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法華経-平等

方便品で万人が成仏できると説き、如来寿量品で始成正覚を否定しています。 ある法華経研究家が法華経の理念から平等の精神が導き出されると述べていました。 ここで言う平等とは、アメリカ式の機会の平等なのか、社会主義的な結果の平等なのか、もしくは別の平等なのか? このあたりご知見があったり、見解をお持ちの方おりませんか?

noname#247876
noname#247876

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  • apple1963
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回答No.1

>アメリカ式の機会の平等 >社会主義的な結果の平等 と言われますが、「平等」という言葉はもともと佛教の用語です。しかし上記二つは、現代的視点にたった「平等」ですね。佛教用語としての「平等」は、やはり佛教の中で考える必要があります。その上での敷衍されるのは構いませんが、佛教用語を直ちに現在に引き寄せて考えると、大きな誤解を生みます。 <ある法華経研究家>が言われたそうですが、言葉は文脈の中で考えるべきです。<ある法華経の研究家>がどういう意味で使われているのか、ですよね。 さて、確かに法華経は「平等大慧」の教えである事は間違いありません。何故かとなれば、法華経以外の大乗経典に嫌われた二乗(声聞乗・縁覚乗)や、悪人・畜生(人以外の生き物)も等しく佛となる。そう書かれているからです。つまり、全ての人が等しく佛となりうる事が説かれているのです。法華経では釈尊が娑婆世界に出現したのは、全ての人に「佛知見」を開き・示し・悟らせ・入らせる(開示悟入)為と書かれています。 日蓮聖人の作と伝えられる「当体義鈔」には、次のような先師の言葉を引用されています。 『南岳大師の云く「心体に染、浄の二法を具足して、而も異相なく一味平等なり」云云』 『天台大師云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」』 日蓮聖人が顕された十界曼荼羅と言われる本尊には、題目の光明に照らされた地獄や佛の姿が描かれています。この光明は、全ての命あるものに、等しくに降り注がれています。そこには、自他彼此がなく平等だという事です。照らす光も平等であり、照らされる一切も平等だという事ですね。

noname#247876
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    無宗教ですが、仏教を勉強中のものです。 末法思想が浄土信仰(のちの浄土宗・浄土真宗)や日蓮宗の成立に大きくかかわっていますが、末法思想の根拠・起源は何ですか? 日本だけのものですか?外来のものですか? 布教のテクニックとして、末法とか世紀末とかの終末論で大衆の危機感を煽るのはわかるのですが、そういう意味ではなくて、どの経のどの記述が末法思想の根拠となっているということを知りたいです。 ある書籍では、正法=紀元前949年~、像法=52年~、末法=1052年~、と読んだのですが、こういった時期の根拠は何ですか? 法華経で示された釈迦の永遠性と、末法思想とは矛盾しているように思えるのですが、これはどう解釈したら良いのでしょうか? 「法華経入門」(菅野博史著)から該当箇所(P.70)を引用します。 『如来寿量品第十六では、弥勒菩薩の地涌の菩薩に関する質問を受けて、釈尊は自身が成仏したのは今世ではなく、五百塵点劫というはるか遠い過去においてであることを明かし、あわせて未来も不滅であるととく。つまり、「法華経」の中心思想の一つである「永遠の生命をもつ釈尊」の像が明らかにされる。』 お答えの際は、差し支えない範囲で、ご自身の宗教・宗派を書いていただけると助かります。

  • 日蓮は 神か ブッダか 人間か

     特には 創価学会への質問になります。  ◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1  日蓮所立自寿量品至開結二経  寿量品廿七箇の大事  第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事  文句の九に云く   如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり   別しては本地三仏の別号なり、   寿量とは詮量なり、   十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す   故に寿量品と云うと。  御義口伝に云く   此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、   如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり   別しては本地無作の三身なり、   今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり   別しては日蓮の弟子檀那なり、   されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、   寿量品の事の三大事とは是なり、   六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり   頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、   其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり   聞き奉りて修行するは 観行即なり   此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、   さて惑障を伏するを 相似即と云うなり   化他に出づるを 分真即と云うなり   無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、   惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず    唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、   無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。   第二如来秘密神通之力の事      御義口伝に云く    無作三身の依文なり、    此の文に於て重重の相伝之有り、    神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。  ◆ ~~~~~   無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、  ~~~~~~~  ☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?  そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。    そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。    すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。    そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は  ◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり   ☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。  ここだと考えられます 問題は。  おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。  だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。  人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。  人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。のではないでしょうか。  ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。  ☆ ということだと聞きますが。  ずばり    ○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか?  すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば    ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――     あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係な     く―― 初めから 神としてのブッダである。  となります。そうなのですか?   神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在がいるとしておこなうことは出来ないはずです。(天使は 仮りの物語です)。  人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。  もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。  もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょうから。  このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やはりくるしい。のではないでしょうか?

  • 「四国遍路ご利益3倍」と「お賽銭泥棒、」

    今朝のNHKニーユースで「四国遍路が巡礼するお寺でお賽銭が盗まれる事件が多発、監視カメラを取り付けたお寺もある。」との報道がありました。私は仏教徒ですが宗派が違うので遍路には行きませんが、「閏年」(うるうどし)の本年、この年に遍路をすると何とご利益が三倍になるらしい、この事の始まりはある伝説に由来するらしいが、長くなるので省略します。遍路で巡礼する札所のほとんどは空海を祖とする真言宗の寺である。空海は「顕劣蜜勝」(けんれつみっしょう)という自分勝手な己義を構え、顕教は劣り、蜜教である大日の三部経を最勝と説いて大日如来を本尊とする。しかし、大日経等の一切諸経説いた釈尊(お釈迦様)が、「我が諸説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」と述べているようにすべての経典の中で法華経こそが最も正しい教えである事は明らかである。しかも大日如来は現実に世に出現して成仏した仏では無く、釈尊が迹(しゃく)を垂れた法身・理仏であって、これを本尊として用いる事も釈尊の本位に背く邪義であり法華誹謗の罪過に当たるものである。法華誹謗の空海をいくら遍路で念じて歩こうがそこには真の利益はない、ご利益があると思って巡礼しているお遍路さんが 身を削って差し出した供養のお金が、あっさりと泥棒によって盗まれる?何とも皮肉な嘆かわしい事である。