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神について

神について 専門家の方でもどなたでも構いませんのでご意見お願い致します。 有神論者か無神論者かを明記の上、そのような結論に至った理由や考えを詳しくお教え願います。また、何か参考文献等もありましたら教えて下さい。 ちなみに私は、今は無神論者になりかけています。 少し話はそれますが、うつ状態にありまして、色々な悩みや不安など、多くのことを考えていたら樹形図のようにして悩みが増えていき、ついには神の存在にまでたどり着いてしまいました。 とりあえず、何でも良いので神の存在について結論と考察をお願い致します。

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noname#105597
noname#105597
回答No.17

有神論者です。 私的な経緯はともかくとしまして、まずは現時点で思うことがあります。 それは、ナイチンゲールとマザーテレサは、神の声を聞いておられる、と様々な文献等で目にできます。 私はこの2名の方は、尊敬できますので、そうした方が神の声を聞いたとおっしゃることを信じることができます。 また、この2名以外にも、偉人と言われるような方々の中には、明確な信仰等を有しておられる方々がむしろ多数おられるので、同様な感じで信じることができます。 ちなみに、うつ状態は大変なことと思います。 私は仕事と恋愛の関係で、結果的には数時間か数十分という程度、うつ状態みたいになって起き上がれなくなったことがありましたが、この時に効果があったことを書きます。 仕事の方は、たまたまその時に家族が「今度の新市長は厳しいらしいぞ」と何気に言った一言で、「自分にはともかくやるべき仕事があった。他のことなんかどうでもいいから、それをとにかくやればいいのだ。」という気が生じ、休日でしたが一転して仕事へ出かけました。 恋愛の方は、ナイチンゲールを思い描くことで、十二分にエネルギーを得ることができ、これも一転してむしろ社会活動的な行動をする状態になりました。それは、まずは癒しという面もありましたが、続いてナイチンゲール御自身の生き方における心境をも感じることにより、そうした感じになれたのです。 最後に、私的な経緯の発端は、主として「太陽の法」という本を読み、その他この著者の一連の著作等を読んだりすることで、私は神仏の実在をかなりハッキリと信じることができました。上述の恋愛うつ脱却の局面も、神仏や天使等々といった諸霊の実在を、この本等により明確に信じることができるようになったことにストレートに関係していると言っていいです。 神仏や天使等は実在しておられ、そうした方々の強烈確実な愛念等々を感じることができれば、あとは自分のなすべきことをなして行けばよい、という感じになることもでき、それでウツ脱却以上の自分になれる、という実体験があった、という次第なのです。

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その他の回答 (16)

回答No.16

私は存在するものすべてを創造したのが神だと思っておりますが、神が絶対の善とも愛とも思っておりません。 五井昌久氏の本を読むことをお奨めしますね。

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  • pupurr
  • ベストアンサー率18% (129/704)
回答No.15

生命の存在から信じるといいです。 仏教は生命哲学ともいいます。仏教ではそれを守る善神が出てきます。  人の中に見ます。  自分の中に原因があり、動作があり、結果を助ける善神の働きがあり、結果があり、結果を報じる働きがある。それは全部自分の中に納まっているといいます。  人を導くために仮の教えと言うものがあります。そこでは架空の仏も説かれます。  教えの中には仮と真実の教えがあります。  仏は生命の表現だと聞いたことがあります。仏性は梵天帝釈と見えたりとも聞きます。すべてあなた自身の話です。しかし信じられないから、導く仮の教えがあります。  あなたは仮の教えで疲れてしまったんでしょう。  悩みの解決は自分が成長して自分が解決するものですが、悩みがあるから成長もあると言うものです。  他力本願ではなく、自分の命の力を育てましょう。いろいろ体験してできるようになればいいと思います。  結局存在がどうのと言いますが、それで悩みは解決するでしょうか?  最後は自分が解決するしかないのではないでしょうか?  それらは外に求めるものではなく自分の中に求めるものです。  これを内道といいます。  神というものから他力本願になるのは、間違った考えではないでしょうか?  考えにも正邪があり、宗教にも正邪、高い低い浅い教え深い教えとがあります。  仏教でいろいろな経があるように。  また、真理を聞く段階や真理を知ってそのように生活をする段階、真理を生きる段階があると聞きます。  インドのサイババさんのもとに多くのいろんな宗教者が集まってきてるそうです。  青山という科学者の方が著作されてる本でも読んでみるといいと思いますよ。青山さんは科学者ですから科学的に考察され、サイババさんに会ったドキュメントを冷静に中立的に書いてますから参考になると思います。  

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  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5432)
回答No.14

私は神を信じています。 カトリック信者ですが、殆ど異端状態です。 神はよく太陽に喩えられますが、まさにその通りでいいでしょう。 太陽は私達の為に燃えているのでしょうか?答えは否です。 太陽は私達の為に恵みを与えてくれているでしょうか。答えは否です。 では、私達の為にある訳でない太陽はなくてもいい存在、無関心でいいのでしょうか?答えは否です。 太陽がなければ私達は生きていけません。太陽は私達に積極的に何かをしてくれはしませんが、私達が生きているのは太陽のおかげなので、感謝もし、大切に思うべきなのです。 それが本当の感謝の念、崇高の念、信仰と言うものです。これらは見返りを求める契約ではないのです。 神は太陽と同じ。だから何かをしてくれるわけではありません。願いをして叶えるかどうかで信じるかどうかを決めるような神や奇蹟で判断するような神は神ではなく手品師です。 或いはそんなことでしか判断できない方が小さな心しか持たないということです。 祈りとは何か、祈願とは何か… 水盤に水滴をたらすと波紋が広がり、やがて水盤の縁にぶつかって元の場所に戻ります。 祈りや祈願というのはこれと同じです。 私達は神の掌の中にあります。祈りと言う水滴を落とすとそれは神の手にぶつかり、やがて私自身の元に戻ります。 この水盤には全世界の人々の水滴が落ちますから、お互いにぶつかり合いながら進みますが、それでも波は自分のところに戻ります。これが祈りの原理です。 昔の人が書いた文章は一部は正しいでしょうが、その時期の環境によって表現が変わりますし、後には私利私欲の為に歪められてしまいます。それは私自身についても言えることです。 だから、参考図書など存在しません。私はどこかの教祖のように他人の言葉で人心を掌握しようなどとは考えないのです。

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  • OtamaFJ
  • ベストアンサー率10% (4/37)
回答No.13

こんにちは。私もウツです。パキシルという薬はお勧めですよ。 さて、ご回答させていただきます。 ーーーーー 私は、有神論者か無神論者といえば、どちらでもありません。 なぜなら、無神論者は「無神」という「信条」をもっていますよね? つまり「宗教をしないのも、ひとつの宗教である」と思うのです。 重要なことは「有神論者か?無神論者か?」ではなく、ひとつの宗教にのめり込むことが危険と考えます。だから神社に行ったり、お寺に行ったり、教会に行ったりして様々な宗教に触れることで、気持ちが楽になればそれでいいと思います。仏教もいろんな宗派がありますが、重要なのは、自分が気に入った場所(落ち着くスポット)には、あなたに意味がある場所と時間を提供してくれるでしょうから、それが投薬と共にあなたをリラックスさせると思います。森林浴でさえ、いにしえの山にはたいてい神の信仰(自然信仰)はあるわけですから、ジブリ映画の「千と千尋の神かくし」のように、日本では多神教と言える自然崇拝ととらえれば、それだけで森林浴も神に会える場所です。私は樹木に語りかける癖が昔からあります。 「宗教をしないのも、ひとつの宗教である」 これで、回答になれば幸いです。

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回答No.12

貴方が「神」という概念をどのように「思う」かにて、貴方にとっての「神」は、そのように存在することになるでしょう。。。 過去から、人々は、様々な手法で、「神」という概念に対する「想い」を記述してきています。。。 否定することで神が存在するとする「否定神学」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A%E7%A5%9E%E5%AD%A6 また、無神論と表裏一体をなす「汎神論」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E7%A5%9E%E8%AB%96 および、「汎神論」の代表としてのスピノザ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6 そうして、スピノザの神を信じるといったアインシュタイン。。。 http://transact.seesaa.net/article/24319142.html 神という概念すら、人間の編み出した「知」でしかないのであれば、そのような「知」に縛られるものではないかもしれない。。。 >>> 1995.9.2の個人的な日記より 人は、神を信じるなら、 その神についてもっと深く考えるべきである。 たとえ、否定することになろうとも。 神について深く考えずに信仰するものは、 神に対してこれ以上ない冒涜を犯すものである。 神が人智を越えて存在するならば、 神に対して深く考えれば考えるほど、 その神はさらに奥深い存在となることは、 自明のことである。 人に考える能力を与えながら、 人の考える能力の中に自らを埋没させるなど、 神が存在し、 人智を越えて存在するならば、 決してあり得ないはずであろう。 人は、「ヨブへの答え」を、 いや、「神の御言葉」と言われるあらゆる書物を、 また、「ブッダの言葉」と言われるあらゆる書物を、 もっと深く読み解くべきである。 それら全ては、 人の思考を越えて書かれたものなどないことを、 もっと深く読み解くべきである。 書き手の思考を越えて書かれることなど、 決してないことを知るべきである。 たとえ、自動筆記が為されたとしても、 その文章が、人の理解できる文章ならば、 それは、人の思考を介して書かれた文章であることを、 知るべきである。 神が人の思考を越えているのならば.....。 <<< ※ヨブヘの答え ユング著、みすず書房・林道義 訳 http://www.msz.co.jp/book/detail/01218.html ※ブッダの言葉 「ブッダの言葉、スッタニパータ」、岩波文庫、中村 元 訳・解説

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回答No.11

神や仏って名前が違うだけで誰もが持っている人間の中の良心だと思いますよ。 言葉では説明できないですが、あぶり出しってご存知でしょうか? それと一緒で寒い日に頭を冷やしたりすると脳の活動が抑えられて余計な思考が機能せず胸のどこかに温かみを感じませんか? 脳、心、身体は一緒っていう三位一体って言葉がありますが、脳、身体、心は別だと思いますよ。 一言でいうとみんな地球、宇宙の一部 私は貴方の一部であって、貴方も私の一部、他の人たちの一部です。 誰かが亡くなるなると土に還って、野菜になったりしてまた誰かの一部になるわけです。魂や神や仏ってようはその人が生きている間に脳という道具を使って残した言葉や物の形だと思いますよ。 言葉が無ければみんな「人」と呼ばれる生き物です。 言葉なんて人間が出した音。文字、名前や数字は音符みたいな物で実体はありません。 頭を冷やしてみると悩みなんて無いのかも知れませんよ。 見えなければどんな状態がリンゴという音なのか解らない。 視神経が最初から無ければ見えるという状態も解らない。 聞こえなければ、その状態にどんな音がついているか解らない。 聴力が最初から無ければ聞こえるという状態も解らない。 私も一時期うつの状態を経験した者として、その時の気持ちで、今は脳という思考するための道具を使い、指という道具を使い、文字を打っています。

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回答No.10

 こんにちは。  有神論も無神論も ともに同じ非思考としての信仰形態であると考えます。理由を述べます。   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無神  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 Xa-Z と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 Xb-Z と言おうが 自由であろうし 《神》 Xc-Zとも 《ヤハウェー》 Xd-Z とも 《アッラー》 Xe-Z 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。  すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。  もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に 保持していることが重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そしてそのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

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noname#107678
noname#107678
回答No.9

無神論者なんですけど・・・神社にはお参りにいくし、おみくじもひくし、家には神棚もあるし・・・じゃあ神様を信じてるの?っていわれると、いたらいいけど、わたしなんかのお願いを聞いてくれるのかなって思うし。でも、わたしは「気」(自然の生命エネルギー)と共に生きてるんだから、アインシュタインの創生論?とか、老子の考え方を指示してます。

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  • torajii
  • ベストアンサー率15% (5/32)
回答No.8

無神論者です。しかし、かなりまじめな仏教徒でもあります。超人間的な神・仏を信じないことと、仏教徒であることにまったく矛盾は感じておりません。神が人間を作ったのではなく人間が神を発明したと思っています。仏陀は人間として最高の存在なのです。 参考として『古田武彦著:神の運命―歴史の導くところへ』のご一読ををすすめます。

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回答No.7

とんちんかんなお答えになるかもしれませんが、参考までに。 そもそも「神」は信じたり、信じなくなったりするものなのかどうか。 こちらの「意志」におかまいなく、いやでもそこにいるのが、「神」なのでしょう。 わたしは、「神(God)」ときいても、その意味がぴたっと分かったという経験がいちどもありません。 たとえば老舗の若主人が店をたたまなくてはならなくなったとき、 「ご先祖さまに、申し訳ない」 という意味はよくわかります。いわゆる「祖先崇拝」ですが、これは理屈でなく「分かる」気がします。 実家にいくと、「まずはご先祖様にあいさつしてこい」と、理屈もなく仏壇にいかされたものです。念のためにいうと「先祖供養」などは「仏教」と何の関係もありません。 「神」は「理屈」としては理解できます(「哲学者の神」かもしれませんが)。 たとえば「りんごが落ちる」「時がたつ」のはなぜかと問えば、その答えはありません。 へんな言い方ですが、「りんごは落ちている」のですかね。 そもそも「りんご」とは何ですか。「果物です」、では「果物とは何ですか」、 「樹木の実です」、では「樹木とは……」、こうして無限の「知」の領域が開けますが、その「理性」の究極の姿を「神」と呼ぶことは可能です。 ですが、わたしには「ぴんと」きません。 「無神論」が有意味なのは「神」が生活のなかで息づいている環境においてこそです。 そもそも「神」もへったくれもないところで、「神はない」といったって、 「なによ、それ」ってなもんです。 わたしの父は亡くなる数年まえに、キリスト教の教会に熱心にかよっていましたが、 やはり、身近にいる「神」は「ご先祖さま」だったように思います。 「ご先祖さま」の「霊界」を「支配しているのは神だ」なんてのは「野暮」ってものです。 「ご先祖様」に感謝する、それ以上を求めず、そこにとどめておくのが知恵だと思います。

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