《神》は補助線である

このQ&Aのポイント
  • 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものはあるか?
  • 人間には分からない。分かるか分からないかが分からない。
  • 神は有る神と無い神とに区分され、すべては補助線として用いられている。
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《神》は 補助線である。

 1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  あらたに問う必要を感じました。ご教授ください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

質問者様の論旨は無神論的な立場になるかと思います。 神がいないという前提で、なぜ人々が神という考えを生み出したのかということの結論として、人間には知ることのできない非知の部分を神という存在で置き換えて、人間の思考で扱えるようにしたという主張ですね。 補助線という言葉自体がどういう意味合いなのか最初理解しあぐねましたが、どうして昔の人が神様というものを考え出したのだろうか、ということを考えれば、質問者様のおっしゃるように、昔の人々は知ることのできない領域を指す言葉・概念として神というひとつの基準を立て、それについて存在する・しないを語り合ってきたのかもしれません。無神論者の人が有神論者がどのようにしてできあがったのかを考える場合、自然とこのような考えに至るのかもしれません。 これは私にも腑に落ちます。 ですが、聖徳太子が本当に10人の話を同時に聞けたのかどうか私に知りようがないように、実際に聖書にあるように神が人の前に現れたことがあったのかなかったのか、本当にイエスが一度死んで甦ったのかどうか、仏陀が生まれてすぐに立ちあがって言葉を発したのかどうか、私には知りようがありません。 質問者様の考えでは、有神論、例えばキリスト教徒は 非知 → 神という言葉におきかえ → その中のひとつにキリスト教の神の名前がついた という流れになったということですが、キリスト教の観点から言えば 実際に神がいて人々の前に現れて道を示した → イエスが誕生し、一度死んで甦った → 人々はその話を後世まで伝えている という構図です。 どちらが正しいのかは、それこそ非知です。歴史が実際にはどうだったのかは、もはや非知といわざるを得ない部分が多数です。 考え方はたくさんありますし、そのどれが真実かは言えないと思います。 質問者様の考え方も、考え方のひとつとしては有りだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    神について 次のように《哲学として》 説明しています。  ○ (神は 《非知》である) ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知り得た)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)    ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________      ↓         ↓   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《非思考の庭》なる信仰には 神を有ると想定する有神論――しかもその中に ヤハヱーやアッラーフやブラフマンやらアミターバ・ブッダやらが 名の違いだけで中身は同じひとつの神としてある――と そして神は無いと想定する無神論とが あくまで信仰の形態として 互いに同等にして ある。と言っています。  それは 神なる言葉や それを表わす言葉やも ただの補助線であるからだと言っています。  ★ なぜ人々が神という考えを生み出したのか  ☆ これは 《思考の緑野》における理性のしわざであり 想像の産物としての神です。  つまり個人の信仰ではなく 集団心理としての《宗教》でありそのオシエです。おもちゃの神のことです。  つまりこれは 自業自得としておこなう《観念なる神の思い込み》です。何の意味もありません。  ★ 人間には知ることのできない非知  ☆ 《人間には知ることができないと知り得たこと》は 《不可知》です。  《非知》は 知り得ないとも知り得ないのです。知り得るとも知り得ないのです。  つまりは 知り得るかも知れません。つまり 或る人の主観の内にあっては おれは神を見た 神の声を聞いたというような事件が起きないとも限らない。それは それとして その人の心の内なる真実です。ただし ほかの人間の主観の内にそのままのことが入って行くというのは 無理でしょう。《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》を――そのように規定すること自体は 共有しえますが―― 互いに確かにおまえさんの信じている神とわたしの内なる神とは同じであるといったふうに共有することは どこまで行っても確定し得ません。  確定しえたなら それは ただの概念・観念・想像としての――あるいは 偶像としての――神のことでしかありません。    ★ どうして昔の人が神様というものを考え出したのだろうか  ☆ ですから 昔の人たちは 《かみ》という言葉を――どの民族にあってもその言語として――持ち得ましたが それは たとえば自然への畏れとしていだいた心のナゾが先にあって これに名前をつけただけなのかも知れません。  ただし いま現代人が 神と言っているのは――近代人が理性をことさらとうとび拝むようになってからというもの―― 観念としての神です。人間のあたまの中におさまったおもちゃとしての神です。  ちなみに この観念の神が死んだのだと どこやらのアンちゃんは言ったとか。  《非知》なる神が 死ぬとか生き返るとか そんな気遣いはあり得ません。  ★ 昔の人々は知ることのできない領域を指す言葉・概念として神というひとつの基準を立て  ☆ 《非知》は 《なぞ》ですが 知り得るかも知れないのです。だから 神はあまねく存在するとも言われるようになっています。ニュートリノのごとく やって来て 通り抜けて行っているのか何なのか。いろんなかたちで――初めの《非知》の想定のあとでは――自由に 神のことを 想像することは可能です。  だから 神の霊が アートマンが ブッダター(仏性)が ひとには自然本性としてやどるということも言われるようになりました。  ★ 実際に聖書にあるように神が人の前に現れたことがあったのかなかったのか、  ☆ 聖書は これも補助線ですよ。物語です。そういう仮りの言葉で説明したに過ぎません。また 神が見えたというのは その一人のひとの主観内面だけの話です。決して 外に出かけません。神は 外には出かけません。つまり 宗教は 出かけた結果です。人間が出かけるようにさせたのです。おもちゃとして作ったのです。  ★ 本当にイエスが一度死んで甦ったのかどうか、  ☆ 復活は 霊の話です。死んで棺桶に入れられ土の中に埋められたあとにも 生き返って来たという事例は かなりあるようですが 復活は この息を吹き返すこととは 問題が違います。  もともと《非知・非経験の場》として 神は 永遠です。それにちなんだ よみがえりです。  ★ 仏陀が生まれてすぐに立ちあがって言葉を発したのかどうか、私には知りようがありません。  ☆ これほど どうでもよい話はないとわたしは考えます。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  キリスト教の観点から言えば   実際に神がいて人々の前に現れて道を示した   → イエスが誕生し、一度死んで甦った    → 人々はその話を後世まで伝えている  という構図です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから これが 人間の想像の産物です。おもちゃの神です。心の外に出かけてしまった集団の心理としてだけの宗教です。オシエです。  せいぜいおのれの主観の内にしまっておいてくれと言うべきしろものです。  《キリスト教》という宗教・オシエが ダメです。ふざけんなと言ってやらねばならない・とんでもないマチガイであり これが 二千年もまだはびこっています。ローマ教会よ 自己解体せよと言っています。  哲学にできることは マチガイはマチガイであると その理由をつけて 明らかにして行くことだと考えます。  おつきあいをありがとうございます。  こと宗教にかんしては ただすべきマチガイが山ほどあるとお思いになるのではありませんか?    ちなみにこのような哲学内容を わたしは 聖書をとおしてキリスト・イエスを心に受け容れたところ――わが心なる非思考の庭――より得たものです。

その他の回答 (14)

noname#195588
noname#195588
回答No.15

なんとなく思いついたので。 予型論というのがあるらしいですけれど これがたとえば、新約聖書のイエスのことが すでに旧約聖書でさまざまなかたちで表現されていた ということであれば、 これから起こることは、すでにあったことであり すでにあったことは、これから起こることであり、 要は、同じことの繰り返しという発想になるのかな? 無理あるかな? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 時間や空間の外の神という発想がどこから来たのか わからないです。調べればいいのでしょうが余裕ないので。 神ではなくても私の問題意識から 生きる が時間や空間の外にあると考えるのは面白いのではありますが あ、永遠の命なら時間や空間の外という発想になるのかな? 雑談でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲ (ヰキぺ:予型論的解釈) ~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E5%9E%8B%E8%AB%96%E7%9A%84%E8%A7%A3%E9%87%88  (よけいろんてきかいしゃく、英語: Typological interpretation, ドイツ語: Typologische Interpretation)は、   ユダヤ教、キリスト教において古くから一般的に行われている聖書解釈法の一つ。   旧約のうちに、新約、特に救世主イエス・キリストおよび教会に対する予型を見出す解釈法である。   例えばイエス・キリストは、青銅の蛇を贖罪、大魚に呑まれたヨナを復活の予型としたと理解される(ヨハネ福音書3章14節、マタイ福音書12章40節)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 既存の文献から あたらしい出来事とつながりがあるという文章を探し出すということ。  その場合は いくつかのかたちがあるように考えます。  ▲ イエス・キリストが磔で木の上に上げられたこと と モーセが棹の先に青銅の蛇を掲げたこと との類似により 後者が前者に対して《予型》となったと見る形式  ☆ これは おそらくハリツケが起こってから 以前の歴史(文献)の中から 類似の事件を探し出した。それだけのことではないか? ただし そういった前例があるということは 意味づけが 強められるかも分からない。そして それだけのことだと考えます。  ▲ 大魚に呑まれ三日三晩を経たのち口から吐き出されたというヨナを イエスが十字架上の死から三日後に復活したという事態の予型とした形式  ☆ これは――聖書記事によるなら―― イエスによってすでにその復活が起きる以前に あらかじめ《予型》となると言われていた場合である。  歴史における前例とかかわらせて 説明するのは 一般に説得力が増す。とは考えられる。そういうことだと思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  これから起こることは、すでにあったことであり  すでにあったことは、これから起こることであり、  要は、同じことの繰り返しという発想になるのかな?  無理あるかな?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 無理あるでしょうね。そういった一般化や法則化のような見方とは 別だと考えられます。個々の事例について個別に 前例とのつながりを見るといったかたちにとどまるのではないでしょうか。  ★ 時間や空間の外の神という発想  ☆ これは 明らかな認識上のマチガイです。  《非経験の場――わが心なる非思考の庭》 これは 《非知》だと言っています。かんたんには 経験世界を超えていると言っています。  《超えている》ということは 一つひとつの経験事象やその範囲にとっての内と外とを超えているという意味になります。  言いかえると 《超えているナゾ》は その超えられた経験世界に 自在に出没することができる。なぜなら その経験世界における《有る無し》や《ものごとの因果関係》やからまったく影響を受けず 自由であるからです。  つまり 《非経験の場(つまり 神)》は いちいち・わざわざ人間の住む経験世界に出没することもないのですが 気が向いたら やって来て しかも嫌がっている・のちに預言者となる人間に介入して 立て 立って行け 行っていまから言うことを人びとに伝えよ・・・というようなことをもさせ得る。ということになり得ます。  《外》から来るのではなく もともと神自身の居場所であったかも知れない。そういうことは じゅうぶんあり得ます。  

回答No.14

「神」という迷いのプロセスを理解するための着想として面白いですね。 まさに「神」は補助線でしかなく、実体はありません。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ これはこれは 賛成票を投じていただき ありがとうございます。  ★ まさに「神」は補助線でしかなく、実体はありません。  ☆ わたしも かんたんに表現するときには 《分かるか分からないかが分からないナゾ》と言うところを 単に《分からない》と書くことがあるのですが ここは げんみつに言うかたちを添えたいと思います。  ○ まさに「神」は補助線でしかなく、実体はあるか無いかが分かりません。  どうでしょうかねぇ。  ご回答をありがとうございます。  こんばんは でした。

回答No.13

やあ。 私から見つとね、「神は絶対ダー」とかわめきながら。 俺様はたかが人間だ絶対なんてわかりっこねー。 とか何とか開き直っているように見えるんだよ。 病名は西洋ボケだ。 無そ悟りに私が表明した感想文に、「神のみがあり私はいない」とでも言う言い回しがあったがそんなその場限りの錯乱だ。 ところで私は絶対に興味がない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  問い求めというのは 自分ひとりで思索を繰り広げたり何らかのヒラメキを得てこれをふつうに理解できるように持ち続け求め続けたりして さまざまな過程をとおってすすむと思われますが   相手のある対話にあっては 互いに用いる言葉を取り決め合い 一つひとつの主題をめぐって ここまでは共通の了解に立つとか ここからは互いに見解が相違するので保留しようとか そういった相互理解を重ねて行く作業となります。    けっきょく あなたとの対話は そのような積み重ねが なかなか出来ない。いつも初めからやり直すという仕方を余儀なくされます。  もう一点。批判は とうとく 大いに歓迎しますが 何ごとにあっても 推論を示し その例示を相手の言い分についてしっかりと説明し 結論をきちんと提出する。こういった作業が のぞまれます。    とにもかくにも 質問者は たたき台を提出しているのですから ここがこうだ そこがどうだと 批評・批判をすすめてもらえると うれしいところです。  《絶対》をあつかうよりほかに 神について 他人(ひと)に説明するすべはないでしょうよ。

回答No.12

こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。 特に意見も批判もありません、 おもしろいです続けてください眺めてます。 たとえば感謝したくなったとき ああ かみが ある、 という気がします、対象として なのかはわかりません。 分かるか分からないかさえ分からない、といえば 「おのれ自身」がそうかな。 しかしこうやって奇跡とまぐれと偶然が重なったみたく おいら人間に生まれてしゃべってる、というのは なにものの意志でそうなったのか、とにかくおもしろい。 もともとの気が湧くっておもしろいです。 かみという字はなぜ「しめすへん」に「もうす」 って書くんだろ。ぴんとこないなあ。 仮身とかどぢゃ、あ、ちょっと違うか。 「ひと」は「霊止」って書いて 「ことば」は「光透波」って書くらしいよ。 ほぢゃ、眺めてます。                                 

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。  ★ もともとの気が湧くっておもしろいです。  ☆ あっ。これは できるだけ理論に忠実に表現していますが やはりタトエとしてであるとか いくらかは文学的な表現としてであるとか 粉飾があるかと思います。あしからず どうぞ。  ▲ (ヨハネによる福音書/ 7章 37-38) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ちょっとここだけを抜き書きするのも何ですが。表現のアヤとしても 何だか坐りがよくないようなくだりですが。  ★ かみという字はなぜ「しめすへん」に「もうす」 / って書くんだろ。  ☆ しらべました。   しめす偏は 神にささげえるいけにえを載せる机だそうです。   もうす=申 は:  ▲ (漢和辞典:神) ~~~~~~~~~~~~~~  申の音はシンで 稲光の形を示す。シンは ふるえる意の語源( 震 )から来ている。  古代人は雷が天地に震いとどろくのを恐れて これを天の神と考え シンと呼んだ。のち一般に神秘的なものの呼称となった。   (貝塚茂樹ら編 中辞典) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 「ひと」は「霊止」って書いて  ☆ あぁ ヒが 霊ですね。ミ・チ・ヒ いづれも 霊を表わした。  へっつい < へ(釜)‐つ(の)‐ひ(霊)  へ(釜)> へ(戸) だとも思う。所帯として。  ★ 「ことば」は「光透波」って書くらしいよ。  ☆ ふうん。何かすご過ぎやしないかなぁ。

  • atti1228
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回答No.11

でなんの?なんにもくれないバカバカしいもんじゃん。俺たちは、言葉で伝える。神は、無だ。言葉を発しない。こころのなかに自分で作ったもんだろうが。別にいいけど言葉がいま足りないの!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  だから 元気じるし元気の素だって言ったぢゃん。目には見えないって。  目に見える勇気の素だったら またそれを欲しがるぢゃん。何粒でも欲しいって言って来る。  だけど 泉の水のごとくつねに・いつまでも・どこでも――必要だと欲するなら―― 真正のゲンキが湧き出て来ます。そういうチカラです。よ。    ★ なんにもくれないバカバカしいもんじゃん。  ☆ そのとおり。だって自分がすでに自分の中に持っているそのチカラを出して発揮せよって言ってるだけだから。  ★ 神は、無だ。言葉を発しない。  ☆ これも そのとおり。    ただし  ★ こころのなかに自分で作ったもんだろうが。  ☆ は 違う。もし人間の理性の・想像力の・念力の産物であったなら その一時的な用には間に合うかも知れないが けっきょくは絵に描いた餅 張子の虎です。  もともとそなわったチカラなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒です。  ★ 別にいいけど言葉がいま足りないの!  ☆ 要らなきゃ 仕方がない。  ことばより ひ・ら・め・き。

  • atti1228
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回答No.10

だいたい、神ってなんだよ。どこにいるの?神がいるのなら殺してやる。何を俺たちにあたえた。絶望だけだ。絶対ゆるさねーぞ。

bragelonne
質問者

お礼

 あってぃ1228さん こんにちは。はじめまして。  ご回答をありがとうございます。  神に代わって おこたえしましょう。  ★ だいたい、神ってなんだよ。  ☆ 元気ジルシの元気の素です。目には見得ないので それを手に入れることがむつかしいようです。  ★ どこにいるの?  ☆ たぶん あなたの目の前か うしろあたりにいます。  ニュートリノのごとく われわれをつらぬいて飛んでいるかも分かりません。  指先が触れるか触れないかのようにあなたの心のまどを いつもノックしているかも分かりません。  あるいは 魚が網にかかるようにあなたのたましいは すでに たも(網)で掬われているかも分かりません。  神については 遍在すると言われています。いつでも・どこにでも・誰にでもです。  ★ 神がいるのなら殺してやる。  ☆ もうころされました。 霊においてまたよみがえったと言われています。  霊は 雲をつかむような話ですから 殺すことが出来るかどうかは さだかではありません。  ★ 何を俺たちにあたえた。絶望だけだ。絶対ゆるさねーぞ。  ☆ どんなののしりでも 歓迎してくれると思います。  また どれだけ罵倒されても あるいは たたえられても 神は 痛くも痒くもないそうです。サンドバッグにどうぞと言っています。  ▲ あなたがたの持っているもので もらわなかったものがあるか?  ☆ という言い方で わたしたちを叱っているという一面もあります。  すべて おまえたちのものだ。もっと自由に生きなさい。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。  それは あなたがた次第なのだからと。  元気印の元気の素は そのポケットに入っていますよ。お早くどうぞ。(消費期限はありませんが)。

回答No.9

A1だよ。 ますます愛想が尽きるよ。 仏陀とは何であるかという、東洋の哲学からして、人間が人間として自己を自覚することでおおむねOKだろ。 ところが、このような自己の自覚は神の確信なんだよ。 あんたもあんたなりに所詮西洋タコだよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  その A1 についてのやり取りは つづかないのですね。ぜんぶわたしの述べたところが妥当であると納得したようですね。  ご自分の説をのべることに何ら問題はありません。ご自由になさってください。  ふつうは その理由を明らかにしてその説をつよめます。  東洋の哲学であろうが何であろうが 推論の妥当性をきそいます。

回答No.8

☆ いえ。わたしの考えた考えを述べている。に過ぎません。考え方については 賛同したり反対したりすることがあります。一般に 自由な批評や批判を述べ合っていくということ。これが ここでのやり取りです。☆ というのであれば、なるほどそういう考え方もあるのですか、という感想です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  おそらくこんなことを言っているのは お聞きになったことがないだけでなく ぶっ飛びの中身であると受け取られたのかと思います。  おそらく こういうことが 常識になって行きましょう。  と思いますよ。  おつかれさまでした。ありがとうございました。

回答No.7

★繰り返しますと もし《神が複数の人間のあいだに 同時に同じ内容において体験された》ともしするのならば そこに共有された神は 《思考の緑野》における《ことば・観念・概念》としての内容を出ることはない。この経験則は 普遍的な内容でありましょう。  だって 《共有が確定した》なら それは 《既知》としての経験事象であるとなります。ところが 神は 非知でありますから。経験事象ではあり得ないゆえに 神とするのですから。しかも 或る主観の内においては 神経験がありうる。といったナゾの存在(また非存在)のことですから。  あたかも指先がそうっと触れたか触れないかのかたちで われの背をさわったかに思われるというような場合も むろん あり得ます。しかも つねに その主観ひとりの体験にとどまります。そういうふうに受け取られるのが 神でしょう。  こうして いまここでは 神についての普遍的な定義を問い求めているとも言えます。どうでしょう。★ 私が言っているのは、この考え方自体がすでに質問者様の個人的な考えになってしまっているという点です。 神が非知であるというのは質問者様の主張であり、信仰を持っている人たちにとっては過去に既知となっている存在だからです。 また、過去に一部分が既知となったことがあるというだけで、全てが既知ということでもありません。 例えば私は私の両親について多くを知っていますが、もしかしたら私が知らない間に異次元で人知を超えた仕事をしているのかもしれません。 また複数の人が認識したものが、歯の痛みという主観を超えないものであるというのなら、現在にいる私たち人間ですらそうだと思います。私が知っているAという人を、他人もまったく同じよう認知しているとは限らないのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ すでに質問者様の個人的な考えになってしまっている  ☆ いえ。わたしの考えた考えを述べている。に過ぎません。考え方については 賛同したり反対したりすることがあります。一般に 自由な批評や批判を述べ合っていくということ。これが ここでのやり取りです。  ★ 神が非知であるというのは質問者様の主張であり、信仰を持っている人たちにとっては過去に既知となっている存在だからです。  ☆ いいえ。どの人にとっても 神は非知です。いつまでもそうです。  《既知となっている》のは その何々の神といった言葉として・また絶対者だとか創造主だとかの概念として 経験合理性で理解しうるように知られているということを言っています。それらの言葉や概念が 補助線であるということです。神本体は 依然として・どこまでも 非知です。  ★ 例えば私は私の両親について多くを知っていますが、もしかしたら私が知らない間に異次元で人知を超えた仕事をしているのかもしれません。  ☆ 人間は 《経験事象》です。ですから 可知であり 既知の部分もあれば未知の部分もある。というに過ぎません。  ★ 異次元で人知を超えた仕事をしているのかもしれません。  ☆ これは 《異次元》がやはり経験世界であるのなら 同じことです。未知の異次元も 経験世界のことです。  ★ また複数の人が認識したものが、歯の痛みという主観を超えないものであるというのなら  ☆ 《痛い》という言葉≒概念については 認識を共有するはずです。中身は 一人ひとり違うということではないでしょうか。  ただし  ★ 現在にいる私たち人間ですらそうだと思います。  ☆ というのは あくまで経験事象にかんしてのことです。分からないからと言って 非知の範疇ではありません。既知の部分と未知のとに分かれて捉えられているということだと思います。  非知については 事情が違うということだと思います。そしてこの非知の想定については およそ普遍的な内容としてみとめられましょう。    

回答No.6

質問者様の主張通り、神に対する主張・言論は個人の自由ですので、質問者様の哲学もその一説としてあって良いと思います。 「私はこういう考えです」というのに対し、特に反対はありません。その考えが間違っていると言う気もありません。 ですがあくまで一説であり、それが絶対に正しく他が間違っているというのならそれは強引に思います。 質問者様もあくまで自分の、あるいは質問者様の知りうる人たちの経験則の中でしか思考できていないからです。 例えば質問者様が論理的に完結している持論を持ってきてこれが神と呼ばれるものだと主張することは、聖書の歴史がでたらめであると証明することにはなりません。あくまで対抗する説を唱えているだけで、自分の考えのほうが論理的に正しく思えるからそっちが間違いだ、というようなことは乱暴すぎます。 他を否定するのであればそれを否定するための材料が必要となります。 また複数の人間が同一の神を認識しえないというような発言がありましたが、それについても質問者様の経験則にすぎません。自分や自分の周りが経験していないことは他の人間も経験していないという仮定がうかがえます。 もし10人の人間が同時に全く同じ姿の人を超えた存在を目にし、全く同じ内容の言葉を聞いたとすれば、そこには共通の存在がいたということになります。 自分がそれを経験していないから、自分の知りうる限りそんなことを経験した人間がいないから、という理由でそれが起こり得る可能性を否定するのであれば、やはり質問者様の考えも質問者様の経験則という限られた思考の場で生み出されたものに過ぎなくなってしまいます。

bragelonne
質問者

お礼

 あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 他を否定するのであればそれを否定するための材料が必要となります。  ☆ この質問をとおして回答者さんらと問い求めたいことは むろん《神とは何か?》ですが おそらくふたつに分かれると思います。  信仰には 有神論――しかもいくつかの名の神がいます――と無神論とのかたちがあるということ。つまり それでも すべては けっきょく同じ《かみ》に帰着するゆえ 互いに対等な信仰なのであるということ。  もうひとつには ここから派生するひとつの問題として 宗教とは 個人の信仰から出たものでありながら オシエとして取り決めてしまったときには そのオシエが神とされたなら まったく《マチガイなる神》が しかも信じられているというとんでもない事態になっている。ということ。  この二つ目の課題は まだかかわりがあったときに必要な程度に触れているだけです。ただし 結論だけは はっきりと言って来ています。それは 《神》という言葉すらが 補助線であって 仮りに表わしたシルシであるということであるならば ましてや オシエは 《かみ》ではあり得ないということ。このひとつの論理のみで いまは 触れているという恰好です。  言いかえると オシエは あくまで《かみ》を指し示すためのシルシであり補助線である。決して神ではない。という断り書きを書いているなら まだ ましであるということになります。  すなわち  ★ 他を否定するのであればそれを否定するための材料が必要となります。  ☆ ひとつに いかなる名の神であっても 信仰は 互いにひとしく対等である。すなわち 同じひとつの神である。と言っています。決して《否定していません》。むしろ すべての神や信仰を とうとんでいます。  ただし 人間の理性や科学を神とするのなら・そしてちょうどそれと同じように宗教がオシエを信じるべき神であるとするのなら それは 神および信仰にかんして 明らかなマチガイである。こうも言っています。  すなわち 宗教については けっきょくあらゆる宗教を わたしは《否定しています》。これが 哲学の立ち場であると考えます。(くわしい議論のまえがきとして 触れています)。  ★ もし10人の人間が同時に全く同じ姿の人を超えた存在を目にし、全く同じ内容の言葉を聞いたとすれば、そこには共通の存在がいたということになります。  ☆ そういう物語が 聖書にもペンテコストのときでしたかの話として伝えられていますが(あぁ これは 《人間の像》ではなく神の聖霊のことですが) それは 決して経験合理性において互いに 真であるとは言えない。でしょうね。  つまり なぜなら 《同じ》ということは おそらく《キリスト》ならキリストという名前つまり言葉を互いに共有するということまでだと考えられるからです。  だって 歯が痛いというような感性の問題にしても 言葉は同じですが その感覚が同じであるとは限らないのですから。ましてや 《非思考の庭》における《神体験》は あくまでその人ひとりの主観の内で起きた事件であるに過ぎません。それ以上の二人のあいだの神の共有は 無理です。  つまり ここでも《言葉として――それに伴なって観念や概念としては―― 複数の人間のあいだで共有することは出来る》。けれども それは 概念の共有までです。《神秘とか ナゾとか 超自然とか》の概念説明を共有するのみです。  この経験則は  ★ 質問者様の経験則という限られた思考の場で生み出されたものに過ぎなくなってしまいます。  ☆ ということにはならないでしょうね。妥当性のある認識であると みとめられましょう。  繰り返しますと もし《神が複数の人間のあいだに 同時に同じ内容において体験された》ともしするのならば そこに共有された神は 《思考の緑野》における《ことば・観念・概念》としての内容を出ることはない。この経験則は 普遍的な内容でありましょう。  だって 《共有が確定した》なら それは 《既知》としての経験事象であるとなります。ところが 神は 非知でありますから。経験事象ではあり得ないゆえに 神とするのですから。しかも 或る主観の内においては 神経験がありうる。といったナゾの存在(また非存在)のことですから。  あたかも指先がそうっと触れたか触れないかのかたちで われの背をさわったかに思われるというような場合も むろん あり得ます。しかも つねに その主観ひとりの体験にとどまります。そういうふうに受け取られるのが 神でしょう。  こうして いまここでは 神についての普遍的な定義を問い求めているとも言えます。どうでしょう。  

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     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

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     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

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     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 神とはなんでしょう?

    『自然』や『生命』に『神』を思う人あれば 現象に『運命』や『意志』を感じ『神』を見る人あり 『ラブラスの魔』のごとき『神』を幻想する人もあり 『集合的無意識』の中に『神』を見いだす人もあり 『神』といってもいろいろあります 『神』とはなんでしょう? 有神論の方は『神とは現象に対してどのような存在なのでしょう?』 無神論の方は『人間はなぜ神を幻想してしまうのでしょう?』 という質問として受け取ってください

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     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • ニーチェは死んだと 神は言った?

    神は死んだとニーチェは言いましたが 今でも神はキリスト教徒の中に息づいています 人間は神じゃないですが、人間は宇宙の一部です。人間の意識は宇宙の意識でもあるのです 人と人の間 人間の繋がりの中に宗教があり神が性質として在る以上 無神論者の考えが尊重されるように有神論者の考えも尊重すべきではないでしょうか? 宗教と一緒に道徳も荒れています 今こそ哲学は神とは何か、そして神を信じる人達を弁護しなければ 思想信条の自由がおびやかされているのではないでしょうか? 私は無宗教の家に育ち、無神論者でしたが、今 神に興味があります。 人間の意識に神がいるのなら この宇宙に神はいるではないですか? 世界では1万という宗教が有り、それに近い神がいますが(多神教もあります) 仏というのも神と似ています。この宇宙の真理を会得したら 神の子 では?ないですか? この宇宙を変えることが出来るのですから。何かを創造することができるのですから。 どうでしょうか? 神をどう思いますか? 神ってどの様な存在でしょうか?

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     1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論として 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》がある。とお伝えしましょう。  2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれにその意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後ろ指をさされるということはない。と考えられる。  3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係である。  4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。   ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこなう社会的な人間関係である。  5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息している。   宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》である。オシヘとは そういうカスである。  6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっての話であり その場合のみである。  7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨコとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。  8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論〔ましてや宗教〕といった搾りカスと 生きた神や生きた信仰とは 別です。  9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。   フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。  10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それでも――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか どうかの問題がありますが)。  ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つまり反批判をもおこないます)。

  • 神について

    神について 専門家の方でもどなたでも構いませんのでご意見お願い致します。 有神論者か無神論者かを明記の上、そのような結論に至った理由や考えを詳しくお教え願います。また、何か参考文献等もありましたら教えて下さい。 ちなみに私は、今は無神論者になりかけています。 少し話はそれますが、うつ状態にありまして、色々な悩みや不安など、多くのことを考えていたら樹形図のようにして悩みが増えていき、ついには神の存在にまでたどり着いてしまいました。 とりあえず、何でも良いので神の存在について結論と考察をお願い致します。