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日蓮は 神か ブッダか 人間か
特には 創価学会への質問になります。 ◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~ http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1 日蓮所立自寿量品至開結二経 寿量品廿七箇の大事 第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事 文句の九に云く 如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり 別しては本地三仏の別号なり、 寿量とは詮量なり、 十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す 故に寿量品と云うと。 御義口伝に云く 此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、 如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり 別しては本地無作の三身なり、 今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり 別しては日蓮の弟子檀那なり、 されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、 寿量品の事の三大事とは是なり、 六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり 頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、 其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり 聞き奉りて修行するは 観行即なり 此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、 さて惑障を伏するを 相似即と云うなり 化他に出づるを 分真即と云うなり 無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、 惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず 唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、 無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。 第二如来秘密神通之力の事 御義口伝に云く 無作三身の依文なり、 此の文に於て重重の相伝之有り、 神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。 ◆ ~~~~~ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、 ~~~~~~~ ☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう? そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。 そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。 すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。 そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は ◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり ☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。 ここだと考えられます 問題は。 おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。 だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。 人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。 人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。のではないでしょうか。 ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。 ☆ ということだと聞きますが。 ずばり ○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか? すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく―― あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係な く―― 初めから 神としてのブッダである。 となります。そうなのですか? 神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在がいるとしておこなうことは出来ないはずです。(天使は 仮りの物語です)。 人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。 もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。 もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょうから。 このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やはりくるしい。のではないでしょうか?
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bragelonneさん こんばんは。お久しぶりです。 私は仏教の知識はほとんどなく、回答からはかなり脱線するかもしれませんが、素人の発言が、おもわぬ視点の転換になることもあると思うので、投稿してみます。 昔、このサイトで私は、石原莞爾の最終戦争論に書いている、仏教の予言というものを質問させてもらったことがありますが、石原莞爾は日蓮は預言者であるとあつかってました。 仏教でもキリスト教のように預言者という存在は認めるのでしょうか? 話は脱線しますが、神や仏は目に見えません。死後の世界も経験できないのでわかりません。 哲学的にはカントはそのような命題は二律背反でわからないと純粋理性批判で述べてますが、bragelonneさんの哲学では、どのように肯定するのか?(前に聞いたかもしれませんが・・・) 私の私見では、キリスト教の要諦は、神という目に見えなかった概念が、イエス・キリストという人間の姿でこの世に現れ、神とはどういうものかという真理を教えてくれたということであり、仏教とは違いキリストの死後、数十年以内に文献に書かれたということが、事実を担保しているものと思われます。 そういう意味で仏教の場合も仏様となってますが、仏陀は人間という姿で真理を説いたことが重要と私は思います。 日蓮もしかり。死後どうなったかを追及しすぎることはどうかと私は思います。 しかし、生は偶然、死は必然と言いますが、人間は誰でも死ぬわけで、現在の世界において、私は「死生学」の観点からは、仏教にしろキリスト教にしろ宗教というものは必要ではと考えてます。 死を経験するのは人生で一回ですし、宗教によっていろいろ諸説ありますが、死後の世界は経験できず、やはり人間なら精神的に混乱状態になるのではないでしょうか? 話は変わりますが、私の家の近くの鎌倉では、建長寺を初めとする鎌倉五山の禅宗やその他の仏教宗派のお寺や、鶴岡八幡宮という神道、カトリックやプロテルタントの教会がチャンポンのように存在するという土地柄、東日本大震災後、宗教や宗派を超えて「祈る」という活動がが盛んであり、そのような共に祈るという活動から復興支援が行われてます。 このような観点から、私はbragelonneさんのいろいろな宗教を融合させた哲学形成作りを応援してます。 真理を知るには、宗教に入ってその教えにしたがうのが一番と思いますが、哲学的に真理を追求しようとすると、やはり仏教の経典を読むのもキリスト教の聖書を読むのも必要になると思ってます。 bragelonneさんは下記に質問提示してますが、聖書を読むのは大切と私は思ってます。 しかし、bragelonneさんや、ねむ猫さんのような膨大な知識量に私は近づくことができるか? マイペースで頑張ります。かなり脱線してしまいすみません。また、たまに顔を出します。
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- NemurinekoNya
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事と理ですか・・・。 これは中国仏教(それを輸入した日本仏教)特有の概念、分類、そして思考法なので、わたしは苦手なんですよ。 事理 http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%98%E3%82%8A 事は事象・現象、理はプラトンのイデアのごときものですから、 「理仏の凡夫こそ実仏である」は成立しない、と思うんですよね。 凡夫は事仏でなければならないじゃないか、と思います。 ☆その意味は、「無作」に観点を据えれば、十界の依正つまり凡夫も草木国土もその当位を改めず、そのままが無作本有の覚体であると観念する思想であり、 ◇そう観念(毘鉢舎那・ヴィパシャナー)するのは勝手ですが、 草木国土も因縁生起の法であり、現象、つまり《有作》の事ですから、無理があると思うんですよ。 ということを言うと、事理円融みたいなことを言い出すのでしょうから、中国仏教にはついていけない。 天台と華厳教学は中国的思考法の権化ですから、お手上げです。 中国仏教を専門に研究している専門家じゃないと・・・。 ☆☆ と言っているからには 《覚前の実仏》というのも《実仏》のほうに力点が置かれているのではありませんか? ◇わたしならば、実仏=如来蔵(仏性)、アートマンや聖霊でもいいですが、とダイレクトに言いますかね。 実仏が何を意味しているのか、これも不明ですしね。 真実の仏なのか、 実(たね)としての仏、実(み)の仏なのか、 これさえ分かりません。 漢文ですと、こうした読みが常に問題となり、これが日本で論争を引き起こしたりする。 有名なところですと、 法華経の「無一不成仏」。 天台は「一(人)として不成仏無し」と読み、 法相は「無(性有情)の一は不成仏」と読み、成仏できない奴がいるんだと法華経は説いているという。 しかも、日本人僧侶の書く怪しげな漢文だし・・・。
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ご回答をありがとうございます。 ◇ 事は事象・現象、理はプラトンのイデアのごときものですから、 ☆ この定義段階に問題があるとわたしは考えますから 経典やその解釈・研究の歴史と成果には必ずしも じつは 依拠しません。 ただ単純に 梵我一如なる信仰類型にしたがって ○ 仏仏一如(神としての仏∽霊我としての仏) なる命題に依拠しつつ 議論をおこなっています。それは ◇ わたしならば、実仏=如来蔵(仏性)、アートマンや聖霊でもいいですが、とダイレクトに言いますかね。 ☆ というご見解と違わないと思います。 《イデア》は 非知ないし非経験の場としてのブラフマン神に類型的に合っていれば この場合の《理》にも当てます。あるいはつまり 法身のことです。 まづ 人びと一般はそれぞれ《仏仏一如》を その心なる非思考の庭にてそなえていると想定します。 ただしこれは 《神としての仏 = 法身のブッダ》に 《霊我としての仏》をとおして人間がそのまま成ったことは意味しません。早く言えば 人間が神に成ったとか 人間が神であるといったことは意味しません。 あくまで非思考の庭にあっての――想定したところの――状態であり動態であると捉えます。つまり雲をつかむような話です。 ところが 世界には 人間イエスが 同時にキリストとして神であるという想定もあり得ています。神なるキリストが 肉となってイエスとして現われていると想定しています。 そしてこれは これでそういう物語として 信仰(非思考の庭)を仮りに説明しようとするこころみです。 * 《現人神》は 煮詰めて言えば 《仏仏一如 ないし 霊霊一如》の状態が 極めて確かで明らかであると一般に 認められた場合のひとりの人間について言っていると捉え ます。 相対世界の中での話であって 明つ神というように《神》 を用いるのは ただ表現のアヤであるという見方です。 さて問題は 日蓮です。 まづ ひとりの人間であることにマチガイないはずです。 そうしますと ブッダであると言い それは けっきょくのところ法身のブッダであるというのならば 端的に・そして類型的に 《人間イエス=神キリスト》なる物語に同じであると考えられます。――そういうことなのか? と問うています。 あるいはつまり もうひとつの解釈があって おそらくそのほかにはもう解釈はないと思うのですが けっきょく《仏仏一如》なる状態が 当人の境地としてしっかりと確かなものとなっている。むろん 人間として相対的な存在であって程度問題ではあるが 人びとよりも・誰よりも確立された状態である人間であった。と見るのか。だと思うのです。 (つまり 先ほどの《現人神》の場合に同じだとなります)。 これは ブディズムの常識から逸れた見方でしょうが もしこれを前提とすることが出来るのなら その準拠枠にもとづいて解釈するかたちを たとえばいまの《無作三身の仏》についての場合にも回答者に《押しつけた》上で回答して欲しいと思うのです。つまりそうすれば 言わばその解釈論議はコップの中におさまると思うのですが どうでしょう。
- NemurinekoNya
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無作三身というのは、《覚前の実仏》らしいですよ。 悟る前の凡夫をさす言葉らしいですね。 ですから、 ◆無作の三身とは 末法の法華経の行者なり と繋がるんでしょう。 というわけで、 日蓮は、自分のことを仏(常住三身?)だとは言っていない。 無作三身というのは、最澄が作った言葉らしいのですが、日蓮(?)が使っている《無作三身》というのはオリジナルの意味とは異なっているらしいですね。 無作三身という言葉が《覚前の実仏》という意味で使われるようになったのは、日蓮以後で、法華教学のようです。 どうも真言、空海の即身成仏などの影響を受けて、このような意味になったらしいです。 安然が台密に真言の教義を持ち込み、天台宗の中でこういった考え方が芽生え始めていたらしいですな。 安然 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%84%B6
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ 無作三身というのは、《覚前の実仏》らしいですよ。 / 悟る前の凡夫をさす言葉らしいですね。 ☆ 解説するサイトが見つからなくて 次に参照します。 ▲ (浅井円道:「無作三身」考) ~~~~~~ https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/18/1/18_1_103/_pdf その意味は、「無作」に観点を据えれば、十界の依正つまり凡夫も草木国土もその当位を改めず、そのままが無作本有の覚体であると観念する思想であり、 また最澄の「無作三身ハ覚前ノ実仏」の句に注目すれば更に徹底して、事仏は虚仏であり、理仏の凡夫こそ実仏であると観ずる思想であるから、これは理本覚思想を支える大黒柱の一である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということだそうですが。・・・ ◆ ~~~~~~~~~~~~ さて惑障を伏するを 相似即と云うなり 化他に出づるを 分真即と云うなり 無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と言っているからには 《覚前の実仏》というのも《実仏》のほうに力点が置かれているのではありませんか? よって 表題の問いは 有効であると思うのですが?
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★ また、たまに顔を出します。 ☆ そうだよね。たまああーーにというような間の長いのも どうかと思いますね。 まづは こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。今回は だいたい一般論ですね。ご回答は。 つまり ホンネを言えば ずばり日蓮に焦点をもっと当ててほしかったところです。 ★ 昔、このサイトで私は、石原莞爾の最終戦争論に書いている、仏教の予言というものを質問させてもらったことがありますが、石原莞爾は日蓮は預言者であるとあつかってました。 ☆ そうですか。宮沢賢治も法華経の信者だったみたいで あるいは戦前には経済学者で日蓮の信徒という人もいたように聞いています。(上原専禄と言いましたか)。 そう言えばわたしは ★ 仏教でもキリスト教のように預言者という存在は認めるのでしょうか? ☆ の答えが分かりません。 たぶん神の言葉といったような捉え方はしないのかも知れません。 おのおのブッダかまたはボディサトワ(菩薩)なのでしょう。ゴータマ・ブッダの言行録としての経文かまたはそれらの解釈や理論研究を積み重ねて行くといった歩み方をするのかも知れません。 それにしても 日蓮の――後世になってもの――徒には 強烈な個性の持ち主が出ますね。ときどき。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 私の私見では、キリスト教の要諦は、神という目に見えなかった概念が、イエス・キリストという人間の姿でこの世に現れ、神とはどういうものかという真理を教えてくれたということであり、仏教とは違いキリストの死後、数十年以内に文献に書かれたということが、事実を担保しているものと思われます。 そういう意味で仏教の場合も仏様となってますが、仏陀は人間という姿で真理を説いたことが重要と私は思います。 日蓮もしかり。死後どうなったかを追及しすぎることはどうかと私は思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。親鸞の話をしますが けっきょくいくらか誇張して言えば 親鸞は たとえば往生際などということは 大事でも何でもないという見方をします。 なぜならすでに 救われていて 往生しているからです。そのシルシはありません。ゆえに――むしろシルシがないゆえに――すでにすくわれているというのが 信仰なのだと。 死後はどうでもよいと言ってもよいし むしろこのいま・ここで その死後もあるいは逆に若いときからの精神の遍歴もすべて煮詰まっているのだと見るものと思います。《永遠の現在》ですね。あるいは 即得往生とも言います。 何を言おうとしているのかと言えば さとりとは さとりがどうでもよいと言える境地を言う。のだと思います。 あとは すべては 生活世界が問題だと。いま生きることが・いまを生きることが すべてだと。 人間として真理を探究したら こうなったというのが 親鸞だと思います。あとは 弟子一人も持たずそうろうであって みな互いに同朋であると言いました。そういう現実の生活共同こそが 仏道であると。この社会をよくして行くことが つとめであると。極楽往生は どうでもよいという結論です。 キリスト・イエスも 同じだと考えます。 わづかにキリストは われらに元気をあたえました。心の奥なる心の灯心に火をともしました。チカラをあたえました。たぶん 親鸞もそのチカラをもらったのだと思います。 そうして この信仰は 集団では無理です。わたしなる固有の時間の問題ですから。 この質問で問い求めているところは 日蓮もそういった姿勢があったとしたら ただひとつ 《おれ(日蓮)のとなえる南無妙法蓮華経が 世界のいのちであって それよりほかに神はない》という狭苦しい独りよがりを言ってしまったということ これを正そう(質そう)ということにあります。 ★ 知識量 ☆ は 説得のために必要だと思います。いまも少しづつ仕入れています。 わたしがわたしであるためには あまり必要としません。知識は。 こういう非常識を平気で言うから ヘンな目でわたしは見られています。