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お馴染み神談義:《無い神》も 《有る神》と同じだ。

 神が神であるなら われわれ人間が神は有ると言っても神は無いと言っても神に変化はない。  変化する神なら それは AI としての神でしかない。  だから ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんでおのれの神を持てばよい。

みんなの回答

  • oyatsuya
  • ベストアンサー率21% (111/517)
回答No.13

私個人の範囲でのことですが、 以前の私の傍らに神は常に在って、今の私は自ら、神よりも人間寄りに意識を持って人生を送っています。なので、今の私に神は不在。神に育てられた感性と意識と教養からの私の根幹はそのままで、今は人間の中で生きています。だから、生活上で、今は自ら、私の中での神の不在を選んでいるとも言えます。 期せずして、世界の動きと同調しているのでしょうか   なんて思い上がりも甚だしいやつだと自分で思わなくもありませんが

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  まづはご回答をありがとうございます。  そうですね。わたしの感覚としてですが:  ★ 神よりも人間寄りに  ☆ という《移行》が スムースに自然におこなわれたのなら 何も問題はないように思います。(問題をかかえて すったもんだした挙げ句に移行したとしても やはり問題は無いように思われます)。  それが 《有る神》と《無い神》との同等さなのではないか。ということに――我が田に水を引けば――なるかも分かりません。  ★ 神に育てられた感性と意識と教養からの私の根幹はそのままで、今は人間の中で生きています。  ☆ なかなかいいお話なように思います。  おっしゃるようなご体験は そうざらには無いように見られます。  ★ 期せずして、世界の動きと同調しているのでしょうか   なんて思い上がりも甚だしいやつだと自分で思わなくもありませんが  ☆ ここにつきましては 思い上がりかどうかを判定する前に 《世界の動きと同調する》というのが 必ずしも分かりやすいようにも思えなかった感じでした。  ありがとうございました。  

回答No.12

あんたの解釈も疑わしい。 聖霊、実在する妖精を中間に配置しても、人格と神格で同一性があるかどうかについて、イエスへの懐疑が君にも見える。 君に言わせると精神という言葉自体が批判要素だね。 まあ、他人事は知らん。 私は堂々と自らを明かすだけだ。 俺様は、イエスだろうと釈迦だろうと見捨てても一向にかまわん。 死肉を喰らって生き続けた者が、死に染まるだけだ。 それが人類史だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 人格と神格で同一性があるかどうか  ☆ ここに 見解の違いがあるようです。  イエス・キリストというのは 神の子でありみづからも神であるキリストが イエスという名のふつうの一人の男であり人間に――霊として――やどったという想定です。  表現の問題かも知れませんが 神格キリストと人格イエスとが一体となったとまでは言えるとしても 両者が《同一》であるとは 言いません。  想定にあたって そうは想定しないということです。  たとえば 十字架じょうに磔となって去って行くという去り方を 神としては えらんだ。  そのようなさかづきを飲むことを 人間イエスとしては 嫌って 大泣きに泣き その盃を取り去ってくださいと父なる神にいのった。  同時に それでも み心のままにしてくださいとも語った。  その一方で 神の子キリストとしては すすんでその死の道を採ったのです。自分でいのちを捨てることも出来るし もう一度生きることも出来ると言って。  この神の子キリストと人間イエスとが 一体となっている。という想定です。  ふつうに思想として見れば 大嘘です。せいぜい一大虚構というようなことです。  神から見れば アブラハムから承け継がれて来たいわゆるキリスト史観の成就だというわけです。  あとは人びとは それぞれ 有る神か 無い神かをえらんで 神を持てばよい。  もっと言えば すでに人間には 神の霊がやどるといった想定が 想定としては成就したと見るからには もう神のことはいちいち言う必要がない。こういうあたらしい世界に成ったという見方です。  神にとっては千年が一日だとも言いますから キリスト・イエスのときから現在はまだ ちょうど二日が過ぎたところです。  そういう歴史のあゆみとして あたらしい世界が展開し しかるべき姿に成って行くと想定されています。  ご回答をありがとうございます。

回答No.11

そうさな、仏陀のように人格が神格と同一化すると、神は背景になるしな。 その状態は人の姿はあり、神は背後に回り「無い」 こうなるね。 西洋神学では取り上げられたことが少ないね。 イエスを神とした途端に神が消失したりしなかったのかな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ イエスを神とした途端に神が消失したりしなかったのかな。  ☆ いや 神だとは分からなかった。大嘘をついたのだとも見なかった。  口では――つまり弟子たちのことなのですが―― イエスが自分はキリストであると言ったのに応じて そのように言っていたのだけれど 最後の最後まで分かっていなかった。  捕らえられたとき イエスを見捨てて逃げた。あるいは イエスなどは知らないと言った。  という情況だと思います。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.10

>「AI としての神でしかない。」 あ、逆に「AIって、やばい」ってことか。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

本心は ありがたくありません。 なんで、そんなに・・・、でしょうね。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

>「おてんとさまが西から上がった」 が、有り得るんですから。 >「だから ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんでおのれの神を持てばよい。」 ・・・でも、人権を侵害しないように、心掛けましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 さじはすでに・・・。  ご回答をありがとうございます。本心は ありがたくありません。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

>「おもての顔としては あなたに同調します。」 ・・・しょうがないでしょうね。 後世に委ねましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 後世に俟つ必要などさらさらないというのが 本音です。  あなたの論理が通用するなどということは おてんとさまが西から上がったとしてもありません。  あいにくでした。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

Kさんの論理では ・・・後世に期待します。

bragelonne
質問者

お礼

 おもての顔としては あなたに同調します。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

>「有無を言わさず あやまちを改めなさいと言っていることになります。」 「わたしは判断するんだと言う人の場合」ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうなりますか Kさんの論理では。  さじをなげました。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

>「☆ わたしは判断するんだと言う人の場合は どうするんですか? 人権を侵害することは出来ませんよ。」 (笑) 曰く「過ちては則ち改めるに憚ること勿れ」

bragelonne
質問者

お礼

 その  ★ 過ちては  ☆ のあやまちなる内容を明らかにして説明しなければいけません。  さもなければ 人権侵害となります。  有無を言わさず あやまちを改めなさいと言っていることになります。  ご回答をありがとうございます。

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