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ブッダは 神ですか

 絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

noname#80116
noname#80116

みんなの回答

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.42

<<絶対的な実体としての「我」(神も含む)だけではなく我々個人にも「我」がないといっているのです。永遠不滅の何か〔* が でしょうか( bragelone )〕自分にないことぐらい調べれば簡単にわかるものです。>> 私もそう考えますよ。  ▲ 絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。  ▲ Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。  ▲  仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。 <<上の見解は 明らかに magga さんのご見解としての★ 僕には〔有説・無説・無記説の〕三つがあるように感じるのです。そもそも「虚構の想定」は制限の無い〔ものであり〕論拠も論理も何も求めないものと思っていますので。虚構の設定についての人の取る態度はこの三つかなと。触れない・思考すらしない人もいるだろうなと。☆ とは異なっているようですから。《絶対は無い》というふうに 触れていますね。つまり 無説であるようですから。>> 異なっていると感じるのですね。 私自身は「変わらないもの」は、成り立たないとは思います。生まれる性質のもので変わらず、永遠不滅で変化しない実体は無いと思いますよ。 ただ「根拠ど返しの妄想」においては三つの立場の人が有るのなと思ったのです。実際「それ」に対して思考しない人もいると思うんですが。そもそも「根拠ど返しの妄想」ですから。これも成り立つかと。 <<無限の概念をきちんと把握すること>> 「無限」=「ある原因が取り除かれない限り、限りなく続くこと」 と考えてます。前にも書いてますが。 <<あるいは 涅槃をどう規定しているのか>> 「涅槃」=「生まれる原因をっ絶ったことにより結果が出なくなった状態。」=「心の回転の働きの原因を全て絶ったので、結果として心の回転が止まった。」 と理解してます。 「四段階の悟り」は順序良く各種無知の生まれる原因の根を絶つものと考えてます。 <<絶対の概念との関係>> もし「絶対」が不変の永遠不滅の変化しない実体と定義されたものなら。関係を持ちようが無いと考えてます。変化なくして「関係」というものは成り立たないと考えてますから。 ~遍く生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#80116
質問者

お礼

 maggaさん ご回答をありがとうございます。  回答としてこたえたと思っておられるのですね。    おそらく いままでのことを繰り返しているだけのようですよ。  と理解しています。  ~~人と生まれたからには 人間となって ふつうに 相手の問いに答えられるように みなが なりますように~~

noname#80116
質問者

補足

 回答者のみなさんへ。  新しい質問に移ることにしました。  ブッダディスムでは 基本的に無神論であるが 人によっては 有神論もありうるとおそわりました。これを 宇宙論のごとく議論を展開して 説明をいただきました。  また 無神論も 有神論と同じく 無神という神を信じるという信仰の類型にあると見るのは 日本人の伝統的な生活態度とかかわりを持つという観点において この日本人の柔軟な思想動態をおそわりました。  これらの議論を 推し進める役割をになったお話をいただいています。  ということで 今回は みなさん全体にポイントを差し上げたいというつもりが 強く 一件二件を選びませんでした。  ありがとうございました。しかし この質問を継いだ新しい質問にも 気軽にご投稿をいただきますようお願いいたします。     2008年8月1日  bragelone

noname#117439
noname#117439
回答No.41

primeapeです。 心配をかけたくないゆえの挨拶です。 今の私を支えるのは無限ではなく無尽蔵の生命力なんですよ。 信仰の言葉はなるべく使わないでその足で歩んで生きたいです。 心をかり立てるもの全てに対してです。 高校時代は山岳部でした。 今は一時的にばてています。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん わたしも 千メートルの山々には登ったし キャンプもしました。ですが 妹は ワンゲル(ワンダーフォーゲル)部でした。聞くところによると わたしの山登りとは とてつもなく別のようです。ですが やはり聞くところによると 山岳部になると もう別格だという話です。へぇー そうだったんですか。と単純に 驚きました。  ★ 信仰の言葉はなるべく使わないでその足で歩んで生きたいです。  ☆ 分かりました。また 聖書を引っ張り出しましたね。でも ただし あれは 狂気という話が出たからではあったのですが。  事実関係のみにて。

noname#117439
noname#117439
回答No.40

primeapeです。 A39ですが、代理表現、救済の方便、受け入れます。 自ら解き放った言霊には責任を取ります。 どうせ忍び込むなら正門から入って欲しいと言う表現です。 お心遣い感謝します。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん この いまの問題が どうして  ★ どうせ忍び込むなら正門から入って欲しいと言う表現です。  ☆ ということになるのか はっきりしません。人びとのデーモン電磁波の作用が 《忍び込む》ということですか?  これは けっこう深刻ですか? たぶん その現場つまりいわば現行犯なわけですからその現場で 相手に 何か声をかけるとよいかも知れません。    そこは わたしの心の庭である。  そのデーモン作用は 不法侵入である。  出て行きなさい。  不法侵入であり 人権侵害であるから 注意して つつしみなさい。  ともかく はっと我れに気づくようにすること 我れに還らせることが まづ 初めの対処の仕方だと考えます。

noname#117439
noname#117439
回答No.39

primeapeです。 論議の横レスじみてますが無限と永遠の違いです。 義務教育の理科の実験でモーターの仕組みを教えてもらったと思います。 そのモーターの構造が生み出すサイクルを無限になぞらえるとわかりやすいです。 回転しているモーターそのものに感情が宿っていればそのやめるきっかけの一切無い様が無限の世界です。そのスイッチは(神の手)実験をしている生徒の手の中です。それが小さな神様体験です。 永遠はそのような終わりの無い世界です。その全てを知る記憶力は誰にもありません。神に祝福された神秘体験は人によってはあるようです。 私の場合その一瞬ごとが永遠の時間の中にあることは知りえます。 これらも証言みたいな物だと思ってください。 そして無間地獄なるものがあるなら天国もまた無限の世界、要するに終末が神の手にゆだねられた世界です。 そこから抜け出すことを転生のきっかけとする考え方も持ちえるかもしれません。 この点は何時までも地獄に落ちている私には無責任すぎるたとえ話ですが。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん いけませんね。  ★ 何時までも地獄に落ちている  ☆ とは!!  まぁ 救済の方便として そうなっているのかも知れませんが。  というより 地獄だの極楽だの天国だのという規定から自由になってください。たとえ話なのですから。  《地獄に行きたいくらい》だとかおっしゃっていたじゃないですか。  無限・永遠は 絶対の属性であり 代理表現です。  絶対は われわれ人間には 表象し得ないものです。ただの想定です。仮りにこれこれのようにたとえれば 分かりやすいと言って たとえ話を用いるだけです。  無限を分割することはできません。けれども 仮りに分割したとすれば その部分は いづれも やはり 無限です。そういう想定です。  《限りない / 尽きない / 終わりがない》という表現は すでに時空間のことがらによって 表象しています。かたちに表わし その概念によって 認識しようとするものです。すべて たとえです。仮りの説明表現です。  真理と言ったその瞬間に きみは できるなら とどまりたまえ。  しかし きみは とどまり得ないであろう。  この世の黐(とりもち)が きみをして とどまらしめている。  理性で分かろうとすることは 表象を伴ないます。信じるとは 表象をいっさい無くしているので 考えるとは言わず 信じるというのだそうですよ。

noname#117439
noname#117439
回答No.38

primeapeです。 論議の流れから一つ証言。 神を信仰するエネルギーが人間に向かうとその人間は狂うんですよ。 神のよき理解者や証人も同じ目にあいます。 そこで敗北すると新興宗教の教祖になりたい誘惑です。 金儲けに逃げたら楽ですからね。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。   ▲ パウロ:《コリント人への第二の手紙》 ~~~~~~~~  5:11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。  5:12 わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。  5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。   5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

  • neoemmma
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.37

仏陀は私も神ではないと思います 思う理由としては神はその存在が真理である それに対して仏陀は存する真理の最高レベルの理解者だと思うからです ただし、 各宗教の真理はその宗教内だけで存在しているものだと思います なので仏陀は神のよき理解者でもなければ神でもないと思います

noname#80116
質問者

お礼

 neoemmmaさん ご回答をありがとうございます。  前半の  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  仏陀は私も神ではないと思います  思う理由としては神はその存在が真理である  それに対して仏陀は存する真理の最高レベルの理解者だと思うからです ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ によれば 有神論でも無神論でもどちらでもよいかたちで ブッダが 最高水準の状態にある人間だとして よくわかったのですが 後半は またまた 振り出しに戻ってしまったようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただし、  各宗教の真理はその宗教内だけで存在しているものだと思います  なので仏陀は神のよき理解者でもなければ神でもないと思います ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり 《真理》は 《絶対》の別名ではなかったのですね。ここでは 別名であるという前提だったのですが そうではないようだと見ておられるのですね。  でも けっきょくは 絶対を 真理と呼ぶ呼ばないを別として 有りと想定するか 無しと想定するか どちらか一つの立ち場にあると考えられます。真理を超えた《絶対としての真理》を さらに立てるとすれば 有神論であり そうはしないとすれば たとえ気づいていないとしても 無神論という絶対観に立っているものと思われます。  たぶん  ★ 神のよき理解者  ☆ というときの《神》は 絶対の代名詞ではなく 教義としての神のことを指して言っておられるのでしょう。つまり よその宗教のおしえについて よき理解者であるとは思えないという意味なのでしょう。  そうなると ちょっと 悲しいことですけれど。(つまり 宗教は わたしにとっては どうでもいいのですが ブッダが それだけの人間であるとすれば 悲しいかな もう葬られても 仕方がないように思えます)。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.36

<<maggaさん 逃げましたね。これで 何度目でしょうか。>> 逃げたのですかw自己の見解との相違があっただけでしょう。逃げたと感じるのですね。 そんなことはどうでも良いですが、私の見解を述べてるだけですよ。なかなか受け入れてはくれないようですがw受け入れる受け入れないは自由ですw 大きく思考の仕方。構造・言語一つ一つの意味の取り方ののが違い。前提条件を感じ、伝わらないかな。というのが今の感想です。私の理解力の問題もあるでしょう。 再び思うところを…。 <<(1) 虚構の想定は 絶対にかんしては 有か無かの二つに一つです。★ 虚構の設定ならば一つに限定せずとも、両方と無回答。「有る」「無い」「議論さえない」の三つが有るでしょうね。☆ とはなりません。無神論だということになると 都合の悪いことがあるのでしょうか>> 僕には三つがあるように感じるのです。そもそも「虚構の想定」は制限の無い論拠も論理も何も求めないものと思っていますので。虚構の設定についての人の取る態度はこの三つかなと。触れない・思考すらしない人もいるだろうなと。 何かの設定に対して触れない思考すらしない、考えたことも無い人を「無い」とするという貴方の設定の中においては、その二つになるのですね。 <<どうして議論を曲げるのでしょうか。これは 想定するということは 経験合理性による議論ですよ。>> そうなのですか?妄想の自分勝手な論拠も根拠も無い無限に出てくる設定が、経験的合理性になるなんて話は聞いたことがありませんでした。 経験もない、自分勝手な論拠も根拠も無い無限に出てくる妄想に、合理的に何かを精査選択していくことがかなうものだとは考えていませんでした。 <<たとえば 無限を思い浮かべてください。一・二・三・・・と始めて限りなく数え続けるというのとは 少し違います。>> 無限とは「ある条件下で、限りなく続くもの」と、私は理解しています。 <<無限という想定は それを分割しても>> 分割とはどのようなことか私にはわかりません。どのような意味を持っているのでしょう。 <<無限という絶対>> って何でしょう。「ある条件下で、限りなく続くもの」という「」… <<概念として扱えば いくら分割しても やはり部分それぞれも無限であるという内容になりますが これは 想像の世界にしか 《有る》とは言えません。>> ですね。その「想像をなした人」にとっては想像の中に「有る」といえるでしょうね。 <<したがって この経験世界の人間の言葉では その同じものを《無い》と表現しても《有る》と表現しても 同等のこととなります。>> 「それに想像をなさ無かった人」以外の「それに想像をなした人」にとってはどちらも妄想ですね。 同等に「そうかもしれないしそうでないかもしれません」ということになるでしょうね。 <<《答えない》のであるならば この議論を 反駁しなければなりません。それが 経験合理性による議論です。>> 答えないというか、可能性として考えたとき「それに想像をなさ無かった人」がいるとおもうのです。いないのでしょうか?? <<(2)《涅槃》の定義を しっかりとしなければいけません。>> 涅槃についてはちょっと語れません。しっかりその内容を遍く語れるのなら最低条件として、私は阿羅漢になっていなければならないでしょう。私は至っていないです。 ですから涅槃に至る阿羅漢になるための条件だと思われるものをちょっと考えて見ますね。 渇愛を滅し、パパンチャを滅し、煩悩を滅することかなと。今のところ憶測してます。 <<絶対か否かです。>> 「絶対」の定義が具体的にわかりません。「絶対」という自分勝手な論拠論理もひつようとしない想定の想定。その想定した妄想の内容の妄想…それ自体は絶対ではないので、定義などわかるはずも無いと思いますが そもそも定義が無いものについて、それにあたるかあたらないかもし定義したところで、その逆も、他の見解も生まれますね。 「そうかもしれないしそうでないかもしれない」 愛好する妄想を持つ人の思考のなか・頭の中には妄想として「有る」「無い」が成り立つのでしょうが。 <<《無回答・議論さえない》の答えや定義はありません。>> 貴方の見解はそのようになるのですね。 <<無回答という回答は 自由ではなく はっきりと 妄想になります。>> 貴方の見解ではそうなるのですね。 私はそう思わないのです。妄想とは非論理的・自分勝手で現実とは関係なく感情を引き出すようなもの・事実と違うこと。としています。 <<☆ いいですか。無限や絶対として想定したことの内容を説明すれば 有限性や相対性を超えているからには 経験的なものごとが有る・無いを超えているのです。>> 自分勝手な限りなく出てくる根拠を必要としない妄想ですから。その内容を説明してもその語る人にとっては、有る無いが成り立ちますが(頭の中で)。 他の人にとっては《有とも無とも決められない》でしょうね。 「そうかもしれないしそうでないかもしれない」 新たな情報得ても更新しないのでしょうね。 事実的に論理的に思考する類のものではないので。 経験的な実際的な事実的なところとは関係の無いものでしょうから。 これこそ事実と「決め付け」るか、新たな見解があると「想定が増えるか」になるのでしょうかね。 <<《有とも無とも決められない》という仮構です。>> 「そうかもしれないしそうでないかもしれない」ですね。 <<これを 《神》という言葉で代理表現させれば 有神論となります。>> 私にはこの展開がどうやって「有」となされるのかわかりません。 「これ」が何をさしてどのような論理展開の結果「有」となるのか解りませんでした。 <<《涅槃》という言葉で代理表現させるなら 何となるでしょう?>> 「これ」が解りませんのでなんとも… <<無神論にしろ有神論にしろ 信仰という原点に立つことがおそろしいのであり この恐怖を紛らわせるために 涅槃を 自分たちの都合のよいように 概念づけ変えて この概念の繭のなかに あるいは 甲羅のなかに 閉じ籠もっているのでしょう。>> そのような見解が貴方の思考に現れているのですね。 この文を読んだ感想とすれば、「神論」が解りませんでした。信仰の原点って何でしょう。それは恐怖なのですか。涅槃は因果関係を明確に体験するまでは「憶測」でしょう。 <<八正道が泣きますね。>> 八正道を学ばれているのですね? そうですね。 生産性の有る。現実の生活・心の修習に役立たぬ、思考・無駄話からは離れなければなりません。まずは自己を修習せねばなりません。 <<はやく人間になってくださいよ。>> 悟って病無き人間となるように正精進いたします。 生きとし生けるものが幸せでありますように。

noname#80116
質問者

お礼

 補足です。  《絶対》について 《有説・無説・無記説》の三つがあるという自説を唱え続けることになっても 仕方がないので この点にかんしても あらかじめ 補います。  有とも無とも想定せず 考えない・議論せずという立ち場は 成り立ちません。  なぜならば 有限や相対を超えたところというのは 全体として ひとつしか あり得ないからです。また それを 想定しないというのは 無限や絶対という言葉を使わないということを意味します。したがって その社会性という観点から 成り立ちません。   ほかの人が使っているとき つまり 絶対や無限を 数学や哲学において使っているとき その言葉を たとえやむを得ず あなたが使ったという場合にも もし我れ関せずというのであれば 人びとから では あなたは どういう意味で いま 使ったのですか? と訊かれるでしょう。どうしても 答えなければなりません。  ですから もし仮りに 第三の無記の立ち場を認めたとしても その立ち場と 一般の有か無かのいづれか一つの立ち場に立って 数学や哲学においては 使わなければならないでしょう。  というよりも前に ただ一つの絶対という領域に対して 有か無かの立ち場を選択する場合と 我れ関せずという立ち場の選択とは 次元が違います。知らない・考えないという態度は 無説を選択したあとに もうどうでもよいと見なして採るそういう次元の態度です。次元あるいは想定にかんする手続きの段階が違います。  涅槃が 絶対を基にしたその代理表現であるとすれば 誰もが そういう扱いをします。じゃあ 無説(無神論)なのですね?と確認します。 そうではなく 涅槃が ただの経験概念を想像において捉えたもの(つまり 憶測)だとすれば もう どうでもよい / 関心のある人だけが 追究したりすればよいという扱いになります。  (それでも 無という絶対を 一たん 掲げたあとのことだなという理解を 一般は しますが)。

noname#80116
質問者

補足

 maggaさん ご回答をありがとうございます。  いつまた逃げを打つのか分かりませんが 応答の礼儀を尽くします。  Sumanasaraさんが 「神々について」の質問に答えたものが 文章にて読めます。《日本テーラワーダ仏教協会》公式サイトの中の http://www.j-theravada.net/qa/qahp31.html(2002.1月)です。  引用が 片寄ってはいけませんが 全部は 引けません。上のURLにて 全文を参照願います。  いわく  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。  すべて因果法則の結果なので生命に上下はありますが中心的になって支配するものはありえないのです。だから、わざわざ「神がいない、神がいない」と余計な大騒ぎもしないのです。(お釈迦様は)(私は別ですが) 〔* 括弧書きの部分について 意味が取りにくいですが 原文のままです( bragelone )〕    Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。  因縁によって現れるものだから「絶対的」となるものはないということです。因縁、条件などか変わるとその存在もかわってしまうのです。    仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。人間どもが信じている「あやふやな神」にケチをつけようとする「こどもの喧嘩」ではなく、「絶対的、永遠不滅実体としての存在」(eternal existance, eternal substance, permanent soul)というものは「成り立たない、逆である」と具体的に説明していくのです。この論理の結論として「神」がいなくなるのではないのです。それは副結論なのです。結論は「すべての現象は無常である」ということです。考える前にこの立場を理解しておきましょう。    絶対的な実体としての「我」(神も含む)だけではなく我々個人にも「我」がないといっているのです。永遠不滅の何か〔* が でしょうか( bragelone )〕自分にないことぐらい調べれば簡単にわかるものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いくつか 論点として 取り上げるべき内容がありますが 一点に絞りましょう。  ▲ 絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。  ▲ Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。  ▲  仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。  ☆ もちろん この Sumanasara さんと magga さんとは 人格が別です。いま対話をしているのは magga さんとです。ですが その magga さんに このような見解とご自分のそれとの違いについて 明らかにしてくださいと頼んでも よろしいのではないでしょうか。  つまり 上の見解は 明らかに magga さんのご見解としての  ★ 僕には〔有説・無説・無記説の〕三つがあるように感じるのです。そもそも「虚構の想定」は制限の無い〔ものであり〕論拠も論理も何も求めないものと思っていますので。虚構の設定についての人の取る態度はこの三つかなと。触れない・思考すらしない人もいるだろうなと。  ☆ とは異なっているようですから。《絶対は無い》というふうに 触れていますね。つまり 無説であるようですから。  そのほか 無限の概念をきちんと把握すること あるいは 涅槃をどう規定しているのか――つまり 絶対の概念との関係で どうなのか―― この二点は まだ 大きな課題でしょう。けれども すでに ほかの回答者の方々も それらに応答するわたしも その文章に すでに触れていますので もう省きます。  無回答となっても 驚きません。回答があって 逃げを打っても やはり驚きませんが しかも もう相手にしません。すでに 同じことの繰り返しになっています。これは 水かけ論ではなく すでに こちらが言ったことを 忘れている あるいは 曲げて解釈し続けているというやり取りになっているからです。もちろん それを 善意(つまり 知らないで そうしている)とは思っていません。  この辺にしときます。と質問者が言えたら いいのに。(冗談ですよ)。

回答No.35

前回の前段の話は、ブディストの方とのやりとりにやきもきした面もあるのですが、ここで言いたかったことは <絶対>の概念は、その限界を明確にすることは現時点では出来ないけれども、決して、虚構ではない現実なのだということでした。 言葉不足でしたね。 ホーキングとペンローズによって証明された一般相対性理論の特異点は、 単なる数学上の不成立点としての特異点ではないという証明であって、特異点が現実であることを示しているのです。 あくまで、一般相対性理論が正しいということが前提ですが非常に重大な示唆です。 この特異点は、「何が絶対か」の内の一つの<絶対>なのです。 この範囲においては、如何なる異論も教義もこれを否定できません。この証明は、当時の物理学者が愕然とするほど完璧だったのです。 これがなければ私はこれまでの記載を全くしなかったと思います。  一方、量子論は思想なのです。こちらも正しく非常に有用で、量子論なしではパソコンも動かなければ、 光通信も出来ません。しかし、森羅万象を量子的に観察した場合に表現される思想なのです。経験科学としての ニュートン力学とは全く異質です。量子的に個々の事象はざわめき立っていて、いつスレッシュホールドを超えるか 神(←創造主としての)さえも知り得ません。無は、無ではなく常に+有と-有が消滅し合っている世界です。  そうなのですね。ここでは<絶対>は虚構です。  ここでいったいどっちなんだでもなく、量子論が相対論を否定しているのでもない両者の肯定を考えるんですね。 いいのです。別に点が理想的数学的点ではなく、量子的細分化される限界としての量子的変化を持つものであっても、 宇宙開闢の0.000001秒前(ハッキリは知りません)の極小までは別に証明されていて、 その範囲で、<絶対>が否定されても、いわゆる特異量子(造語です)は現実として存在すると考えてしまいます。 その方が遙かに現実的ですし、理解不能な特異点が感覚的にぐっと身近になります。 >《(さらに上位の特異点は否定できませんが・・)》  で、森羅万象には、人間知性が知覚していない次元が存在するとなると、話はがらっと変わると想像します。 創造主の創造主というようなアホな話は抜きにして・・・ 無限の空間を無限に重ねるということにおいて、その成り立ちからしては上記の特異量子はその確率をもって 量子分(無数の)の特異量子が開闢し重なり合っているということになり、全ての無限空間と個々の特異量子の の<絶対>としての固定はできても、特異量子の重なり合いには地平線が現れて、全く違った意味での特異点が 否定できないと想像するのです。これは、メルヘンですのでお話にすぎません。それこそ虚構です。 >神の国が地上の国を包むという状態  神の霊が われわれの身体=精神に宿るという  もろ手をあげて賛成します。神の霊を宿した精神はそれこそ八正道により「その主体」を凌駕するが、目標ポイントです。  <神>は<絶対>の上位概念で<神>は対立した<絶対>と森羅万象の両方を含む概念なんですよね。  <神>とは何かはやめにして、狭い範囲であっても何が神であるかですね・・・  <神>は<絶対>である。<神>は不可変性である。<絶対>は神とはいえない。  <神>は森羅万象である。<神>は可変性である。森羅万象は<神>とはいえない。  なんだか、人間と「その主体」の様でもあり、相対論と量子論みたいでもありますね。              あぁ、・・・「その主体」の根源は量子かもしれません・・・メルヘンです。  でも、このまま両者を肯定するのが正しいのだと思います。  神は、単一ながら個は無く、不変にして自在、有でありかつ無・・・・  <神>は、森羅万象に生息しない「その主体」が最も理解するのを不得意とする 存在かつ不存在 ですね。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  たぶん このあたりが 物理学にかんしては わたしの限界のようです。  ★ 特異点は 現実。 / 量子論は思想。〔そこでは〕無は、無ではなく常に+有と-有が消滅し合っている世界です。  ☆ ですから 素人から言わせれば やはり試行錯誤のようだと思えてくるのですが 試行錯誤の過程にあっても 真実は 得られていくでしょう。それは 旧い理論を新しい理論が乗り越えて行っても 旧い理論で コミュニケーションを取っていた人びとどうしの間で 新しい理論の時代になっても 真実が更新されていく恰好でもあり 支障をきたすというようなことではないのでしょう。  ということは ひとつに やはり つねに 経験世界を超えたところに 絶対が想定されているということでしょうし もう一つに その絶対観と 経験科学との関係 これが つねに問われ続けるということのように思われます。  絶対観と経験科学との差異 そして 同時に両者のつながり これは けっきょく 神の国と地上の国との関係に近い様相を呈してくるのでしょうね。分かりませんが 対比としては 思想たる量子論と現実たる相対論との関係になるでしょうか。分かりませんが。  メルヘン以上の突拍子もないお話です。最後の杯を十字架上に飲む前に イエスは 弟子たちに言った言葉の中に こういうのがあります。  神のわざと人間のわざとの関係とその現実のあり方を 空想のごとく 語っています。《父〔なる神〕》とは 絶対のことであり 《人間なるイエスが キリストとして子〔なる神〕である》とき その《子なる神》は やはり 絶対であり イエスは ふつうの人間であります。  ▼ ヨハネ福音 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。  14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。  14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。  14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これによると ふつうの人間であるわれわれも もっと大きなわざをおこなうようになると考えられます。量子重力論も 知られるべくして 知られるようになるでしょう。  * ちょっと きれいごとすぎますか。きれいに締めくくろうとし過ぎましたね。

noname#117439
noname#117439
回答No.34

A33です。 霊能力者的経験は個人的なノウハウに乏しいんですよ。 したがって今回の精神世界の様相については誤解を受けるような意見は言えないです。 無邪気な童心として一緒に遊んであげる感じが私のやり方です。 おもちゃ屋さんとして生活する私なりのやり方です。 ここからは消息ですが、 そういえば私はデーモン現象を意識に感知されない領域に封鎖することに成功しました。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  ★ 無邪気な童心として一緒に遊んであげる感じが私のやり方です。  ☆ これは 時間をかけるというやり方のようですね。つまり 面と向かって ともにいる時間があり 今後とも つづくというのであれば そう出来ますが。  検討してみますが まづ無理だと考えます。そういうつもりであれば 相手も 遊んでいると見て こちらをばかにすると思いますよ。この質疑応答では です。でも 検討してみます。  ★ そういえば私はデーモン現象を意識に感知されない領域に封鎖することに成功しました。  ☆ これは 自分のデーモン現象をですか? ということは primeapeさんご自身が デーモン作用をしておられるということですか?  いや わたしは しませんよ。小学四年か五年のときに そういう事態に 初めて なりかけたことがあって  そのとき これは おかしいと思って 途中で 止めました。そのデーモン作用で 互いのコミュニケーションが図れた時には どうも 互いの関係として おかしなものになるのではないかと考えたからです。たとえば 顎で相手に指図して従わせるとか そういう支配関係と そう違わないと考えたからです。(この考えは あとになって 成人してから 得たものです。そのときは 何らかの感覚の問題でした)。  相手のデーモン作用の場合 おそらく わたしは これからも 無防備です。何もしません。《アース》をさせておくということです。こちらも そのデーモン作用を――電磁波のごとく――受けるのは 気持ち悪く いやですが その作用じたいは アースのあと ふたたび 外に出ていって 消えます。 けれども ほんとうは 勝手に ひとの心の庭で 自分のアースをするなとは 言ってやるべき問題です。

noname#117439
noname#117439
回答No.33

primeapeです。 私も観念の世界においては日々地獄に落ちていますが、地獄の救済に訪れた仏の姿は金色ではなく地獄最強の魔物です。その魔物に仏の姿を見ないと正しい信仰とはいえません。 この仏の変幻自在の姿に神との接点があります。 その信仰の様式は自由ですが私なりの結論なら人間信仰です。 この辺をわきまえないと仏像を眺めてその値段を値踏みする心境となります。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  そうですかぁ。そのあたりは わたしも このところ 心配していまして と言いますか なんで こういう結果になるのか 思案中でして なんとも 結論は 出ていません。  要するに コミュニケ―ションにおける人との衝突の問題です。  今までのと そして今現在の方針は 課題に就けです。その問題の応答に即して進めです。  これによりますと   ★ 観念の世界においては日々地獄に落ちています〔が〕  ★ 地獄の救済に訪れた仏  ★ 〔そ〕の姿は金色ではなく地獄最強の魔物  ★ その魔物に仏の姿を見ないと正しい信仰とはいえません。  ★ この仏の変幻自在の姿に神との接点があります。  ☆ といった信仰の問題とは別だという方針でいます。問題の解明じたいに即して 進んでいます。つまりは 経験合理性による推論のみを問題にしています。  どうなんでしょう? 途中で――あるいは もしかすると 初めから―― 信仰の問題ないしその観点を容れるべきでしょうか? 相手は 容れていますね。課題とは別に つまり主題とは別なのに 入れようとしていますね。  (1) そのことを指摘すべきでしょうか? つまり 課題は 別ですよと分からせるべきでしょうか?  (2) それとも もっと論理に徹して 推論のあやまりを 一つひとつ きちんと指摘すべきでしょうか? こちらは (1)以上に みっともないという抵抗感があります。そんなことは 分かっているではないかという自負があります。  (3) それとも もう勝負はついた。のだから 相手の面子を立てて 微妙に主題の周辺のあたりで お茶を濁しつつ 相手の折れるのを待つのでしょうか? はっきり折れなくても もう分かっているから 手打ちをするというようなことでしょうか? 空気が醸し出されたなら それだけで 結論が出たと見なし あとは 角の立たない言葉で 処理していくのでしょうか?    あるいは 一言で言って   ★ その魔物に仏の姿を見る  ☆ 感覚が primeapeさんには ありましたか? なくても 見ようとするべきでしょうか? 見たと見なすべきでしょうか?  ★ この辺をわきまえないと仏像を眺めてその値段を値踏みする心境となります。  ☆ たぶん 仏像をどうでもよいとする見方を わたしは しているのだと考えます。仏像が 互いの間に 置かれているなどとは 見ていないのではないでしょうか? つまり わたしは です。  たぶん もともと わたしは――ですから―― 相手が 仏像の値踏みをしようとする場合を ひとまづ 措いておいて そうではなく そうではないのですが 仏像の出来のよしあしを鑑賞しようという相手の見解について すでに 初めに〔わたしは〕 負けの立ち場にいるのだと考えます。そんなことは どうでもよいという考えですから 競おうというつもりはありません。それでは 失礼になる場合があるので 一たん 負けの立ち場に立ってしまっているのです。仏教のおしえの中身については いっさい反応していません。その性格・絶対論における位置づけのみを 問題にしています。つまり 主題に就け・主題に即せの方針です。  ここから どういう《魔物の中に仏の姿を見る》という妥協点が見出せるかになります。  どうなんでしょう?  ☆ いちばん いぢわるなやり方は――それは 誰もに当てはまると思っていますが―― 例の《わが神 わが神 なにゆえ われを見捨てたまいしや》という絶望の言葉を吐くところまで ともに(一緒に です) 進もうというものです。これが でも いちばん 優しい対処の仕方で その意味は いちばん早く 世界との和解の地点に立てるものであるでしょう。  ですから 途中では(また はじめから) 魔物に仏を見るという方針は 採っていません。これが わたしの現状です。妥協はしません。絶対の真ん前にまで すすむことを優先させます。  ですが――たしかに そうではあるのですが―― じっさい わたしは そこまでは いくら負いやすいくびきであると言っても あからさまに 負いなさいということは 言っていないし そのつもりもなく できれば それを回避できて 目的を達することができればと考えて文章は書いているのです。それが けっきょく 極北の行き方に 結果として なってくる。それで 思案中なのです。  もっと 助言をいただけますか?

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  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  •  《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  あらたに問う必要を感じました。ご教授ください。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?