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ニーチェは死んだと 神は言った?

神は死んだとニーチェは言いましたが 今でも神はキリスト教徒の中に息づいています 人間は神じゃないですが、人間は宇宙の一部です。人間の意識は宇宙の意識でもあるのです 人と人の間 人間の繋がりの中に宗教があり神が性質として在る以上 無神論者の考えが尊重されるように有神論者の考えも尊重すべきではないでしょうか? 宗教と一緒に道徳も荒れています 今こそ哲学は神とは何か、そして神を信じる人達を弁護しなければ 思想信条の自由がおびやかされているのではないでしょうか? 私は無宗教の家に育ち、無神論者でしたが、今 神に興味があります。 人間の意識に神がいるのなら この宇宙に神はいるではないですか? 世界では1万という宗教が有り、それに近い神がいますが(多神教もあります) 仏というのも神と似ています。この宇宙の真理を会得したら 神の子 では?ないですか? この宇宙を変えることが出来るのですから。何かを創造することができるのですから。 どうでしょうか? 神をどう思いますか? 神ってどの様な存在でしょうか?

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noname#260418
noname#260418
回答No.7

>疑問を持って自分の考えを問うてみるのが批判精神でしょう 他人の意見に耳を傾けること、 学ぼうとすることです。

yuniko99
質問者

お礼

そうですね その通りなんです。ありがとうございます。

その他の回答 (6)

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.6

再度、捕捉回答します。 あなたは「性質はエネルギー・物質とは独立です」と自分で言っているじゃないですか? エネルギーと物質を同一視しているみたいだけど、エネルギーは、たとえば核エネルギーは原子核に中性子を衝突させ、核分裂が起きた時に生じる。 だから、エネルギーと物質を同一視できない。 そしてあなたは「性質はエネルギー」と言って、しかも「物質とは独立です」と言っているが、性質は物に帰属するもので、物から独立に存在できない。 そして性質は物に属し、不可分離だから、独立とは言えない。 あなたの言うことを聞いていると、性質はエネルギーからも、物質からも独立に、それ自体で存在すると言っているように聞こえるが、そうか? 性質は神様か? 物とは何か? 物とは分子からなり、分子は原子からなり、原子は素粒子からなる、今のところ、それ以上はさかのぼれない。

yuniko99
質問者

お礼

何だ 読めなかったのか、「性質は、エネルギー・物質とは独立です」 こう書けば分かる訳か 成る程。 エネルギーと物質はイクオールではない。 しかし重力でもヒッグス場のヒッグス粒子によるもの 光でも光子の振動と運動 量子を考えれば? 物質でないものがこの世にあるのか?と言う人もいるんでね。 一応「エネルギー・物質」とか「エネルギー(物質を含む)」とか書く訳。 性質が神様だとは書いてない 神様は真理と 宇宙のエネルギーだろう その神様に似せて作られたのが精神と 脳内や五体、環境の物質・エネルギーだろう 性質がエネルギーだと書いたと思ったんですか それは大変失礼しました。

noname#260418
noname#260418
回答No.5

>無神論者の考えが尊重されるように有神論者の考えも尊重すべきではないでしょうか? 無神論者の考えが尊重されてるということは ないです。 有神論者の考えを尊重すべき、 神を信じるひとを弁護しましょうと おっしゃってますが、 信仰心は個々のものであり他人が弁護したり 尊重する必要はないと思いますよ。 否定しなければいいのです。

yuniko99
質問者

お礼

そうですね 人の考えを否定しようとするばかりが批判精神ではないですね 疑問を持って自分の考えを問うてみるのが批判精神でしょう どうもありがとうございます。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.4

捕捉回答します。 (1)性質について ロックは「人間知性論」で、物の性質を二つに分けています。 一つは物に客観的に属するもので、それをロックは第一性質と言い、延長・形・固さ・重さなどと言い、あと一つは人間に主観的に属するもので、それをロックは第二性質と言い、人間の五官で受容されるもの、つまり視覚(色彩)・嗅覚(匂い)・味覚(味)・聴覚(音)・触覚(肌触り)、に分けました。 そしていずれの性質も物があっての性質ですから、物から独立に性質が存在することはありません。 第二性質、たとえば色彩は物があって色彩もあるので、物がなく、色彩がそれ単独で存在することはありません。 それは他の性質も同じです。 あなたは「性質は物質とは独立したものです」と言いますが、それは間違い。 そしてあなたは「われわれの精神は性質で出来ているのです」と言いますが、精神は色を持たず味を持たず、匂いを持たず、音もしませんから、精神は性質で出来ていません。 あなたは「性質はエネルギー」と言っていますが、エネルギーは物質と物質が衝突して生じるもので、エネルギーは物質の性質ではありません。だから「性質はエネルギー」とは言えません。 「脳内の物質が反応して、その結果、性質としての精神を実現しているのです」と言いますが、前述のように物の性質、たとえば色彩・味・匂い・音・肌触りが精神を実現することはありませんし、脳内の物質、つまり脳は神経繊維・ニューロンと化学物質・シナプスの集合体ですが、それが反応して、考えたり、意識したり、手や足を動かしたりはするでしょうが精神を実現することはありません。 精神っていったい、何ですか? 「心は体(脳を含む)から独立しているのです」と言いますが、あなたが死んだら心も消滅します。独立しているとは言えません。 あなたが死んで、その心が独立に存在するとしたら、その心はどこに行くんですか? 天国に、それとも地獄に? それともトイレ? トイレにも神様はいます、と言いますからね。 「神が性質と書いたのは、本来、神の体は宇宙、心は真理、真理の現われが神ということです」と言いますが、神は体を持っているのですか? そして宇宙が神の体だということですね? だとしたら、おへそはどこですか? そしておチンチンはどこですか? 肛門はどこですか? ウンチをどうやってするのですか? 宇宙の外にウンチするわけですね? 「心は真理」と言いますが、その真理というのはプラトンの言う「イデア」ですか? プラトンは真・善・美の「イデア」があると言いました。 そしてプラトンは「イデア」こそが真の実在で、物質は仮象だと言い、真の実在ではない、と言いました。 これをプラトンの「概念実在論」と言いました。 概念が実在し、個物・個々のもの・実存は実在しない、と。 あなたと同じです。 真理とは概念です、言葉です。 そして概念の現われが、神だということですね? プラトンの言うことにそっくり。 でも、前の回答で述べましたように、ニーチェによって、それは否定されました。 「イデア」なんてない、神なんて存在しない、と。 真理とは哲学では、言葉と存在の一致です。 たとえば、子供が「ここにお金がある」と言葉で言ったとして、現に、お金がそこにあれば、それは真理である、と言われます。 真理というのは、どこか天にあるものでなく、ごく当たり前にあることです。 あなたは、真理をまるで神様のように崇高なものと思っているのかもしれませんが、実に陳腐なものなんですよ。 「心が真理」って、いったい何ですか? その心って、どこにあるんですか? 脳を解剖しても、心なんて見つかりませんよ。 心というのは、ただの言葉、概念です。 「真理の現われが神ということです」と言いますが、真理は前述のように、言葉と存在の一致です。その現われが、神というのは理解できません。 真理が現れると、それが神になるんですか? オカルトですね? そして、英語のGODを幕末の頃に、中国にいた宣教師・モリソンが、聖書にある「GOD」を「神」と訳すべきか、それとも「上帝」と訳すべきか迷い、迷った末に「神」としました。「上帝」とは、皇帝の上にある、という意味で、それは中国では使えませんでしてた。なぜって皇帝がいるのに、その上に別の者がいるというのは受け入れられなかったからです。 それで仕方なく、GODを「神」と訳しました。 でも、中国には神はたくさんいます。 キリスト教の神はただ一人です。 だから、GODを神と訳したのは誤訳です。 日本神道にも神というコトバがあります。 しかし、日本の神は、八百万の神々で、キリスト教の神とは違います。 だから、これも誤訳ですが、ほかに言葉がないのですから、仕方がありませんでした。 あなたは「日本にも神がいます」と言いますが、それはキリスト教の神とは違います。 日本神道の神は西洋にはいません。 それに日本は仏教国で、神というより、仏の国です。 仏は神とはまったく違います、ぜんぜん似ていません。 日本には一神教のキリスト教途・ユダヤ教徒・イスラム教徒は、わずか150万人しかいません。 だから、あなたが「神をどう考えますか?」と言われても、困ります、と申し上げました。 そういう質問は外国に行って、してください。 「あなたに思想がありますか? あなたは真実を知っていますか?」と言いますが、哲学とは批判です、あなたのようなデタラメを批判することです。 カントと同じ、批判哲学です。 私はあなたから「真実を知っていますか?」なんて言われたくありません。 哲学書なんて読みもせず、哲学なんて知らない人から、そんなことを言われたくありません。

yuniko99
質問者

お礼

貴方は物が無いと性質がないと言うが 物って何だ? 光は物か? そりゃ光子は物かもしれない、素粒子も物と言うなら。 しかしその素粒子の運動は物か?運動エネルギーには性質がないとでも? ポテンシャルエネルギーの性質はヒッグス場の影響かも知れない しかしヒッグス場の力は物か? >精神は色を持たず味を持たず、匂いを持たず、音もしませんから、精神は性質で出来ていません。 ?? >だから「性質はエネルギー」とは言えません 誰が性質はエネルギーだと書いたんだ? 文章も録に読んでない。 ノープロブレン。何の問題もない。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

神は死んだ、というニーチェの言葉を誤解しているようですが、それは文字通りキリスト教の神が死んだという意味のほかに、西欧のプラトン以来の形而上学の歴史が終わった、という意味です。 どういう意味かというと、プラトンは天に「イデア」の世界があり、それこそが真の実在であり、本物の世界であり、私たちの地上の世界は仮象の世界であり、ニセモノの世界であると言いました。 この、世界を越えた何か超越者が存在し、それが真の実在で、地上の個物・個々のもの・実存は仮象の、ニセモノの世界だという考えを古来、形而上学と言いました。 今の私たちかすらすると転倒した考えです。 でも、その後の西欧で、プラトンの「イデア」は神に言い換えられ、その神が天にあり、神こそが真の実在であり、人間や自然はその神の創造したもの、人間は神の被造物である、と言われました。 本末転倒です。 ところが西欧では、これが正しいものとずっと信じられてきました。 ところが190世紀末に、これをひっくり返す哲学者が現れました。 それがニーチェです。 ニーチェは言います、天に「イデア」という世界があり、それがホンモノの世界であり、地上の私たちの世界がニセモノの世界なんてウソだ、神が存在するなんてウソだ、地上の私たちの世界がホンモノの世界であり、唯一の世界である、と。 英国の哲学者ホワイトヘッドの言うところでは「西欧の哲学の歴史はプラトンの注釈の歴史にすぎない」と。 西欧の哲学の歴史は形而上学の歴史であり、神学の歴史です。 その「二世界論」、つまり天の世界があり、地上の世界があり、本物の世界があり、ニセモノの世界がある、という「二世界論」をニーチェは否定し、一つの世界を唱えたのです。 それが「神は死んだ」というコトバの意味です。 まあ、今ではそんなことは常識ですが、ニーチェの時代はそうでもなかったのです。 ところであなたは「人間の意識は宇宙の意識でもあるのです」と言いますが、意識というのは人間だけが持っているもので、宇宙は意識を持っていません。 だから、人間が宇宙の意識を持っている、ことはその通りですが、それを宇宙の意識と同一視することはできません。 「人と人の間、人間のつながりの中に宗教があり神が性質としてある以上」と言いますが、人と人の間に神なんていません。人と人の間には、人間関係があるだけです。 東日本大震災の時に「人と人のきずな」と言われましたが、それを宗教なんて言った人はいません。 それに神は性質としてあるのではありません。 性質とは何か本体があり、その本体に付属するモノのこと、神は主人ではあっても、付属物であったりしません。 それではまるで、神は「召し使い」と言っているようなものではないですか? 神は誰に付属するものなんですか? 「無神論者が尊重される」と言いますが、誰が無神論者を尊重しているのですか? 私は無神論者ですが、それが事実だからで、別に無神論を尊重なんてしていません。 「宗教と一緒に道徳も荒れています」と言いますが、荒れているのはイスラム国だけです。 でも、イスラム教徒はイスラム国をイスラム教ではない、と言っています。 だから宗教は荒れていません。 道徳は、戦前の「滅私奉公」の反動で私利私欲になっていますが、評論家・故・吉本隆明は、私利私欲を認めなくて何の戦後か、といってそれを肯定しています。 だから道徳も荒れていません。 あなたは戦前の修身・道徳を復活したいのですか? とんだアナクロニズムですね。 「今こそ神とは何か、そして神を信じる人を弁護しなければ」と言いますが、日本は仏教国です。 一神教の信徒はキリスト教・イスラム教・ユダヤ教を合わせて150万人しかいません。 そして仏と神は似ている、と言いますが、似ていません。 あなたが神に興味があるのは勝手です。 だけど「人間の意識に」神はいませんし、「この宇宙にも」神はいません。 「神をどう思いますか?」と言われても、仏教徒にそんなこと質問されても困ります。 そんなことは外国人に聞いてください!

yuniko99
質問者

お礼

成る程 成る程 うん 勉強になります。 書きたい事が山ほどありますが 何を書けば良いですかね 今でも唯心論を信じてる人もいますねえ 自分だけが存在し 他の人は自分の中に存在する 現実と理想 エネルギーと性質 性質と真理 天と地 天地人 父と子と聖霊 この様な内容を書いていたらキリがありません ただ 性質は今まで「何か本体」に付属するものと言われてきましたが それは間違っています。 性質は真理に従って現れるのです。それが何で属するものでしょうか? 性質はエネルギー・物質とは独立したものです。 そして我々の精神は 性質で出来ているのです。 脳内の物質が反応して(素粒子レベルまで)その結果性質としての精神を実現しているのです、存在せしめているのです。 心は体(脳を含む)から独立しているのです。 だから体を殺すことだって出来るのです。勿論愛する事も出来ます。 神は性質として在ると書いたのは 本来は神の体は宇宙、心は真理 真理の現れが神 と言う事です。 この場合も体であるエネルギー・物質よりも真理としての神、霊者としての神が本来の意味です。聖書にそう書いてあります。 外国の神は関係なくとも 日本にも神はいます、八百万の神がいるではないですか 仏教徒でありながら神道の神社にも参ってるのですから 矛盾はあるかもしれませんが そこそこ折り合いは付いてるのでしょう。 >神教の信徒はキリスト教・イスラム教・ユダヤ教を合わせて150万人 これは「日本には」と書いてくれないと分かりません 世界には何人居るんですか?仏教徒よりもキリスト教徒の方が遥かに多いでしょう。 イスラム教徒も多い。 貴方には思想がありますか? 貴方は真実を知ってるのですか? もしそうなら教えて欲しいものです。書きたい事はありますが 時間がない どうもでした。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

yuniko99様、こんばんは。 >「神をどう思いますか? 神ってどの様な存在でしょうか? 」 信教の自由を、逸脱出来ません。

yuniko99
質問者

お礼

信教は自由なわけですね 私もそれを破るつもりはないです ただ言論も自由なので論じています。それを分かってほしいです どうもありがとうございます。

noname#212470
noname#212470
回答No.1

宇宙の真理を会得しなくても 神の子です・・ 神は 無神論者 有神論者で 区別しません・・ 誰もを分け隔てる事をしない・・  神に興味があるのなら あなたも どんな人間に対しても 分け隔てない心を持ちなさい・・

yuniko99
質問者

お礼

神が分け隔てしないなら、誰が分け隔てし出したのでしょうか? イエスは人のことを「神の子」「人の子」「マムシの子」と呼んでますねえ 色んな側面を持っているのでしょう。 神様は時に残酷なのか それとも神は創ろうとしているのか 進化論でも残酷ではありますね。 どうもありがとうございます。

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