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ゴータマ・ブッダは世界一の詐欺師なり
- 《空》を神と見立てればよいものをあくまで人間の境地だと言い張った。
- すなわち《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり《神として》ではなく《神の場に行き来できる存在》としてにんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。
- ブッダ状態としての《さとり》とはここであくまで《確率》として存在するというものである。言いかえるとその存在についてもその状態についてもついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。
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No.9です。蛇足です。 妙法蓮華経方便品第二に 悟りについての説明は、 ごく僅かではあるが執着オリジナルティはあるがあとは他のパクリ+堂々巡りであり、ブッダのことば としての価値はかなり低い というbragelonneさんの主張は分かりました。 教義は特に信者にとっては重要なものと思われます。しかしながら 第三者からみると何だこんなもの という場合はしばしば起きると思います。私は妙法蓮華経方便品第二にのめり込むつもりはありませんが 一つの定義になっていると思います。定義は 堂々巡り というのは論理学の始まりとおもいます。この場合オリジナリティがあり教義としては体をなしていると思います。もっと言えば宗教教義のなかに矛盾があったとしても、よくある話ですが、問題ないとおもいます。なにしろ信じればいいわけですから。 bragelonneは 論理矛盾的な一つの問題を指摘されています。執着から離れるという悟りは 積極的に思考行動すれば一つの執着ではないか と。これは 天台宗で扱うブッダはどう答えるのでしょうか。答えはでているはず です。このような問題では答えを出す過程のなかにその宗教の評価があるように思います。天台宗は広く世界の人々に 一隅を照らせ と主張しており、教義と疑問については相当な準備していると思いますが。 以上失礼しました。
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- SakuraiMisato
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『絶対無』には、 西洋近代的な秩序の存在が必要になっていないでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 おっしゃるようだと思います。 絶対無にしろ絶対有にしろ 《非経験の場》にとって 何らかの秩序ですとかの経験世界が必要であるとは考えられません。 ということですが・・・。
- kurinal
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bragelonneさん、こんばんは。 「ウソと知りつつ、それに加勢する人」てのが、日本の古典にありましたか。
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 となると その《おさとりごっこ》なる《あいまい世界》に 人びとはなぜ《加勢する》のか? ですね。 ☆☆ そのように あいまいなままのほうが 何かといいのでしょうか? ☆ 《世界はあいまいであるゆえに 〈さとり〉もあいまいである》ほうが よいと思うのでしょうか? となると ☆☆ このあとまた二千年 モヤモヤ・ワールドで行くのでしょうかねぇ。 《めざめた(ブッダ)》と言いながら けっして目覚めないのですね。
- kurinal
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bragelonneさん、こんばんは。 ♪「誰のせいでもなくて」 経験>「「思考としての経験」思想」? ・・・勿論、それは自分のせいでもない、と考える時、
お礼
くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ううーん。わかんないなぁ。 ★ 誰のせいでもなくて ☆ そうなっている ということですか? つまり ブッダはブッダ さとりはさとりであると 誰のせいでもなく 言われているし 人びとはそう見なすことになっていると。 ★ 経験>「「思考としての経験」思想」? ☆ 体得したもののほうが 上に位置する。だからどうしても 《表現しえず》という立ち場をみとめなくてはならないのだと。 それで いいんですかねぇ。 そのように あいまいなままのほうが 何かといいのでしょうか? このあとまた二千年 モヤモヤ・ワールドで行くのでしょうかねぇ。
- Tefu_Tefu
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こんばんは。 >ほんものの言葉には すでに 誰もがその心に宿している泉を探り当てた何かナゾのチカラが感じられる。のと ちゃいますか?<これは、三位一体と同じようなもので説明不可能部分です。誰もが、余計に混乱します。 私は、それより仏陀のように方法を授けるから、自分で考えて、信じて生きなさいと言った方が、人間らしい(=仏陀)と思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 それが ほんものであるなら それでよいのでしょう。 にせものであったとしたら?・・・
- Tefu_Tefu
- ベストアンサー率27% (87/322)
こんばんは、ブラジェロンヌさん >四苦八苦<とは仏教用語です。苦とは、苦しみではなく「思うようにならないこと」のようです。 だから、生の苦とは、「生きることは、自分の思うようにならない」となると思います。 >まさに《お悟りごっこ》のようです。それが出来るほど 日本はいい国なのでしょうか。いい国でないとしたら それでもゴッコが出来るほど 人びとは腹が据わっているのでしょう。< 私は グローバル化の進む今だからこそ、感性、知性、理性により、動態での正しい物事の見方が必要だと思います。自分に信仰のある人は、宗教に頼らなくても「聖霊や精霊」の存在を見ることができます。自分の心に怒りがあれば、見ることはできません。人と人あるいは人と生き物のコミニュケーションができれば、それは何時も現れ自分を助けてくれます。 私は、今の日本人は怒りや悲しみや欲望のあまり新興宗教を信じてしまう人が多すぎると思います。「信じる」ことは、偉大な力を生み出します。自分の潜在能力を最大限に引き出します。重病の人が明るく生きることもできます。医学の力で痛みを少なくすれば、普通にも生きられます。それだけに、他人を信じて依存する人が多いのは残念です。 日本は、幸運にも四季のある豊かな自然の多い国です。時には、自然は荒ぶるちからを見せます。それにより、私たちは感性、知性、理性を動態で使うことになります。私は何処の国よりも豊かな「心」が育まれた日本人の未来は、明るいと信じています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 生の苦とは、「生きることは、自分の思うようにならない」となると思います。 ☆ そんなことは成人するにつれ 誰でも分かっています。 なぜそれを オシエの根本に持ってくるかです。 縁起の逆観によれば 無明からではなく明知から出発して けっきょく《楽》なる状態にも成り得るというのですから・つまりは 《さとり》を得ることが出来るというのですから わざわざ《八正道》の根本に《生の苦》を持って来ることはないでしょう。 もしこのように 初めに《おまえたちの生きる姿が 苦に満ち思うようにならないであろう》とうったえ 次に《いやいや だけれども ここにブッダの道がある。おれの言うとおりにすれば おまえたちも楽になり おれのようにさとりを得れば常楽我浄の世界に生きることが出来るのだ》というふうに説いたとすれば これは そこらの新興宗教と変わりはない。 こういう意味です。 《さとり》を看板にかかげて人びとを釣り その求道地獄のわなにさそう。そういうやり方だと言っています。 この迷妄の堂々巡りから 目覚め脱したときには 日本人は 世界のリーダーに成って行きましょう。 他方に繰り広げられている唯一神なる宗教の迷妄からは 割り合い自由なのですから。
補足
おぎないます。 《おまえたちは 苦界にある。解脱の道をおしえてつかわそう》というやり方は ペテン師のそれでなければ 錯乱せるアホバカ状態です。 《くるしかったわが前史は たましいの闇の夜であった》とひとこと言えば すでに わが心のやすらぎを得ており 世間ともそして自己自身とも和解が成っている。 もしお望みなら すでにさとりを得ている。 ほんものと偽物とは そういう違いがあります。 ほんものの言葉には すでに 誰もがその心に宿している泉を探り当てた何かナゾのチカラが感じられる。 のと ちゃいますか?
- B-juggler
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No.15,16です。 これは最後になると思う。 「見つけようとしてない人に見つけさせることは出来ない」 これで終わりだと思う。 禅をくんだことは? 寺行って、尋ねたことは? #多分ないでしょうけど・・・。 探そうとしてない、だから見つからない。 教えてもらおうとしてない、だから教えてもらえない。 曹洞宗は教えてくれないよ。勉強して聞かなければ。 聞こうとしていない方に何を言っても聞こえないだろうから、 坊さんの子孫は引っ込むよ。 否定して構わないんですよ。 そっから何を得るか? そっちの方が大事なんじゃない? そうも言ってきているんだけど、伝わってない。 無明だの、無明尽だの、さとりだの、大道解脱だの、 そういうレベルではなさそう。 こういうのは知識だけではどうにもならないと、だけ。 ソフィストさんにしか見えないのが、すごくもったいない。 否定して構わないんだから。そっから何かを得てください。 せっかくみんなが書いてくれてる。もったいないよ~。 (=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=) PS.σ(・・*)もため息しか出ないよ。 変な宗教にはまっちゃダメよ。 それだけは辞めてね。それが一番心配だ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 けっきょく ○ おまえたち 一人ひとり 生きるがままに思うがままにさとりを得よ。 ということのようです。 言いかえると ゴータマ・ブッダも ブディズムも 自分たちで勝手にやるから 放っといてくれ。ということのようです。 そうして差し上げましょう。
- MOG777
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>そもそも無我と初めに言っているのですから 《わたし》に自我などはないのです。 言葉遊びとしか言えません。 わき道にそれますが、「諸行無常なのだから、諸行無常という真理がある時点で諸行無常ではないのか!だから、嘘八百だ」というのを思い出しました。 本道に戻ると、現象と実体って苫米地氏も言っているでしょ? 意識の作用である自我に実体なんてあるわけないじゃないですか・・・ 当然、現象としての自我を排除するって意味なんですよ・・・はあ・・・
お礼
ご回答をありがとうございます。 分かりづらいですが 次のように受け取りました。 ★ 現象と実体って苫米地氏も言っているでしょ? ☆ この経験世界は 《仮りの現象》だけから成っているという見方です。ブディズムは。 現象と実体とに分けません。つまり 分けた見解を前提として そこから ふたつを区別しつつ ★ 意識の作用である自我に実体なんてあるわけないじゃないですか・・・ ☆ という見方をあらためて採るのではないでしょう。 ★ 当然、現象としての自我を排除するって意味なんですよ・・・はあ・・・ ☆ このスレでは 《あるがままに見る》というひとつの説が出されて来ていますが この場合それを使って言えば 《仮りの現象から成る世界を あるがままに見る》なら それでよいということです。 いちいち《排除》することもないでしょう。仮りの現象なのですから。 ★ ~~~~ >そもそも無我と初めに言っているのですから 《わたし》に自我などはないのです。 言葉遊びとしか言えません。 ~~~~~~~ ☆ わたしの見解ではありません。ブディズムとしてです。もし《言葉遊び》というのなら ブディズムがそうなんでしょう。 そのあたりについて自分のブディズム観として しっかりとした見解にもとづいて話をするのでなければ かみ合わないでしょう。 総じて言って ★ 自我 ☆ は いただけません。
- MOG777
- ベストアンサー率14% (20/139)
>回答No.1の補足欄におぎなったように けっきょく苫米地氏の解釈は 《慈悲》説に帰着しましょう。 全然駄目。 スコトーマーやケーブルの例までだして説明したのに・・・ 慈悲だとすべての生き物でしょう? 苫米地氏はすべてのものといっているはずです。 すべてのものの中に生き物も含まれるから、結局、イラクの子まで言及されるわけですが 基本はすべての対象へのとらわれを捨てる捨なんですよ。 また、はっきり言えば質問者さんの状態が苫米地氏のいう無明なんですよ。 つまり、頭の中で重要度が既に決められていて、自分が重要でないと思う資料は意識にのぼらない。 言い換えれば、質問者さんは自我を中心とした物語ではちきれそうなわけですよ。 だから、新しいデータが入るスペースがない。よって資料の読み落としや極端な解釈になるわけです。 それとは反対の自我の少ないゆえの智慧を持つひとを世俗の優秀なひととし さらにすすめて、物理的本能的な認識作用にまで自我を排除したものが仏陀なのですよ。 >いまだにゴータマ・ブッダは かれひとりは じんるい史上まったく特別の存在であり 凡人の理解のおよばない・また実践し得ざる最高の境地に達したのだと 思い込んでいる人びとが跡を絶たない。 質問者さんに代表される、よく知らないひとだけでしょう。 涅槃に達したのは仏陀だけでなく阿羅漢もはいりますからね。 ただ、師匠無しで悟った人を仏陀として敬意を表しているだけです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ひととおり説明しておきます。 《慈悲》それも 衆生縁のそれや法縁のではなく 無縁慈悲 これを言ったことになると解釈したのは 不都合でもないでしょう。 なぜなら 人間よりほかの自然現象や社会事象といった世界全体のものごとにかんしてなら 梵我一如という思想で間に合うからです。 人間を相手にした場合の境地 これを主要な問題にして大きなマチガイはないでしょう。 あとは ★ 自我 ☆ という概念が分かりません。 分かりませんが 何とか通念としてのごとく扱って受け取ろうとするならば たとえば ★ 物理的本能的な認識作用にまで自我を排除したものが仏陀なのですよ。 ☆ これなどは ブディズムのいろはのいから間違っています。 そもそも無我と初めに言っているのですから 《わたし》に自我などはないのです。その虚構があるとしたら その幻想がただの現象としてあるのみです。 少なくとも空観において 自我だとか知恵だとか認識作用だとか いづれも仮りのものごとである。初めっから 仮りの現象であるに過ぎない。 そのように無い自我 これをわざわざ《排除》するのだという見方は ブディズムにはありません。 残念ながら 無明以前です。よ。
- Y Y(@yy8yy8az)
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神にとっては、人のよろこぶところ、たのしむ姿、さえも“苦”であると見えたようです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 よほどへその曲がった神なのでしょう。
- B-juggler
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No.15です 連投かな? 書きかけて間違えて、他のページ飛んでしまった>< う~んと、「悟り」とは? って言うことなんでしょうか? だったら、先に書いているとおりです。 本人以外分かりえないもの、なのかも知れませんし、 曹洞宗で行けば、開祖の「道元」も、「大道を解脱せり」と言って、 どうやら私は悟れたようです、と師(誰だったか、中国曹洞宗の坊さん)に 言っています。 道元もやっぱりそう、ひたすら禅で座って、自分で見っけなさい! って説いてますよ。 「八正道」もただの工程で、まず知って、次実践ですね~。 そうしているうちに見えてくることがあるんじゃないか? #多分それが悟りなんじゃないでしょうか? #σ(・・*)は到達していないから分からない。 #している人がいるのかどうかすら分からない。 教えてくれる人もいないわけですしね。釈迦も道元も教えてはくれない。 それで少し気になるのだけど、「正見」で大事なことが抜けてるきがします。 >このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、 >その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための >必要条件が達せられるのである。 > 正見は「四諦の智」といわれる。 「四諦の智」は構わないけれど。 漢文の意味はこうなりますかね・・・。 和尚に聞いていたのを思い出してみると、 自己本位を捨てて、あくまでも客観的に、前後左右上下(六合ね)、 表と裏、光と影、全てがあるがままに見えればいい。 #俗世間から離れる必要があるんでしょうかね? #自己本位で見ない!というのが先な気がします。 WIKIは必ずしも正しいとは限らないから、和尚に聞いた方が早いのかもしれないね。 しかし、四苦八苦は確かに八正道と、面白いぐらいあってますね~。 #ここは一本取られた感じ^^; 修行が足りない! だから難しいというのかな? 簡単には、わかりませんよってことなのか? σ(・・*)はね、崇拝って、個人でいいと思うんです。 人を崇拝するんじゃなくてね、教義を崇拝すればいい。一人でね。 #せいさい、家族単位くらいで。 こういうと怒られるかもしれないんだけど、「釈迦」を崇拝するつもりはないんです。 家はあくまでご先祖を大事に思うだけでしかなくて。ヾ(@⌒ー⌒@)ノ 釈迦が嘘つきだ! うん、それはどうだっていいんです。σ(・・*)はね。 ご先祖を大事にするから、供養をする。 経も唱えれば、一応本尊ですからね、手も合わせるわけですよ。 ただ向かう先はあくまでご先祖でしかないんですね。 悟る努力はした方がいいだろうけど、それは多分、供養でしかないんだろうと思うし、 ご先祖を大事に といったのは釈迦なんですね。 それだけしか見てないんです^^; 釈迦の悟りは説明されてないじゃないか! うん、それはそれで構わない。 ただ、ご先祖を大事に考えるって発想は、共感できるかな? 怒られるかもしれないけれど、σ(・・*)はそれでいいです。 長いけど、1つだけ。 「自分が悟り開かなきゃ、釈迦も道元の悟りもわからない」って言うのが 多分あたりだと思うよ。 (=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)
お礼
ご回答をありがとうございます。 《おさとりごっこ》を永遠にやって行ってください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 議論は決して空回りしておらず 今回ひとつの――ひとつのあり得る――結論に到ったかとさえ思います。 それは こうです。一にも二にも――ひとつの解決策もしくは再生法として―― ★ もっと言えば宗教教義のなかに矛盾があったとしても、よくある話ですが、問題ないとおもいます。なにしろ信じればいいわけですから。 ☆ すなわち 《信仰》の問題だと見なす場合であり そういう方策があるというものです。 すでに初めからそのことには 質問者としても触れてまいりました。そしてそのときの条件としては 次のようなことがあると考えます。 ○ (信仰であるための必要条件) ~~~ 1. 《人間の達しうる境地》だという場合にも その《さとり》の状態は あくまで経験的にして相対的な内容であること。 2. 言いかえると 過去七仏というような・さとりを完全に得た人びとと そして その途上にある一般の人びとというように そのあいだに乗り越ゆべからざる隔てを置かないこと。 3. つまり 人びとのあいだに 習熟度や達成度として差があると見てもかまいませんが その差異は 決して乗り越えられないものではないこと。つまり あくまで相対的な差であり けっきょくどんぐりの背比べだということ。 4. つまりなぜなら つねに信仰が経験思考に先行すると見るゆえに――それが 信仰説なわけですが―― 目指す《さとり》の完成度には けっきょくこだわらないでよいと考えられること。経験行為でありその状態であるなら それは 信仰に後行しているのだから 完全なる完成ということは考えられない。 5. 言いかえると そのブッダであることの度合いは 誰であっても つねに未完成であるということ。人間は あやまちうる社会的動物である。 6. そしてちなみに その信仰説においては 有る神(ブラフマン=アートマン)であっても 無い神(アン‐アートマン=無我 ないし 空)であっても 構わない。いづれをえらぶということがない。どちらにしても・どういう名称であるにしても 一般に 神=すなわち 非経験の場 を想定しこれを経験思考に先行させている。ことになる。 7. ただし 経験世界における思惟と行動とは もう神の領域から離れるということ。神を持ち出さないこと。(持ち出すのは あくまでおのれの主観の内においてであり それをわづかに信仰の説明のために表現してみるというところまで)。 8. そして神を少なくともその自分たちの組織内においては持ち出すというのは 宗教の場合である。信仰から離れなければ 宗教に入ることは出来ない。つまり 宗教者は 阿呆である。 ~~~~~~~~~ さて この大前提を共有できれば もう話は早いと言いますか ほとんど済んだとさえ考えられます。 実務整理といったようなことが 残るかも知れません。 ★ ・・・妙法蓮華経方便品第二〔に記されたくだりは〕 一つの定義になっていると思います。定義は 堂々巡り というのは論理学の始まりとおもいます。この場合オリジナリティがあり教義としては体をなしていると思います。 ☆ これでよいとしますと 問題は 今度は むしろブディストの側から反論が来るということではないでしょうか? ○ 《さとり》は あくまで人間の能力と努力によって達成しうる実際の境地であって ゴータマ・ブッダはこれを実現しえた。がしかし ほかの凡人には ほとんど無理な話なのである。 ○ また このさとりの境地は ブッダとなった人間どうしのあいだでしか 理解できない。凡人たちは ただただ ブッダたちの言うことをよく聞いて そのオシエと振る舞いを見倣いなさい。 こういう反論が来る場合です。要するに ゴータマ・ブッダは・かれだけは 特殊なのである。特別なのである。じんるいの歴史上 じつはブッダとしてただひとりなのである。という主義主張からの反論です。 この問題は こう指摘するだけに ここでは(オーケーさんのご回答へのお応えとしては)とどめます。 実際に反論の回答が寄せられたときにまた 考えてまいります。 ★ 天台宗は広く世界の人々に 一隅を照らせ と主張しており、教義と疑問については相当な準備していると思いますが。 ☆ この主題ですが じつはわたしもその思潮に流されていたことに 最近の質疑応答の過程で気づきました。 すなわち 涅槃経の中の《自灯明 法灯明》という主題です。 《一隅を照らせ》というのが 《自灯明》としてのゴータマ・ブッダによる指針を解釈したものですね。 つまり この《自灯明》が 相当のオシエのひとつだと思っていたのですが そうではないとおしえられました。 ゴータマ・ブッダが死んだら どのように生きたらよいか。何を根拠に考え行動すればよいか。という弟子の質問に対して 《自分で考えよ。そのためには すでに説いて来たオシエがある。つまりそれは 法灯明である》と答えただけなのだと。 これは 【Q:やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7552652.html でのやり取りでおそわりました。 つまり 《自灯明》の《自》とは何かすでにさとりを得た《わたし》のことかと――あるいは そのようにブッダとなりうる《わたし》のことかと――受け取っていたところ そうではなく いま・ここなる存在としての《わたし》でよいという解釈です。つまり いちいち右往左往することなく 自分のあたまで考えよと言っているに過ぎないのだと。 すなわち もし最澄のこの《一隅を照らすべきおのおの――仏性をやどした――〈わたし〉》という説に立つとすれば それは《ひとりみづから満ち足りていて 変わりゆくことのない独立存在》としてのアートマンを認めることになる。無我ないし非我の説(アン‐アートマン)に立つからには ゴータマ・ブディズムにおいては 不本意であり オシエの筋が違うということなのでしょう。 《自灯明》の《自》に 根本的に・それをアートマンと見立てたようにして たよることは出来ないし してはならない。オシエに反すると。 つまりこのことも 《信仰》説は採らないというひとつの宗派なのでしょう。神のごときアートマンを認めるなら 人間の達成しうる境地では《さとり》がなくなってしまう。神との関係においてのみ――そして 誰でも神 ゆるし かつ あたえたまうならば――実現しうる境地だということでは 都合がわるいようなのです。この流派にとっては。 このように 《非経験の場〔として想定する 神 もしくは 無い神)》 そしてこれをわが心に受け容れるとき成る《非思考の庭》 つまりこういった説明で経験科学としても捉え得ると考えるところの《信仰》 この補助線を引くなら 再生は出来るものと質問者は考えます。 それ以外に 再生の方法はないと考えます。 それに似た方法があったら それは ペテン師のやり方だと考えます。 でもそれでよいし それこそが ゴータマ・ブッダの説いたオシエだと言い張る向きは まだまだ少なくないように見受けられます。 これは 哲学の問題であり 日本再生いかんの問題だと思っております。