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ブッダは 神ですか

 絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

みんなの回答

回答No.12

>《絶対》は この経験世界における《有無》を超えていますので 有とも無とも 決められない。  その通りです。しかも決めることではなくて、経験世界における有でありかつ同時に無であるポイントを指摘してます。  永遠であると同時に一秒たりとも経過しない現実。  点であるにもかかわらず無限大のエネルギーを内在していた現実です。  《絶対》が虚構であってもこれはほぼ《現実》です。 あなたは、どう思うのかという問いに対して、どちらも肯定しているのです。ブッダが神であるか否か、神性と悟性は同一か・・・・ そこは物理法則の崩壊点であり同時に哲学的真理の崩壊点でもあるのです。  

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  これは わたしが しっかりと見究め切れなかったようです。ご無礼しました。つまり  ○ ブッダの言説は 《有神論としての文字通りの信仰》でもあれば 《無神論としての 無神という神の信仰を 原点には持つが あとは 経験的な科学および思想としての実践》でもあるという幅を持つ。人は 好みに応じて 自由に その思想形態をえらべばよい。  ☆ こうなるでしょうか。  このご見解は これで 二票 集まりました。もちろん 多数決ではまったくありませんが そして ちょっと そのような雑多な感じを与える内容であってみれば 恰好がわるいと思えますが それは あくまで 別なのでしょう ということで 無理のない認識であるように思われます。  というのも ほかの方がたは 無神論に傾くような あいまいな思想的尋究であるというものであるようですので それらは この幅が広いのだという見解に 包まれることになると思われるからです。言いかえると はっきりとした ブッダ即絶対者 としての信仰 そのような内容一色ではないということのようです。  そして さらに もしこのようであるとすれば 注目点として ふたつあるように思います。  ひとつは 無神論も あくまで 原点としては 信仰であるという実態であり その認識が重要であるということです。普段は その無神という神について 自由に正当にも ほったらかしなのですが 飽くまで 有神論とまったく同等の信仰という原点に立つということです。そういう姿勢で クリスチャンやムスリムにも 対応していただきたいと思います。  いまひとつは 有神論である場合に おそらく 質問がさらに来ると思われることとして一つ挙げれば 《創造主として想定するのではない〈絶対〉なる神が 肉体のかたちをとって ゴータマ・シッダルタに現われたのか?》であると思われます。イエス(人間)=キリスト(神)のばあいの神の受肉と どう違うのか? であるでしょう。  ここまでを 押さえることができましたなら もう少し時間をおいて この質問は締めることにします。  あらかじめながら 皆さんにも 感謝申し上げます。ありがとうございました。  * ★ 物理法則の崩壊点であり同時に哲学的真理の崩壊点  ☆ のごとく 想像力を究極にまで 及ぼしていただいておきながら この点については 触れ得ませんでした。そういう問い求めの極みにおいて そのあと この極みを超えてその背後に――と言っても 背後があるかどうか わからないわけですが その一応 奥に―― 《絶対》を想定するか それとも そうではなく こちら側にいて こちら側に あくまで 居つづけて 経験思想としての立ち場において 世界の内側を隈なく あらためて 究めていくか そういう両方の可能性を 留保していたのでしょうか? (と言っても わたしは 今は 経典なり研究書なりから 急速に 遠ざかっているようになっていますが)。  ただし もし ブッダが こういう問い求めの極みにあったとすれば そして 有神論・無神論の両方の潜在可能性を見ていたとすれば もはや ほかの唯一神信仰などに対して 理論的には(ということは 集団としての宗教の問題は 別として 理論的には) 《外道》などと言わず まったく 同等の仲間であると認識していなければいけないでしょう。捨て台詞のようになってしまいましたが ひとつの批判点だとも思います。いかがでしょうか。

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回答No.11

> 《悟りを開いていない者》にも ここまでは 明らかな哲学的真実です。  またまた、これは冗談でしょうか。哲学的真実の延長線上で悟りが表現され得る可能性も同じ態様です。 科学的真実も哲学的真実も宗教的真実も同じものの逆差しをしてます。 どれも壮大な詐欺をやっているのでも、我々自身が錯誤に陥っているのでもないのに、 我々は、ある地点から中に入っていくことが絶望的であることを自己「理解」した状態に置かれ、 同時にその驚異的結末に呆然としている訳ですね。その制御不能で圧倒的なポイントにですね。 でも証明できない。論理物理学にならない、哲学にならないという訳です。 brageloneさんが例にあげられた、無限や永遠の概念も、それが同時に点であり停止でもある「現実」の地点が いわば絶対の表現可能領域となるため、人間意識には到達しえないと言うことになるのではないでしょうか。 無限でありかつ点である。無でありかつ存在する。キリがないのでやめます・・・ 悟りを語るブッダが悟っていることはあり得ないが、ブッダは悟っているということですね。 それがアノマリーの産物であるか、特異点なのかは知る由もありませんが これを避けて通ることはできないし、直感的にはこれまでの科学、哲学、思想としての宗教の延長線上には ないように感じますね。おそらく悟りとは別に飛躍する力が必要なんです。 ところで、ハードロッカーの私にとって「ロックの神」は神を啓示する音楽あるいはミュージシャンのことであって、 絶対者ではないにしろ孤高の哲学者よりよほど崇高には見えます。 それはともかく、科学も哲学も当初の創造的意識にかなり遅れて結論されるという宿命であるため、 それが確立した時には、きらめきや輝きは失われてるんですね。あ、●●学を否定したり、さげすんだりしている わけではありません。でも、ロックがロック学みたいになった時には、世は別の音楽をやっているわけで、 ロック学は100%正しいとして確立してしまい、世の音楽は99%が捨てられ1%だけが生きている。 ここに耳を傾けるのではなくて、これまでがそうだったように自らこれをPlayするパワーの先にのみに それがあるんだと思いますね。 それは、思想、法則、方程式等の固定化された表現結果に属するのでなく、無思想で生粋のエネルギーであって、 人間側からすれば、そのものではないとしても、芸術とか、音楽とか、ダンスとか、メディテーションとか、 スポーツとかのしかもプレーヤー側のその時の状態そのものだと思うんですね。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  前回 《悟りの中身が どうのこうの》と言いましたので これが わざわいしたのかなとも思うのですが それでも bananasandさんは 総合的に判断されているようで どこで どう違ったのかと考えるのですが。  つまり 微妙に 焦点がちがって来ていないでしょうか。  こういうふうに考えます。  そもそも 《絶対》とは 想定上のことです。早い話が 虚構です。  しかも この絶対に対する関係で 人は 或る種の心の傾きを持ち そこに 志向性をも託します。つまり 《絶対》は 虚構ですが それに対して人の取る態度は 現実です。  その絶対に対して取る姿勢は 人によって まったく自由です。そして 大きく二つに分かれます。《絶対》は この経験世界における《有無》を超えていますので 有とも無とも 決められない。そこで 絶対に対して取る態度は 絶対を有りと想定するか 無しと想定するか 二つに一つです。後者は 一度 想定しておけば あとは 構いっこなしという生活態度です。そういう信仰です。  ブッダは 果たして どうなのかが 質問です。個人の問題として あなたは どう思いますかです。(すでに 有神論と無神論のどちらも可能性としてあるし 実際 その可能性は 顕在化しているというご回答もありました)。  生きていて輝きわたっている間は 決められませんか?

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回答No.10

キリストについては判りません。仏陀についてもやっぱり、判りません。然しながら自分の経験として、仏陀の言っていることの意味は何か分かる感じがしています。その感じを書いてみます。 ゴータマの若い頃はは今で言う『精神疾患』に罹っていたのではないかと思います。『精神疾患』というものを説明する時に、判りやすい言い方をするならば、心が不安の虜になっている事といえば判りやすいかと思います。その不安と言うものを詳細に分析してゆく時に、必ず行き当たる事が有ります。不安になりやすい人となり難い人がいるという事です。 何時の時代でも、同じ環境でも、世界中を眺めていても大体同じ率で『精神疾患』と言うものが有ります。私の想像ですが今は文明が進んで複雑な社会になってきたために『精神疾患』が増えてきたのではないか?と言う見方があります。ですが反論として「昔は」理不尽に死んでゆく人達も多かったと思います。労働も過酷です。生き難い背景が在ったと思います。 前置きが長くなりましたが、人間の不安は『意識』し続けることに有ります。言い方を替えるならば、『無意識』に入り難くなる、或は入れなくなる事と言えます。 他の切り口から不安を説明するならば『不安』とは人間の心が二つ在る事に原因があるとも云えます。その心同士の矛盾が『精神疾患』の症状といえるかと思います。 二つ在る心の証明ですが『一念』と言うものが有ります。これは「我」が関与していない時の『心です』どうしてかと言うと「われは」何も考えていないからです。何も考えていない所から『湧き上がってくる心です』この心を今回は[もう一つの心]と呼んでおきます。 「一念」を受けて湧き上がってくる心が「二念」です。これは「自我意識」と呼ばれている心が作り出している心です。精神疾患と言うものはこの二つの『心が』織り成しているものかと思います。 一念は無我の状態からの心です『無意識が』感じている或は感じさせている『心』とも言えます。二念は『自我意識』として感じています。精神疾患になって不安を感じやすい人とは『自我が強い人』と云えます。又もう一つの意識が強い人とも言えます。精神疾患とはお互いの強さに『驚いていること』とも云えます。 その驚きの強い人が『精神疾患』になりやすい人、或は不安を感じやすい人とも言えます。もう一つの意識が強い(生命力が強い)事によって自我意識が『二念』によって生きてゆこうとします。是が『精神疾患』になったと言う事です。言い方を替えるなら、もう一つの意識を『無視』した生き方になってしまうことです。 そこで無視された「もう一つの意識が」自分の存在をアピールしようとします。是が『精神疾患の症状』と云えます。心が何かに圧迫されている感じです。心が落ち着かなくなる事です。心が何か騒がしくなる事です。これは「罪悪感」として現れることもあるし、判らない者からの脅しとして、訳の分からない違和感として、様々な形として顕れます。 この事が「仏教」の言うところの妄想かと思います。キリスト教における「罪或は地獄」と云っても良いもののような気がします。二つの心の矛盾、その矛盾の産物が『症状』と言うものかと思います。 心の矛盾によって『苦しんだ自我』にも何時か精魂尽き果てる時が到来します。是は『苦しんだ自我が死ぬ』という事です、是が『大死一番』というものです。その時に自我はもう一つの意識と『出会う』事になります。これが『見性』というものです。もう一つの持つ『永遠性に』触れる事が出来ます。それが『悟りを開いた』という事になります。 その体験をしてからもう間もなく30年の年月が流れようとしています。今も『精神疾患』に苦しんでいる人達が大勢いるようです。その原因は自分の中に自分を苦しめているものがいます。その者と『会うことができたなら』全ての精神疾患の『解消』という事になります。悩ませる者と悩ませられている者との出会いが「見性」です。 仏陀は神になった訳では在りません。『精神疾患の』妄想の世界から、只の健常者の戻っただけです。何も偉くなった訳でも神になったわけでもないかと思います。 『心は只管静寂になります。絶対の安心感があります』それまでは『死ぬほどの苦しみが在りました』14歳から32歳までの18年間の『地獄の日々の後です。

noname#80116
質問者

補足

 tumaritou1さん ご回答をありがとうございます。  意気に感じましたが 内容は すでにお聞きしていたこととあまり変わらないようですよ。  《わたしは かつて 精神疾患に悩まされていたんです》という告白を言わないで 目的を達成することが 次の課題になるでしょうね。  もしくは 《告白》というのは 《賛美》だとも言いますから 単純に 賛美や現状と現実の礼賛に ことばを費やしても おもしろいでしょうね。ずらっと どこまでも これでもか これでもかと並べるのです。  今回 ただし 少し違った表現をして説明しておられます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『一念』と言うものが有ります。これは「我」が関与していない時の『心です』。どうしてかと言うと「われは」何も考えていないからです。何も考えていない所から『湧き上がってくる心です』。この心を今回は[もう一つの心]と呼んでおきます。 「一念」を受けて湧き上がってくる心が「二念」です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこうだとしますと 自我にかかわる《第二念》は あとで《見性》として見出すところの《第一念》から《湧き上がってくる》のですね?  健常者は 《第一念》だけで生きているというわけではないのですか? 《第一念》を見失わずに 多少の《第二念》をも持って生きているという見方になりますか?  けれども 《第一念》から出て来たのなら そうだというのに その《第二念》が どうして 不安を起こすまでに至る《小心さ》から成り立っているのですか?  これら《二つの心》は多少なりとも 誰にでも あるのですか?    たとえば こういう場合は 考えられないですか。つまり わたしは いつも こころが白紙です。いわば《第一念》のみです。ゆえに 面と向かっているその相手や こうして 言葉を通じてやり取りしているときのその相手やから 何らかの心理作用を受け取っていますが そのとき 相手に応じて 悩みや あるいは 嬉しさや楽しさを わたしの心は感じます。つまり 悩みをも持ちます。《死ぬほどの苦しみ》も もちろん 感じるときがあります。・・・   つまり何が言いたいかといいますと 《大死一番》と言ったとき(または 聞いたとき) まさにそのとき わたしは われに還るという《すくい》は 起こりませんか? その時点で とげは抜かれたという状態になりませんか? 患部は そのあと 少しづつ 癒えていくでしょう。  というのも 有神論にしろ無神論にしろ この絶対との関係を持てば その場で わたしはわたしであるというものだと思います。自我があってもかまわないわけです。  ただ その瞬間に 誰もが とどまり得ません。いえ とどまり得ないのは 例外なくすべての人ですが そうではなく そこで その体験をただちに忘れてしまう人がいます。と言いますか むしろ 自分からその一瞬の覚りを嫌って その羊の囲いに入ったあと そこから 自分で 抜け出て行く人たちがいます。つまり 一たん 自己還帰・自己到来を実現したあと ただちに これを どういうわけか 嫌って また再び もとの《不安》な状態に戻っていく人たちがいます。  というだけの問題であるように わたしには 思えています。つまり かんたんに言えば わたしたちは終わり(結論)から始めるということわざのとおり むしろ はじめに すべての人に 《悟り・見性》が起こっているのだと思います。そのあと そこから 自分で 離れていく人がいる。こういう問題だと考えます。

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回答No.9

 どうもです。ちょくちょくいろんな所で読ませていただいてます。解答欄ではお目にかかりますが、この形式では久しぶりですね。 >>ブッダは 神ですか  ここでいう神は「絶対者」というような意味で言い訳ですよね? >>人間  = 絶対(絶対者=神) >>      ↓    >>ゴータマ=ブッダ >>イエス =キリスト >>という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  がんばってみます。うーん、やっぱりこの式は成り立たないかなぁ。  まず、なんで「絶対(絶対者)」なの??でことなんですが、一応ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は「全知全能」なんですよね?まぁ、聖書を読んでもヨブ記なんかにはに「全能者」とか「全能の神」という言葉がいっぱい出てくるわけですが、ヨハネ福音書・使徒言行禄・ローマ人への書簡等々にはそういった記述は見当たらないようですから聖書の中でも意見のバラつきはあるんでしょうが、絶対者というからには「全知全能」じゃないといけませんよね。(あくまで私見ですが・・)  けれども、仏さん(ブッダ)は「全知者」かも知れませんが「全能者」ではないと思うんですよね。お釈迦様は、跡継ぎにしようと思ってた舎利弗尊者と目連尊者の二大弟子は先に死んじゃうし、何より自分は食あたりで死んじゃいますしねぇ。そのくらい何とかできなかったのか?とおもっちゃいます。そのへんイエス・キリストはユダに裏切られることも自分が処刑されることも知ってたみたいですからね。  まぁ、ブッダを「全知者」としましたが神のようにすべての事柄を何でも知っているというよりは、すべての事柄をありのまま受け取ることができた人という意味で「全知者」です。理を知らない(これを仏教では「無明」と呼びます)ものは、自分の考えを交えながら物事検知していくという意味では、本来のものの姿を何も知らないということになるわけですよ。  ですから、ブッダ=絶対者とは結べないんじゃないですかね。 >>もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。  そういう言い方もできるのかなぁ。確かに、仏教は無神論とか汎神論といわれますが、一神教もあれば多神教もあるという言い方もできますからねぇ。そうやっていろんな人に合わせられるのが、仏教っぽい気がしますけどね。  brageloneさんにとって《無神という神》とはブッダのことですか?もしそうなら、仏教の中にはそれすらひっくり返しちゃおうとした人もでてきますよ。一休さんはこんな歌を詠まれます「釈迦といういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」。これも一つの仏教なんでしょうねぇ。だからこそ、一休さんはそれでも一生仏教者だったわけです。もしこれが、「イエスといういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」ってクリスチャンが詠っちゃたら、えらいことになるでしょうね。その辺も、神とブッダの根本的な相違じゃないでしょうかね。  まぁ、思ったことをつらつら書いてみましたが、皆さんと比べてまとまりがないですねぇ。急ごしらえの文章ですので誤字脱字乱文はどうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 baka-hageさん ご回答をありがとうございます。午後は 休憩をたっぷり取らせていただきました。  そうですね。全体として   ★ 確かに、仏教は無神論とか汎神論といわれますが、一神教もあれば多神教もあるという言い方もできますからねぇ。  ☆ これが ご回答の骨子でしょうかね。要するに これでしたら  ○ 有神論もあれば 無神論もある。宗派というよりも 個人によって 自由に作り直して 信仰とするのもよければ 無神論のもとに経験思想とするのもよしという恰好である。ブッダが そういう可能性あるいは可塑性を持ったものとして 自説を説いたのである。  ☆ ということになるでしょうか。それなら それで はっきりしたわけです。ちょっと 恰好がわるいですがね。  あとは 注意点として 次のように考えます。  ・絶対・・・・・もっとも中立的な規定(また想定)  ・絶対者・・・・擬人法で表わしたかたち  ・神・・・・・・日本語で 超自然の力を表わした言葉で 近代以降    に 絶対者のことを〔も〕表わすようになる。  ・阿弥陀仏(=無量光・無量寿つまり 無限という意味で 絶対を表    わす)・・・言いかえると 《無量光・無量寿》という属性を表    わしている。  ・全知全能・・これも 絶対者の属性を表わす言い方である。  ・その他 属性を表わすものとしては:正義・真理・愛・慈悲・智    慧・永遠・永遠の生命などなど  ですから 属性である《全知全能》を持って来て 比較するのは 別問題だと言わねばなりませんよ。絶対であるか否か これが 基本の判断基準です。ですから  人間  = 絶対(絶対者=神)       ↓     ゴータマ=ブッダ  イエス =キリスト  この式が 成り立つ場合もあれば 成り立たない場合もある。そしてそれは 基本的に 個人の自由である。こうなるでしょうか。成り立たない場合には やはり 《無神という神》を 一度は 絶対と自己との関係として 想定したところから出発しているという理解になるでしょう。  このまとめを よろしかったら さらに 添削してくださいませ。

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回答No.8

少なくとも日本においては、仏陀を質問者様の言うキリストのごとき感覚で、神と考える人は皆無に近いでしょう。 質問者様は、《無神という神》を立てているもと考えます。と書かれていますが、それだと、とにかく神が必要だって事になりますよね? 神が不要だったらどうでしょう。 又、仏陀を目指す。という感覚もないでしょう。 あくまで仏陀のごとく悟りを得るように、仏陀の教えを理解していくのであって、仏陀になるという発想も無しじゃないですか。 仏陀は、最高の先生であって、キリストのごとき神とはまったく違う存在でしょう。 日本に特定してならば、本来は神道の感覚がもっともピッタリで、神様は天照大神に始まる八百万の神々じゃないですか。 八百万もいらっしゃるのですから、どんなタイプの人もOK、自然から天候までドン受け入れて、でも悪いことをしたら罰が当たる。 罰が当たる悪い事って何か?は、それぞれが自分で考える。だってケースバイケースだもの。 これが芯にあるので、唯一神は不要なのですよ。

noname#80116
質問者

補足

 oobankobanさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。たしかに 自分でも思うことは この質問は 富士山に雲がかかっていたら まづできるなら雲を取り除いて 山は山として くっきりと見えるようにしようと言っているかのようなものです。でも  ★ 神が不要だったらどうでしょう。  ☆ とおっしゃるとき 無神論は なるほど 《無神という神を信じている》とその内容を規定しましたが その出発点のあとでは 実際には 神が不要になっているわけです。神は不要だとするために 無神論を選んだわけです。  ★ 神様は天照大神に始まる八百万の神々じゃないですか。  ☆ という場合にも 絶対神は 不要であり あとは ちょっとした雰囲気としての・単なる感覚としての《絶対》をつまみ食いするかのように 薬の神なり商売の神なり夫婦円満の神なりを追い求めているのでしょうね。(ちょっと 皮肉が入っていますか?)  ★ 仏陀は、最高の先生であって、キリストのごとき神とはまったく違う存在でしょう。  ☆ このような思想としてのあり方を 無神論と言うのだと思います。ただし  ★ あくまで仏陀のごとく悟りを得るように、仏陀の教えを理解していくのであって、  ☆ という実態を称して  ★ 仏陀を目指す〔。という感覚〕  ☆ のことだと考えます。《成仏》という考えもあるのでしたら  ★ 仏陀になるという発想も無しじゃないですか。  ☆ というよりも やはり《ブッダになる》ことを 彼岸を目指すごとく 発想しているのではないでしょうか?  (このとき ブッディストの中には 絶対の境地を目指すと表明する方が 決して少なくないと思います。ブッダは・もしくは仏性は 宇宙の法則であり それとの一体の境地であると しばしば 聞きますよ)。  ★ 〔(日本教のばあい)これ(八百万の神々との関係)が芯にあるので、〕唯一神は不要なのですよ。   ☆ 唯一神を必要だと言おうとしているのではありません。すべての人は 絶対と相い対しているそのことだけで 信仰を持っている。この信仰には 絶対を 有りとする有神論と 無しとする無神論がある。と言おうとしています。また 絶対は 神で表わすなら 無神なる神にしても 唯一神以外にありえない。という趣旨です。  このとき 自己の生活態度としてのその根底にある信仰にかんして きちんと自覚し自己表明しうるようにすることは ごくふつうの人間のあり方ではないでしょうか。と問うております。  しかも 無神論と有神論とは 互いに 同等であるというのが 信仰ないし信教・良心の自由のうたうところです。おそらく 日本人は このような信仰の類型論にかんして きわめて自由に 取り扱っていける人びとであるのではないでしょうか。そして そのことは 現代世界が要請しているものと思います。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.7

大乗各宗派の考え方はわかりませんが…。 仏陀(ゴータマさん)は一人の人間として「物事の本質を知ることをして、悩み苦しみの原因を見つけ、その原因を滅する方法を・物事の本質を知る方法を教えてくれた」そのような人と判断しております。 知った人(仏陀)がその方法を教えてくれた。 師匠であり、「神」にはあたらないと思います。 そもそも「神」がどのようなものか具体的に知りませんが、仏陀は「信じるより、確かめなさい。私が語ったからといって信じるんじゃないよ。依存するな、執着するな、それは苦しみを生むもの、自立しなさい。自らの理性を持って確かめて納得しなさい。」という立場と思います。 仏陀の教える理性的な態度として、「解らないものは解らないとする」という態度が適切なのではないかと思います。 あくまでも中道だと思います。 <<無神論として 《無神という神》を立てている>>のではなく、事実の確認・検証進める「理性」と言うものに信仰(理性にこの言葉は当てはまらないと思いますが)するようなものと考えています。 神にしても。根拠論拠も無く、知ってもいないし、知るすべも知らないのなら「根拠論拠も無く、知ってもいないし、知るすべも知らない」でほって置くのが仏教徒のとる立場だと私は思います。それ以上は「妄想概念」ですね。 「妄想」は、事実の確認・検証進める「理性」的な態度にあたりませんからね。 「神(無限にある概念の中で、どのような概念の物か解りませんが)がいない!」とは僕は言いません。「このような神の概念ならばこのように、論理的にありえない。成り立たない。」「このような神の概念が事実だとすると、このようになるはずだが、実際はこれはこのようにならない。と言うことは、このような神の概念は成り立たないと考えるのが妥当ではないか。」として… 「確認できないものは基本的にほって置く」と言うのが主に取る僕の態度ですが。 私は仏陀に信(自分で検証した結果の納得)を置いています。 それは「ただ信じ仰ぐ」と言うのとはちょっと違うと思います。 完璧な信(検証した結果の納得)・つまり物事をありのままに観たならば、悟っているのです。 悟ったなら、仏法も川を渡り終えた後の船の如くおき去るのです。執着すべきものではないのです。もちろんこの道を教えてくれた師匠に対する感謝と尊敬の心はあるでしょうが。 ちょっと話がずれたかなw 妄想せず、論理的に科学的に検証を重ねる科学者は無神論者でしょうか。無碍に信じも否定もしない。「ただ科学的に検証した結果、根拠とするもの・論拠は無い。」とするだけでしょう。 我々妄想を嫌う、理性を最重要視する仏教徒にとっては、心が研究材料で論理的に科学的に検証をするだけです。無碍に信じも否定もしない。「ただ理性的にに検証した結果、根拠とするもの・論拠は無い。」とするだけでしょう。 「仏法」は只ひたすらに信じ仰ぐるものでなく・自ら「検証」するものです・検証した結果事実だと確認納得しただけ仏法に「信」が芽生え、「仏陀」に・そして伝えてくれた「サンガ」に感謝の念が沸くのです。 私はこのように考えます。

noname#80116
質問者

補足

 maggaさん ご回答ありがとうございます。  全体として 正直に申しますと 回答を避けておられる こう感じます。  具体的にお伝えします。  ★ 仏陀(ゴータマさん)は一人の人間として「物事の本質を知ることをして、悩み苦しみの原因を見つけ、その原因を滅する方法を・物事の本質を知る方法を教えてくれた」そのような人と判断しております。  ☆ これなら 経験科学であり経験思想です。何の問題も あいまいさも ありません。言いかえると いわゆる修身の理論であり実践であるということでしょう。道徳でもいいでしょうし 自然科学を含んだ倫理の哲学であるということのようです。  問題は そのあとです。  ★ <<無神論として 《無神という神》を立てている>>のではなく、事実の確認・検証進める「理性」と言うものに信仰(理性にこの言葉は当てはまらないと思いますが)するようなものと考えています。  ☆ 結論から言いますと  ★ 理性にこの言葉(* つまり 信仰ということば)は当てはまらないと思います  ☆ とおっしゃるとおり 理性や経験現実を超えたところの領域 これについては 特に 何も想定しないということだと理解します。主に理性に信頼を置いているということは 非経験もしくは超経験の領域は 触れないという姿勢だと理解します。すなわち  ★ 神にしても。根拠論拠も無く、知ってもいないし、知るすべも知らないのなら「根拠論拠も無く、知ってもいないし、知るすべも知らない」でほって置くのが仏教徒のとる立場だと私は思います。それ以上は「妄想概念」ですね。  ☆ ただ 《絶対》は この非経験の領域のことです。無根拠であり 完全な無根拠であることが 絶対ということであり この絶対に対する関係ないし態度が 人間の持ちうるところの心の志向性のような動態として 信仰です。  その信仰の内容を 人間の能力で表象しようとすれば それは 概して 《妄想》のたぐいですが そして 表象した結果としては そこに何らかの言葉や視像があれば 《概念》にもなって表われていますが それらには かかわりなく その信仰の対象(または 非対象)が 概念であるのではありません。概念を超えた領域であったからです。だから 表象しようとすれば それは 妄想になります。それに対する態度は 考えるのではなく 信じるというかたちになります。  このような認識を前提として どういうことが言えるかと言いますと こうなります。  (1) はじめの《修身なり道徳なり倫理なりの哲学と実践》 これは 経験的な科学であり思想である限りで 根拠は 経験合理性に置かれております。言いかえると つねに 新しい真実によって取って代わられる知識と経験の蓄積であるということになります。さらに言いかえると 仮りに絶対の見地から見れば 無根拠です。実際 科学の成果が 不変のかたちにおいて普遍的であるとは 人は思っていません。そういう意味で 根拠無しです。  (2) 絶対が 無根拠だというときには 違ってきます。それを想定するのに 根拠は要らないという意味です。相対の世界を超えたところと言えば それで 想定が完了です。  (3) そして 絶対との関係は 信仰です。これは 一般的に もし想定をした時には つねに 成り立つ認識です。  (4) 従いまして 絶対の領域に対しては 《触れない》という立ち場は 絶対を想定しないのではなく そうではなく 絶対を 無なら無として(あるいは 無神なら無神として) 一度は 想定しておいたという意味になります。絶対を信じない ということは 絶対を無神として信じる という大きくはやはり信仰という態度を採っているという意味です。  ★ 論理的に科学的に検証を重ねる科学者は無神論者でしょうか。  ☆ ですから 科学者は 無神論者でもあり得るし 有神論者でもあり得るという見方になります。科学者が 経験科学のほかの生活態度として 絶対の領域を 神として想定するのも 無神として想定するのも どちらにしても もちろん その一人ひとりの自由意志に任せられています。    このような事情が 妥当な認識だと考えますが もしそうだとすれば そこからは 有神論か無神論かの選択しかないと考えられます。ならば それをしないということであれば 回答を避けておられるという結論になります。大人の人間で こういう回避の立ち場は 実際には 考えられません。思考は続いているのでしょうが 判断停止という状態のようにお見受けします。つまり 意志がないという状態ではないでしょうか。それとも 確信犯でいらっしゃるでしょうか。    * もう何回も maggaさんとは 意見のやり取りを重ねて来ておりますので ここまでの物言いとなります。

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回答No.6

こんばんは、brageloneさん。 大同小異って… 大と小はそのままで、同と異のところに乗を入れて替えてみると 大乗小乗 大乗…仏教で、利他主義の立場で広く衆生の救済・成仏を主眼とする教法 小乗…仏教で、衆生の救済よりも個人の解脱を求める教法 小乗-Buddism-仏陀 小さなことの積み重ねが大きなことにつながる うん、大同小異と見ることできると思う。

noname#80116
質問者

補足

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。  ですが だめですよ。一つの課題を棚に上げたまま 別の問題に移行してしまうのは。つまり このご投稿について 何も問題はないのですが それなら 同時に 懸案のほうも 応答がついていなくては おかしいです。つまり 同時に応答がついて来ていない場合 それを受け止めるわたしが あいまい人間を認めてしまう恰好になります。共倒れです。  まづ 細かいところでは  ★ Buddism  ☆ ではなく Buddhism だそうです。→http://www.etymonline.com/index.php?search=buddha&searchmode=none  ★ 小さなことの積み重ねが大きなことにつながる  ☆ あるいは  ▲ 神は 細部に宿りたまう。  ☆ と言いますが いまは 残念ながら その主題とは別だと考えます。《小さなことの積み重ねが〔積み上げた〕大きなこと》が 人間の能力の範囲におさまるのか それとも そもそも ブッダは 神(という表現が 似つかわしくないというのであれば 絶対者)であるのか。この問いです。  ブッダを キリスト・イエスと対照させるとき いつも ブッディストの側から挙がる問題点は 神が《創造主》であるということがらです。仏法としては 《あるがまま(真如・如来)》という説明内容にこだわっておられるのだと思いますが それが 絶対(もしくは絶対者)の説明表現であるのと同じように 《創造主 あるいは 父なる神》というのは あくまで 擬人法で物語ったたとえとしての説明表現であるということも おさえていただければと思います。  もし ほんとうに=つまり経験事実として 神が わたしたちの父親であったとしたら どうなるのでしょう? 誰も そうは思っていません。あたかも自然科学で解明しうるような現象として 《神が世界を創造した》ということであったとしたら どうなるのでしょう? そんなことは 科学的に言っても まちがいです。  《絶対》が そのような経験現象であるというのは 単なる比喩でなければ 錯乱した言い方になります。相対性の経験領域を超えたところに絶対を想定しているのですから それを 経験現象に降ろして来ては 何にもなりません。  神については 考えてはいけません。考えるのは 自由ですが その答えが 神についての正確な実態であるかどうかは 決まりません。つまり 決めてはいけないわけです。そうでなければ 神ではないのですから。  要するに ブッダは 神なのかそうでないのか これは あいまいにしておくことは出来ません。そうではないでしょうか。

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  • cliomaxi
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回答No.5

>この細部における相違によって いまここで同時に 対照させるべきものとして 出して来ざるを得ないということでしたら その旨において さらに明らかにしてくださると ありがたいです。 それぞれの回答者の方に対するお礼等を見ると無闇に話をややこしくしていませんか? 何故ユダヤ教やイスラム教は問題では無いのでしょう? そもそもキリスト教を含めこれらの源流は同じものです。 イスラム教ではマスィーフ・イーサー(マルヤムの子イーサ=マリアの子イエス)が相当します。

noname#80116
質問者

お礼

 cliomaxiさん ご回答をありがとうございます。  そうですか? それほどとも思わないのですが つまり  ☆☆ * ユダヤ教ないしイスラームについては それほどの問題もなく このいまの類型において扱ってよいと考えますが 細部では 違ってくるかも知れません。(キリスト=神としてのイエスは 想定されていませんから)。(ANo.4へのお応え)  ☆ ということで まづ ユダヤ教は 明らかに イエスを認めていませんので その違いは はっきりしていますよね。イスラームは イエスを 預言者の一人として扱っているはづです。ただし ムハンマドは その預言者のうちでも 特別です。神(アッラー)の使者であり かれの口を借りて 神が語った〔言葉が すべてに優先する〕というのですから どうなりましょうか。ムハンマドは 神ではないが すべての人と神との唯一の仲介者という位置づけでしょうか。  けれども 要は その信仰の対象である神が 絶対者であるということにおいては みな 一致しています。もしその大前提を基礎として 類型を捉えることができるのなら そうしていますという意味です。もし 細部に どうしても こだわらなければ 話が出来ないということでしたら その旨を おしえていただければ ありがたいと思いますという意味です。  重ねて お伝えすれば ブッダの位置づけが いま 問題です。そのために イエス・キリストを 対照例として引き合いに出しています。ユダヤ教とイスラームは 問題が別だという意味ではなく 逆に ややこしくならないように 出していないだけです。つまり 《人間であると同時に 神である》という想定は キリスト・イエスの場合だけが はっきりと そうであるからです。   でも 触れないのではなく 触れてはいけないのでもないですから ご回答の内容に応じて 扱っていただければよいと考えますが。

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  • cliomaxi
  • ベストアンサー率33% (2921/8736)
回答No.4

仏教をキリスト教(ユダヤ教、イスラム教)と同じに考えるからややこしくなるのです。 神が世界を創造したと考える宗教と、人間の生き方を考える宗教では思想そのものが違います。 つまりあなたが云う「神」と宗教上の「神」は違うのです。 あなたの云う神は喩えて云えば「ロックの神」みたいなものです。

noname#80116
質問者

補足

 cliomaxiさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。一般的な見方および表現としては No.1へのお応えにも書いたのですが  ☆☆ 絶対(ないし絶対者)という想定  ☆ のもとに ブッダは神(ないし絶対者)ですか? と捉えていただくとよいと思うのですが。  それに 《イエス(人間)=キリスト(神:絶対者)》という対照は 理解のための補助として扱ってもらっても かまいません。  ★ 「ロックの神」  ☆ について 残念ながら 明るくないのですが 上の《絶対者》という想定と扱いとで 考えるわけにはまいりませんか?  ★ 神が世界を創造したと考える宗教と、人間の生き方を考える宗教では思想そのものが違います。  ☆ 細かくなりますが 次のように考えます。  1.《宗教》は あくまで 集団のものです。個人のみにとっては 宗教はあり得ません。ただその人が 信じて生きているという実態があるだけです。《これこれが わたしの信仰の中身としてのおしえだ》と言って 表明したとしても それは 《宗教》でも何でもありません。個人が まづ二人そろって 互いの信仰を共同化して 初めて 宗教が始まります。  2.いまここでは たとえ《宗教》という形態を採っている場合でも あくまで 一人ひとり個人のいわゆる《信教・良心また思想・表現の自由》というときのその内面をおしえてくださいと言っています。ブッダは絶対かどうかです。  3.つまり キリスト・イエスの神などと対照させようという意図も質問にはありますが その説明表現とは 別だという理解のもとに 問うています。すなわち 絶対者を 《世界の創造者としての神》として説明する場合は あくまで 《〈絶対者〉の想定》が まづ大前提として持たれるところから出発しています。言いかえると 《創造主》であるかないか その説明表現の如何を問わず 類型的に 対照させ得ると考えますが いかがでしょうか。  4.つまりは 創造主なる神をおのれの信仰において抱くにしろ そうでないにしろ その神ないし無神なる神の信仰にあっては どちらの場合にも 人は 《人間の生き方を考える》と思います。    細かい点を並べましたが そのように考えております。    * ユダヤ教ないしイスラームについては それほどの問題もなく このいまの類型において扱ってよいと考えますが 細部では 違ってくるかも知れません。(キリスト=神としてのイエスは 想定されていませんから)。そのとき この細部における相違によって いまここで同時に 対照させるべきものとして 出して来ざるを得ないということでしたら その旨において さらに明らかにしてくださると ありがたいです。

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回答No.3

「絶対」は正確に言語表現することはできないので、 説明するときの表現の問題として、大同小異としてかたづけること はできませんね。その問題の理想的な解は表現不能です。「可能性」は悟りを開くと同じ態様となります。 ブッダが神であるか否か、無神という神、そして人間の最高の状態としてのブッダも上記とほとんど同じ色彩を帯びています。 >このような考えに対して添削をおこなってください。 したがって、悟りを開いていない者にこの考えを削除することも 完全に肯定することもできません。 強いて言うならば、 >そういう信仰のもとに の先にあるものは、理解ではなく、悟りであるということでしょうか。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  bananasandさん bananasandさんにしては 失礼ながら 想像力のつばさが どこか雨にでも濡れておられたのか いまひとつ伸びを見せておられないように まづ 感じたのですが。  まづ 全体として   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  強いて言うならば、  >そういう信仰のもとに  の先にあるものは、理解ではなく、悟りであるということでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というとき その  ★ 悟り  ☆ の中身がどうであるのか これをお尋ねしているのです。もしこの《悟り》については 人間には《理解》し得ず その人の(あるいは ブッダのみの)境地の問題であるとしますと それでも その《境地》は どういう中身であるのか という問いになります。  もし この問いに答えることができないという場合には それは どういう事態であるのか これを明らかにするという課題を とうぜん 含み持って 質問に及んでいます。  ★ 「絶対」は正確に言語表現することはできない  ☆ もちろん そうですね。しかも たとえば 《無限》という概念を 人間は 考え出しました。《無限》の一部分は やはり無限であるという意味合いで定義する(もしくは想定する)と思います。たとえ無限を切り分けても やはりすべて無限であるというものです。  ブッダが 絶対者ないし神であるなら この無限のように 普遍的であり その智慧は 限りなく尽きることなく またその慈悲は 遍在しており 永遠であると想定されます。  もし ブッダは あくまで 経験的な存在として有限な移ろい行き朽ちて行く人間であるのみとしますと その智慧や慈悲の能力かつ実践において ほかの有徳な人びとと 本質的には(つまり 人間存在としては) 大きく見れば 変わりないということになります。相対的な差しかないということだと思います。ほかにブッダを超える人も出るかも知れないし 出たかも知れないという意味になります。  《悟りを開いていない者》にも ここまでは 明らかな哲学的真実です。さて 果たして この問いは もはやここまでなのでしょうか。いかがでしょうか。

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     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

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  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?