが 優勝してしまい 本当に心配なんです) 》池《の説明 解りました。 でも  その説明抜きに 質問されても  解る人とかいるのでしょうか? 私の 近しい人に 天才的な青年がいます。 佐藤大介という MBIで 盲目の女性プログラマーの淺川さんという方(かた)と組んで、盲目者や高齢者のためのパソコンの開発プロジェクトに取り組んでいます。 私は パソコンは苦手(数学が出来ないので)ですし、 頭も脳障害があるほど欠陥も持っていて(亜スペルがーとかではないですよ^^) 逆にそのために 苦労して工夫して物事を考えてきた人間です。 大介とは 真逆です^^。 彼は 「私は 教えるのが下手だ」と言います。 「なぜなら、何故解らないかが解らないからだ」と豪語?します。 かっこよすぎです^^。 「スノボーだけは教えることが出きる。 なぜなら憶えるにに苦労したので 苦労する人の気持ちが解るから」とか^^。 淺川さんも 苦労して MBIのトッププログラマーになった盲目の努力家です。 いいたいことは  頭のよすぎる人は そのままでは 社会の役にたてないということです。  残念ながら またとてももったいないことですが、 そういうことです。 頭の悪い しかし 一つ一つを 解りやすく解明してく努力によって 社会の》協力《による改革を実践できる人とプロジェクトを組めてこそ    》話し合い《とかも 有効に進んでゆくのではないでしょうか? では 忙しいので また。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ○ つねに自由な話し合いをとおして お互い力を合わせて行こう。  ☆ と言っているだけなのですが。  つまり――おっと いわまひこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――  ★ 一つ一つを 解りやすく解明してく努力によって 社会の》協力《による改革を実践できる人とプロジェクトを組めてこそ    》話し合い《とかも 有効に進んでゆくのではないでしょうか?  ☆ といったふうに 詳しいことは何も言っていません。そのご提言をわるいと言うのでもありませんが たとえばニルワ゛-ナも 敢えて言えば関係ありません。そういうごく単純な出発点について述べているだけとご理解いただければありがたいです。  表現はわざと面倒なふうに―― 一文をわざと長く またなるべく術語を避けて日常日本語によって(それは 漢語のごとくには引き締まらないですから)――述べているところは そのご批判を甘んじて受けねばなりません。  でも  ★(要約) プロジェクトや改革やトレーナーないしその種の・パソコン関係をも含めた専門家や  ☆ の詳しいことは まだ何にも言っていません。ただ《話し合い そして 助け合い》 これだけです。  こんなかんたんなことを という感覚つまり反発がいくらかあります。  わたしは ヒラメキをとおして考えるので――ヒラメキが起こるまでは 脳天気のままでいますので―― その意味での《苦労》はしていませんが 《頭の良すぎ》でもありませんから たぶんどこかで勘違いをなさっているかと思います。    *  ただしこの質問に限っては ほかの質問への回答をそのまま持って来て これをさらに展開できたらという思いで 問いとして挙げたものです。つまり 中身は練られていません。また 文脈としてはその・別の質問のやり取りの流れに沿ったものですから 《客観》が出てきたりしているところなど 分かりにくいかと思います。  ★ ~~~~   》池《の説明 解りました。  でも  その説明抜きに 質問されても  解る人とかいるのでしょうか?  ~~~~~~  ☆ とおっしゃるところについて 上のような事情があるとじつは承知しながらの設問でした。  ただ――ただですね ただ―― 《犀の角のようにひとり歩め》と言われても 山の中で自給自足せよと受け取る人は 稀れでしょう。つまり何が言いたいかと言えば 《池》のたとえなどについては このような不案内の表現のまま わざと 出してみているというところもあるのです。  別の解釈をする場合も出て来るかも知れません。それぞれに味が出ればいいぢゃないですか。ですから 不案内のままにしています。    *  ★ ~~~~~~~  宗教の成立には、 人間が言葉を獲得したことから、嘘もつけるようになったことで それによって人をだませ 欲望が狭い段階から悪に染まって固まってしまい  「社会」に迷惑をかける人が半端でなくなったため 世界的にあらゆる地域から 道徳の必要とその権威の必要によって生まれたという経過があると思っています。  ~~~~~~~~~  ☆ 大筋で見解を同じくします。ただし――このただしは 存外に大きいのですが―― 二点 それ自体についてのではなく つけ加えるべき異論があります。  ひとつは この《宗教の成立》の前に 一人ひとりの個人における信仰の成立があるという歴史事態です。言いかえると 倫理を考えたりその規範としての道徳を求めたりするその前に 《ウソ・イツワリや アザムキやムサボリ》 これをもし悪と見たら 悪でない善とは何か これを考える事態と段階があったものと思われます。その結果――と言いますか その過程にありつつ どこかハスカイ(斜め)のかなたから 或る日ふとナゾの何ものかの力がはたらいてのように―― さとりがわが心におとづれた。  そのヒラメキは ナゾゆえ 非思考であるから 《考える》とは言わずに《信じる(まことと思う)》と言った。かくして 信仰が成った。  そのあと この信仰から得られた観想やその理論としての倫理規範などなど これをわざわざ教義として 人びとを集め徒党を組んでのように 組織宗教をつくった。  もうひとつは ほかのことではありません まさしくこの《集団としての宗教》 これが《要らない池》だと言っています。  人間のために 信仰という動態からみちびかれた思想がある。思想を教義とする宗教のために 人間があるのではない。こう言おうとしています。それを問うています。  これら二点のあと スポーツならスポーツが来ると考えます。ので そこのところを よろしく願います。というお応えになると思いますが どうでしょう?

回答No.2

なぜ そんなに、 複雑に考えるのでしょう? さとりって、複雑に考えないでも済む静かな平和な新鮮な呼吸(赤ちゃんみたいな)の世界をニルバーナとして その心境に進むことができるなら それでいい世界なのじゃないですか? あ 解りにくいですか? 右脳左脳でいえば 左脳がニルバーナ。  それを生かす人間性を右脳で開拓してゆくのが動態というのなら その両方を確かに生かすことが、 安定した人間性の世界、 それをさとり というのであれば、さとりは動態、 答えは明白です。 しかし その前に、私たち文明人は。あきらかにそのニルバーナへの謙虚さが必要です。 それさへあれば その動態も必然だからです。 ともかく さとりについて、それ以上に複雑に考えないほうがいいと思います。 仏教思想の中に いつしか それ以外のあらゆる説話を道徳の必要から作り上げてしまったのが、さとりとかをも 複雑に考える世界にしてしまったのだと思います。 これ仏教だけでなく  ヨガとかだって 同じだと思います。 もっとあたりまえの健康の大切さのためのヨガでよかったのです。 さとり、とかを神秘化してしまったのがおかしいと思うのです。 そこを それにつられて、 言葉を抽象化することで さらに何か複雑に考えてしまっていませんか? 宗教の権威による 言葉遊びの部分は もう切り捨てましょう。 新しい時代を 切り開いていきましょう。 ここで質問させていただきます。 》池《 っていう抽象的例えは 具体的に何を例えているのですか? もし その「池」が、3の 》客観《 とか 5の》全客観《とかで語っておられるあたりを意味するのならば、 そちらの文自体が まるで  仏教の切り捨てるべき複雑な言葉遊びに誤解されかねないような 複雑な解りにくい書き方に思えるのですが?   これだと 》世界をともにいとなんで行く《? のも難しいのでは? と皮肉を言いたくなってしまいます。 よく 弁論大会で 優勝した人の話を聞いて 感動はするのですが 後からでは何が大切か感動したのかを抜き出そうとすると肝心のその部分がほとんど何も得られなかったりすることがありますが、 仏教は その大親分のようです。 ニルバーナへの謙虚さ、 それだけじゃだめなのでしょうか?  もし、だめならば なぜだめなのでしょうか? 私が闘いたい相手は 宗教を難しい言い回しで利用している 権力です。   貴方も目的は、私と同じなのではないですか 宗教自体はもっと 単純でかつ奥深いと思います。   自ら難しい言い回しととなり 影響されていたら 闘えないのではないでしょうか? 》池《 それだけでも もっと解りやすく 説明していただけませんか? 今 忙しい中で 少し時間が出来たので こちらに来て回答も始めていましたが、 さすがに もしさらに複雑になるようでしたら、 時間が無いので 再回答は出来ません。 できるだけ、 わかりやすく説明お願いいたしますよ。   burageonneさん よろしくお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 いわまひこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  さとり、とかを神秘化してしまったのがおかしいと思うのです。  そこを それにつられて、 言葉を抽象化することで さらに何か複雑に考えてしまっていませんか?  宗教の権威による 言葉遊びの部分は もう切り捨てましょう。  ~~~~~~  ☆ この点で 同じ主題を捉えているのではないでしょうか。《たたかい》であるならば 出発点であるとも考えます。  そこでこの《神秘化 / 抽象化 / 複雑化 / 権威のもとにおける説明のための言葉の豊富》 これを《池》と呼んだのですが どうでしょう?  すなわち  ★ ~~~~~~  もし その「池」が、3の 》客観《 とか 5の》全客観《とかで語っておられるあたりを意味するのならば、 そちらの文自体が まるで  仏教の切り捨てるべき複雑な言葉遊びに誤解されかねないような 複雑な解りにくい書き方に思えるのですが?  ~~~~~~~~  ☆ つまりそのとおりなのですが これら(3)や(5)の客観認識あるいは要するに教義ですね としての《池》が要らないと言っています。文章の表現がわかりにくかったでしょうか。  そうして それらに代えて いわまひこさんは  ★ ニルバーナへの謙虚さ  ☆ を置く。つまり  ★ ~~~  しかし その前に、私たち文明人は。あきらかにそのニルバーナへの謙虚さが必要です。  それさへあれば その動態も必然だからです。  ~~~~~  ☆ と。  そうですね。わたしの場合は 人間はその能力において十全な世界認識をおこないがたい ゆえに《話し合い そして 助け合い》――つまり そういう動態にあること―― これが さとりであると導き出しています。  ★ ニルワ゛-ナを思う心  ☆ は必要でしょうか?  ★ ~~~~  右脳左脳でいえば 左脳がニルバーナ。  それを生かす人間性を右脳で開拓してゆくのが動態というのなら その両方を確かに生かすことが、 安定した人間性の世界、それをさとり というのであれば、さとりは動態、 答えは明白です。  ~~~~~~  ☆ そうですね。違いを確認しようと思えば わたしの場合 一方で右脳左脳のことは知りませんし 他方で人びとの協力を打ち出している。こういったところでしょうか。  これで 同じ出発点に立って 互いにどのような動きをしようとしているか これが確認出来たでしょうか? どうでしょう?

  • bbinm3
  • ベストアンサー率17% (12/70)
回答No.1

「さとりとは 動態である」 さとりは境地であって静的です。 「さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ること」 それは不可能なので間違いです。 さとりは可能です。 「さとりとは 池は要らないと気づくこと。すでに洪水が地を蔽っている。」 池の目的は貯水や鑑賞であり、洪水によりその機能が失われても 池が無用とは言えない。家もろとも家具が焼失した場合も 家具が無用とは言えない。 「客観は ただ人間が~」 それは主観の説明です。 「そのような池は 要らない」 は水没時の池は機能しないというあたりまえのことであり 「池のために人間があるのではない」と脈絡がありません。 したがって「となれば―」以降は成り立たない。 「その池を――覚え書きのように――怠らない」 洪水が収まったあと機能が回復するのだからあたりまえです。 「ささやかな主観がすでに世界を超えて」 コップに海は収まりません。 「集まって力を合わせて話し合い~」 は単に大規模な会議でありさとりではありません。 「縁起共生と言うと思われる。業もこれを共業(ぐうごう)として」 それは専門用語間の翻訳であり フランス語をドイツ語に翻訳して日本人に聞かせているのと同じで無意味。 「どうでもよい~過去にとらわれている場合が多い~」 哲学は普遍的なものであり新時代の新技術などありません。 ★ようするに、 あなたは何も考えていませんね。 思い浮かんだ文章を書き散らしているにすぎない。 言葉の意味も文章のつながりも理解していない。 そういうのを九官鳥トークというのです。 お大事に。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。  そうですね。  ★ ~~~~   「集まって力を合わせて話し合い~」  は単に大規模な会議でありさとりではありません。  ~~~~~  ☆ 《四方サンガ》といった人びとのつどう有り方 これをご存じではないようです。  表現を文字どおりにつじつまを合わさない文章については 苦手のようにお見受けしました。    もし再考の上でお考えがなおありましたら そのお考えをお寄せください。

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第六章 さとりとは 何か  1. さとりとは 真理がすべてにおいてすべてであることである。  2. 真理とは 変わらざる真実である。  3. よって 世界のすべてにおいて真理が真理であることが わが主観において成っていることである。  4. たとえば あのときアイツは これこれのことを言った。けれども それは あれそれの事情とひろく情況とからひとつの判断をして自己表現をしたものだ。・・・というふうに すべての世界条件を知ることが出来て その場の相手やまわりの関係者のそれぞれについて 事情が分かるということ。  5. 真理を知ると 世界との・そしてなかんづく自己自身との 和解が成る。真理はきみたちを自由にする。  6. わたしは 真理であり 道であり いのちである。という命題をたずさえてわれわれは生きる。この動態が さとりなる実存である。  7. 未完成であり 人間にとっては 未完成なる実存の道が さとりの成就した状態である。  8. ただし すべては ひとりの人間における主観の問題である。そこにおさまるコトである。よって主観は すでにつねにひらかれていなければならぬ。未完成だと言っているのだし 言っているからには。  ☆ 思いっきり自由なご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。  賛成だとしても 添削をもどうぞ。  9. このさとりなる動態主観は 相手とのあいだに言わば肝胆相照らす状態にあることが出来る。未熟なる状態をも互いに分かり合える。そこでは いくら批判をし合いまたけんかをしても 仲が傷つくことなく こわれることもない。――これが さとりだ。

  • ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか

    ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか  (α) 末法が 現実であるのではないでしょうか。  (β) もう何も新しい思想は ブディズムからは出て来ないのではないでしょうか。あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  (γ) 後世に現われた広義のブディズムは ブッダをきちんと葬送して初めて その生きた思想は生きるのではないか。    (δ) 《慈悲》は 人間にとっておこなうことは出来ないと なぜ明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。無縁慈悲は 絶対の愛のごとく 実践はむつかしい。  (ε) 《縁起共生=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は当たり前だと なぜはっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただ精神において理念や美を描こうとしたその想像世界です。  (ζ) 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものはないのではないでしょうか。絶対普遍のことなら そうだと言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題に還元されます。  (η) 一たんきちんと 葬送をしておく必要があるのではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。  言いかえると いまもこれなら生きているというおしえを おしえてください。

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • これが さとりだ。

     みっつのことを挙げます。  まづ さとりのついての前提として 情報公開が大事だという点が来ます。  情報が不足していたり間違っていたりすれば さとりの知恵も出にくいというものです。  確かにさとりは 存在の全体としての――既知と未知とをあるいは無知をもふくめての――境地です。全体を隅々までひとつ残らず知っているということではないはずです。  けれども そのときそのつど知恵を発揮するには 関連することがらについての必要で十分なただしい資料や情報がなくてはならないと思われます。  生活日常でのこともフクシマなどの社会一般のこととしても 情報公開が前提になると考えます。  次には ひとりの人の主観内面にかかわったことがらとしての情報の獲得になると思います。  あのとき A さんはわたしにひどいことを言った なぜかを聞きそびれてしまって時も経った。と思っていたとき ふとヒラメキが得られる。ということがあると思います。--あぁ なるほどあれは しかじかかくかくの事情があってのことだったか。という心の問題としての情報の獲得です。  つまりは そういった過去のことがらだけではなく いま現在の人間関係におけるわだかまりや諍いなどなどについても あの人の心はこれこれこういうふうであるのかと知り得れば ずいぶんと互いのコミュニケーションは なめらかに行くのではないか。  日本ではよく《無私》ということを聞きます。それは こういう場合に当てはめるとよいのではないでしょうか? すなわち 劣等感や優越感 あるいは孤独とその不安といった《わたくしごと》よりも まづそのいまの情況に就きその内容を知る。そしていまの問題としては殊に 相手や当事者の心を知る。  これは さとりの問題だと思います。三人よれば文殊の知恵と言いますが 互いに自由な自己表現が出来るようにお互いが心を開きつつ臨む。  特に心の問題を互いに解決しておくこと。あの人この人などなど世間との和解を得ておくこと。なかんづくわたし自身との和解を得ること。心がやわらがしめられてあること。こころのまどが明けられていれば よいのではないでしょうか。  三つ目は 聖書から引きます。長いです。  ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~  ――ルカによる福音書8:26-39 ――  26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。  27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。  28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。    ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。      頼むから苦しめないでほしい。」  29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。  30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。  31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。  32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。  33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。  34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。  35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。  36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。  37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。  38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。  39 ――「自分の家に帰りなさい。      そして、神があなたになさったことを      ことごとく話して聞かせなさい。」  その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちイエスなる男は このゲラサの人の心の中の状態が分かった。それは この人がイエスを見て 自分の心を――無言のうちに――開いたからである。イエスは その心のさまを無言のうちに知った。に過ぎない。  たとえばこのようにして 世間との・そしておのれみづからとの和解を得るということ。  それは 必ずしもほかの人に依存するのではなく 自分自身を自分自身のこととしてたもちつづける。おのれにとって固有のおのれみづからのとき(時)をまもる。そうすれば より高い境地の人に出会ったなら おのづとわが心が開かれる。窓は全開。すでに 日本晴れとなり わが心はやわらぎとやすらぎを得る。    これが 《さとり》――という動態――だと考えます。    この《さとり革命》をとおして おのおの内発的にわれらが社会の――ひいては世界の――衣替えが成るのではないでしょうか? ご見解をお寄せください。

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう

    絶対(絶対者)と人間とのかかわりとして 神の受肉とどう違うのでしょうか。おしえてください。 じつは 一度質問しています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3130694.html 法身は 絶対と捉えていいのでしょうか。生身の人間(つまりゴータマ・シッダルタ)が出現したというからには さらにつまりは応身としてのブッダが歴史的事実だというからには 超経験の絶対者が この経験世界に姿を現わしたということでいいのでしょうか。 あるいは あくまで 時間過程を伴なった悟りの結果 絶対者としての実現が成ったというのでしょうか。 それでも――つまり この応身としては 無常の存在であるが それでも―― 報身としては この地上の経験世界(つまりわれわれ人間)と現実においてかかわりを持つ永遠の絶対者であるという説明になるのでしょうか。 三位一体については 神の受肉という点で 対照させていただけばよいかと思うのですが。