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普遍神を名づけた個別神をめぐる主観は 特殊絶対性

 1. 神はすべて 同じひとつの普遍神である。これは 一般絶対性とよぶ。  2. 一般絶対性なる普遍神を 個別に名をつけて――あるいは 名などはなく神も無いのだと見て――主観がえらんだ神は 個別絶対性である。  3. すなわち 《無い神》または《有る神:オホモノヌシ;ブラフマン;ヤハヱ―;アッラーフなどなど》。  4. ブラフマン(梵)なる神は わが自然本性なるアートマン(霊我)と一体である――すなわち 梵我一如――と忖度するのは 特殊絶対性の始まり。  5. ただし アン-アートマン(無‐霊我:無我・非我)を唱える場合にも その元に言わば無梵(ア‐ブラフマン)なる《無い神》をかかげ そのようなマクロコスモス( 宇宙)とミクロコスモス(人)との一体を言うようであるから――つまり《無い神》派にあっても―― 類型としての梵我一如は 共通なようである。  6. アミターバ・ブッダなる《有る神》の場合は 主観が アートマン(霊我)の代わりに ブッダター(仏性)なる霊において呼応する。すなわち 仏仏一如なる梵我一如パタンである。  7. つまりここまでは 類型としての梵我一如が なお《一般絶対性=個別絶対性》のもとに その基礎となり基本となっている。  8. そこから主観はさらに 神についておのが思いを描き出す。  9. 神は われと――信仰なる《非思考の庭》としてだけではなく――思考においても・また感性にあっても つながっている・・・といったように 主観が 飛んで行く。これが 特殊絶対性である。  10. おれはきのうの夜 神を見たんだと言うのも ひとつの特殊絶対性である。そんなわけねえよと応じるのも 同じく特殊絶対性。なぜなら どちらも 証明できない。(だから 絶対性ないし神と呼んでいる)。  11. この理論で――つまり 添削をお願いしさらに実践理論を展開して行って欲しいのですが・それが 質問ですが――おおよそ世界に起きている《神をめぐる心的現象》のすべてについて 理解の基礎としての糸口を明らかにできるのではないでしょうか。  なお 次の趣旨説明欄をも参照ください。  【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】  https://okwave.jp/qa/q9358717.html

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  • Nouble
  • ベストアンサー率18% (330/1783)
回答No.3

済みません、 みたび、汚す 非礼を お許しください。 私の、 発言と、しての 不完全性を、感じました。 場を、お借りします。 「拘りを、捨てる」 此に、言及しました。 まるで、 容認し、 太鼓判を、押したかに 見えます。 所で、 此の内には、 されるままを、受け容れよ と、取れる 可能性が、あります。 が、 私は、此が 屈指に、嫌いです、 努力を、否定する事は 概ね、嫌いです。 併せて 他者否定をも 屈指に、嫌いと 添えさせて、頂きます。 言及する、機会を お与え、頂き、 有難うございます。 さて、 お礼、有難うございます。 確かに 弛まず、揺るがない事も 時には、必要ですよね。 〉存続をわざと脅かすウゴキについては  〉その心を質(ただ)し  〉しかるべき批判をおこなって行かねばいけない 〉と考えます。 はいけんしてて、 ただ、ただ、 「有難い」と、感じました。 しかし、 真意を、振り返れば 弛まず、揺るがない事も 求められる中、 「困った」とも、感じました。 批判なら、まだしも 否定まで、行かないか… 争いの種を、 殊更に、育てる事は 好みません。 確かに、 ありと、あらゆる 口伝は、 多かれ、少なかれ、 歪められている と、言えるでしょう、 かも、知れません。 しかし、 ことわりの、芯が 元は、 仮に、一体なら レイヤーを、重ねる如く 口伝を、重ねて 更に、 同一性を、見るで無く、 歪められ易さ、等、 乖離性傾向をも、見て、 神髄を、読もうと する、 ならば 現存口伝も 壊れよ!! と、いうべき程の、無価値でも なくなる。 とは、思いませんか? まぁ、此の様に 感じ、語らえれば、 そんな手間も、要りませんがね。 但し、 口伝を、レイヤーの如く 重ねる、際は 留意すべき点が、あります。 伝わる事しか、伝わらなかった、 伝えるべきを、優先し 全て、伝えた訳では 必ずしも、無い、 正しく、伝えきらなかった 点も、ある、 敢えて、状況より 偽りを、伝えた点もある。 一例と、して 貴方は、 恐らく、既に 初等数学を、理解されている、 ですよね? ならば 初等数学の、認識確認より、 所作の、理解法に 注力する、事を 望まれるだろうし、 私も、 注力する事と、思います。 しかし、 私が、 貴方では、なく、 初等数学が、怪しいな? との、相手に 話す時は、 内容を、変え、 初等数学への、理解を 必要なら、話すだろう。 伝えたいもの ゴールが、同じでも… ですよね。 見方を、変えれば、 教えが、違っても 伝えたい事が、違う とは、限らない。 ご理解は、頂けますよね? また、他の例 「多食は、罪」 と、 ズバッと、言う事は 何を、招くか? 此の、観点から、 何かを ご理解、頂けますよね? 人族に、向け 人族の、滅しを 望まず、来た者の、 其の、 発言の、内には 「多食は、罪」が、自然か? 「君たちの為に、用意した」が、自然か? ご理解、頂けますよね? ならばこそ、 重ねるべきは、何処か、 修正すべきは、何処か、 吟味も、 又、必要、 ご理解、頂けますよね? 視点を、変えて 人所謂神が、何のため 伝わらない、教えを 解っていて、 敢えて、説いたか? 何を、望んだか? 此の点に 思いを、馳せれば 人、所謂所の 神と、 伴わない、教えにも 表しの、際の 思いから、すれば あながち… ね~ 毒も、害も、あったでしょうが 無益でも、なかったかと、 〉☆ それは ほとんど意味を成しません。 〉☆ 《何ごとにもこだわるなかれ》というオシヘに 〉こだわっている。或る小説を 〉あたかも神としている。 線引きに、拘らず と、伝え、 拘るに、拘らず と、伝えました。 何故、 線引きに、拘らないのでした? 〉☆ どうしてそう成っているか わけを知れ。 訳と、しでも、 良いかも、知れませんが 私の、言葉と しては 合っているか、不鮮明に なって、しまいます。 其処で、此処では 知恵、考え方、選択主旨、 別解への、考察度、 等を、 知りたいですよね? 知れば、 所作、別ルートへの、 可能性も 時に、見えてくる で、しょうが、 別ルートが、理解出来て、 息が、合えば、 ハーモニーも、ユニゾンも、シンクロも、 コーラスが、ダンスが、掛け合いが、 其の他、 楽しくなりますよね? 〉《有る神》派のイエス・キリスト支部の出身です。 成るほど

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  回答は 歓迎です。特にご批判を大歓迎します。  ★ 「拘りを、捨てる」  ☆ なる命題をめぐって 再考されています。    ★ ~~~~~  所で、  此の内には、  されるままを、受け容れよ  と、取れる  可能性が、あります。  ~~~~~~~~~  ☆ 《こだわらないが ひと言ものを言っておく》場合もあり得ると思いますが すでに《何も文句を言わず 相手の言うがまま為すがままを受け容れる》という場合もありましょうね。  ★ ~~~~~  が、  私は、此が  屈指に、嫌いです、  努力を、否定する事は  概ね、嫌いです。  ~~~~~~~~~  ☆ 自然なように見えても 反発するのも自然ですから 《されるがまま》指向は 一般に嫌だと見られるでしょうね。  ★ ~~~~~  併せて  他者否定をも  屈指に、嫌いと  添えさせて、頂きます。  ~~~~~~~~  ☆ 《否定》は 筋道立てて批判する場合もふくむとしたら 条件つきになりますが 一般に相手の発言や特には意志・果てはなかんづく存在をむやみに・頭から否定することは すでに不法行為でしょうから 嫌いですね。  ★ ~~~~~~  言及する、機会を  お与え、頂き、  有難うございます。  ~~~~~~  ☆ どういたしまして。お安い御用です。  ★ ~~~~~~~~  さて、  お礼、有難うございます。  確かに  弛まず、揺るがない事も  時には、必要ですよね。  ~~~~  ☆ 次の事例ですね。  〉存続をわざと脅かすウゴキについては   〉その心を質(ただ)し   〉しかるべき批判をおこなって行かねばいけない  〉と考えます。  ★ ~~~~~  はいけんしてて、  ただ、ただ、  「有難い」と、感じました。  しかし、  真意を、振り返れば  弛まず、揺るがない事も  求められる中、  「困った」とも、感じました。  ~~~~~~  ☆ はい。次が 核心ですね。  ★ ~~~~~~~  批判なら、まだしも  否定まで、行かないか…  争いの種を、  殊更に、育てる事は  好みません。  ~~~~~~~  ☆ これは かんたんな第一応答としては ただちに説明できます。すでに《争いの種》をむしろこちらの畑に・つまり心に植えつけたのは 相手だという事実です。  となると 先ほどの《こだわるなかれ》もしくは《されるがままに受け容れよ》の問題になります。  ★ ~~~~~  確かに、  ありと、あらゆる  口伝は、  多かれ、少なかれ、  歪められている  と、言えるでしょう、  かも、知れません。  ~~~~~~~~  ☆ いや 《口伝》は:  ★★ ~~~~~~  「見て、  自分なら、如何するか  おもえ、」  ★★ 所作を、学ぶな  所作から、学べ、    ★ 伝わりを、学ぶより、  あらわれを、学ぶより、  ことわりを、学べ、  ~~~~~~~~  ☆ ですよね? つまり 《こだわりを捨てよ》は 仏教のほうなのでは? でも それも同じくふくまれるのでしょうか。    ★ ~~~~~~  しかし、  ことわりの、芯が  元は、  仮に、一体なら  レイヤーを、重ねる如く  口伝を、重ねて  更に、  同一性を、見るで無く、  歪められ易さ、等、  乖離性傾向をも、見て、  神髄を、読もうと  する、  ならば  現存口伝も  壊れよ!!  と、いうべき程の、無価値でも  なくなる。     とは、思いませんか?  ~~~~~~~~  ☆ これは 一考するだけとしては あんがい簡単です。《同一性》とも見られる《ことわりの芯》とは 《いかに争いが起きようとしていても 互いに同じ人間であることを思え。思って 批判や批難を極力抑えよ》ということなのでしょう。  つまり 問題は すでに実害がおよんで来ている場合には どうするか? です。  これにどうこたえるかが 口伝の価値を決めるのではないかと思います。北朝鮮問題みたいになって来ましたが。  口伝の《留意すべき点》としての:  ★ ~~~~~~  伝わる事しか、伝わらなかった、  伝えるべきを、優先し  全て、伝えた訳では  必ずしも、無い、  正しく、伝えきらなかった  点も、ある、  敢えて、状況より  偽りを、伝えた点もある。  ~~~~~~  ☆ という問題点とは 別な方向に行ってしまいましたが。ですが 実際問題として 《レイヤー》の吟味や《神髄》の把握といった仕事は いざというときには 二の次になるかも知れません。  次の初等数学の理解は どうでしょう。  ★ ~~~~~~~  初等数学が、怪しいな?  との、相手に  話す時は、  内容を、変え、  初等数学への、理解を  必要なら、話すだろう。  伝えたいもの  ゴールが、同じでも…  ですよね。  ~~~~~~~~  ☆ 要するに 《ことわりを知る》もしくは《基礎ないしその理論をまなべ》でしょうか。  ★ ~~~~~~~~~  教えが、違っても  伝えたい事が、違う  とは、限らない。  ~~~~~~  ☆ これにも ただちに応答できます。互いにそれぞれの《伝えたい事》を明らかにし合って行けばよい。  批判は 互いに自由であり 互いに批判しあうものです。心を伝えるものです。  ★ ~~~~~~  また、他の例  「多食は、罪」  と、  ズバッと、言う事は  何を、招くか?  ~~~~~~  ☆ これは 言ってはなんですが 事例がちょっと違うのでは? なぜなら《多食》の《多》は どれだけかという問題が 人それぞれによって異なるはずですから。  法律で律することでもなく また道徳でさえ 一概に決まりません。それに 宗教で禁じられる場合を別として 何をどれだけ食べるかは 自由だと思います。    残念ながら この件に関しましては:  ★ ご理解、頂けま  ☆ せん。  ★ ~~~~~~  人所謂神が、何のため  伝わらない、教えを  解っていて、  敢えて、説いたか?  何を、望んだか?  ~~~~~~  ☆ わたしの述べた批判点は そこまで幅が広がっていません。次のごとく 哲学として理論的に まづ理論として その矛盾を指摘したものです。  〉☆ それは ほとんど意味を成しません。  〉☆ 《何ごとにもこだわるなかれ》というオシヘに  〉こだわっている。或る小説を  〉あたかも神としている。  ☆ すなわち もし《考え想像して得たやはり考え》をオシヘとして 心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と言っているとすれば それは 神ではないという点のみを指摘しています。なぜなら 神は 人知を超えており 思考の問題ではないからです。  これは 次のように《こだわり》の問題でもなく 《ことわりの芯》ないし《初等数学の基礎理論》のもんだいです。  ★ ~~~~~~  線引きに、拘らず  と、伝え、  拘るに、拘らず  と、伝えました。  ~~~~~~~    ★ ~~~~~~  其処で、此処では  知恵、考え方、選択主旨、  別解への、考察度、  等を、  知りたいですよね?  ~~~~~~~~  ☆ 宗教の問題としては すでに《実害》が長きにわたって 起きているということだと思います。言わば待ったなしです。  次のような《別ルート》というのは 基礎理論としての《宗教論》で互いに自由に批判をもおこないあって 共通の結論にたどりつくといったルートが優先されると考えます。  ★ ~~~~~~~  別ルートが、理解出来て、  息が、合えば、  ハーモニーも、ユニゾンも、シンクロも、  コーラスが、ダンスが、掛け合いが、  其の他、  楽しくなりますよね?  ~~~~~~~~~~

  • Nouble
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回答No.2

迂闊ですね、 添え損ねたと、感じました、 失礼します。 我が家の、口伝では 「見て、  自分なら、如何するか  おもえ、」 と、有ります。 所作を、学ぶな 所作から、学べ、 言い変えれば、 伝わりを、学ぶより、 あらわれを、学ぶより、 ことわりを、学べ、 貴方は、 自身の、 其の、理解より 何を、学びますか? へ! お前の事等、聞いていない? あぁー!!、失礼しました お許しを

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 迂闊ですね、  添え損ねたと、感じました、  ☆ あっ はい。  ★ 失礼します。  ☆ はい。いや いいえ。  ★ ~~~~~~~~  我が家の、口伝では  「見て、  自分なら、如何するか  おもえ、」  と、有ります。  ~~~~~~~~  ☆ ええ。  ★ 所作を、学ぶな  所作から、学べ、  ☆ コピペー〔だけ〕ではダメだ。――でしょうか。  ★ ~~~~~~~~  言い変えれば、  伝わりを、学ぶより、  あらわれを、学ぶより、  ことわりを、学べ、  ~~~~~~~~  ☆ どうしてそう成っているか わけを知れ。――でしょうか。  ★ ~~~~~~  貴方は、  自身の、  其の、理解より  何を、学びますか?  ~~~~~~~  ☆ 取りあえず 世界中の宗教という宗教は 神ではない・ただの《オシヘ》すなわち《観念の思考の神》を まちがって信じ いだいている。――こう《言いふらして行きます》。  つまり 宗教よ――教義を神としていだく組織宗教よ―― みづから解体しなさい。と。  ★ ~~~~~~~~~  へ!  お前の事等、聞いていない?  あぁー!!、失礼しました  お許しを  ~~~~~~~~~~  ☆ わたしは この神の理論を アウグスティヌスをつうじて パウロを経由して 聖書にまなんだ結果 得ることが出来ました。その意味では 《有る神》派のイエス・キリスト支部の出身です。

  • Nouble
  • ベストアンサー率18% (330/1783)
回答No.1

堅いですね、 宗教の、 一流派内、主張なら、 私の、口出す所では 無いものですが、 まぁ、然りとて 放置は、控え 1のみ、見ます。 何事も、 区切り方を、変えれば、 一つでも、あり、 複数でも、あり、 単なる、要素でも、 ありますよね? 貴方も、私も、 人と、数えれば 一人、 細胞と、数えれば ヤオヨロズ、 違う、見方では又、 1/70余億、 併せて、 地球居住者集団と、括れば 恐らく、一体ですよね? 其の、見方に 拘りを、持って 固定的に、 更に、 他を、否定して、… も 意味は、無いですよね? 宗教の、自由とは ある意味、 何処から、見たか、 何に、視点を 置いたか、 観測点毎の 見え方の、違いを 否定しないような、イメージ。 「いや!、 私には、こう見得た!!」 あぁ~、 其処から、其処を、 見たらね~… だよね~ そう、思いますよ? 日本に、伝わる 仏教には 「拘りを、捨てよ」 と、 伝わって、いる そうですね。 此は、一見では 「大いなる、矛盾」 ですね? 所で、実際に 貴方は、 自身で、感じました?

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 堅いですね、  ☆ そうですね。そうであるように つとめてはいます。  ★ ~~~~~  宗教の、  一流派内、主張なら、  私の、口出す所では  無いものですが、  ~~~~~~  ☆ いや 口出すべきですよ。信教の自由ないし表現の自由にのっとって。つまり この試論でわたしは ほとんどすべての宗教に異をとなえています。  ★ ~~~~~~~~~  1のみ、見ます。  何事も、  区切り方を、変えれば、  一つでも、あり、  複数でも、あり、  単なる、要素でも、  ありますよね?  ~~~~~~~~   ☆ それは 微妙です。そのためには 共通の事項をしっかりと分析して示さなければなりません。  次の例示は 《人。その身》などの共通項があります。  ★ ~~~~~~~~~  貴方も、私も、  人と、数えれば  一人、  細胞と、数えれば  ヤオヨロズ、  違う、見方では又、  1/70余億、  ~~~~~~~~  ★ ~~~~~   併せて、  地球居住者集団と、括れば  恐らく、一体ですよね?  ~~~~~~~  ☆ 場や時を同じくしているという要素で《括れます》。が 《一体》かどうかは かんたんには分かりません。まぁ 運命共同体にあるということでしょうか。  ★ ~~~~~~~  其の、見方に  拘りを、持って  固定的に、  更に、  他を、否定して、… も  意味は、無いですよね?  ~~~~~~  ☆ いいえ。その共同体の存続をわざと脅かすウゴキについては その心を質(ただ)し しかるべき批判をおこなって行かねばいけないと考えます。  ひとつの大きな問題は 《特殊絶対性》を 他人に向けて振りかざす場合です。  主観の内では そのいだく神であり絶対性ですが おのが主観を外に出ると ほかの人の主観にとっては 神ではありません。それは 神なら神という言葉(≒概念)でしかなくなります。ただの観念となります。  いやいや われとかれとは同じ神をいだいていると もし言った場合 やはりその観念をいだいているに過ぎません。ほんとうの神について忖度し想像し考えてみて得た偶(仮りの)像に過ぎません。    仮りにもしほんとうの神であったとした場合 神なる絶対性が――人知を超えた絶対性が―― 相対的な存在で有限なる能力の持ち主に過ぎない人間に分かったということになります。あり得ません。  ★ ~~~~~~  宗教の、自由とは  ある意味、  何処から、見たか、  何に、視点を  置いたか、  観測点毎の  見え方の、違いを  否定しないような、イメージ。  ~~~~~~~~~  ☆ ううーん。なおあいまいだと思います。相対的・経験的な世界については 有限ながら経験合理性にもとづき探究します。つまり 《考える》のですが 絶対性については 経験思考を超えています。つまり 非思考です。この点をはっきりさせる必要があると考えます。  ★ ~~~~~~~  「いや!、  私には、こう見得た!!」  あぁ~、  其処から、其処を、  見たらね~…  だよね~  そう、思いますよ?  ~~~~~~~~~  ☆ つまり この――その人の――特殊絶対性は あくまでこの人の主観内面における《自由》に立脚している。そして そこまでであると考えます。ほかの人のそのことを語ったとすれば それは たとえば小説を――虚構作品を――述べたということだと思います。  (つまり 宗教のオシヘは みなこの《神をひとりの主観が忖度し想像し思索して得た文学作品》であると言えるのではないでしょうか?)  ★ ~~~~~~  日本に、伝わる  仏教には  「拘りを、捨てよ」  と、  伝わって、いる  そうですね。  ~~~~~~  ☆ それは ほとんど意味を成しません。哲学としては。  ★ ~~~~~~  此は、一見では  「大いなる、矛盾」  ですね?  ~~~~~~~  ☆ 《何ごとにもこだわるなかれ》というオシヘにこだわっている。或る小説を あたかも神としている。  ★ ~~~~~~  所で、実際に  貴方は、  自身で、感じました?  ~~~~~~~  ☆ 感じたと思ったことはありましたが 述べるに足りません。

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     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 一般および個別絶対性理論 (神論です)

    一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 存在を想定してなお模索する。ご検証を。 0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒7‐B。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本的に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒(#0) 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。  経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)   可知(認識しうるものごと)     既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)     未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)   不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得るが)  非経験の場(絶対性)   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心) --------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)       / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。         * 15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2.シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。

  • 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

    0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。

  • 宗教は 信仰という生きた蝉の遺した抜け殻である

     1. 信仰は 絶対性とわれとのカカハリを言う。  2. 類型として 梵我一如というかたちに表わされる。  3. ブラフマン(梵)が 一般絶対性であり アートマン(霊我)が 個別絶対性 である。両者の――霊としての―― 一体が 想定じょう 信仰である。  4. たとえば:  (信仰)・・・:一般絶対性・・・・・・個別絶対性  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・アートマン  ゴータマ・ブッダ:無梵・・・アン‐アートマン(無我):《無い神》派  ブディズム:アミターバ・ブッダ・・・・ブッダター:《有る神》派  随神の道 :オホモノヌシ・・・・・もののあはれ〔を知るわれ〕  クリスチアニズム :テオス(神)・・・・・われ(神の宮)  5. 絶対性は じつはこのほかに 特殊絶対性があると仮説される。  6. 信仰は 《われ》ごとに個別に実践があることによる。  7. 神道には――単純化しますが―― ミソギがあって それによってオホモノヌシの神との一体性を取り戻す。  8. 信仰の具体的な実践を 個人でやれば 個別絶対性にとどまる。おれは神を見たぞとか 神なんているはずがないといったそれぞれ特殊な絶対性としても現われるが 個別絶対性の内にとどまる。  9. そこからさらに この実践(修行?)のひとつの形態を 人びとが共有するようになると 個別の特殊な神観が多くの主観において 共同化される。つまり 何らかのオシヘ(不文でも)を共有するに到れば 宗教というウゴキに発展する。  10. 一般および個別の絶対性なる理論が 実際じょうわれなる主観の具体的な実践として そこに特殊な絶対性を成り立たせるかに見える。これが 貿易の場に出て来る。輸出・輸入がおこなわれるわけである。  11. アン‐アートマン(無‐霊我)なる個別絶対性は 現実にロウソクの炎が消え去 るかのようなニルワーナの状態になることを目指し ヨ―ガなどで実践する。《無い神》派というごとく じっさいに呼吸を止めるほどにまでなるという。六道輪廻からの解脱なのだという。  12. ここまでは 主観におけるその神観としての特殊絶対性である。そして このニルワーナなる理想(?)の状態が 共同主観となったときには――オシヘのごとく受け留められ―― 人びとのあいだの宗教となる。  13. アミターバ・ブッダが 称名念仏なる実践としての主観を呼び起こし この特殊絶対性が共同化されたなら その修行をしましょうというオシヘつまり宗教となる。  (ただし親鸞は 念仏を修行ではなく善行でもないと言った。つまり 個人としての信仰にとどまる)。  14. 加持(アディシュターナ)祈祷という実践がある。マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)の側が《加》であり 人間の側が《持》と成り 両者の――霊としてのという雲をつかむようなのであるが―― 一体を言うらしい。  15. これも 個別絶対性としての或るひとりの主観にとって おのれが実践するだけの特殊絶対性であったものが 共同化されて 宗教となっている。  16. イエス・キリストは 特殊絶対性の部分にかんして こう言ったという。:  ▲  (マルコ福音 14:22-24 からその趣旨のみ) パンを採って これはわたしのからだだ。杯(ワイン?)を採って これはわたしの血だ。〔と〕。    17. つまり 出エジプト記( 24:3-8 )でモーセも 生け贄から採った血を 契約の血とする特殊絶対性の実践をおこなっている。儀式が共有されれば 宗教である。   18. これらの例にみられる《特殊絶対性》は そのひとりの人間の主観の内にとどまるなら 一般および個別なる絶対性理論――つまり信仰なる動態――の範囲にあり そのまま 《生きた主観 生きた蝉》である。  19. ところが 特殊絶対性は 或る主観を一歩外に出かけるなら 信仰としての絶対性は 消える。なのに その貿易は 自由だと思われて来た。  20. オシヘないし儀式などの・言葉による表現をふくめた《かたちあるもの》を すでに主観と主観とが共有することになるから 信仰は消える。自由貿易は じつは 思想としてのみの話になる。  21. 《梵我一如(あるいは 無梵無我一如;仏仏一如;霊霊一如)》において 絶対性とわれなる主観が 一体となるのが 信仰(非思考の庭)である。ところが 特殊絶対性は これもまだ主観の内にあってそれとして信仰にとどまるが そうではなくほかの主観と共有されたとすれば それは 《梵我一如》なる類型つまりその概念が 共有されたに過ぎない。  22. 神を共有することは 無理である。交換もされ得ない。もし―― 一般絶対性は じつは普遍神であるので ひょっとしたら――共有なる状態が 現実であったとした場合 それでも そのことをわれわれ人間は 認識し得ない。ヒラメキにおいて その可能性を予感するのみであろう。  23. 宗教は 儀式をふくめたオシヘとその実践を――特には《観念としての神》を―― 共有するわけで そこにとどまるなら まだ趣味の同好会であり得る。社会福祉をも伴なったとしても サークル活動だ。  24. しかももしこのオシヘを神(絶対性)の代わりとし これを同好の士のあいだにおいてであろうと 従うべき規範や守るべき規則とするなら そこでは信仰は消える。信仰の神を オシヘの神に取り換えたのだから 当然である。  25. よって 宗教は 信仰たる生きた蝉の遺したその抜け殻である。  ☆ 検証をどうぞ。

  • 《梵我一如》類型は一般および個別絶対性理論だ 

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの)      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心    -----------------------    【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト     【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。

  • 空仏一如!?

     霊のお話です。  宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊と。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン    我:アートマン  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:空・シューナター・ゼロ    無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・仏性  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  6. シントウイズム:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  ご教授ください。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう?