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ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である

 《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。  この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ    ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ    う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐    れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ    ケ)だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

みんなの回答

  • kurinal
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回答No.9

B様。 「法華経が成立した」 (笑)

bragelonne
質問者

お礼

 内容がまったくゴータマとは異なるものだとも思えない。と見るべきでしょう。  片寄った見方は避けたいものです。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

B様、こんばんは。 >「☆ 法華経がいかに後世において成立したと言っても これほどであるとは!!!」 法華経は、成立したのですか。 (曰く「後世」とは、何ですか)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲ (ヰキぺ:法華経) ~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C  § 2 成立年代  『法華経』の成立時期については諸説ある。  代表的な説として布施浩岳が『法華経成立史』(1934)で述べた説がある[10]。  これは段階的成立説で、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品~授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は紀元前1世紀ころに思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品~如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立した、とした[10]。  その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた[10]。だが、近年になって苅谷定彦によって、「序品~如来如来神力品が同時成立した」とする説[11]が唱えられたり、勝呂信静によって27品同時成立説[12]が唱えられたことによって、成立年代特定の問題は「振り出しにもどった」というのが現今の研究の状況だ、と管野博史は1998年刊行の事典において解説した[10]。  中村元は、(法華経に含まれる)《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した[13]。  また、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない[要出典]」と述べた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.7

> というのは ゴータマ氏については アン-アートマン(無我。《無い霊我》)説からみちびかれるものです。 もう10年くらいたとうか、わめき散らすだけの私だったころ、これは体験しているよ。 神のみがある。 そして我は無い。 この神の発見に由来する、自己を忘れるほどの驚きが由来だ。 経験者なんでな。 そうすると、釈迦は、そうした初心の体験を商売にして、悟りのコツを教えていたんだろう。 これは、信仰の故事に由来して、私なりの解釈では「死」についての解釈と係る。 いやね、アマテラスさんが丹念に改造手術を施した戦闘兵器の私に言わせれば、君達に死を体験させれば解決する問題だ。 すなわち死の観念の完成が、死を克服することだ。 死んでみなければわからないと言うのなら、今スグ死ね。 こんな葛藤がどこにでもあるよね。 私自身ストレートにそれを商売にするのに、非効率を感じていて、妖精の案内を取り入れた文学で勝負する準備をしている。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ そうすると、釈迦は、そうした初心の体験を商売にして、悟りのコツを教えていたんだろう。  ☆ 《初心の体験》はあったかも分からないが――どんなであったかも誰も知らないほどであるが―― 《さとり》は成っていない。と断言できます。  たとえばNo.2とNo.3のそれぞれ補足欄にその例証を書いています。  ★ 死  ☆ の問題は ゴータマが気にした《苦 ドゥッカ》の問題と同じように 理論として破綻している。  たとえば 苦の克服によって解脱に到るのではなく もともと解脱した状態(――さとり――)を地(背景や基盤)として その中に苦や悩みが図としてそうとすれば配置される。こういう絵柄でなくては 理論として成り立たない。と考えるからです。  死については 永遠に水掛け論です。哲学は やんない。  ご回答をありがとう。

回答No.6

インド人もびっくり。 こんな言葉があるよね。 万国びっくり人間ショーみたいな仏陀は現代も多いよ。 私はそんなショーから、人間を考えたり神の存在を予感したりする、おおらかな祭りとその役者はほほえましく思えてね。 信仰心の偽りが人に大きな災いをもたらしたという歴史的反省は、そうした商売とは必ずしもイコールではない。 釈迦はペテン師じゃない。 大道芸人だ。 そして私もまさにそうだ。

bragelonne
質問者

お礼

 それは 問題がちがってしまっている。  一点 《ペテン師かペテン師ではないか》で重なっている。  ペテン師であったとしても 万国びっくり人間ショーは開催されます。  ★ 信仰心の偽りが人に大きな災いをもたらしたという歴史的反省は、そうした商売とは必ずしもイコールではない。  ☆ 哲学は そのイツワリの信仰にみちびきかねない間違ったシュウキョウを始めたというそのペテン師ぶりを論証すれば済みます。あとは 勝手に――というわけでもないのですが(マチガイやイツハリでは話にならない場合が多い)――どうぞとなります。  ご回答をありがとう。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

B様、こんばんは。 >「この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。」 そうなんですか? 「語るに落ちる」ということですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  No.2とNo.3のそれぞれ補足欄に やや詳しい説明を書き込みました。それを参照してもらえますか?

回答No.4

あんたの批判の仕方は、私と作法が違うだけなんだがね、 あえて言わせてもらう。 卑怯な批判だ。 批判するなら、いまだに理解できない、納得できない。仏教徒を批判したまえ。 「あいつわ悪い奴だ」こんなこと言うな、「おまえは悪い奴だ」こうしないと勝負にならないよ。 ブッタと社会から目された聖人の中でも釈迦だけはペテンが際立っている。 そう言いたいんだろうね。 西洋観念の聖人。 東洋観念の仏陀。 この対比をもう少し落ち着いて研究するだけの教養はあるだろう? 私には無いがね。 私自身何年も前から言っているが、無の悟りと言うのは、社会に対して自己の立場を表明する処世術だ。 それが仏陀と認知されれば、商売でもある。 昔企画したよね、弥勒菩薩商法。 割と本気だったんだよ。 金になる。 遠慮するつもりもない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 批判するなら、いまだに理解できない、納得できない。仏教徒を批判したまえ。  ☆ 強いて言うなら 《いちおう理解していると思ってブディズムに好意を持つ人たち》のその考え方について批判しています。    ★ ブッタと社会から目された聖人の中でも釈迦だけはペテンが際立っている。 / そう言いたいんだろうね。  ☆ ブディズム関係では ゴータマ氏が 《おれは偉い。さとりを得た。中身は おまえらには言えない。言っても分かんないから》というペテンを使った最初の人間である。ゆえに 血祭りに挙げています。  ★ 無の悟り  ☆ というのは ゴータマ氏については アン-アートマン(無我。《無い霊我》)説からみちびかれるものです。ただし ゴータマ語録では その理論(ないし信仰論)がはっきりしないと思われる。  だから ゴータマ氏のオシエから発展的に得られる思想だと言ったほうがよいと思う。

  • shintaro-2
  • ベストアンサー率36% (2266/6244)
回答No.3

死期が近いことを覚って故郷への旅を始めるような人ですから、 そもそもシッダールタは悟ってはいないのです。 弟子や後世の人があーだこーだ言っているだけで、 断じてシッダールタはペテン師ではありません。

bragelonne
質問者

お礼

 しんたろー2さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 死期が近いことを覚って故郷への旅を始めるような人ですから、 / そもそもシッダールタは悟ってはいないのです。  ☆ そう言えば その最後の旅にあって 弟子のアーナンダをののしるまでに責めていますね。:  ▼ (ゴータマ アーナンダを責める) ~~~~~~~~~~~~  〔第三章 四七〕 ・・・  アーナンダよ。わたし(=ゴータマ)はいま・・・お前に言った、  [・・・]  アーナンダよ。修行完成者がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたけれども お前は洞察することができなくて    『尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください。   幸いな方(=ブッダ)は寿命のある限りこの世に留まって   ください。――多くの人々の利益のために 多くの人々の   幸福のために 世間の人々を憐れむために 神々と人々と   の利益のために 幸福のために』  といって修行完成者(=ブッダ)に懇請しなかった。  アーナンダよ。もしもお前が修行完成者に懇請したならば 修行完成者はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが しかし三度まで言ったならばそれを承認したであろう。  それだから アーナンダよ これはお前の罪である。これはお前の過失である。  (中村元訳:『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980  第三章[四七] pp.92-93 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アーナンダは このように咎められてそのあとただちに長寿を懇請しているのですが 《いまはお止めなさい。修行完成者には懇請してはいけない。いまは修行完成者に懇請すべき時ではない》と答え返されているようです。  そうしてこのような押し問答が何度にもわたって繰り返されつつ そのおしまいのところでは 《これは お前の罪である。お前の過失である》と告げられています。――何なんでしょうね。  ★ 弟子や後世の人があーだこーだ言っているだけで、 / 断じてシッダールタはペテン師ではありません。  ☆ ということは そのゴータマ・シッダールタが 成道したというとき言った言葉(もしくはその成道を説明した言葉)も あとからつけ添えただけということでしょうか。  すなわち  ○ この上なきただしきさとり(無上正覚:anuttara-samyak-sambodhi)  というのもただのカザリである。ということでしょうか。  でも そのようなさとりを得たと一般に見られていますよね ゴータマ氏は。  それは うわさだから 放っておいたということでしょうか?  おれの知ったこっちゃねえ。  だから ペテン師にはならない。ということでしょうか。

  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1701/4759)
回答No.2

ブッダは「全て物事には原因がある」と説いています つまり、悩む前に苦しむ前に原因をまず解きなさいと言っていますよね? それをやらずに答えを求めるのは、ダメだよって何回も言っているよね?ってことです つまりつまり、それはお前に原因があるんだよ?が前提です で、その原因の解き方は、教えてきてるじゃないか?それが修行だぞって言ってきたよね? ってことです 公式を教えているのに、「先生、解き方をもう一回教えてください」ではなく「答えを教えてください」と良い年になって三回も同じことを聞いてくる生徒に、教えないけど?ってことです また、ブッダは、来るもの拒まずです すばらしいですね

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 ▼ (法華経・方便品 )~~~~~~~~~~~~  唯仏与仏 乃能究尽諸法実相 : 唯 仏と仏とのみ 乃(すなわ)ち能(よ)く諸法の実相を究め尽くせばなり。(坂本幸男訳)  ▼ (正しい教えの白蓮・巧妙な手段) ~~~~~  如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており 如来こそ あらゆる現象を教示することさえできるのだし 如来こそ あらゆる現象を正に知っているのだ。・・・(岩本裕訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《如来こそ如来の教えを教示しよう》と言っておいて 一向に教示しない。というウソとペテン。  また《唯仏与仏》という言葉を出すことによって 《ブッダにならなければ さとりについては知り得ない》というふうに威丈高に語って・また門戸を閉ざして 一般の人びとを退かせようとする。  これは 高度な詐欺のテクニックであるように思います。ここまでくれば 一流です。    シャーリプトラとのやり取りを引いておきましょう。:  ▼ (方便品) ~~~~~~~~~   ・・・世尊は再び長老シャーリプトラに言った。     シャーリプトラよ。その訳を説明して 何になろう。     その訳を説明すれば 神々も世間の人々も恐れおの    のくであろう。     そして 僧たちはうぬぼれの心をおこして 大きな    穴に落ちるであろう。    ・・・     ここで教えを説いて何になろう。     この智慧は微妙で 追究しがたい。     多くの愚か者が うぬぼれの心を起こし     教えが説かれても理解せず それを捨てよう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いったい全体 うぬぼれの心を起こしているのは 誰か? と言いたいところですが それは措いておいて。  もうひとつのは こうです。つまり逆の見方が成り立っています。  ▼ (方便品) ~~~~~~~~~~~~~   過去に入滅した仏であれ あるいは現にこの世にいる仏であれ   これらの仏から そのとき 教えの一部分でも聴く人があれば   それらの人々はすべて《さとり》に到達するであろう。(97)      ・・・   かれらの教えを聴いて仏とならない者は 一人としてない。   ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 法華経がいかに後世において成立したと言っても これほどであるとは!!!  これらの矛盾について問うています。

  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1701/4759)
回答No.1

さとりを開いた方法やそれまでに至る自分の人生を教えているのに、なぜそれをしないで答えを求めるのか? って、ことでしょう ある関西人の芸人さんが言っていました「見て分からなん奴は、言ってもわからん」、真理ですね

bragelonne
質問者

お礼

 仏と仏とのみよく知るってわけですね。  すとらまさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  それで説明は完了ですか?  あなたは その修行をしたので分かったのですか?  《見た――何を?――だけで分かった》のですか?  どこが《真理》なのですか?  煙に巻いたという内容が当たっているという真理ではありますが。  そうしますと・要するに 《さとり》の中身は からだで知ったというのみであるということでしょうか?  つまり 言葉では言い表わせないのだと。  そうだとしますと 誰でもこのペテンを使うことができる。と言ったことにもなります。  おっしゃっていることが(つまり さとりを実際に体得したということが) 真実であるかも知れないのですが それを言葉で説明することは出来ない だから一般の人びとが知ることは出来ない。のでしょうが そこからは ペテン師の量産にもみちびかれますね。  つまり ゴータマ・ブッダは 永遠のペテン師であり インチキ詐欺の親分である。こうおっしゃったわけですね?

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    方便品で万人が成仏できると説き、如来寿量品で始成正覚を否定しています。 ある法華経研究家が法華経の理念から平等の精神が導き出されると述べていました。 ここで言う平等とは、アメリカ式の機会の平等なのか、社会主義的な結果の平等なのか、もしくは別の平等なのか? このあたりご知見があったり、見解をお持ちの方おりませんか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • 日蓮は 神か ブッダか 人間か

     特には 創価学会への質問になります。  ◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1  日蓮所立自寿量品至開結二経  寿量品廿七箇の大事  第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事  文句の九に云く   如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり   別しては本地三仏の別号なり、   寿量とは詮量なり、   十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す   故に寿量品と云うと。  御義口伝に云く   此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、   如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり   別しては本地無作の三身なり、   今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり   別しては日蓮の弟子檀那なり、   されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、   寿量品の事の三大事とは是なり、   六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり   頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、   其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり   聞き奉りて修行するは 観行即なり   此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、   さて惑障を伏するを 相似即と云うなり   化他に出づるを 分真即と云うなり   無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、   惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず    唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、   無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。   第二如来秘密神通之力の事      御義口伝に云く    無作三身の依文なり、    此の文に於て重重の相伝之有り、    神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。  ◆ ~~~~~   無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、  ~~~~~~~  ☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?  そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。    そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。    すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。    そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は  ◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり   ☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。  ここだと考えられます 問題は。  おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。  だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。  人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。  人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。のではないでしょうか。  ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。  ☆ ということだと聞きますが。  ずばり    ○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか?  すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば    ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――     あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係な     く―― 初めから 神としてのブッダである。  となります。そうなのですか?   神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在がいるとしておこなうことは出来ないはずです。(天使は 仮りの物語です)。  人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。  もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。  もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょうから。  このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やはりくるしい。のではないでしょうか?

  •  「法華経」に違和感を感じてしまいました。

     「法華経」に違和感を感じてしまいました。  私は、仏教に興味を持ち「スッタ・ニバータ」、「アーガマ」、「仏教の思想1~8」(角川ソフィア文庫)、「この人を見よ=ブッダ・ゴタマの生涯」(増谷文雄著)その他諸々の仏教関係の本を読み独学している者です。この度、現代語訳「法華経」(中村元著)を読んだ時に、かなりの違和感を感じてしまったのです。  原始仏教の経典等からは、ブッダ・ゴータマは、仏陀であるけれども正しく「人間」であると感じられます。また、悟りを開くには縁起を良く理解し、四諦八正道を実践する事だと説いています。また、晩年自らの死を前にしては、自分も諸行無常の理から免れる事はないので、やがて死ぬであろう。しかし、死後は「法」を拠り所として、修行せよと弟子たちに語っています。  しかし、「法華経」に登場する仏陀は、自分は「久遠仏」であり、過去、現在、未来において永久に存在する、とか。仏国土は永遠である、とか。法華経のみが真説であり、他の経は方便だ、とか。法華経を読んだり仏像を作ったり、礼拝すれば仏の慈悲により悟りを開ける、とか。甚だ原始仏教の内容とは矛盾しますよね。諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。  よって、「法華経」は、仏陀を人間ではなく神格化して信仰の対象とすることによって、仏教の大衆化及び教団の強大化を目指すために当時の弟子達が創作したものではないのだろうかと考えるようになりました。悟りを開くには、難解な法を理解し大変な修行が必要と説けば、一般庶民には受け入れられませんからね。  ここで、質問です。  (1)「法華経」は、弟子の創作だと思いますか。  (2)最澄、道元、日蓮などは、「アーガマ」等の原始仏教の経典を読む機会が無かったのでしょうか。  念のため、言って置きますが、私は「法華経」は宗教的には優れた本だと思っていますし、法華経を信心している人を批判しようという意図は全くありません。

  • 創価学会への公開質問状:なぜ断絶する宗派か?

     または 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか? と問います。  あらためて次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問います。  中で (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  なお ≪神≫と言ったのは ダルマ(法)もしくはダルマ・カーヤ(法身)のことを言います。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~~~~  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …  (α) 南岳釈して云く   「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、    ☆(α‐1: bragel. ) これは ブラフマン神とアートマン霊我との一体を         表わす≪梵我一如≫として 一般化して捉えてよいと考えます。  (β) 是の故に法華経に云く   「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く   「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    ( γ‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ☆ ( γ‐1 )=( α‐1)です。  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)として解釈したごとく:   ○ 一切衆生 悉有仏性 (法華経)  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。   (ε)  法華経に同共して信ずる者   (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは    (3-1)  一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも  (3-2)  人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダルマ)に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-2)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で時には依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。    《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシヘは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。  のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐1) 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないものである(オシヘなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ)《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐2) ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ)《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐3) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであるか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(修行ではなく善行ではない)》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち  ◆ (γ‐1=α‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして           清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す      ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? 普遍神のことではないか? なぜ分派をみづからつくる党派を成すのか?

  • 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?

     特には創価学会としての見解をたずねます。  次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。   (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~    http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512  (α) 南岳釈して云く     「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、  (β) 是の故に法華経に云く     「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く    「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、    大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は     ○ 一切衆生 悉有仏性  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。    (ε)  法華経に同共して信ずる者    (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは      (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも    (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。  《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち   ◆ ~~~~     (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして         清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ~~~~~   ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?